8.獣人たちの国・4
(あれでも、翼と猫って私、どこかで見たような……)
ふっと、記憶がよみがえる。大渓谷から落ち、意識を失う寸前に見た、宙に浮いている黒い猫。
「あ! もしかして。あなた、小さくもなれる? 本物の猫みたいに」
ヴィーラントは一度目をつぶると、さっと姿を変えた。一瞬で、目の前の大きな男がいなくなり、黒い翼の猫が宙に浮いている。
「やっぱり! あの時の猫!」
「ようやく気付いたか」
しかも、その状態のまま、先ほどと同じ言葉をしゃべった。
「ええ。崖から落ちて死ぬんだと思っていたから、お迎えに来た天使かと思ったの」
ロジーネがそう言うと、ヴィーラントはきょとんとした後、笑い出した。
「ちょっと、なんで笑うの?」
「ははっ、だって、黒猫を見て天使だと思うやつはいないだろ」
「そんなことないわ。かわいいお迎えでうれしいってちょっと思ったんだもの」
「かわ……?」
言葉を止めたヴィーラントを見て、ようやくロジーネは自分が当人に向かって褒め言葉を連発していることに気づいた。
途端にロジーネの顔も赤くなる。一瞬目が合って、気まずく感じて顔を伏せる。
(な、なにか、言わなきゃ!)
「ヴィーラントはどうして大渓谷の底になんていたの?」
「大渓谷には、地上からいろいろなものが落ちてくるんだ。たいていはごみだったりするが、たまに貴重な薬草がある。だから、時折見に行っている」
きっとそれは、ロジーネが育てたものだろう。ロジーネの薬草畑は崖上にあり、強い風の日は飛ばされることもある。
「そうだったの。じゃあ、人間が落ちてきたなんて驚いたでしょう」
「そうだな。しかも大した怪我もなく生きているとは驚きだった」
「それは私も驚き」
なにせ底が見えないほどの高さだ。地面に直撃すれば絶対に即死だろうし、そうでなくてもショック死していてもおかしくない。
「まあでも、あそこから人間が落ちて死んだって話は聞いたことがない。あそこは王家が捕獲スキルを張っているって話だし」
「スキル?」
「いや、こっちの話だ。そんなわけで、生きている人間を見つけて放ってもおけなくて連れてきただけだ」
ヴィーラントは何かをごまかすように首を振った。
「ねぇ。明日には戻してくれるって言ったけど、まさか上まで飛ぶの?」
「ああ。俺には翼があるから、自分より小さい奴くらいなら抱えて飛べる」
「はあ……すごいんだね」
たくさんの情報に、ロジーネの頭はいっぱいいっぱいだ。
「ほかに聞きたいことは?」
「いろいろあるけど……ちょっと整理させて。混乱してきたわ」
「じゃあ、……夕飯ができたら呼ぶ。それまでここから出るなよ」
念を押すように人差し指を突き付け、ヴィーラントはため息をついて、背中を見せた。
「私も手伝いをしたら駄目?」
「夕飯づくりはアーロン神父と子供たちがやっている。あんたが入るともめごとの元だ」
ぴしゃりと言い放ち、ヴィーラントは部屋を出ていく。
ロジーネは唇を尖らせた。こう見えても子供は好きなのに、最初から嫌われているなんて悲しい。しかも耳や尻尾がある子供たちはかなりかわいらしいのだ。
(触りたかったな。耳。ふわふわしていそうだった)
思い返して、ロジーネは口もとを緩ませる。
「でも、私はあの子たちに敵だって思われているのね」
〝人間だから〟それだけで嫌われるなんて、理不尽だと思う。だけど、住む場所を奪われたという過去は、確かに人間を憎むには十分な理由だろう。
どうして、かつて人間と獣人は上手に共存する方法を見つけられなかったのだろう。
「怖いからかしらね。知らないものは怖いわ」
思い浮かぶのは、不機嫌そうなヴィーラントの顔だ。
(あんなに嫌そうなのに、面倒は見てくれるのよね)
人間が落ちてきたところで、放っておくこともできたはずだ。それなのに、彼はロジーネを連れて帰り、怪我がないか心配してくれた。
(悪い人じゃないわ。どっちかと言えばいい人よ)
見た目はちょっと怖いけど、口調もそっけないけれど、人を見捨てることができない人。
(怪我だって……そう言えば、薬は貴重だって言っていたわね。私の手当てはしてくれたのに)
獣人の男の子には薬を我慢させたのに、ロジーネには塗ってくれた。人間は弱いからとはいえ、嫌いなはずの人間に、貴重な薬を分けてくれたのだとしたら、お礼がしたい。
幸い、ロジーネは薬師であり、普段の格好でもドレス姿の時も、傷薬や熱さましといった汎用的な薬は常備している。
「破れてなければ、ここに……」
ドレスの隠しを探ると、幸いなことに軟膏のケースや薬包紙に包まれた薬は残っていた。
「粉にした薬草もあるわね。簡単な薬ならこれで作れるわ。お世話になったお礼にこれをおいていこう」
ロジーネは薬の効能がわかるように、絵をかいておこうと考えペンを探した。
すると、遠くから悲鳴のような声が聞こえてくる。