1.いやいやながらの建国記念祭
王城の大広間に、楽団の美しい演奏が響き渡る。
本日は一週間かけて催される建国記念祭の最終日。普段は同時に顔を合わせることのない全国各地の貴族たちが、一斉に顔を合わせる数少ない機会だ。
「なんで私がこんなところに……」
ふてくされた顔で文句をつぶやいているのは、フレンツェル辺境伯令嬢のロジーネだ。
辺境伯家のタウンハウスにいるメイドたちによって、今日のロジーネは美しく飾り立てられている。普段はぼさぼさの髪も、長い前髪ごとハーフアップに結い上げられ、明るいレモンイエローのドレスも若々しい彼女によく似合っていた。
男が放っておかないような外見であるにもかかわらず、彼女は今、壁の花だ。なぜなら彼女の表情は怒りに満ちていて、きやすく話しかけられる雰囲気ではないのである。
「早く……早く帰りたい」
そうつぶやきながら、ロジーネは本日のパートナーである兄のヨハンを睨んでいた。
辺境伯と言われる通り、フレンツェル伯の領地は遠い。王都まで出てくるのに五日もかかるのだ。
領地にいるロジーネの父・フレンツェル伯は、『長旅は腰が痛くなる』と乗り気ではなく、今回の建国記念祭には、タウンハウスで暮らすヨハン夫婦が参加することとなっていた。
ヨハンはそれを了承したものの、義姉が身重であることを理由に、ロジーネをパートナーに指名してきたのだ。
都会に興味がなく、あえて田舎暮らしをしているロジーネはもちろん反対した。五日もかけて王都に行くなど冗談じゃない。
しかし、十八歳という年頃にもかかわらず、結婚に興味を示さない娘を心配していた辺境伯は、ヨハンの案に乗った。
そんなわけで、ロジーネは強制的に王都行きの馬車に乗せられたのである。
(しかもそこまで言って私を呼び出したくせに、放置するなんてひどいわ)
ヨハンは、この日のために自領から出てきた貴族たちと久方ぶりの語らいに興じている。
最初の数人にはロジーネの紹介をしてくれていたが、じきに妹のことなどほったらかしで社交に興じ始めたのだ。
扇で顔を半分隠しつつ、ロジーネは怨念交じりの視線をヨハンに向ける。
(お兄様の馬鹿。別に私がいなくたってよかったんじゃない。なんのためにこんなところまで呼び出されたのよ)
とにかく腹立たしい。この苛立ちをどうすればいいのかわからない。
(眼力に本当に力があれば、この視線でお兄様の肩に穴が開けられるのに!)
空恐ろしいことを考えているロジーネの肩を、ポンと叩く手があった。
「こんなところにいたのね、ロジーネ。なあに? つまらなさそうな顔をして」
「ユリアンナ!」
明るい声に振り向くと、そこには母方の従姉がいた。名前はユリアンナ・ゲーベル。子爵令嬢であり、ロジーネよりひとつ年上で、艶のある美しい金髪に琥珀色の瞳を持つ美しい娘だ。子爵家は一家そろって王都のタウンハウスにいることが多く、普段は領土にいるロジーネとユリアンナが会うのは三年ぶりだ。
「久しぶりね」
「ロジーネも王都の学校に通えばよかったのよ。田舎にいるより楽しいわよ。出会いもあるしね」
扇で隠すようにしながら、ユリアンナはロジーネに耳打ちした。
「出会いねぇ。私は結婚には興味がないからいいのよ。それより、ユリアンナは? もう学校も卒業したのでしょう? 結婚の話はないの?」
「そうね。来たらいいのだけど」
ユリアンナはもじもじしながら周囲に目配せする。どうやら、彼女の意中の相手もこの夜会に出席しているようだ。
「ロジーネは? 相変わらず薬草三昧なの?」
ユリアンナは、ロジーネにグラスを差し出した。彼女の瞳の色とよく似た琥珀色の液体だ。
「ありがとう」
ひと口含むと、口に広がるのは濃厚な苦みだ。
「苦っ」
「あはは。そりゃそうよ、お酒だもの。あなたが作っている薬の方がよほど苦いわよ」
「薬は病気を治すためのものだもの。これは違うでしょう」
「あら。お酒は心のお薬よ。報われない気持ちを癒すためのね」
意味深なことを言い、ユリアンナはロジーネが持つグラスと合わせた。カチンと硬質の音が響く。
ユリアンナは、ロジーナにはいつも大人ぶって見せる。昔は、それが不快に感じる時もあったが、今は頼もしい。慣れない夜会会場で、ひとりでポツンと待っているのは、正直に言えば怖かったのだ。
しばらくユリアンナと歓談していると、いつの間にかひとりの男性が近づいてきていた。
「おや、ユリアンナ嬢。見慣れない御令嬢とご一緒ですね」
「え? あ! バルナバス殿下!」
男はユリアンナと既知のようだ。背が高く、緩くウエーブのついた金髪を、ひとくくりにまとめている。
「誰?」
「馬鹿っ、第三王子殿下よ!」
ロジーネの小声のつぶやきに、ユリアンナが素早く突っ込みを入れる。すぐにロジーネを隠すようにユリアンナが一歩前に出て、バルナバスに深く頭を上げる。
「申し訳ありません。殿下。彼女はめったに領地から出てこないもので」
ユリアンナの行動を見て、ロジーネは自分が挨拶を忘れていたことに気づいた。
「あ、えっと、ロジーネ・フレンツェルと申します。お会いできて光栄です」
「ああ。フレンツェル辺境伯の……」
「はい、娘です。本日は兄のヨハンと共に参加させていただいております。あ、身重の義姉の代理でして。……このような場には慣れていないため、失礼をお許しください」
ロジーネはうつむいたまま、膝を折って礼をする。すると頭頂に朗らかな声が降ってきた。
「顔を上げてください。僕はヨハン殿の奥方に感謝しなくてはな。おかげでこんなに美しい令嬢と出会えた」
(なんて気障な人かしら)
ロジーネが顔を上げると、バルナバスが胸焼けしそうなほど甘い微笑みを浮かべている。
(なんでこんなに見てくるの? 私、なにかしたかしら)
田舎では、ロジーネは平民のように野山を駆け回っていた。身分の上下もそれほど気にしていないので、昔から知っている使用人の子供たちとも兄弟のようにざっくばらんに話すのが常だったのだ。
穏やかな微笑みを浮かべる貴公子には、どう対応すればいいのかわからない。
(あんまり話してぼろが出ても困るし、うっかり失礼な言動をしてしまっては、お兄様に迷惑がかかるし……)
途方に暮れていると、ユリアンナが一歩前に出て、バルナバスの前に立った。
「ねぇ、バルナバス様。先日公開された劇はご覧になりましたか?」
(さすが、ユリアンナ! 助かったわ)
「いや? そんなことより、ロジーネ嬢。いつまで王都におられるのですか?」
しかし、ロジーネの心中とは裏腹に、なぜかバルナバスはロジーネに話しかけてくる。
「え、あ、……その、建国祭が終わったら帰ります」
「そんな! せっかく王都に出てきたのです。ひと月ほどゆっくりしていけばいいのに」
「でも、父のことも心配ですし」
(本当に心配なのは、薬草畑の薬草だけど)
「ああ、腰の調子が悪いのでしたっけ」
噛みあっているような、いないような会話が、二回ほど交わされると、ロジーネはいたたまれなくなってきた。
(……早く、どこかに行ってくれないかしら)
ユリアンナがどれだけ話しかけても、バルナバスはロジーネの方にばかり顔を向ける。田舎から出てきた令嬢がそんなに珍しいのかと、ロジーネは辟易してきた。
(ああもう、早く帰りたいわー!)
思わず叫び出しそうになったときだ。
──ガチャン!
ガラスの割れる硬質な音は、会場を静まらせた。
バルナバスとユリアンナはともに眉を寄せ、音がした方向を向く。ロジーネもそちらに視線を向けると、座り込んでいる令嬢と、男性の姿が見える。
どうやら、令嬢の方がグラスを落としてしまったようだ。かがんで顔をうつむけているから、体調が悪いのかもしれない。
「だ、大丈夫か?」
一緒にいる男性はそんな声をかけているものの、オロオロしているだけだ。周囲の人々はじりじりと後退し、彼らから距離を取っている。結果、体調の悪そうな令嬢が、多くの人目にさらされることとなっている。
ロジーネは反射的にそこへと向かった。
「大丈夫ですか? 見せてください。私は薬師です」
「ちょっと、ロジーネ!」
ユリアンナの呼び止める声を無視して、ロジーネは床に膝をついた。座り込んだ令嬢の肩を抱き、彼女の全身を観察する。
顔色が悪く、視点が定まらない。腕にまだらな赤みが出ていて、見ているうちにそれは顔にも表れてきた。
「これは、アレルギー症状ね」
割れたグラスの破片をつまんでにおいを嗅ぐと、アルコール臭がした。
「彼女、お酒を飲まれたことは?」
「ないことはないと思うのだが……」
「アレルギー反応のように見受けられます。……とにかく、別室にお連れしてください。こちらにお医者様がいるならお呼びして。それと、誰か、大きめの器と水を持ってきてください」
ロジーネは手早く指示を出し、令嬢を運ぶ男性と共に別室に移動した。
すぐ近くの客室に通され、令嬢はソファに座らされる。
ロジーネは侍女から器を受け取り、令嬢の喉に手を突っ込んだ。
「き、君っ。何をするんだ」
「アルコールを吐かせるんです。いいから、貴方は外に出ていてください」
文句を言うだけの男を追い出し、令嬢が吐き出すまで続けた。
「げほっ、げほっ」
「出しちゃってください。後は水で薄めて」
その後水を大量に飲ませていくと、徐々に皮膚の赤みが引いていった。
「はあっ、はあ」
「……落ち着きましたか?」
「ええ」
これで応急処置は終了だ。
「患者はこちらですかな?」
入って来たのは、宮廷侍医だ。ロジーネは状況を説明し、行った処置を伝えたのち、その場を譲った。
「うーん。アルコールアレルギーですかな」
「以前は飲んだことがあるそうなのですが」
「突然なる症例もないわけではないですからな。でも、もう赤みも引いているし大丈夫でしょう」
医師は軽く診察すると、そう結論付けた。
「すみません。……お嬢さんもありがとう。ごめんなさい、ドレス」
令嬢は涙目のまま、ロジーネを見上げた。
たしかに、吐かせるときに袖とドレスの一部が汚れてしまった。しかし、これは帰る口実になるというものだ。
「気にしないでください。命にかかわらなくてよかった」
「ありがとうございます」
侍女が用意してくれた温かいタオルで、ドレスの汚れた部分をふき取り、ロジーネは何食わぬ顔で会場へと戻った。
「ロジーネ、どこに行っていたんだ!」
散々放っておいたくせに、ここにきて待ち構えていたヨハンに怒られる。
「お兄様、私もいろいろあったのです」
ロジーネは白けた気分になりながら、そう告げた。
「もういいのですか? お兄様」
「大体挨拶は終わった。お前はどうだ? 少しは言い寄ってくるような男とは出会えたか」
「結婚なんて興味ないと言っているでしょう? お兄様」
「……まったく。困ったものだな。年頃なのだし、私と一緒に王都に住めばいいのに」
辺境伯位を持つ父が領土から出たがらないため、社交を担当する兄夫婦はタウンハウスに住んでいる。領土が遠い貴族にはよくあることで、ユリアンナが王都に住んでいるのも、同じような理由だ。
以前にも兄から『王都に住まないか』と誘われたことは多くあったが、賑やかしいのが苦手なロジーネは、断り続けている。
「私はあの土地が好きなのです。それに、結婚だって別にしなくてもいいでしょう? お兄様たちはとても仲がよろしいですし、きっと、これからたくさん子が生まれるでしょう。私が独身を貫いたとしても、フレンツェル辺境伯家は困らないではないですか」
「はあ……そして私は、一生お前の面倒を見なければならないのか?」
「あら、私。自分ひとりを養うぶんくらいは、稼ぐつもりですのよ?」
ロジーネは領地で薬草畑を管理し、薬を作って売っている。結婚なんてしなくてもいいとさえ思っていた。
「はあ。少しは結婚に興味を持ってくれるかと思ったのに」
ヨハンの深いため息を聞き流し、あっけらかんと答えながらロジーネはうきうきと歩き出す。王城のパーティよりも、領地の森の中の方がずっと快適だ。一刻も早く帰りたい。
「さっ、帰りましょ! お兄様!」
「わかった、わかった」
腕を組んで歩き出すふたりを、バルナバスがじっと見ていたことに、ロジーネは全く気付いていなかった。