14.地上に戻ってハプニング・3
屋敷に戻ってから、ロジーネは慌ててやって来た医者に診てもらい、許可を得て入浴する。
「お嬢様、本当によかったです~」
昔からロジーネについてくれている侍女たちは涙目だ。
「……心配かけて、ごめんなさい」
ロジーネはすっかりおとなしくなって、侍女たちに身を任せていた。
石鹸で洗われた肌はすっかり汚れが落ち、仕上げに香水をふりかけられ、華々しい香りとなる。
温かいお湯がはられたお風呂、肌触りの良い衣服、満腹になれるごちそう。
たった一晩獣人国で過ごしただけで、今までは当たり前に享受してきたそれが、貴重なものだったのだとわかる。
(お腹いっぱいだなんて、残したこともあった。あきれた贅沢者ね……)
着せられるドレスも立派なもので、獣人の子供たちなら、見られるだけでとても喜んだだろう。そう思えば、身ぎれいにすることが逆に心苦しい。
ロジーネは夕食を終えた後、早々に自室へと戻った。
バルナバス殿下は明日まで滞在するようだが、細かい話は父親に任せることにした。どうせ、ロジーネの意志など聞いてももらえないのだから。
窓に顔を寄せ、ロジーネは深いため息をつく。
(ユリアンナ。お願い、生きていて)
もし、自分と同じように獣人に拾われたら、生きているかもしれない。でも、そこにあるのは、満足にお風呂にも入れないような暮らしだ。
(自殺なんかしちゃったらどうしよう)
ユリアンナはいつも華やかだった。着飾ることも好きだったし、華やかな場所も好きだった。それが、まったくの別世界にたどり着いてしまったら、どれほどの絶望だろう。
(……それでも、生きていれば何とかなるはずだわ)
ロジーネは顔を上げ、周囲を見回す。ドレスは衣裳部屋に詰め込まれているので、この部屋にあるのは普段着ばかりだ。鞄も、薬を街に卸しに行くときに使うリュックしかない。
「……十分だわ」
思い立って、薬草畑の世話をするときに着る簡素なエプロンドレスに着替える。そして、リュックに手持ちの薬と道具を詰め込んだ。
これからどうするのが正しいのか、ロジーネにはわからない。だけど、このままバルナバスと結婚するのは違うと思えた。
(ユリアンナともう一度話したい。少なくとも、彼女のことを思ったら、彼と結婚なんてできるわけない)
「ここを出よう。でも、獣人国にはどうやったらいけるかしら。……ヴィーラントがきてくれたら」
翼を持った獣人の名を、ぽそりと告げる。
(もう一度ヴィーラントを呼ぶことができれば、地底には下ろしてもらえる。そうしたら、ユリアンナを探すことだってできるかもしれない)
「あら……?」
なぜか額が温かい。手で触れて、そこが、別れ際にヴィーラントが口づけたところだったと思い出す。
「どうして……」
つぶやいたと同時に、部屋の扉がノックされた。
『ロジーネ嬢!』
扉越しに聞こえる声は、バルナバスのものだ。ロジーネは慌てて扉の方へ駆け寄る。
「で、殿下ですか?」
『ああ。話がしたい。ここを開けてはもらえないだろうか』
ロジーネは焦る。今の姿を見られるのはまずい。また出ていくつもりなのかと思われるだろう。
「殿下にお会いするには、格好が……」
遠慮がちに言えば、バルナバスは紳士らしく引き下がった。
『……では、そのままで聞いてほしい』
ロジーネはほっとし、よく聞こえるように、扉に耳を押し当てた。
「はい。どうなさったのですか?」
『君に謝りたくて』
ためらいがちに紡がれた言葉には違和感がある。ロジーネは彼に何かされたわけではないのだ。謝られても筋違いというものだろう。
「謝っていただくことなど、何もありません」
『だが君は、怒っているだろう。ユリアンナ嬢を追い詰めてしまったことは謝る。しかし、私は君を花嫁と決めてここに来たんだ。彼女がたとえ犯人ではなくとも、結婚相手には考えられない。一目惚れだったんだ、ロジーネ嬢。どうか、私の花嫁として、王都に来てはくれないだろうか』
ここまで求めてもらえるのも、本当ならばありがたい話だろう。しかしロジーネは首を振った。
「あいにくですが殿下、私はあなたの妻にはなれません。ユリアンナは私にとって姉も同然の存在でした。彼女が行方不明となっている今、自分だけ幸せになることはできません」
『そんなことを言わないでくれ!』
バルナバス殿下の声とは逆方向から、物音がした。
ロジーネは顔を上げて、そこに見えたものに呆然とする。
すでに真っ暗になった窓の外から、青色の光が見えた。正確には、片目に眼帯を付けた、空を飛ぶ黒猫が浮いていた。
「ヴィーラント?」
ロジーネは小声でつぶやくと駆け寄った。廊下ではバルナバスがまだ何か言っているが、すでにそちらのことは頭から抜けてしまった。
「よお」
窓を開けると、ヴィーラントは羽をはためかせ、入ってくる。
「ヴィーラント、どうして?」
「お前が呼んだんだろ? 俺を」
「呼んでなんか……あっ」
さっきのつぶやきのことだろうか。だけど、あんな小さな声が、地底に住むヴィーラントに届くはずがない。
「嘘、だって、届くはずないわ。あんな小さな声」
瞬きの間に、ヴィーラントが人型に変わる。彼は近づいてくると、ロジーネの額をつついた。
「別れ際、そういう魔法をかけた」
「魔法?」
「どんな獣人も、たったひとりにだけ使える魔法だ。声が聞こえたってことは、やっぱりあんたが俺の番なんだろう」
「番?」
首を傾げたロジーネを、ヴィーラントは目を細めて見つめた。困ったような、それでいて優しいまなざしは、ロジーネの心臓をうるさくさせる。
「……人間のあんたが、知る必要はない。だが、困ったから俺を呼んだんだろう?」




