3.そして薬師は空を飛ぶ
婚姻の打診が来てから、一週間後。
ロジーネは朝から憂鬱だった。なにせ、本日は第三王子バルナバスがロジーネに会いに、辺境の地までわざわざ来るというのだ。
両親は朝から大騒ぎだ。もてなしの準備のために奔走している。
ロジーネは、皆の気が自分から離れた隙に、屋敷を抜け出した。おめかしのために着せられたドレスは、普段着ているものと比べて、格段に動きにくい。
ふんだんにあるリボンを引きちぎってやりたいが、そんなことをしたら、これまでで一番の雷を落とされてしまうだろう。
風が吹く緩やかな坂道を駆けのぼる。ロジーネは自分の薬草畑までやって来た。風のせいで、背の高い薬草がやや傾いている。
ロジーネは薬草畑の柵をぎゅっと握りしめた。
「結婚したら、こことはさよならだわ……」
バルナバスは、ロジーネが薬づくりを続けることを認めてくれるだろうか。
王子といっても第三王子だ。結婚すれば臣籍降下するだろうし、寛大そうな人ではあったから、話せばわかってくれるかもしれない。
(でも、他の人はどうかしら)
一応、王族の一員になるのだ。一般的に理解されない行動を許してもらえる可能性は低い。
「……嫌だなぁ。どうしよう」
ロジーネはふらふらと、大渓谷の方に近づいた。
深い谷底は見えない。遠くも霧でかすんでいる。
大渓谷の近くに住んでいながら、ここまで谷に近づくのは初めてだ。
危ないから近寄らないようにと、子供のころから言われているし、怖くから近寄ろうとも思っていなかった。
生暖かい風が、吹き上がる。
(まるで魔物の息みたい……。うう、心が弱っているわ。ここから落ちたら死ねるかも、なんて思うなんて)
ロジーネは唇を噛み締める。
結婚することと、死ぬことの違いが、今は見つけられない。
「薬師になれないなら、……同じじゃないかしら」
悪い考えが頭をかすめる。ここから飛び降りたら、結婚から逃げられるんじゃないか、なんて。
「駄目よ、駄目!」
ロジーネは首を振って、その考えを追い払う。
「死ぬ方が無益だわ。もっといい方法があるはず!」
うしろ向きな考えは、自分には似合わない。考えるのだ。薬師を続ける方法を。
「よし、まずは、バルナナス殿下に自分の気持ちを伝えなきゃ……!」
思い直して振り向くと、そこに人影があって驚いた。ほうけたまま、ピンク色のドレスの主を見つめる。
「えっ? ユリアンナ?」
「え、じゃないわよ、ロジーネ。危ないわよ。何をしているの?」
立っていたのはユリアンナだ。普段は王都にいるはずの彼女の登場に、ロジーネは驚きすぎて言葉が出ない。
「どうしたの? 領土に帰ってきていたの?」
「まあね。……ちょっといろいろあって……」
ユリアンナは言いにくそうに言葉を濁した。そう言えば、なんだかやつれたように見える。
「なにかあったの? 顔色が悪いわよ」
「私のことはいいのよ。それより、今日はバルナバス殿下がいらっしゃるんでしょう? 伯父様が、あなたの姿が見えないって心配していたわよ」
どうやらユリアンナは先に屋敷に寄ったらしい。ロジーネが屋敷を抜け出してから半時くらいは経っている。抜け出したこともばれてしまったのだろう。
「お父様が心配しているのは、私が逃げ出すことでしょう? 家のために、私を差し出そうとしているんだもの」
吐き捨てるように言い、もう一度大渓谷を振り返る。
「いつまで逃げるつもりなの、ロジーネ。貴族の娘にとって家のために嫁ぐのは当然のことよ。バルナバス殿下の結婚相手だなんて、名誉あることじゃない」
ユリアンナはいら立っているような声だ。
都会が好きで、結婚も望んでいるユリアンナならばそうだろう。こちらの気持ちも知らないくせに、とロジーネも吐き捨てるように言った。
「名誉なんて私には必要ないの。代わってほしいくらいだわ」
「代われるものなら、代わりたいわよ、私だって」
ユリアンナが叫ぶ。その必死な声に、ロジーネはハッとした。
小刻みに震えるユリアンナの体。顔を真っ赤にして、唇を噛み締めるその姿は、泣き出すのを堪えているようにも見える。
「ユリアンナ。あなた、もしかして」
建国祭で、彼女が意味深なつぶやきをしていたことを思い出す。
(そうか。私、どうして今まで気づかなかったんだろう)
ユリアンナの想い人は、バルナバス殿下なのではないだろうか。
彼がいたとき、ユリアンナはうれしそうに何度も話しかけていた。結婚したいけど……という趣旨のこともつぶやいていた。
恋心があっても、身分違いで何も言えず、ただ声をかけてくれるのを期待して毎回夜会に臨んでいたのだとしたら。
あの日、彼女の目の前で、自分はどんな行動をしたのか。
さっき、傷心のユリアンナに、なんてことを言ってしまったのか。
思い返して、自分でも軽蔑する。
(……私、最低だわ)
黙り込んでしまったロジーネに、ユリアンナは爆発したように叫んだ。
「し、子爵令嬢の私が手に届く人だなんて思っていないわ。だけど、こんな、身近な人が相手じゃなくてもいいじゃないの……! しかも、殿下のことを何とも思っていないあなたなんて……」
「ユリアンナ」
ロジーネは、血が引いていくような感覚を覚えた。
「ごめんなさい、ユリアンナ。私……」
「謝らないでよ、余計にみじめだわ!」
差し出した手を、はじかれた。その瞬間のことだ。
突然、地面が大きく揺れた。
「……地震?」
大きな横揺れだ。ゴゴ……という地響きが響いた。
「きゃっ」
ふたりは立っていられずよろめいた。ユリアンナはしゃがみこんだだけだったが、崖際にいたロジーネは、バランスを崩し、足を滑らせてしまう。
「きゃあっ」
体がずり落ちていく。必死に地面を掴むが、ロジーネがいくら農作業で鍛えていても、人ひとりを支える筋力はない。爪に土が食い込み、掘り返してしまって手が離れる。
「ロジーネ、危ない!」
ユリアンナが、自らの危険を顧みず手を差し出した。が、ロジーネはその手を取ることはできなかった。
「あっ」
体が宙に浮き、ロジーネの視界からユリアンナが消えた。ただ青い空と、すごい勢いで暗くなっていく周囲。
「ロジーネ!」
ユリアンナの叫び声が、どんどん小さくなる。
ロジーネは下に落ちていく自分の体を、ひとごとのように感じていた。悲鳴も出ない。ただ、終わったという思いだけがある。
(ああ、私、なんてひどいこと言っちゃったんだろう)
落下しながら、ロジーネの頭の中を、走馬灯のように記憶が流れていく。
思えば、ロジーネは人の気持ちにひどく鈍感だった。自分のやりたいことに夢中になっては、よく人に怒られていた。
(人の気持ちに寄り添えないなんて、薬師失格だったね。……ごめん、ユリアンナ)
ロジーネが死を覚悟した瞬間、なにかにぶつかったような強い衝撃が彼女を襲う。
落下していく感覚が突然止まり、逆に押し戻される感覚がして、息ができなくなる。
「……っ」
ずしりと自分の体重を感じて、自分が死んでいないことを悟る。
固くつぶっていた目を開けて見れば、ロジーネは空中に浮いていた。正しくは、布をふんだんに使ったドレスが、岩肌から突き出た木に引っかかり、ぶら下がった状態になっている。
「……助かった……の?」
呆然としつつ、薄暗い周囲を見回す。
底が見えるくらいの位置にはいるようだ。しかし、ここから落ちて無事でいられるかと言われれば怪しい。
枝からつられたような状態で、上がることも下りることもできないのだ。いずれはドレスが破れて、落下してしまうだろう。
(だったら一思いに落ちた方がまだマシだったわ……)
恐怖に震えるもなにもできない。地底を睨みながら、ロジーネは唇を噛み締める。
「……痛ぇな。人間。なんだよいきなり」
突然、頭の上の方から男の声がした。
「え?」
「自殺かよ。迷惑な……」
そこにいたのは、黒い猫だ。小さな翼をはためかせ、綺麗な青い瞳がロジーネを映している。猫はロジーネの顔を見るなり、はっと息を飲んだ。
「……猫? 飛んでる?」
だが猫の言葉がわかるはずがない。
(ああこれ、夢だ)
結論付けて、ロジーネは再び目を閉じる。きっとこれはお迎えに来てくれた天使だ。天使が猫だとは知らなかったけれど、かわいらしいからいいのだろう。
(あれ、でも、黒い翼ってことは悪魔?)
そんなことを考えながらも、意識は遠ざかっていった。




