5.獣人たちの国・1
休憩室と呼ばれていたロジーネが休むために与えられた部屋には、高い位置に小さな窓がひとつあった。
眠れないロジーネは、外でも見ようかと立ち上がったが、全然届きそうにない。
部屋の隅にある背もたれのない丸椅子を窓際に置き、それに乗ってようやく手が届いた。
窓は明り取りが目的のようで、開く造りにはなっていなかった。
「結構薄暗いのね。何時かしら」
雨は降っていないが、外は雨の日の日中のような薄暗さだ。
『ジャック、待ってよ』
『お前ら、遅いんだよ』
少年少女の声がする。遊んでいるのかと思ったが、彼らは薪を抱えていた。いずれも十歳前後に見え、髪の間からぴょこりと動物の耳が飛び出している。
「そっか、獣人……」
改めて、ロジーネは自分が獣人の国にいることを実感した。
群れて駆けまわる姿は、人間も獣人もさしたる違いはない。ロジーネの屋敷に住み込んでいる使用人の子供たちも、こんな風に走り回っていたものだ。
(あの子たちは遊んでいただけだけど、この子達は働いているのね)
子供たちの衣服には、つぎはぎがある。昨晩のヴィーラントの言葉が思い出されて、ロジーネは自分のドレスがなんだか恥ずかしくなった。
(柔らかい素材のカラフルなドレス。伯爵家では当たり前に用意されるもので、これが特別なものだなんて思ってもみなかった)
結局自分は苦労知らずなのだ、とロジーネは思う。
温かい食事、十分な衣服、これらを与えられることが、当たり前だと思っていたのだから。
(なのに、結婚も嫌……なんて、やっぱりわがままなのかしら)
貴族の娘にとって、結婚は義務だ。お家の繁栄のために尽くすことを期待され、必要な教育を施され、美しく着飾らせられる。
父も兄も、そうあるべきだとロジーネに望んでいるのに。
「……でも、嫌」
ロジーネは唇をかんだ。浅ましいと思うけれど、自分の生きたいように生きる気持ちを捨てられない。
(私これから、どうしたらいいのかしら)
「何をやってるんだ?」
「え? ……きゃあ」
物思いにふけっているところで後ろから声をかけられ、ロジーネは振り向きざまによろけた。椅子からずり落ち、体勢を立て直すこともかなわず目をつぶったが、衝撃は訪れなかった。
「……ったく、あんたは落ちるのが大好きなようだな」
「あ、……ご、ごめんなさい」
固くつぶった目を開ければ、ヴィーラントが膝をついた状態でロジーネを抱きかかえてくれていた。
ロジーネは慌てて、腕から降り、改めて頭を下げる。
「何度も助けてくれてありがとう」
ヴィーラントは立ち上がり、そっぽを向いて膝の汚れを払う。眼帯のせいで、彼の表情は見えなかった。
「ずいぶん元気そうだな。体は痛くないのか」
「ええ。おかげで怪我ひとつしてないわ。……えっと、ヴィーラントさんは今、時間ある?」
「……呼び捨てでいい。かしこまられると気持ちが悪い」
ヴィーラントはそっけなくそう言うと、倒れた椅子を戻した自分が座った。
ロジーネもベッドに腰掛ける。
「じゃあ、ヴィーラント。私に、この国のことを教えてくれないかしら」
「は?」
ヴィーラントは理解不能とでもいうような、変な顔をした。
「なぜ知る必要がある?」
「え? だって。私、獣人のこと何も知らないし」
「知らなくてもいいだろう。あんたはここに住むわけじゃない。ひと晩ここで休んだ後、俺がヴァイスまで運んでやる」
「……帰れるの?」
ロジーネは少し拍子抜けした。口を半開きにしてヴィーラントを見つめれば、彼は少し眩しそうに目を細めた。
「あんたひとりくらいなら、軽いから何とかなると思う。だが、今日はもう日が暮れるから明日にする。獣人国の夜は真っ暗だからな」
「そう」
ロジーネは一瞬安心し、そして胸に暗い影が落ちる。
(帰れたとして、結婚……するの?)
帰れるのはうれしいし、ありがたい。だけど、帰ったところで待っているのは結婚だ。
薬師として働くことはきっとできないし、我の強い自分が王族として自分を律していけるとは思えない。ましてユリアンナの気持ちを知った今、どうして平気な顔で結婚などできるだろう。
(私がいない間に、バルナバス様はユリアンナと結婚……なんて話にならないかしら)
ロジーネが都合のいい考えに耽っていると、今度は外から悲鳴が聞こえた。
『うわああっ』
木材が崩れたようなガラガラと大きな音がする。
「あいつら、なにしたんだか」
ゆっくりと立ち上がるヴィーラントの脇をすっとすり抜け、ロジーネは走る。
「あ、おいっ、お前が出て行ってどうする!」
部屋を出たところは、教会の礼拝堂だった。荘厳な女神像と、木製の椅子が並んでいる。
どうやら与えられた部屋は、教会の休憩室だったようだ。
教会を出た先に、猫の耳や狐の尻尾のある少年少女が集まっていた。ひとりの少年が膝を抱えてうずくまっていて、薪サイズの木材が散らばっている。ほかの子供たちが心配そうに少年をのぞき込んでいた。
「大丈夫? 怪我をしたの?」
ロジーネが飛び出すと、少年たちは驚いたように顔を上げた。
「お姉ちゃん、誰?」
狐の尻尾を揺らしながら、ひとりの少女が問う。
「私はロジーネ。薬師なの。怪我をしたのなら……」
ロジーネが安心させるように答えると、犬の耳の少年がさっと顔色を変えた。
「においが違う。……人間? 人間だ!」
突然、子供たちの顔に衝撃が走る。ロジーネとの間に距離を置き、睨みつけるように見上げてくる。
ロジーネは気にせず、座り込んでいる子供のもとへ行った。
「血が出ているわ」
「薪を運ぶときに転んだだけだ。あっち行けよ、人間!」
ぶつけられる敵意に、ロジーネはひるむ。
「待って、私は手当をしたいだけよ」
「なんで人間が? 人間は俺たちのこと、敵だって思ってるんだろ!」
言い放たれた言葉に、ロジーネは息を飲む。
向けられたものは、敵意だ。確かに歴史を鑑みれば、獣人と人間は敵同士だったかもしれない。でももう百年もの間交流もないのに。
「敵だなんて……そんなことないわ。ただ」
獣人は架空の存在だと思っていた。物語で悪役だったから、皆悪い存在なのかと思っていた。
(ただ……なに? 存在さえ知りもせず、いざ居たら、勝手に偏見を押し付けて、アーロン神父に怯えた態度をとった私に、何が言える?)
ロジーネは言葉を失う。子供たちはいつの間にか石を握りしめ、ロジーネに向かって投げようと手を振り上げていた。