12.地上に戻ってハプニング・1
別れの朝がやってくる。
身支度と朝食を終え、ロジーネは孤児院の子供たちとアーロンに別れの挨拶をしていた。
「泊めてくれてありがとうございました」
「達者でな。お嬢さん」
目を細めたアーロンの手を、ロジーネは感謝の気持ちを込めてしっかりと握った。
朝、もう一度薬を塗った際に見ると、昨日のやけどはすっかり良くなっていた。まだ、毛までは生えてきてはいないが皮膚はすっかり元通りだ。いくら地上の薬の方が性能がいいとはいえ、効きすぎな気もするので、人間用の薬は、獣人には強いのかもしれない。
「じゃあね、皆」
遠巻きに見守っている子供たちにロジーネが手を振ると、アルマが駆け寄って来た。
「ロジーネお姉ちゃん!」
「アルマ、遊んでくれてありがとう。元気でね」
「……っ」
アルマは言葉を飲み込んで、大きく一度だけ頷いた。
本当は抱きしめてあげたい。けれど、中途半端な優しさは、ヴィーラントの言うとおり、自己満足でしかないのだろう。彼女たちはこの厳しい世界で生きていかなければならないのだ。
「さよなら」
別れを告げ、ヴィーラントとロジーネは歩いはじめた。岩肌に苔が貼りついているようなじめじめした道だ。苔のぬめりに足を取られて転びそうになる。
「この辺りはもう民家も少ないからいいか」
ため息とともにそう言い、ヴィーラントはロジーネが乗れそうなくらいの大きさの猫に変化した。
「一気に行くぞ。背中に乗れ」
小さな翼のある黒い猫はかわいいというよりは美しい。大きさのせいか、猫というよりはクロヒョウのようだ。
「大丈夫なの?」
「あんたくらいの重さなら平気だ」
令嬢としてははしたないと言われるのだろうが、落ちる方が怖いので、またいで乗る。スカートがまくれて足が見えるが仕方がない。
「乗ったわ。ヴィーラント」
「ああ」
促すように彼の首筋を撫でると、小さな翼がはためいた。
体を支えられるのかと思うくらい小さな羽だが、猫姿のヴィーラントは難なく宙に浮いた。
薄暗い視界もなんのその、岩場をかき分け、崖に向かって飛んでいく。
その距離は、ロジーネが予想していたよりずっとあった。
「思ったより、遠いのね」
「そりゃあな」
「……これだけ遠かったら、孤児院に連れ帰るよりも、直接私を地上に戻した方が楽だったのではない?」
思いついたことを言ったつもりだったが、ヴィーラントはぎょっとした様子だ。
「いや、それは……。手当てが必要かと思ってだな……」
「そうだけど。……ううん。助けてもらったのに、こんなこと言うのは失礼ね。ごめんなさい」
三十分ほど飛んで、ようやく崖下にまでたどり着いた。
一度下ろしてもらったロジーネは、足元に漂う空気が重くかすんていることに気づいた。
「……あら、なんか空気が」
「よどんでいるな。どうしたんだろう、以前はこんなことはなかったんだが」
ヴィーラントは立ち込めている重い空気の層に触れてみる。眉を寄せ、吐き捨てるように続けた。
「あまりいいもんじゃなさそうだな。ここから一気に地上に上がろう」
猫姿で背中を向けるヴィーラントの背をロジーネはゆっくり撫でた。
「うん。ねぇ、改めて、ありがとう、ヴィーラント」
「なんだいきなり」
「こんな高いところから落ちて、普通なら死んでいたわ。あなたは命の恩人よ」
「……早く乗れ」
ヴィーラントは返事をしなかった。ただ、ロジーネに背中に乗るように言い、乗った途端に一気に飛び上がる。
ヴィーラントの小さな羽が小刻みに羽ばたく。地上に向かって飛ぶのは、同じ高さのところを飛ぶよりも大変そうだ。
「獣人の生態は、人間とは違ってな」
「えー? 聞こえないわ」
風と羽ばたきの音が邪魔して聞こえにくい。だが、ヴィーラントはロジーネの不満を無視して続ける。
「〝番〟という存在がある。魂で結びつけられた運命の相手だ。出会ったが最後、その人をだけを焦がれ、他の獣人には目も向けられなくなる」
「えー?」
周囲はどんどん明るくなる。ロジーネの意識はそちらに持っていかれた。
「だからこそ、番に出会うのは恐ろしかった。ましてその相手が人間だなんて、信じたくもなかった。だからあんたを嫌いになろうとしたけど、……まあ無理だったな」
崖を抜け、光に包まれる。ロジーネを乗せたまま空中で姿を人型に変えたヴィーラントは、ロジーネをお姫様抱っこした。
いきなり、抱き上げられた状態となり、パニックになるのはロジーネだ。
「え、ヴィーラント、何?」
「……ついたぞ。地上」
言葉少なにそう言い、ヴィーラントはロジーネを地面に立たせる。
「さっきなんて言ったの? 聞こえなかったわ」
「いい。別にたいしたことじゃない。早く戻れよ」
「ええ。あの、……また会えるかしら。ほら、あそこの薬草畑、私のなのよ? これからも、時々薬草を採りにきたりとか……」
ロジーネの言葉を遮るように、ヴィーラントが頭に手を乗せる。
「あんたは地上で生きるんだろ。もう、地下のことは忘れろよ」
「でも……ねぇ、そうだわ。今ここにある分だけでも……」
ちゅ、というリップ音が耳に響く。ロジーネは信じられなかった。あのヴィーラントが、ロジーネの額にキスをしたのだ。
「ヴィ、ヴィーラント?」
「じゃあな。お転婆! 幸せにな」
ヴィーラントはすぐに子猫の姿になり、ゆっくり挨拶する暇さえ与えてくれずに、崖下へと消えてしまった。
ロジーネは熱の残る額を押さえたまま、赤面するのを止められなかった。
「今の……なに?」
無性にドキドキする。あんなにツンケンしていたのに、彼にどんな心境の変化があったというのだろう。
名残惜しく崖下を見つめていると、屋敷の方から人の声がした。




