4.人生の終わりは、新しいはじまり
『またすごいものを拾ってきたものじゃな』
『俺が枝で休んでいたら、上から落ちてきたんだよ』
しわがれた老人のような声と、若い男の声がする。
ロジーネはぼんやりと、声の主のことを考えた。
(誰だろう? 領主館にいる下働きに、そんなご老人はいなかった気がするんだけど)
意識が覚醒していくに従って、背中の痛みが気になってくる。寝ている場所が固いのだ。いつものベッドとは全然違う。
(ここどこかしら。どうして私は寝ているの?)
『まあ、普通に落ちていたら、『探査』に引っかかるか死ぬかの二択だったろうな。放っておくという手もあったじゃろうに、連れてくるなんて、お前さんにはめずらしいのう』
『ふん。放置も寝ざめが悪いから連れてきただけだ。……どうすればいいと思う? これ」
男と老人の会話は続く。
ロジーネは彼らの姿を見ようと、ゆっくり体を横にした。見えたのは男の後ろ姿だ。
黒づくめの服の肩甲骨のあたりが不自然に盛り上がっていた。髪は黒く、毛先が白い紐で結われている。
老人の方は見えないから、男の陰になっているのだろう。
(誰かしら……? 黒い髪の使用人なんていたっけ……)
「……痛……」
体の痛みに顔をしかめ、小さくうめくと男が振り向いた。
真っ黒の髪の下にあったのは、鋭利な印象を与える顔だ。青い瞳は空の色で、片方の目に眼帯をしている。
「起きたのか。アーロン神父、診てやってくれ」
「ほっほっ。わかったぞ」
男の陰から、老人が姿を現した。その姿を見て、ロジーネは思わず息を止めてしまう。
老人は人間ではなかった。ふさふさの白いひげと、水平方向に伸びた瞳孔を持つ黄色の目、そして、白髪の合間から伸びる細い二本の角を持っている。しかしながら服を着て、二本足で立って歩いている。
「……ヤギ? じ、獣人?」
血の気が引いて、怯えたロジーネを、ヤギの男は飄々と笑って見つめる。
「ほっほっ。そういうそなたは人間じゃな」
「あ……」
その返答に、ロジーネはぐっと押し黙る。人と相対したときに、種族名で呼ぶなんて失礼だ。自分も呼び返されて、初めてそれに気づく。
「……ごめんなさい」
「いやいや。わしの名はアーロン。御覧の通りヤギ獣人じゃ。お前さんは?」
「私はロジーネ……」
言いながら、ロジーネは考える。
獣人がいるということは、ここは辺境伯領ではない。……それどころか、ヴァイス国ですらないかもしれない。
急に心細くなり、ロジーネは唾を飲み込む。
「あの……ここはどこですか?」
「ここは獣人国グラオだ。あんたは落ちてきたんだ。覚えてないのか?」
答えたのは、アーロンではなく、黒ずくめの男の方だ。言われて、記憶が少し戻ってくる。(そうだわ。地震が起きて、足を滑らせて落ちたのよ)
大渓谷から……と思えば、今生きていることが信じられない。
「グラオ……ってなに?」
「獣人の国だ。知らないのか、人間は」
「聞いたことがないわ。大渓谷の下に国があるなんてことも知らなかったし」
ヴァイス国に残っているのは、獣人は人間と諍い、追いやられどこかに消えてしまったという歴史だけだ。
(でも、よく考えれば、消滅するわけじゃないのだから、どこかに移動していったに決まっているわ。それで、大渓谷の底に?)
「……大渓谷に人が住めるなんて思わなかった」
ロジーネのつぶやきに、黒づくめの男が鼻を鳴らす。
「正確には、ここは大渓谷の底ではない。大渓谷を挟んで、ヴァイスとは反対方向にある高台だ。まあ、ヴァイスに比べれば低い土地で、陽の光も届きにくいが、暮せないほどじゃない。獣人は人間よりも生命力が強いしな」
「ほっほっ、お嬢さんは、あまり獣人と人間の歴史には詳しくなさそうじゃな」
アーロンがロジーネの手を取り、力を込めるように目をつぶった。
(……えっ、何?)
一瞬だが、アーロンの周りに光の粒が見えた気がした。しかしそれはすぐに消えてしまう。
「あの……」
「うむ。命にかかわるような怪我はしておらぬな。擦り傷、青あざ……まああの高さから落ちて、これで済めば奇跡じゃろうて」
傷そのものを見ていないのに、アーロンは断言する。
「どうしてわかるの?」という問いかけは、続く彼らの会話にかき消されてしまった。
「服が枝に引っかかって、直撃を免れたんだ。その後は俺が運んでやったからな」
「運がいいのう。お嬢さん」
アーロンが目を細めて笑う。ロジーネはふたりのやり取りに困惑するばかりで、笑い返していいのかもよくわからない。
「傷の薬をやろう。人間は弱いから」
そう言うと、アーロンはロジーネの足の擦り傷に薬を塗ってくれた。
「頭痛やめまいもないな?」
「はい。大丈夫です」
「では少し休むといい」
「……ありがとう」
獣人は悪い存在だと、ロジーネはずっと思ってきた。
(でもふたりとも親切だわ……)
黒ずくめの男は、態度はぶっきらぼうながらも崖下からロジーネをここまで運んできてくれたのだ。そしてアーロンは手当をしてくれた。
「あの……、貴方が助けてくれたのよね? ……ありがとう」
ロジーネが素直にお礼を言うと、男は一瞬ぎょっとしたように目を見開き、やがてそっぽを向いた。
「別に。上から落ちてこられたら、反射で拾うだろ」
「あなたに怪我はなかったの?」
ロジーネが小柄な部類だとしても、崖の上から落ちたのならば、かなりの衝撃にはなる。
「ぶつかってはいないから大丈夫だ。そのビラビラしたドレスに感謝するんだな。枝に複雑に絡まって、あんたが落ちるのを防いでくれた」
言われて、毛布で隠れていたドレスの裾を見れば、小さな枝がレースに絡まり、一部は激しく破れていた。
「破ったのは俺だ。あんたを枝から引きはがさなきゃならなかったもんでな」
「そう。いいのよ。別にこんなドレスなんて」
ロジーネは気にしないでという意味で言ったつもりだったが、男は気分を害したようだ。
鼻を鳴らし、冷たい目を向けられる。
「あんた、よっぽどいい家のお嬢さんなんだな。ここの子供たちがあんたのドレスを見たら、すげぇ大喜びするだろうに」
急に突き放されたように感じ、ロジーネは戸惑う。
「……あ、あの」
「これ、ヴィーラント、やめなさい。価値観はそれぞれじゃ」
「ふん。休んだら、帰れよ」
ロジーネの返事も聞かず、男は出て行ってしまった。
「態度が悪いのは勘弁してほしい。あいつはあいつで、苦労しているからのう」
アーロンはのんびりとした口調で言うと、「夕飯の時間までは、ゆっくりしていなさい」と言って部屋を出て行った。
ロジーネは、見知らぬところにいる不安で、とても眠れそうになかった。
(私、また失言したのかしら)
助けてくれた人なのに、ヴィーラントという眼帯の男を怒らせてしまった。
(ユリアンナにも、余計なことを言ってしまって……でも、穴があったら入りたいとは思ったけど、崖から落ちるなんて望んでなかったのに)
ベッドだけがある休憩室でうずくまりながら、ロジーネは自らの言動をただただ後悔したのだった。