笑い病
「あれ……」
流れ星がひとつ。彼の頭上で横一文字に線を描き流れていった。
やがてそれは数を増やし、光のシャワーとなって。地上へと降り注ぐことになるだろう……。
水森紳は、幼少の頃からずっとなかなか免疫力がつかず病気がちだった。
外へ出かけてから帰ってくるとすぐに熱を出し、小学生の時はそんな調子で欠席日数が多かった。成長するにつれ丈夫な体にはなってきたものの油断はならなく、それは中学生となった今でも、である。
色白で男の子なのだが、可愛らしい顔をして女の子に見えていた。あまり表情を崩すことがないので、お人形さんだねと近所のおじいちゃん、おばあちゃんはよく彼をからかっていた。紳はそれをどう思っていたのかは知れないが、誰も彼の胸中を知る者はいなかったという。
彼はインターネットをし始める。
小学6年になった春休みだった。姉の静羅が新しいパソコンを買ったため、古いパソコンを頂戴したというわけだった。外に行くことの少ない彼にとっては、それはよいおもちゃとなっていくのだった。
ネットを使って彼は遊んだ。部屋ではダウンロードをした好きな音楽、シンセポップをかけながら、マウスを動かしキーボードを叩いている。ネットの中では何処か誰かのホームにお邪魔し簡単な挨拶から始まって。コメントを書き残していった。
そうやって訪れた先々で足跡を残しながら、ネットの中を渡り歩く。見えない相手たちとのチャットで会話をして、並ぶ文字の羅列を目でひたすらに、ひたすらに追っていて。どこまでもどこまでも読み続けていった。いずれは好きな分野のサイトを自分で開設し、別の所ではコミュニティに入って参加してみたりした。暇つぶしに絵を描いたら、それを画像に移してブログ日記に貼ってみる……。
そうやって段々と抜け出せない深みに嵌まって変化していく彼に、声をかけるどころか気がついてくれる者が家族でさえもいないというのは……少し悲しいことだった。
いつでもネットから湯水のように溢れてくる情報を、脳に吸収し取り込んで得ることができる。彼は機器の使い方とともに世界のあらゆる現実を知っていくこととなっていった。しかし。
彼はこれからどうなってしまうのか……どんどんと、ネットの世界に閉じ込められていく……時を忘れて。
その中でいつしか紳は思うようになるのだ。言葉なんて。
笑い声で消してしまえ ―― と。
……
「紳の様子がおかしいんです! お姉さん!」
と、田畑こころは訴えた。静羅はびっくりして隣に並ぶこころの顔を見る。
2人は学校からそれぞれの家へと帰る途中だった。学校の駐輪場で、こころは自転車に乗りかけた静羅を見つけて、一緒に帰りませんか話があるんですと声をかけたのだった。
自転車には乗らず押しながら横に並んで歩いて、人通り賑やかな交差点を曲がり。どうでもいい最近の話題な話を幾つか話した後。こころはさて、と本題を持ちかける。
話を切り出すのに、こころは声に力がこもった。
「紳が? ……どんな風にかしら。我が弟ながら、何考えてるか分からないんだよなぁ」
そう言いながら静羅は苦笑いで小首を傾げた。落ち着いたこころは、はあとため息で沈黙を覆い隠す。
「私だけがそう思ってるのかもしれませんけど……」
こころは紳と出会った頃のことを思い出していた。
こころは紳と幼馴染である。初めて会ったのは小学3年生の時だった。
同じクラスとなり、家がご近所どうしで、公園やマンションの駐車場などで友達数人とこころが遊んでいると何処からか紳がひょっこり現れる。
大人しくて、人の輪の中に入ろうとはせずに黙って見ているだけの紳に、「おいでよ」と最初に声をかけたのがこころだった。
それが始まり。紳とこころは友達になった。よくサッカーやテレビゲームの対戦などで遊ぶようになった。
2人は中学2年となった今でも友情で長々と緩やかに続いている。
ただ、過ごす時間は2人が大きくなるにつれて減っていく一方だったのだが。
「急に部活も勝手に辞めちゃうし……」
セーラーの襟が風に揺れた。雪でも降るのではないかと思われるくらい冷たい風が、静羅とこころに打ち当たる。街路樹から枯れ落ちた葉は、2人の足元をかすめていった。
「部活っていうと……」静羅が言う前にこころは教えた。
「『お笑い研究会』です」
「ああそう。それ」
風は笑った。冷ややかに。
「部長に聞いて初めて知りました。紳からは何も聞いていなかったのに。いきなりだったんだもん」
口を尖らせるこころ。それだけで紳を『おかしい』と判断したわけではなかった。
「ある日教室で……紳が机の上に本を置いて読み始めたんです。『新大江戸捕物超! アスペラ君がマイル』第十巻を。でもしかしですね、机の上には第八巻しか置いてなかったんですよ! ……ということは、第九巻を飛ばして十巻を読んでいるということになります!」
こころは力説を奮った。
「あの九巻をですよ! 考えられません!」
そんなことを言う。
はあ……と適当な相槌を打った静羅は自分の右手側にある商店の、ワゴンで売り出されていた靴に目が一瞬だけ奪われた。本日限りでブーツが安い。
こころの『紳がおかしい説』は横で続いていた。
「不良が捨てた煙草の吸殻を……後で拾って、近くのごみ箱に投げ捨てるのかと思ったら。ちょっと違うんです。ごみ箱の横に置いただけなんです! 何故、中に捨てない! 私には紳の考えていることが全くわかりません! あの几帳面な紳が」
「ああそう……へえ」
静羅はどうでもいい返事をした。
こころはさらにもうひとつ付け加えた。お付き合い願いたい。
「突然空を見上げながら……紳は言ったんです。『酸素分子が見える』……おかしくないですかあ!?」
興奮したこころは最高潮に至った。「まだ目の中にミジンコが見えるってんなら分かります!」
静羅には分からなかった。自分との年齢差のせいかもしれないと無理やりに思うことにした。
「それに、よく笑うんです」
こころは言った。
それにピクリ、と静羅は反応を示す。「……どんな風に?」
何故だかは分からないが静羅は真剣な目つきになった。こころは、それには気がつかなかったが妙なテンションのままで熱弁を披露していった。
「わははは、とか。あっはっはっはあとか。無口な方だった紳がどういう心境の変化かよく笑い声を上げるようになったんですよね。周りもつられて大笑いしちゃいます。それはいいんですけど時々うるさいなぁ、なん……」
と、こころが言いかけた時だった。
突然、静羅は歩くのを止めた。手押していた自転車ごと停止してしまった。
「? お姉さん?」
不思議に思ったこころは、静羅の俯いた顔をよく見ようと下から覗き込んだ。静羅は何かを考えているようで、口元のあたりでぼそぼそと何かを言っている。こころには聞こえなかった。
静羅は意を決したように、顔を上げてこころの瞳を見た。
「こころちゃん。驚かないで聞いてね……私たちは、人間じゃないの」
爆弾発言だった。こころは耳を疑った。「は?」
バームキューヘンダー星人。
静羅はそう言った。
遠くの空で一番星が輝いている。
かつて小国バッカチーノは気まぐれに、原子爆弾オ・ソーレミーヨという破壊型爆弾をまるで花火のように打ち上げ自国を滅ぼしたのだという。
その100年後、チョチョリアン3世は王族サワンダーと婚姻し権力を手にして隣国ザバザーにて同国スッパ大統領と会談したが、後にはロワード皇太子暗殺計画容疑で逮捕されたのだという。
「バームキューヘンダー星人は太古の昔から、恐るべき伝染病を必ず持って生まれてくるの……」
静羅は輝く星を見つめて目を細めていた。故郷がそこにあると言わんばかりに、暗くなりゆく空の彼方を眺めていた ―― 。
「あの……お姉さん」
「何?」
おずおずと、こころは聞いてみる。
「さっきのバッカ何とかとチョチョ何とかやらは、どう関係あるのでしょうか……」
「ああ……」
どう取っていいのかが分かっていない話にこころは悩みながらも、とりあえず何か浮かんだ疑問は聞くだけは聞いてみようと思った。
それに静羅は答えてくれた。
「バームキューヘンダー星人が初めての方に。ちょっとした予備知識よ……気にしないで。知っていて損はないから」
「はあ……」
損はなさそうだが、得もなさそうだった。
「その恐るべき伝染病とは」
話は戻り、静羅は怖い顔になる。「笑い病」
こころは、ますます分からなくなってしまった。
一方、すでに学校から帰宅していた紳は。自室のベッドに背をもたれかけさせて、読書に耽っていた。難しそうな科学の本を広げて、それぞれ意味を持った数式がつらつらと並ぶページを見ていた。「くっくっく……」
紳は愉快に笑う。こぼれた声は大音量にもなっていく。「ぎゃはははは」
笑いのツボは何処にも見当たらない。
病魔は、彼の中で確実に進行していた……。
笑い病 ――
誰でも一度は、腹を抱えて笑い転げてみたことはないだろうか。無い人はこれからである。
さておき。『笑い病』とは、バームキューヘンダー星の子どもなら、一度は幼少のうちにかかっておきたい伝染病ランキング万年1位の代物である。一度かかると二度とかからない。
どんな病気か。その名の通りだ。笑うことが止まらない。
治療せずに放っておくと、最期は笑い死にである。
「早期発見がカギ」
静羅は、こころの報告にとても感謝していた。
「有難うこころちゃん。早速帰って紳を専門医の所へ連れて行かなくちゃ……」
通学路を2人は再びに歩き出し、帰路を急ごうとしていた時だった。
後ろから誰かが声をかけてきた。「やっはは! 田畑さん!」
振り返ると、こころには見覚えがあった。隣のクラスの三島東大。紳の友達だった。部活で一緒にいた所を過去に何度か見かけている。
学生服を着てニカッと白い歯を見せた彼は元気よく、静羅にも挨拶をして好感度を上げた。
「紳の姉ちゃんですよね。へへへ。今帰り一緒なんですか? ぐふふ」
「?」
何かが変だと、こころと静羅は怪しがって彼を見つめた。眉をひそめて、進み途中の自転車を止める。
暫くじっとして誰も動かなかった。最初に元気だと思われていた東大の顔は、口元がぴくぴくと動いていて引き攣っていたのが分かった。
彼は言う。
「すんません、あはははは。校門出たあたりから止まんなくて、うへへへへ。どうしよう止まらないんです、ぎゃはははは。面白くもなんともないのにいひひひひ。畜生! でやはははは!」
目尻に涙まで浮かべていた。こころと静羅はゾッとする……東大の顔色は、青くなってきていた。まずい、呼吸困難なのではないかと気が焦る。
東大の身を案じるのと同時に、大変なことが起きているのだとこころは分かった。
静羅の話は本当だ。
なんと、病気は伝染り、広がっている!? ―― 東大を見て確信へと変わっていった。ついに叫んでしまう。
「嘘おおおお!」
嘘ではなかった。
……
やがて病魔は世界中へと広がっていった。
それは電波にも乗っかっていったようだ。あははは。うひひひひ。げへへへへ。
あらゆる伝達手段を通じて、笑いの声は蔓延する。始めはお上品ぶっていた者も次第には身も心も崩れ崩れて情けなく恰好の悪い人形になった。比喩だがポチリと押すと音を出す仕掛けで周りにも笑いを与えた。ははははは、と。
ウイルスに潜伏されたスラム街が各地で出来上がる。もはやその拡大スピードは一夜も待ってはくれなかった。官僚も大統領も庶民も愚民も野郎どもも、皆が笑い転び踊り弾み遊び盛りに楽しみ楽しんだ。
一日経てば、地球の裏側にまで。
各国諸国の政府対応は間に合わない。
「発祥は何処だ。伝染源は誰なんだ。ホワイ?」
ネット上でも論議される。笑いのメカニズムとは。そんな憶測が好き勝手に飛び交う。お互いに見えない相手を罵り合い欠点などを貶し合い、だが必ず語尾には笑い声がつく。「クソやろほほほ」と。
世界中が笑いの渦に巻き込まれているさなか、紳は行方不明となっていた。
紳の友達、東大をバームキューヘンダー星人専門医の隠れいる診療所にまで送っていった後。こころと静羅はすぐさま紳の元へと急いだ。一刻も早く紳を治療しなければと思っていた。他に影響が出る前にと。
「紳!」
まずは静羅、それからこころと。帰宅し紳の部屋へと直行した2人は、激しくドアを叩いた。静羅が大声で呼びかける後ろで不安そうに、こころはそれを見守っていた。しかし部屋の中からの反応が何もない。ついには業を煮やし、静羅は思い切りよくドアを蹴破ってしまった。
電気の点けてはいない部屋は暗い。床には本が数冊とバラバラに、無造作に放られている。誰もいない無人の部屋は、外よりも空気が冷たかった。
「紳は何処なの!?」
静羅の声はよく響いた。帰宅部の紳は先に帰っているはずである。病気を持っているのに、どうしてこんな時に何処へと ―― こころは唇を噛み締めた。「とにかく紳を!」
静羅はこころの横を通り抜けて行こうとして、その前にこころに指示を出した。
「こころちゃんは東側を。私は玄関出て西側の方へ探しに行ってみる!」
「う、うん。わかった」
先に玄関を飛び出した静羅。こころも後から言われた通りにしようとして、だがしかし歩みを止めた……。
こころの頭の中に、ふとある疑問が浮かんだのだった。
「あれ? そういや私……」
ペタペタと、こころは自分の体を触ってみた。顔、首、胸、お腹。上から順に伝っていって、最後に足先を見つめた。こころは、重要なことに気がつき始めていた。それは。
(私には……伝染って い な い )
結局、その日はどれだけ捜しても。紳は何処にも見当たらなかった。
夜になっても、ご近所の奥様方や警察にも協力をしてもらい捜索を試みていたが。
「こっちにはいませんわよホホホホホ」「困りましたねえへへへへへ」
愉快すぎて話にならない。静羅もこころもおかしな笑い声を延々、散々と聞き続けて。神経が参ってしまっていた。
寝ても覚めても聞こえてくる笑い声のせいで眠れなかった夜はやがて明け、次の日が当然とやって来る……世界中に笑いの蔓延した日が。
朝になって。こころは学校へいつも通りの時間に登校した。
だが見える景色や人達は、いつも通りではない。昨日とは違った。
笑う者。笑わない者。
2種類に分けられていた。
「紳……」
いてほしいと願ったこころが教室へ入ってその所在を確かめてみても。紳はいなかった。まだ数人しか来ていない教室。紳の席は、外の窓際の、前から3番目の席である。主人のいない机と椅子は淋しそうに見えた。
「紳、何で消えちゃうのよう……いなくなるなんて何考えてるのか、ちっとも分かんない……」
下唇を噛みながら、ぐっと内からこみ上げてきたものを何とか押しとどめた。こころは紳の考えていることが少しでも分かればいいのにと思った。それには言葉だ。声がいる……呼ぶから返事をしてよ紳、と。こころは、机を軽く睨んで傍に暫くぼうっと突っ立っていた。
紳の机の中から。はみ出している『何か』に目を止めた。
「本だ……」
教科書でもノートでもない、きれいに装丁された本の角端が机から見えていて、こころは何だろうとそれを手に取った。本のタイトルは。
「『宇宙からの贈り物』……」
本は読んだことがなかったが、こころは読んでみたいなと少し興味が湧いた。青く黒く、合成された写真の銀河を背景に描かれた表紙に浮かぶ、星くずと本のタイトル。宇宙と聞くと心の中が壮大になった気がして、呼吸し得た空気がとても新鮮に感じられるのだ……少なくとも、こころにはそう思えた。
チラ、と。こころは窓の外へ目を向ける。
星。
この近辺で星がよく観察できる場所は。よく行く所は。隠れやすい所は。
子どもの足でも行ける所とは……。
「学校の裏山……」
校舎の窓からは、紅葉も終わりの裏山がよく見えていた。
こころの勘は素晴らしく当たる。紳は、子どもにとっては良き遊び場である学校の裏山にいた……ひとりだった。
「ふふ……」
髪が底からすくい上がってきた風にあおられ、なびく。やや傾斜が緩やかになった付近で、街並みが見下ろせ遠くにある地平線が朧げだった。
歩道も住宅も公園も施設も工場も、少なめだけれどビルも、街並みの中にあった。
そして人がいる。
明るい声が飛び交っていて、紳のいる裏山にまで届いてきている。
「あっはっはっはっはっはっは〜」
「きゃあははははは」
「ひー止めてくれええへへへっへへ」
街は笑い声で埋めつくされている。紳は目を細め、ずっと立ったままに佇んでそれらを眺めていた。
腹はよじれていないだろうかなと思う紳も、調節に慣れてきた自分の笑いを披露する。
「フフフフフ……アーハッハッハ!」
気分は魔王だったのかもしれない。そんなノリで笑っていた。
ぶら下がった片手には、携帯電話を握り締めている。
さっきまで閲覧していたサイトのページを開いたまま、閉じずに持っていた。そのページには ―― 。
悪口雑音の、書き込みが数々に書かれている。
紳本人とは関わりのない、見えない誰かの掲示板に書かれた中傷の言葉たち。見た者には不快しか与えない暴言、汚い単語。紳は初めて見たわけではない。これで何度目か ――。
「何て汚いんだろう……」
空が明るい。
鳥が飛ぶ。
光がさす。
紳の着ている真っ白のカッターシャツが、太陽から注がれる光のおかげでよく色調が鮮やかに照り映えていた。
頬を撫でる風は便乗して爽やかに、枯れ木の下の乱雑に散らかった落ち葉にさあ並びなさいと。波を立てる真似で吹きかけている。
優しい風の音色でも街の人の響く声はかき消えてはくれない。異質で、不自然な音は紳の耳にどうしても入って来てしまい、彼の繊細で敏感な感覚を闇雲に襲ってくる……素朴な自然の中に融け雑じる雑音楽か。
「汚いのは人の……」
そう言いかけた時だった。「紳んん!」
また場違いな、通りのよい女の子の声が紳の名を呼んだ。
紳にとっては予想外でも何でもない、いつか最初にここへ来るのは間違いないだろうと、彼が思っていた人物が現れただけだった……驚きもせず、横を向く紳。その人物と見つめ合う ―― 息を切らし坂を駆け上がってくる女の子の名前は、こころ。
「いらっしゃいひひ」
仕方なしに真剣味がどうしても欠けてしまうねと、紳は温かな目で言った。
「捜したよ……一晩中! 何してんのさ、あんた……紳。こんなとこで……」
泣き出しそうになりながら、こころは訴えかけた。ぐず、と鼻をすすっている。必死になって紳を捜してたんだと目が言っていた。紳は、それを逸らしながら「見ろよ、街の方」と、こころに目を向けるように促した。
街では鳴り止むことがなく。笑いがはびこっているだけだ。
紳もつられて笑うのだった。「おかしいだろ……あはは」病気だったがわざとらしく笑顔を作った。
「何が言いたいのよ、あんた……」
病にはかかっていないこころは普通に、紳に問い詰めかかった。紳はふざけて肩を竦める動作をする……先ほどからわざとらしく。こころはずっと見ていて不快だった。
「僕はさ、思ったんだ……ふふ。病気、治らなくてもいいんじゃないかって。僕も世界中もね……笑いっ放しで。ふふふふふ」
「何でよ!」
興奮したこころは紳に近づく。至近距離で2人は睨み合っていた。
「だってさ。皆? 楽しそうじゃない! あっはははは!」
「 ―― 何処がよ!」
バシンッ! と。痛い音加減でこころは思いきり紳の頬を引っ叩いてしまった。紳は尻もちをついてしまう……叩かれた頬を押さえて俯いていた。
「帰るよ! ……早くお医者さんの所に行くんだから……」
今度は紳の骨細い腕を引っ張り、立たせようとした、こころ……その時、小さかったが確かに紳は言ったのだ。紳が言いたかったのは。
「いっそ世界が笑いで包まれたなら……」
……こころは紳の腕を肩にかけ、担ぐ格好で一歩一歩と場から離れていった。こころに紳の声は聞こえたはずではあるが、その返事は今にはない。こころの頭の中には、紳を治す ―― これだけだったからかもしれなかった。
世界は何に包まれたらいいのだろうか。例えば。
餃子の皮と答えた人には、人を笑わそうという意思がある。
飾りの言葉など、意味はない。
意味があるのは……意思。
紳が持っていた携帯電話は倒れた時にするりと手から落ちて。
紳が後で思い出して回収しにくるまで、主人の帰りを待つとしている。電源はバッテリーが切れて、画面には暗黒が広がっているだけだった。
……
かかりつけの医者に診てもらった紳は、数十分間の点滴を打ってもらった後。クスリとも笑わず自宅へと帰ってくることができた。治療が実は、注射一本で済むという事実。紳が点滴を勧められたのは、笑い続けたために体が弱っていたからだった。
世界各地に猛威をふるった『笑い病』だが、事態は急速に収縮していっている。
こうしてお笑いブーム、いや『笑い病』の恐怖は静かに幕を引き下ろしていった……。
「ネットのしすぎね。今後一切禁止。本でも読んどきなさい」
静羅は説教をして紳の部屋から出て行く。こころが紳を裏山から連れ帰ってきてから、数日が経った。もうすっかりと体力を回復した紳は、明日から登校ができるってと言い、こころはそれを聞いて安心した。こころは毎日毎日、学校の帰りにこうやって紳の家へと寄ってお見舞いに来ているという。
「どうなることかと思ったけど……よかった。紳が無事で。紳たちが、バームクー変人団なんて話、まだ信じられてないけどね」
こころは頬杖をついてにこにこと紳に笑いかける。
「“バームキューヘンダー星人”だよ、川畑。わざとらしいボケはやめてくれないか。僕はもう部活は辞めたんだしツッコミたくはない」
ベッドの中で、さきいかをくわえながら紳は言った。こころはボケてないんですけど、と言いたくなったのを堪える。
「ね、あのさ……」
こころは前に浮上した疑問を尋ねてみようと思って紳の顔を見る。「何?」
「私さ、紳の病気にはかからなかったんだよね……これってどういうことなのかなあ、紳?」
キョロキョロとした可愛らしい目をさせて紳にこころは聞いてみた。特別、たいしたことでもないだろうとこころは思って聞いたつもりだったのだが。
何故か紳の表情は固まっている。
動かなくなってしまった。
「し、紳……?」
……こころが手の平をサカサカと面前で左右に振ってみても。反応は同じだった。紳の顔の筋肉はほころびない。動きが停止してしまっている。
おかしいことを聞いてしまったのだろうかと、こころが心配になってきた時だ。
「川畑……驚かないで聞いてくれ。俺達は……」
驚かないで聞いて? と聞き。こころは一瞬、何処かで見たシチュエーションだなと思ったが、はてさてな? と頭を捻った。
……
ゆらゆらと。紳の背後では薄めの長いカーテンが風に揺れている。
勉強机の上の本には、しおりが挟んであった。紳がまだ読みかけていたからだ。本のタイトルは ―― 『笑える世界のつくりかた』という、バームキューヘンダー星から持ってきていた……
地球侵略のマニュアルである。
こころは惜しくも気がつきかけていた。『笑い病』にかかる条件。それは。
バームキューヘンダー星人にしか、かからない。
人間にはかからないということだ。だからこころにはかからなかった……と、いうことは。
世界中が笑い出し病気が広まったとはつまり。地球人類の数は今 ――
……
チョチョリアン4世の野望である。
《ENDでいいや》