2.王都からの悪夢の知らせ
今より百年ほど前、ヴァイス国では人間と獣人が共生していたという。
獣人とは、人間に近い姿をしているのに、水牛の角やトラの尻尾が生えているという、人間と動物のあいのこみたいな種族だ。
人間と獣人は仲が悪く、ことあるごとに対立し、いざこざは各地で起こっていたらしい。やがて、自分たちだけの土地が欲しいと考えた獣人たちは、人間をこの土地から追い出そうとして、戦争を起こした。
個体の能力で見れば獣人が強く、戦いは彼らに有利とみられたが、人間には知能と数の力があった。
人間たちが協力して知恵を尽くした結果、獣人たちは敗北し、逆にこの土地を追われる結果となったのである。
その戦争の舞台となったのが、今はオイゲン・フレンツェル辺境伯が治めている、フレンツェル領であった。
辺境伯領には、勇者や魔法使いが獣人と戦うおとぎ話がたくさんあり、子供たちは当たり前のようにそれを聞かされて育っていくのである。
ロジーネもそのひとりだ。
『わたし、ゆーしゃさまになりたい』
五歳の頃の夢である。ただ勇者に憧れるだけでは飽き足らず、ロジーネは勇者になろうとしていた。女だてらに木の棒を振り回し、使用人の子を泣かせたロジーネに、オイゲンは頭を抱えた。
『ロジーネ、女の子は勇者にはなれないんだよ。剣を振り回してはいけないんだ』
『ええっ』
ロジーネはショックを受けた。
『なんで? どうして私は女の子に生まれちゃったの……』
今のロジーネならば、『女の子が勇者になれないなんて決まりはないだろう』とか、『女性騎士だっているじゃないか』と言い返しただろう。しかし、当時のロジーネは幼く、貴族社会に当たり前のように存在する『男女には別々の役割があり、女はつつましくあるもの』という価値観を覆すほど賢くはなかった。
『じゃ、じゃあ、まほーつかいになる!』
五歳なりの代替案である。
おとぎ話にでてきた魔法使いは女性だった。戦いの前線に立つことはなく、後ろから勇者の身体強化や、盾魔法などを使う、支援要員だ。
これなら女の人でもなれるだろうと意気込んだロジーネを、オイゲンの返答が簡単に打ちのめした。
『魔法を使うには才能が必要なんだよ、ロジーネ。もう忘れたのかい』
『あっ……そうだった』
オイゲンは、ややあきれた様子だ。
ヴァイス国で、魔法を使える人間は希少だ。五歳になると魔力測定なるものが行われ、魔力のある人間はその時点で王都での英才教育が行われる。適合者は一万人にひとりという確率であり、ロジーネはひと月前に才能なしと言われたばかりだ。
しかし、どうしてもロジーネは勇者一行の仲間になりたかった。もともと勇者など存在しないので、前提そのものがあり得ないのだが、五歳児の思い込みは、世界の不文律をも変えてしまうのだ。
『じゃあ、くすりやさんになるもん! ゆーしゃさまもまほーつかいも、ピンチのときにはおくすりをつかうんだから!』
『ロジーネ、貴族の娘はそういった平民がする職業にはつかないんだよ。ほかの貴族のもとに嫁ぐのが、お前の仕事なんだ』
『なんで? なんでダメなの? いやよ、おくすりならおやしきでもつくれるもん!』
何度も否定され、ロジーネは意地になっていた。なんとかなだめようとする父親を振り切り、庭師のもとで弟子入りを申し入れたのだ。
これが、ロジーネが薬師を目指したきっかけである。
ちなみに、庭師は弟子入りを拒んだが、ロジーネは食い下がり続けた。
困り果てた庭師はオイゲンに相談し、結果、『飽きるまでやらせてみろ』ということに落ち着いたのだ。
今ではオイゲンはこの発言を後悔している。
まさか本当に、娘が薬師試験をクリアするほどのめり込むなどとは思わなかったのだ。
十八歳となったロジーネは、大渓谷近くの人が寄り付かない場所に薬草畑を持ち、薬を作っては町に卸しにいく立派な薬師だ。
値段が安いこともあり、町民たちの間では評判になっていて、ロジーネ自身も得意げだ。
心穏やかでないのは、オイゲンだ。
貴族の娘として、ロジーネにはいずれ、家のための結婚をしてもらうつもりだった。しかし、ロジーネは社交界デビューも果たさず、領地から出ることも嫌がる始末だ。
そこで、ヨハンの提案に乗る形で、今回の建国記念祭に無理やりロジーネを参加させたのだが、成果はいまひとつだったと言わざるを得ない。
「ロジーネはどこに行った?」
「また薬草畑です。旦那様」
侍女の返事に、オイゲンは深いため息をついた。
「いつか飽きると思っていたのに、こんな年頃になってもやめないとは……」
「旦那様、お手紙が届いております」
執事が手紙の束を持って、オイゲンの元へやって来る。その束の中に、ひときわ立派な封筒があるのに、オイゲンは目を留めた。
「これは……」
** *
フレンツェル領は、ヴァイス国の西側に位置する。
底が見えないほど深い大渓谷と隣接しているため、これより西にはいけるところがない。
対岸は遠く、常に霧でかすんでいてよく見えない。底も真っ暗で、どのくらいの深さがあるのかはわからないが、落ちたら助かることはないだろう。
そんな危険な大渓谷のすぐ近くに、ロジーネの薬草畑はある。
ロジーネがここを畑にしたのは、今から五年ほど前だ。
どうしても自分の畑が欲しいが、庭師からも父からも許可が出ず、人目につかないこの場所を勝手に開墾したのが始まりだ。
(この場所、放置されていたからかもしれないけれど、すごく薬草の育ちがいいのよね)
ロジーナが比較したところ、屋敷の近くの畑で作るよりも、大渓谷近くの畑で作った薬草の方が、効果が強く出るのだ。
「ロジーネ、ここにいたのか」
「あら、お父様。珍しいのですね。こんなところまで」
声をかけられて振り向くと、白髪交じりのオイゲンが近づいてきていた。農作業にいそしむロジーネを、目を細めて見つめている。
「お前、なにをしたのだ?」
「え?」
ロジーネの顔から血の気が失せる。
(な、なにかしたかしら。怒られるようなこと? ……いろいろ身に覚えがありすぎてわからない……!)
「お、お父様。納屋の肥料を勝手に使ったことなら、後で買って返そうと思っていたのですよ。借りただけです」
「そんな話じゃない。お前に結婚の申し込みが来ている。相手は誰だと思う。第三王子殿下、バルナバス様だぞ!」
「……は?」
(バルナバス様って、あれよね。王都の夜会であった、キラキラした王子様よね)
しつこく話しかけてきた王子様だ。ロジーナは彼のこぎれいな顔を思い出し、一気に気持ちが覚めていく。
冗談ではない。あんな優男では、畑仕事の足しにもならない。なにより、王都に住む王子様と結婚なんてしたら、どこに畑を作ればいいのか。
「結婚なんて、嫌です!」
即断したロジーネに、オイゲンも瞬発的に怒鳴った。
「お前はぁ! わかっているのか。王子殿下だぞ? こちらに断る権利などあるわけがないだろう!」
「えええ? だって、無理です。私作法もおぼつかないですし。王都でなんて暮らしたら病みます」
「図太い神経の癖に、どの面下げてそんなことを言うのだ」
散々な言われようである。しかし、神経が図太いのは事実なので、ロジーネは黙るしかなかった。昔から、薬草狂いと言われたロジーネは、繊細さとは無縁だ。
「じゃあどうすれば、逃げられますかね」
「逃げることは考えるな。諦めろ。家門のためを思うならな」
ポンと肩を叩かれる。
オイゲンの口の端が上がっている。明らかに浮かれているのが見て取れ、ロジーネは不快だ。
(ひどいわ。そんな簡単にあきらめろというの?)
怒られながらも庭師に弟子入りした幼年期。ドレスを泥だらけにしては、部屋に閉じ込められた少女期。学校を卒業し、薬師試験に合格して周囲を黙らせ、ようやく自由に薬づくりに励めるようになったというのに。
「絶対に嫌です。私は夢を諦めないわ」
「お前ひとりと、家門を比べれば、どちらが大事かなんてわかるだろう」
自分の方が大事だと、内心で思っていても言えはしなかった。
「騎士団を維持するのにも金がかかる。縮小の話も出ていたが、お前が王族の一員となれば、王家の支援ももっと増えるだろう」
東西南北にある辺境伯家には、それぞれ独自に騎士団を持つことが許されている。
それは外敵や周辺の森から現れる魔物や獣から、国を守るためだ。
しかし、平和が続く近年は、その必要性を疑問視されている。多くの兵を養うためにと国から出されている援助金を、減らそうという話もあるのだ。
「この婚姻が成立すれば、しばらく我が家は安泰だ。異論は認めない」
ロジーネに選択権は無いとはっきりと言い切り、辺境伯は背中を向けて屋敷の方へと向かう。
「嫌よ。……嫌なのに」
ロジーネは土のついた手をぎゅっと握った。正午を知らせる鐘の音が、まるで人生の終わりを告げているような気がした。