種
私が目を開けたときにはもうすでに鳥籠の中にいた。
初めて見たものは金属の柵と、その向こう側のあどけない少年の瞳。
少年は私が目を覚ましたことに気づくと慌てて部屋を出て、家族を連れて戻ってきた。
初めまして、私の名前はなんですか? 私の問いかけに大人たちは視線をそらし、少年だけがきらきらと光る目をして考え込んだ。やがて私には素敵な響きの名前が与えられた。それが夏に咲く大輪の花の名前だということを、私は少年から教えてもらった。
小さな鳥籠の中。小さなベッド。1日に1回の甘露のご飯。それが私の世界。
柵から見えるのは少年の部屋で、私は彼とそこで長い時間を過ごした。彼は私に様々なことを教えてくれた。世界の理。学校での出来事。家族の愚痴。テレビの話題。花の名前。
たまに少年は私を鳥籠から出して、そっと掌に載せて窓から外を見せてくれた。本当は籠から出してはならないからと、彼の家族のいないときだけ。
ひどく温かい肌の感触が足の裏から伝わって、私は眠くなりそうな安心感に包まれる。
夕暮れに染まる空を見て、彼は「あれが雲で、あれが太陽だよ」と教えてくれた。
何故空があんなに哀しい色に染まるのですかと問えば、幼い彼は困ったような顔をした。2人で百科事典をめくったけれど、空が哀しく見える理由はどこにも書いていなかった。
少年の部屋にかけられたカレンダーが何枚かめくれた頃、私のお腹がぷくりとふくれてきた。
白い肌の向こうに薄紫の色が透けて見えて、我ながら綺麗だな、と思った。
少年は私のお腹を見て病気かもしれないと泣いていたけれど、彼の家族は大丈夫だと彼に教えていた。私もどうしてお腹がそうなったのかわからないけれど、苦しいとか痛いとかはないからと彼に伝えた。
彼が哀しいと私も哀しい。ふくれたお腹の少し上が、どうしてだかずきずきと痛んだ。
お腹のふくらみは日に日に大きくなり、皮膚は風船のように薄く伸びて、内に秘めた薄紫の色は徐々に濃くなっていく。
「もう少しだね」
彼のいないある日、部屋に入ってきた彼の父親が私の腹を人差し指で撫でてそう呟いた。
父親は決して私の目を見ようとしてくれず、それが無性に悲しかった。
カレンダーがもう少しめくれた頃、彼が部屋に戻ってこなくなった。
1日1回の甘露もなくなり、私はお腹を空かせてベッドに伏せっている。
少年はどうしたのだろう。
思い立って金網をよじ登り、窓の外を見る。
夕空はいつもよりも深い哀しみに染まって、私はその荘厳な美しさに言葉を失った。
だけど彼の姿はどこにもなかった。
どれだけ世界が美しくとも、彼がいなければ何の意味もないように思われた。
彼の姿がなくなって3日後。
部屋の扉が開く音に私は空腹でふらつく体を叱咤して振り返る。
しかしそこにいたのは愛おしい少年ではなく、彼の父親だった。
父親は私を籠ごと部屋から運び出し、車というものに乗せた。彼が名前を教えてくれたそれは、ひどく恐ろしげな音を立てて動き始めた。
がたがたと籠が揺れる。
私は恐怖のあまりベッドの上で布団にくるまるしかない。
その時間がどれほど流れたのか。
やがて車は止まり、私は再び父親に抱えられて車から降ろされる。
大きな建物に入っていくようだ。狭い箱に入ったときの浮遊感で、私はげえっと吐いた。
父親が不安そうな目をして籠を覗くので、私は大丈夫だと笑ってみせた。少年によく似た顔をした父親が哀しいと私も哀しくなった。
父親に運ばれて、やがて私はとある部屋の前にたどり着く。
布団の隙間から覗き見ると、愛おしい少年が真っ白な顔をして、真っ白なベッドに寝かされていた。
「――……よい状態の種ですね」
「――……先生、どうか……を助けてください」
「――……もちろんですよ」
見知らぬ老人が籠を開けて私に向かって手を伸ばした。
私は恐怖で籠の中を走り回り、その手から逃れようとする。
しかし結局は太ももを掴まれて引きずり出された。
父親が私の顔を見て痛ましそうに表情を歪めた。
「――……心配ありません。種はこうやって鳴くものです」
「――……先生、どうか種に苦痛を与えないでください」
「――……そうおっしゃられましても、生きたまま与えなければ効果はない」
私は涙をぽろぽろこぼしながら老人の手から逃れようと身をくねらせる。
老人の手は私の腹を潰さないよう、頭と太ももを執拗に押さえつけた。
ふと、父親が何かを言って、頭を押さえる老人の手が少し緩んだ。
視線を向ければ、すぐそこに、彼によく似た哀しげな目がある。
「息子のために、死んでおくれ」
その言葉を聞いたとたん、私はすべてに納得した。
私は彼のために生まれてきて、そうして彼のために死ぬのだ。
いやではなかった。
むしろそれは幸せで、そう、とても幸せだ。
私の目から涙が止まり、体の動きも止まったことを確認し、ようやく老人が太ももからも手を離す。
私は老人の掌の上で座り直して、横たわったままの少年を見た。
ああ、なんて可哀想なんだろう。
もともと白かった肌はさらに青みを増し、年相応にふっくらとした頬は見る影もない。
私の体は、このためにあったのだ。
私はお腹を両手でさする。
中に入った薄紫色の液体が、たぷん、と揺れた。
大丈夫、大丈夫だよ。
にっこりと微笑んでみせた。
老人の掌で私は彼の口元に運ばれていく。
白衣の女性が彼の口をこじ開けて、私はそこに足からゆっくりと落とされた。
ばつん、という音。
私は破れたお腹から薄紫色の液体が彼の喉へと流れ込んでいくのを感じた。
苦痛はなかった。
彼の唇に両手を添えて、私は固く閉ざされた彼の瞼を見ている。
どうか早く目を覚ましてくれますように。
あの哀しい夕焼けをひとりで見せてしまうのは少し心配だけれど、きっと彼はそのつらさも乗り越えてくれる。
ああ、だけど。
私の名前になった大輪の花を、一度見てみたかった。
彼が私の分まで見てくれるだろう。
あのきらきらした瞳で、きっと。
意識のない少年の口が咀嚼を始め、ゆっくりと私は彼の中へと落ちていく。
幼い頃、私は不治の病に侵されたのだという。
それを癒すためには、美しい海で育った種が必要である。
記憶にはないが、恐らく私が今ここで生きているということは、1つの種を犠牲にしたということなのだろう。
私は古い日記を閉じ、窓の外に視線を向けた。
空のふちを真っ赤に染めて、どこか哀しく見える夕焼けがそこにある。
私の病は遺伝性であり、同性の子供に受け継がれていく特徴がある。
残念ながら初めに生まれたのは男児であり、いやそれを残念と思ってよいのかどうかわからないけれど、とにかく彼には私の因果が受け継がれてしまった。
書斎の机の上。
夕陽を受けて金色に輝く鳥籠の中に、1つの種が眠っている。
「――……お父さん、それなあに?」
「――……今日からおまえが世話をするのだよ」
いつの間にか扉を開いてこちらを伺っている息子に、私は振り返って微笑みかけた。