竜騎士の妻
静かに部屋で待機していたリナだが、最初は静かだった廊下が少しずつ遠くから騒がしくなってくることに気が付いた。
ホールではロゼストが謎の婚約者を止めてくれているはずだが、その声が廊下にまで響くようになってきているのだろう。
「やかましい女がいますね」
獣人であるアスロはリナよりもずっと耳がいい。猫耳をぴくぴく動かしてぼんやりと聞こえてくる音を正確に捉えているらしい。
「何を言っているのかわかる?」
「はっきりとした言葉まではここからだとわかりません。でも、高い声が1人。おそらく女性でしょう。それと複数の男性と思われる声もします。ロゼスト様が1人で対応するには無理があるかもしれません」
スカイはすぐに部屋を出て行ったが、ホールにいるロゼストに加勢するのではなく様子を陰から伺うだけにしているようだ。下手に出て行って騒ぎを大きくしないためだ。だが、ロゼストだけでは食い止めきれないようで何もしなくても騒ぎは大きくなろうとしている気がする。
「だんだんこちら側に近づいてきているようですね」
先ほどより声が大きく聞こえるようになってきていた。ロゼストが何とは押しとどめているが、押しかけてきた者たちがどんどんこちらに進んで来ようとしているのをアスロが聞き分けている。
「必要なら私が出て行きます。リナ様は絶対にこの部屋から出てはいけません」
話の内容までは把握できなくても、状況が悪いというのは理解できている。ロイドの婚約者だと名乗っている令嬢とロイドの妻であるリナが鉢合わせになるのは出来れば避けたい。
その時、大きな音が聞こえた。何が起こったのかわからなかったが、嫌な予感がした。
顔色を変えると、アスロがすぐに扉に近づいた。
「様子を見てきます」
「気を付けて」
アスロが素早い動きで部屋を出て行った。止めるべきだったかもしれないと思う反面、大きな音が気になって仕方ない。
リナはすぐに扉に近づくと、音を立てないようにわずかに扉を開いた。隙間から廊下を覗いてみるが、ほんのわずかしか扉を開けられなかったため、廊下の様子はよくわからなかった。
「ロゼスト様、大丈夫ですか」
その時アスロの声が響いてきた。思ったより近くから聞こえてきたため、謎の婚約者はホールから廊下へとだいぶ入り込んでいたらしい。様子を窺うことはできないが、声だけで状況を把握しようとリナは耳に意識を集中させた。
「大丈夫です。少し腰を打っただけですよ」
穏やかなロゼストの声が聞こえてくる。
状況は見えなくても会話からロゼストがどこかに腰を打ち付けたようだ。先ほどの音はその時のものだろう。
彼の怪我の確認をしたいが、リナはまだ出ることができない。ぐっと我慢して声だけを聞いていく。
「わたくしの邪魔をするからですわ。さっさとロイド様に会わせればいいのに、余計なことをして時間稼ぎのつもりかしら」
「さっきから申していますが、ロイド様は今神殿にはおりません。勝手にあちこち歩かれるのはご遠慮ください」
「たかが竜王国の神官が、わたくしに意見しようというの」
不遜な態度は、明らかにロゼストのことを見下している。話し方から侯爵令嬢だとは思うが、ここまで態度の大きい令嬢も珍しい。
リナも元侯爵令嬢だ。貴族としての教育は十分に受けて来た。その中で身分が下の人間を見下すような教育は受けていない。身分は存在しても、それが相手を見下していい理由にはならない。
騒いでいる令嬢は、そういった教育を受けてこなかったのだろうか。
「申し訳ございません。ここは私たち神殿の使用人が使っている部屋ばかりです。ロイド様も今はいませんので、部屋を用意するのでそこでお待ちになってください」
アスロがロゼストを庇ったのだろう。彼女のはっきりとした声が聞こえてきた。
すると令嬢があざ笑うような声を響かせる。
「獣人が意見しようというの。生意気なこと」
リナは息を飲んだ。令嬢は完全に獣人族を下に見て馬鹿にしている。竜王国では獣人も人も関係なく同じ目線で暮らしている。文化の違いはあるが、それをお互いに認め合って生活して生きている竜王国で、差別的発言をするなどもってのほかだ。
侯爵令嬢1人の発言ですべてを決めつけてはいけないが、グリンズ王国は差別の激しい国なのだと思いたくなる。それと同時に胸の奥に熱いものを感じた。それが怒りなのだと気が付くよりも先に、リナは扉を開けて廊下へと出て行っていた。
廊下に出ると複数の視線を感じたが、それを気にすることなく無言で歩くと、床に座り込むロゼストと、明らかに不機嫌な雰囲気を纏っていたアスロだけに視線を向けた。
2人とも明らかに驚いた顔を向けてきたが、それを穏やかに微笑んで軽く頷くだけにする。それよりもやるべきことがあった。
ロゼストとアスロを背に庇うように進み出たリナは、3人の騎士と思われる男に囲まれて優越感にでも浸っているのか横柄な態度を取っている金髪の女性と対峙した。彼女がグリンズ王国の侯爵令嬢のようだ。
リナが出てきたことに眉をひそめたが、会いたい相手ではないためかすぐに見下すような視線を向けてきた。
「初めまして、リナ=フローネスと申します。お客様がお見えだと聞いていたのですが、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
相手の態度など気にすることなく呼吸を整えてから、優雅に挨拶をする。決して怯んではいけない。どんな時も冷静なふりをして落ち着いた態度で相手を見極めながら、頭の中では多くの情報を得てどう動くべきかを判断する。貴族令嬢として社交界で生き抜くための方法は幼い頃から叩き込まれてきた。
すでに貴族ではないが、その教育は今も体に浸み込んでいてくれたようだ。
リナの態度に相手がわずかに怯んだのを感じた。ただの平民ではないと肌で感じ取ったのだろう。
相手も貴族令嬢だ。これくらいのことは勘づけるということだ。
「ロイド様にお会いしたいということですが、あいにくただいま外出しておりまして、事前に知らせをくだされば対応できていましたのに」
少し皮肉を混ぜて相手の出方を窺う。グリンズの侯爵令嬢以外の情報が無い相手だ。リナに対してどんな反応をしてくるのか確かめることにした。他国の貴族に関してリナもそれほど知っているわけではない。
「わたくしはロイド様の婚約者よ。いつ来ても対応できるでしょう」
自分を中心に物事が動いていると思い込んでいるタイプのようだ。だからこそロゼストや獣人のアスロを下に見ている。随分と甘やかされて育ったと分析できる。
そう思うと自分と血の繋がりのあった妹を思い出してしまった。なんでも父親に泣きついて解決していたミル=ブラウテッド。ギュンターの第1王子と恋仲になり、聖女の称号さえも手に入れようとしたため、逆にそれがばれて捕まることになった。
リナとはもう関係のないミルだが、自分が良ければいいという考え方が目の前の令嬢と重なる。
「ロイド様は王竜様と一緒ですが、こちらから連絡を取る手段がありません。お戻りになるのを待っていただくことになります」
丁寧に頭を下げると、令嬢は自分が優位だと思ったようだ。丁寧に扱われているとわかれば大人しく待っていてくれるかもしれない。その期待がリナの中に芽生えた時だった。
「わたくしを待たせるなんて、すぐにでも戻る方法を考えなさい」
期待したリナが間違っていた。内心ため息をつくと、後ろにいたアスロが隣に立った。
「勝手なことばかり言わないでください。こちらにも都合があるんですよ」
リナの丁寧な対応を突っぱねた令嬢に怒りが爆発してしまった。
「なんて態度なの。だから獣人は野蛮なのよ」
吐き捨てるような言い方にリナは咄嗟にアスロを背に庇った。
あまりにも獣人を見下す発言にこれは言い返さないといけない。そう思って口を開こうとした時、廊下の先から声が聞こえてきた。
「何をしている」
耳に馴染む心地よい声。待ち望んでいた相手がホールに繋がる廊下の先に立っていた。
「ロイド・・・」
その呟きは誰にも聞こえることなく空気に溶けていく。
振り返った令嬢と騎士たちが一瞬にして固まったのがわかった。
王竜とともに空へ飛んでいたロイドは、王竜ヒスイの色に合わせた緑の竜騎士としての服に身を包み、兜は置いてきたのか顔を晒した状態で静かに立っていた。
ロイドと視線が合った瞬間、張り詰めていた緊張が自分の中で解れるのを感じる。まだ何も解決していないのに彼が来てくれた安心感が芽生えてしまったのだ。
ロイドが足を踏み出すと、先ほどと同じ問いを令嬢に向けて放った。
「何をしている」
問われた侯爵令嬢はすぐに反応することができず黙ってロイドを見ているようだったが、少し時間を置いてから我に返ったのか口を開いた。
「ロイド第3王子殿下ではありませんか」
彼の問いかけに問いで返してきた。その話し方から、彼女は明らかにロイドの顔を知らないとわかった。許嫁だ婚約者だと言っていたのに、相手のことを何も知らないことは明らかだ。そして先ほどの傲慢な態度からしおらしい乙女のような雰囲気へと切り替わっていた。
その代わりぶりにリナの中に苛立ちが生まれた。
彼の容姿は女性受けがいい。かっこいいというより美しいが似合うロイドだが、彼自身はそれをあまり良く思っていない。美人に育ったせいでいろいろと苦労があったようだ。
擦り寄ってくる女性はロイドの中身より外側だけを見ている。
先ほどまで騒いでいた令嬢も美しいロイドに一目ぼれでもしたのかもしれない。
「誰だ?」
だが、ロイドはリナの気持ちを吹き飛ばすように冷たい声で令嬢に話しかけていた。明らかな拒否を示す雰囲気。先ほどの苛立ちが一気に安心感に変わる。
侯爵令嬢が大きく肩を震わせたのがわかった。
戸惑いながらも、令嬢は自分の素性を明かした。ドルフェイヤ侯爵令嬢マリアナと名乗ったが、他国の貴族に詳しくないリナは聞き覚えがなかった。
何の用だとロイドが問うと、彼女の声が急に明るくなった。話を聞いてもらえると思ったようだ。
マリアナはロイドの許嫁であり、婚約者としてここへ来たと言い放った。
数秒ではあったが、明らかにロイドが無表情になる。何を言っているのだと目が訴えていることにリナは気が付いた。
確かにマリアナは先ほどから謎すぎることを言っていた。
「俺はすでに結婚していて妻がいる。どうしてここで婚約者を名乗る会ったこともない令嬢が出てくる」
しばらくしてため息でもつきそうなほど呆れたようにマリアナに問いかけていた。
「そもそも許嫁など俺には存在しない」
第3王子であったロイドはグリンズ王家の血を引いている。兄王子に虐められて育ったとはいえ、血筋は変わらない。王家の繁栄のために幼い頃に許嫁を定める国もあると聞くが、ロイドに許嫁がいたということは聞かなかった。
「許嫁と言っても、わたくしも最近教えられたことです。成人も迎えたということで婚約者としてこちらに来なければいけないと王妃様から指示を受けまして」
「王妃だと・・・」
その瞬間、明らかに怒りのにじませた声にマリアナが言葉を詰まらせた。
「すでに縁が切れていると思っていたのは俺だけだったようだな。どこまでも、俺を追い込んで利用しようという訳か」
納得したようにロイドが言い放つと、静かに歩き始めた。
警戒した騎士たちがマリアナの前に出る。
それを無視して、ロイドはマリアナを素通りするとリナの横に立った。
「俺の妻はリナ=フローネスだ。他はいない。すでに王竜も認めている」
そう言うと腰に腕を回して引き寄せられた。驚いている間に、額にキスが落とされる。明らかに見せつけるための行為だ。
それを見たマリアナが頬を染める。リナも咄嗟のことに顔が熱くなるのを感じた。
だがここで突き放してしまうと、相手に付け込まれることになりそうだったので大人しくロイドのキスを受け入れる。
顔が離れると、彼は何事もなかったようにマリアナに視線を向けた。だが腰に回された手は離れることがない。
「帰れ」
たった一言。それがすべてを拒絶している意味を持つ。マリアナの話などこれ以上聞く気はない。
「わたくしは侯爵家の娘ですよ。そのような態度を取られていいはずがありません」
完全な拒否に侯爵令嬢としてのプライドが許さなかったのだろう。マリアナは退く気がないというように前に進み出てきた。
「どこの馬の骨ともわからない平民の娘を妻にするなど、王族としての威厳というものがないのですか」
リナを指さして叫ぶが、それに動じることはなかった。
リナも今は平民だが、元はギュンター王国のブラウテッド侯爵令嬢だ。どこの馬の骨などと言われる筋合いはない。
今の発言で、マリアナは何も調べることなくここへ来たことが推察できた。王妃に言われたからと言っていたが、それ以外何も考えずに来たのだろう。
隣でロイドがため息をついた。明らかに相手の神経を逆撫でするような態度ではあるが、気持ちはわかる。
「俺はすでに廃嫡された身。王族ではないし、グリンズ王家とも完全に縁を切っている。何度も同じことを言わせるな」
付き合いきれないと呆れたように言うと、マリアナが唇を震わせる。周りの騎士たちも明らかに怒りを滲ませた雰囲気を出してきていた。
あまり刺激すると狭い廊下で斬り合いが始まりそうだ。
そっと後ろを確認すると、アスロとロゼストはすでに姿がない。話をしている間に避難してくれたようだ。リナさえ邪魔にならなければ、たとえ狭い廊下でもロイドなら騎士3人を倒すことは出来るだろう。
戦闘になった時のことを考えていると、ロイドがリナの腰に回していた手に力を込めたのがわかった。
こちらの考えていることを悟ったのか、離れてはいけないと言われているようだった。
「帰って王妃に伝えろ。余計なことをして王竜の怒りを買うと国が滅びると」
竜騎士は王竜が選んだ大事な相棒だ。王竜に属する者として竜騎士にも悪意を向ければそれは王竜に向けられたと判断される。こんな騒ぎを起こしてロイドを利用しようとする行為を王竜がどう理解するのかわからないが、侮辱されたと判断すればそれなりの報復もあり得る。
「わたくしは王妃様が選ばれたロイド殿下の婚約者としてここに来たのです。その婚約者を蔑ろにすることこそ、竜王国がグリンズ王国を侮辱していると捉えることもできますわ」
逆にマリアナが脅しをかけてきた。ロイドが王族でないのなら、その婚約者もなくなって当然なのに、彼女はまだ諦めようとしない。
「俺と結婚出来れば竜王国との繋がりができる。それに俺を懐柔できるとでも思っているようだな」
竜騎士と結婚するということは、妻となる相手も祖国との縁を切らなければいけない。完全な竜王国の住民となり、竜騎士の妻として王竜に属する者になるのだ。そのことを知らないマリアナはいつでもグリンズ王国と繋がっていられて、竜騎士ロイドを引き込むことができると安易に考えているのかもしれない。
このままでは平行線のまま時間だけが過ぎていきそうだ。不安を覚え始めると、不意にロイドがリナから離れた。
「そこまで俺の結婚相手になりたいというのなら、それだけの覚悟を見せてもらおう」
「え?」
突然の提案にリナが驚きの声を漏らしてしまった。
「わたくしがロイド殿下にふさわしい妻であると証明しろというのであればお受けしますわ」
急な提案だったが、マリアナは勝ち誇ったように了承した。自分がロイドの隣に立つにふさわしいのだと言いたげな視線をリナに向けてきていた。
「ロイド・・・」
一体どうしたのだろうと思って彼を見上げると、ロイドはわずかに視線を上に向けると一瞬ではあったが不敵な笑みを作った。それを見逃さなかったリナは彼に何か考えがあるのだとわかり、これ以上何も言わず先を見定めることにした。




