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鳴尾、西宮が舞台の小説

楽しい高校生活

作者: 恵美乃海

登場人物は異なりますが、前作「緊褌巻」の十年後が、舞台設定となっています。

主人公の男の子は、前作に登場する主要人物とも縁があります。

前作のヒロインは、正統的な美少女でしたが、本作のヒロイン役は、かなりタイプが異なる女の子です。

このヒロイン役の女の子、作者は、かなり気に入っています。書いていて楽しい女の子でした。

 高校に入学して初めて自分のクラスの教室に入り、新しいクラスメートの顔(主に女の子)を一通り見渡したとき、長井君は何となく嬉しくなった。

 少なくとも一目惚れはしなかった。顔を見た瞬間に恋に落ちてしまうほど可愛い(長井君の趣味にとってだが)と思う子はいなかったからだ。 

 中学時代、長井君は苦しい恋をした。ずっと好きだった子がいた。その子の顔を見ると胸が高鳴り、言葉を交わしでもすればその日は一日中しあわせな気持ちでいられる。そんな恋だった。そして卒業式の日に自分の気持ちを打ち明けた。 

「私、つきあっている人がいるの」 

それが彼女の答えだった。 


 数日間の苦しみのあと、長井君は立直った。何といってもまだ十五歳の若さだ。 長井君がその時心に決めたことがある。

「もうあんな恋はしない。たったひとりの女の子のことだけを考えて苦しむ。そんなのはいやだ。僕はまだ若い。もっと軽い気持ちで色々な女の子とつきあおう」 

 自分の心の中で、自分の行動についての標語を作る傾向のある長井君はその気持ちをどう表現したらいいだろうかとしばらく考えた。思いついた標語は 

「十人の女性に一人ずつ僕の子供をつくっていただこう」 

というものだった。

 といっても、必ず実現するぞという堅い決意ではない。あくまでもそういう気概でこれからの人生に臨むということだ。それに人生の中で十人の女性とそのようなおつきあいをするということになれば、それなりの経済力も必要になってくる。漠然と「お金持ちになりたいなあ」と考えている長井君にとって、この標語は自分の将来の夢の表現としては、なかなかにふさわしいと感じた。


 春休みの間、こんなことを考えていた長井君にとっては、新しく始まる高校生活は第二の人生のスタートというわけである。中学時代に好きだった女の子は長井君とは別の高校に行く。新しい人生の開始を意図している長井君にとっては、それはむしろありがたいことだった。だが心配なことがひとつあった。 

「もし新しいクラスにまた一目惚れしてしまうほど可愛い女の子がいたらどうしよう」 

 そんなことになってしまったら長井君の目論見は早くも崩れてしまう。いささか惚れっぽい性格であることを自覚している長井君にとってそのことは心配の種だった。 しかし、もうその心配はない。

 

 しかも長井君が新たにクラスメートとなった女の子を見渡したとき、もうひとつ感じたことがあったのだが、それは 

「なかなか可愛い」 

「ちょっと可愛い」

というレベルの女の子はたくさんいた、ということだ。

「バランスオブパワー」 

「集団指導体制」 

 そういった言葉が長井君の脳裏を駆け巡った。 

「よし」 長井君は思う。 

「このクラスならきっと楽しい高校生活が送れるぞ」


 女の子に関することが長井君にとってとても大きな関心事であるのは当然だが、それだけが高校生活の全てではない。長井君には色々と考えなければならないことがある。

 まず、勉強をしなければいけない。 

「できるだけいい大学にはいらなければいけない」

 世間ではこういう風に考える人が多いようだ。

 長井君は、ある時期までこのことについては実は何の関心もなかった。長井君には別に考えなければならないことがあって、大学云々については興味がなかった。

 最近、長井君は自分と同世代の多くの少年、少女にとってこのことが最大の関心事になっているということに気が付いた。そういうことに興味を持つというのは長井君にはなかなか新鮮な感じがした。自分もそういうことを高校生活を送るうえで一番大きなテーマにしてみるのも面白いかもしれない。などとも思ってみた。 いずれにしてもこのことについては

「無理をしない程度に勉強して、その結果はいれる大学に入りましょう」

ということに決めた。

「それで充分だ」と思っている。


 次にクラブ活動。中学時代、長井君は野球部に入っていたが、数か月でやめてしまった。その後はどのクラブにも所属しなかった。 高校生になって「もう一度野球をやってみよう」と思った。しかし、硬式野球部に入部して一応は甲子園を目標にして厳しい練習に耐えるというのはぞっとしない。折角の高校生活をクラブ活動一色にしてしまうのはもったいない。

 そこで軟式野球部に入ることにした。軟式であっても練習が厳しい高校はもちろんあるだろうが、調べた結果、長井君の高校は同好会の延長という雰囲気であった。基本的には練習は、校庭が使える水曜日のみあとは自由参加で体力づくりにいそしむ自主練習であった。 


 そして……今となってはこのことが長井君の一番の懸念事項なのだが、友達づくりである。

 中学時代、長井君には友人とよべるような人は存在しなかった。「自分が悪かったのだ」

 長井君には分かっていた。いざ友達がほしい、と思ったときにはもう友人同士のグループが出来上がっていて長井君に入りこむ余地はなかった。 

 

 中学三年の最後の学期、長井君のクラスは男女別々に班が編成された。班のメンバー構成はある程度生徒の裁量にまかせられた。そして、座席は二人が組になって横にくっつくのだが、五人だった長井君の班で長井君はいつもひとりだった。

 他の四人はたまにメンバーチェンジを行ったが、長井君の隣だけは常にあいていた。一度だけ長井君は他のメンバーにおそるおそる「ひとりになるのは五人で順番にしよう」

 と提案してみたことがある。

 何もなければ、長井君はおそらくは自分がさらにみじめな思いをすることになるであろう、そのような提案はしなかった。だが、長井君にはそのクラスに好きな女の子がいたのだ。好きな女の子の前でいつもひとりで座っている自分の姿を見られるのはつらかったのだ。 提案してみたら、あとの四人にひとりで座ることのつらさに気が付いてもらえるかもしれない。そして、みんなで少しずつそれを分担しようと思ってもらえるかもしれない。

 しかし、長井君の提案は一笑に付された。

「お前に問題があるんだろう」

「同じ班にしてやっているだけでも感謝しなきゃあ」

 そのように言われてなお反論できる長井君ではなかった。

「すべて自分が悪いのだ」 

「僕には他人から見てどこか欠けたところがあるのだろう」

そう思うしかなかった。 

 だから本当の所、長井君にとっては女の子のことよりも、まずこのことが切実な問題でなければならなかった。

「友人もいない僕が女の子にもてるわけがないよなあ」

 そのことに思いを馳せれば暗澹たる気持ちになる長井君だった。 

 しかし、友人は実にあっさりと出来てしまった。

 

 長井君の高校のクラスでは特に班を作ることもなく、また座席もひとつひとつが横にスペースをとって独立していた。

 入学して最初は(結果的には一学期の間、それが続いたが)出席番号順に並んだ。

 右端に縦に男子生徒の列があり、その左に女子生徒の列が並び、その左には男子の列、というように男子と女子が交互に並んだ。(長井君の高校は男子と女子がほぼ同数の県立高校であった)だから長井君の前後の席は男子。左右の席は女子ということになる。 


 長井君の前の席の土田君は休み時間になると、よく長井君に語し掛けてきた。

「土田も新しい学校で、クラスに友達がいないんだろうなあ」

とは思ったが、今が友達が出来るチャンスであることは長井君にも分かっていた。

「いずれは離れていくんだろうけど、もしこのまま友達になれたら嬉しいなあ」と思う。 

 それに土田君は、物静かな印象を受けるが、いつもにこにこした表構で、語し方にも品の良さを感じた。友人としては申し分ないタイプであった。 

 土田君は、離れてはいかなかった。むしろ日が経つにつれどんどん親しさをましていった。 

 さらに土田君は、土田君の前の席に座る谷山君にもよく話し掛けた。谷山君は、土田君よりは活発な印象であったが、やはり、立ち居振る舞いにどことなく品があった。

 こうして土田君を中心にして、友人三人グループが形成された。 

 だが女の子のように

「私たち、今日から親友よ」

などと宣言するわけでもないし、長井君には

「土田も谷山も僕が思っているように、僕のことを友達だとおもってくれているのだろうか」 

という疑念はぬぐえなかった。 

 実は長井君は、自分のことを本当に卑下しているわけでは決してない。それなりに自分というものに自信はあるし、結構気にいってもいた。だから友人が出来なくても

「僕は僕。誰にも理解してもらえないのなら、それはそれでしょうがない」

と開き直る部分もあった。少なくとも友人を作るために、自分を変えようとか、誰かに迎合しようというような気持ちはなかった。 だから、もしも土田君と谷山君が、このままの自分を受け入れてくれるならこんなに嬉しいことはなかった。が、自分自身の過去の経験が長井君を臆病にしていた。 


 入学して二週間がたった土曜日の朝、土田君がいつものように長井君に話し掛けてきた。 

「長井。今日は暇かなあ」 

「うん」 

「谷山。お前も、今日は空いてるか」 

「う-ん。必ず今日しなければいけない、という用事はないなあ」「そうか。だったら今日、俺の家に来ないか」 

「ああいいよ」 

「長井は」

 ええとこれは家に招待してくれているのか。今日の放課後を三人で遊ぼうと言ってくれているのか。青春じゃないか。


「都合悪いの」 

 長井君は、ブルンブルンと大きく首を振った。 

「全然、悪くないです」 

「そう、じや決まりだ」 

「あ、でももしよかった僕の家に来ない」 

「長井の家に。いいの」 

「うん」 

「じやあ、今日は長井の家にお邪魔しよう。長井の家が高校から一番近いもんな。その次は俺の家にきてくれ」 

「じや、三番目は俺んちやね。お互いに家庭訪問といきますか」 


 長井君たちが通っている高校は中学校の校区でいえば、長井君が卒業した中学校の校区内にある。

 三人はそれぞれ別の中学の出身で、土田君は、長井君の中学の北隣。谷山君は西隣の中学を卒業している。 

「すごいや」 

長井君は思った。

「今日だけでもすごいのに、三回分も約束しちゃった」 

 これで三食分は喰いっばぐれがないというのが、この時の長井君の心境であったろう。 


「昼食も僕の家で食べたらいい」

と長井君は誘ったが

「そこまで甘えられない」ということで三人は高校の食堂で昼食をすませた。 

長井君は天ぷらそば。

土田君はサンドイッチと焼きそばパンと牛乳。

谷山君はカツカレーとラーメンを食した。 


 三人が連れ立って歩く。

「なあなあ」

谷山君が長井君に話し掛けてきた。

「長井にお姉ちゃんか妹はいてへんのか」

「いるよ」

「ほんまか」

谷山君の目が光った。

「どっちや。姉ちゃんか、妹か」

「妹だけど」

「妹かあ。俺の好みからいえば、姉ちゃんのほうが嬉しかったけどな。まあええわ。ほんでその妹さんはお前に似てるんか」

「うん。似てるってよく言われるよ」

「そうか。似てるんか」

谷山君は顔をほころばせた。

「年下はあんまり趣味やないんやけど、将来の布石も打っとかんとな。なあ妹さんは何かクラブ活動はやっとるんかいな」 

「いや。何もやっていないと思うよ」 

「ほんなら、今は家にいるんかなあ」

「いや、たぶん友達と外に遊びに行っていると思う」

「ふうん。外交的なんやなあ。なあなあ長井」

「なあに」 

「今日じゃなくてもええから妹さんを俺に紹介してくれ」

「うんいいよ」 

「お前に似てるんやったら妹さんは可愛い顔しとるんやろ」

「そうだね。僕に似てるからといわれると困るけどすごく可愛いよ」 

「そうか。すごく可愛いんか。でもボーイフレンドはいないんやな」 

「いや。男の子の友達ならいっばいいるよ」

「ありゃま。ほんまかいな。まあええわ。ここはひとつ大人の魅力で・・・」 

「ねえねえ」 

土田君が会話に割り込んできた。

「さっきから聞いていると、もしかして根本的な誤解があるような気がするんだけど、その妹さんは歳はいくつなの」

「八歳。今度、三年生になるんだ。可愛いよ」 

「あ、やっばり」 

 谷山君は急に静かになった。


 長井君の家に着いた。高校から五分程度である。 長井君の家は四階建ての社宅の三階だ。 

「ただいまあ」 

「お帰り」

若くて綺魔な女性が出てきた。 


「同じクラスの子が遊びにきたよ。土田と谷山」

「友達」という表現は、とりあえず遠慮した。

「あら。まあまあ。どうぞどうぞ、狭い家ですけどお入りください」 

「は。お邪魔します。谷山です」 

谷山君が標準語でしゃべっている。 

「どうもどうも。土田です」 

いったい何が 「どうも」 なんだろう。


 奥の四畳半の子供部屋に入った。 

「ふ-」 

谷山君がため息をついた。 

「ああびっくりした。長井」 

「なあに」 

「嘘をつかんといてえな。お姉さん、いてるやんか。女子大生か」ああなるほど。そう思ったのか。あの人、結構、お化粧が濃いもんな。 

「姉じゃないよ」 

「ほんなら、親戚の人か」 

「母です」 

「ははあ」

谷山君と土田君が同時に叫んだ。

「あの長井君」 

土田君はずいぶんあらたまった口調だ。 

「さっきのすごい美人は君の母上だと、そうおっしゃるんですね」「はい、そのように申し上げております」 

「お母上はおいくつでいらっしゃるんですか」 

「三十四歳です。うちの両親は結婚が早かったから」

「三十四歳ねえ。たしかに俺の母親に比べたらとても若いけど、でも二十歳そこそこにしか見えないよ」 

だからだまされているんだってば。


 母か。長井君はさっきの玄関での母親の表情が忘れられない。 長井君が「友達」を家に連れてきたのは小学生のとき以来である。 もし「友達」を家に連れてきたら・・・・・・。長井君には、母親がどんなに喜ぶかが分かっていた。

 だから今日「家庭訪問」の話がでたとき、長井君はまず自分の家に連れてきたかったのだ。 

 その母親は

「お昼はもう食べられたのですか」とか

「お茶です」 

「お菓子です」

とか、はじめのうちはしょっちゅう子供部屋に様子を見にやってきた。 その都度、土田君と谷山君も愛想よく応対する。 母親は安心したのか、しばらくしたら、もう部屋にやってこなかった。


「長井の部屋には二段ペットがあるんやね。妹さんと一緒に使ってるんか」 

「そう、妹が上で僕が下。でもあんまり意味はないんだ」

「なんで」 

「いつだって、妹は 「お兄ちゃん、一緒に寝てもいい」 って言って、下の段の布団にはいってくるから」 

「う-ん、何と言うたらええんか。いい味だしてるなあ」 


「なあ長井」 

「なあに」 

「本箱をざっと見させてもらったけど、お前の持ってる本はこれだけか」 

「うん」 (現在形で尋ねられたのだから、嘘ではないよな) 「ふ-ん、意外だったなあ。俺、長井はものすごい量の本を読んでると思ってたんだけど、ずいぶん少ないんでびっくりした。それにここにある本にしてもわりと軽い内容のものが多いし」 

「なんでそう思ったの」

答えはだいたい見当がついていたが一応そう聞いてみた。 

「俺はねえ。ちょっと自慢話をさせてもらうけど、歳のわりには物知りだとまわりに思われていたし、自分でもその点については結構自信があったんだ」

やはり予想していたとおりの方向に話は進んでいるようだ。 

「それが、長井に会って驚いちゃった。だってお前、何でも知っているんだもん。俺が自信のある分野で、「このことは知るまい」と思って話題にしてみても、やっばり知ってる。お前は自分のほうから話題を提供するタイプではないし、まして知識をひけらかすタイプでもないから、最初のうちは対抗意識もあった。でも、二週間もたてばもう分かったよ。お前すごいよ。俺ね、初めてなんだよ。「とてもかなわない」と感じさせられる奴に会ったのは。だから、今日お前に家に誘われたときはとても興味があったんだ。「こいつ、いったいどんな本を読んでいるんだろう」 

と思ってね」 

「長井はすごいんだよ。土田はまだ聞いてへんかったんやな」

谷山君がボソっとつぶやいた。 

「いや、俺もね。長井と同じ中学を出ている奴に最近聞いたんやけど、うちの中学でもあったし、土田のとこでもあったと思うけど、知能テストっていうのをやったやろう。ほらあの知能指数をだすやつ」 

「ああ」 

「あれでね、長井はなんかものすごい数字だったらしいよ。たしか何十万人にひとりの数字らしい」 

「ひょえ-、そりゃすごい。そうか。だったら、はなから俺がかなうはずもなかったんだ」 

そうか、谷山は知っていたのか。それじゃあ当然あの話も知っているわけだ。 

「ふうん、それだけ頭がいいと別に本を読まなくても、俺を驚嘆させたあれだけの知識が身につくんだ」 

「本は読んでるよ。いっばい読んでる」 

長井君は自分の過去の話はしたくなかった。この自分にとって初めての友達には何の先入観もなしにつきあってもらいたかった。しかし、既に谷山は知っている。だったらもう言うしかない。

「谷山はもう知っているんだろうけど、僕は、中学二年の終わりから、三年の一学期にかけてずっと学校を休んでいたんだ」 

「うん、そのこともたしかに聞いた。でもなんで休んでいたのか、その理由は俺に教えた奴もはっきりとは知らんかったよ。なんか病気やったんか。いや言いたくないんやったら無理に言うことはないんやで」 

「いや言うよ。たしかに病気だったんだ。心の」

長井君は、谷山君と土田君を見た。しかし、長井君が予想したほどには二人とも驚いている様子はなかった。 

「ふうん、まあ天才いうのはそんなもんなんかなあ」 


 不意に長井君の心の中を

「この二人に自分の過去のことを、過去の自分の心の軌跡を全部話してしまいたい」

という衝動が走った。

 それは長井君にとって実に久しぶりに経験する大きな心の動きだった。

「僕はね。小さいときから本が好きで、本ばっかり読んでた。結構難しい本も読んでた。小学生のころから、世界の名作と言われているような小説は手当たり次第に読んでいたし、他に宗教とか哲学とか歴史とか、あと宇宙の話とかそういうのが好きでね。そういう本を読んでは色々と考えるのが好きだったんだ。ある時、十歳の時だったと思うけど、「知りたい」という気持ちが押さえられなくなったんだ。「僕はこの世界のことをとにかく全部知りたい」そう思ったんだ。 

世界のあらゆる宗教を、あらゆる哲学を、あらゆる歴史を、そしてあらゆる芸術を。その全てを知りたい。そしてそれらについて新たな概念、体系を創造したい。そう思ったんだ」 


ここまでしゃべって長井君ははっとした。

「またやってしまった」と思った。


 ずっとこんな気持ちからは離れていたのに、もう大丈夫だと思っていたのに、またやってしまった。もう駄目だ。長井君は黙った。


「どうしたの、黙っちゃって」 

土田君だ。 

「続けてよ」 


となりで谷山君も領いていた。


「それでね。僕の心は義務感でいっぱいになってしまったんだ。「あれも読まないといけない」「これも読まないといけない」

そんな気持ちでいつも何かに追われているようだった。それである日とうとうおかしくなっちゃったんだ。心が壊れてしまったんだ。

病院に入院してお医者さんからは一切の読書を禁じられてしまった。でもその時には僕自身も何も考えることができなくなっていた。

しばらく、ベッドに寝ているだけの日が続いた。まあテレビも最初は禁止だったけど、こちらは、しばらくして解禁になった。

ある時テレビドラマを見ていてね。単純なドラマなんだけど、何だかとても面白いと思ったんだ。でもすぐに「こんなドラマを見ていて面白いなんて思っちゃいけない」と考えている自分がいたんだけど、この時にね、やっと気が付いたんだ。「なんで面白いと思ったらいけないんだ。面白いものは面白い、それでいいじゃないか。だいたい、僕は今まで面白いと思ったことが何かあったか。何もないじゃないか。いつも「あれをしなければいけない」「これをしなければいけない」と思っているだけだったじゃないか。それに、なんでこの僕がしなければいけないんだ。だれかに頼まれたわけでもない。自分で勝手にそう思っていただけじゃないか。僕が何もしなくても、誰も困らないじゃないか。 

「やめよう」と思った。もうなにもかもやめてしまおうと思ったんだ。僕はこれから自分が面白いと思うことだけをやっていこう。そう思ったらね。すっと気持ちが楽になった。何だか世界全体が面白くなっちゃった。病気もすぐに治った」 


長井君は土田君と谷山君を見た。二人とも少なくとも退屈そうな顔はしていなかった。 


「友達だ」 

長井君は思った。 

「この二人は友達だ」


「どうもご静聴ありがとうございました」

 長井君は二人の聴衆に深々とお辞儀をした。 

「なあ長井。長井が見て、面白いと思ったテレビドラマって何やったん」 

「水戸黄門」 

「あ、なるほどなあ」 

「昔、読んだ本はどうしたの」

「一部は図書館に寄付した。残りは古本屋に売った。何かもう見るのもいや、と思ったから」 

「じゃあ、今はこういう軽い感じの本ばかり読んでいるんだ」 「そういうことです」 


 長かった長井君の告白タイムは終わった。 その場の雰囲気で、次に谷山君が、そして土田君が「私の人生の目標」というようなテーマで話を引き継いでいった。

 そうなったのは、もちろん長井君の告白があったからだが、谷山君も、土田君も根が真面目で、自分の人生を真剣に考えているということでもあった。 

長井君は元よりこういう話を聞くのは大好きだ。 


 その結果、すっかり感心してしまった。二人ともしっかりと人生におけるテーマをもっていた。長井君もかつては持っていたわけだが、それは長井君も「地に足がついていない」と自覚せざるをえないようなものだった。 

 でもこの二人は違うと長井君は思った。 


 谷山君は、

「マイナーなもの、小さいもの、弱いものへの共感をもって生きていく」と言った。

 社会の上層にいる強者ではなく、弱者に関心をもち、みんなが興味をもつことではなく、あまり多くの人の興味を引かないことに注目し、世の中の流行にはできるだけ無縁でいたい。これが谷山君の生きる姿勢とのことだった。 


 土田君は、「岡山」と言った。それは長井君たちの住む兵庫県のとなりの県だった。 

「俺はね、岡山県の山間部の生まれなんだ。もっとも、幼稚園の時にこっちに引っ越したんだけど、今でも岡山県には親戚がいる。俺、何か岡山が好きでね。それでとにかく岡山のことは全部知りたいと思っている。さっきの長井の話に比べたら全然スケールが小さいけど、長井が言っていたようにこの世界の全てを知るということは一人の人間の一回だけの人生の間では無理だ。でも範囲を絞ればそれに近いことが可能かもしれないと思う。

 岡山の地元の新聞社が数年前から「岡山文庫」というのを出版しているんだ。色々なジャンルで岡山というテーマで毎月文庫本が出ているんだけど、俺のテーマにぴったり一致するだろう。だからこの文庫は今までにでたのは全部取り寄せて持っているんだ。

 それに、岡山県の全ての市町村を訪ねようと思っているから、夏休みとか長い休みには親戚の家を基地にして岡山県内を回っているんだ。

 岡山県は昔の国名でいえば美作と備前と備中の三つの国にわかれるけど、このうち俺の出生地の美作と備前にある市町村は全部回りおわっている。あとは備中だ。

 それで将来は岡山のことなら誰にも負けないといえるようになりたい。

 俺は大学は岡山大学に行くと決めている。

 そしてめざすは岡山県知事だ」 


「すばらしいよ」長井君は答えた。

 実際長井君はそう思った。もちろん、谷山君のテーマにも同様の感想をもった。 


 三人の話はやがて、この年代の男子なら当然の事だが女の子のことになった。

「長井は誰か好きな女の子はおるんか」

中学時代に好きだった女の子のことは誰にも言ってはいなかったが、長井君は、谷山君と土田君には何も隠す気はなくなっていた。「中学の時はいたけど、振られた。今はいない」

「今のクラスにええなと思う子はおらんのか」

長井君は「いない」と答えるのはサービス精神に欠けるように思った。

 それで長井君が最初にクラス中を見渡したとき「なかなか可愛い」と思ったうちのひとりの女の子の名前をあげた。


「鈴木さんなんか可愛いと思うよ」

「鈴木だと」

うーん、と谷山君がうなっている。

「土田。お前どう思う」

「お前と同じことを考えていると思う」

「そやろなあ」

「どうしたの。鈴木さんだと何か変なの。可愛いだろう」


僕は何でこんなにうろたえるのだろう。「可愛い」と思っているのは事実だけど中学の時に好きだった子ほどに可愛いと思っているわけではない。あの時は一目惚れだったけれど今は誰にも一目惚れはしていない。

「まあ、可愛いといえば確かに可愛いけど。なあ長井。お前ああいうションベンくさいタイプが好みなんか」

ションベンくさいだと。

「だいたい、長井がとってもあどけなくて、可愛らしい顔をしているのに、お前と鈴木が並んだら、おままごとやでえ」


「いかん」長井君は思った。

今「おままごと」という言葉を聞いて胸が高鳴った。このままでは好きになってしまう。心穏やかな日々が終わってしまう。長井君は今までの経験からそう思った。


「そやそや。中学のときの卒業アルバムを見せてえな。さっき話に出た、好きだったという子を見てみたい」

よし、望むところだ。その可愛らしさにびっくりしろ。


 すぐに卒業アルバムを持ってきて長井君はふたりに見せた。しかし、谷山君も土田君も反応はいまいちだった。

「まあ、たしかに可愛い子ではあるな。でも男の子っぽい感じの子やねえ。鈴木とはタイプが違うと思うけどな。なあ土田。なんか共通点、あるかなあ」

「あるよ」土田君があっさりと断定した。

「子供っぽいタイプとボーイッシュなタイプだろ。どちらも色気がない」

「あ、なーるほど」 

「でも、いつも身近にあんな綺麗な人を見ていたら、そこらの女の子じゃなかなか気持ちが動かなくなるんじゃないのかなあ」 

「ああそうか。綺魔なものを見すぎたせいで、女の子に対する感性がおかしゅうなったいうわけか」 

「なあ、僕の母はそんなに美人なのか」 

「ほらこれや。やっばり変だ」

「変じゃないよ」 


 かくなるうえはあれを見せるしかないか。誰にも見せたくはなかったけど、こいつらなら見せてやろう。 


「ちょっと待ってろ。今からすごいものを見せてやる」

長井君は隣の部屋に行き押入を開けた。


 谷山君と土田君はひそひそ話をする。 

「なあ、すごいもんてなんやろ」 

「さあ」 

「あ、もしかしてお母さんの若い頃のヌード写真ちゃうか」

「ええ、嘘だろう」

「いいや、ありうるで。いやきっとそうや。あんだけ綺麗なんやもん。綺麗な人はみんなヌードになるべきや」


 長井君が手に葉書くらいの大きさのものを持って子供部屋に入ってきた。 

「ほら見てみい。やっばり写真や」 

 谷山君と、それから土田君もよだれを垂らさんばかりの顔をしている。 

「はいこれ」 

たしかに、女性の写真だった。しかしヌードではない。二人写っている。ひとりは、二十歳代半ば、もうひとりは二十歳になるかならないかといったところだろうか。顔はとてもよく似ている。


 谷山君と土田君が息をのんだ。くいいるようにして写真に見入っている。一分たっても、二分たっても二人とも何も話さない。 


三分たった。 


「はあー」 

谷山君が大きなため息をついた。 

「驚いた。本当に驚いたわ。俺もうすぐ十六歳になるけどこんな綺麗な女の人見たの、初めてや。いったい誰やねん。土田は冷静やねえ。感想なしか」 

「冷静なわけないだろう。俺のからだじゅうの血液が誕生以来の最高のスピードで回っているよ」 


 谷山君と土田君が「誰なの」と全身で答えを求めていた。

「従姉だよ。この二人は姉妹だ」 

「ふ-ん。すごいな。長井の一族はたいへんな美人家系だね。だけどお母さんには失礼だけど、お母さんを見たときも驚いたけど、この二人は、さらにその上だね。ねえいったい今、どこにいるの」 「ふたりとも市内にいるよ」 

「そうなんか。で、ふたりともまだ独身なんか」 

「いや、こちらの姉のほうは結婚している」

「そっかあ。でも妹さんのほうは独身なんやろうな。みたところ二十歳くらいやし」 

「十七歳だよ」 

「へえ、そうなんや。大人っぽいねえ。でも十七歳いうたら高校生か」 

「そう、高校三年生。女子高にいってる」 

「そうか。おい、長井、言いたいこと分かってるやろうけど、言うとくで。紹介してえな」 

「たしかに独身だけどね。でも婚約者はもういるんだ」 

「嘘やろう。まだ高校生なのにか」 

「うん、ずいぶん前から婚約していた。本人は大学に行きたいみたいだから、実際の結婚がいつになるかはまだ決まってはいないけれどね」 

「そりゃ、殺生やなあ」  


 長井君には親戚に憧れている人がいる。 

 ひとりは叔父。母の弟だ。現在三十二歳。本の虫で、さまざまなジャンルに興味をもっている。 

 ふたりめ、三人目は従姉。母の一番上の姉の娘にあたる姉妹だ。現在二十五歳と十七歳。 


 長井君は憧れの叔父を目標とした。叔父が読んできた本を自分も読んでいく、そう決心したのだ。 そしてその驚異的な読書量により、親戚のみんなから、叔父の少年時代を紡彿とさせる、と言われることが長井君には得意だった。 


 そして今、二十五歳の従姉の、高校の入学時から始まった、その夫との恋もまた長井君の憧れであり、自分もそんな恋をしたいと思い続けていた。 

 そして血のつながりはないのに、顔が似ているというわけではないのに、長井君には従姉の愛した少年にその印象がだぶる雰囲気があったのだ。 

 

 長井君は、親戚が、この自分に叔父の生きてきた道程と、従姉が経験した恋愛の再現を期待している、と感じていた。


 叔父の少年時代に似ていると言われるとき、その才を称讃されるとき、長井君はその称讃のかげに 

「でも叔父はもっとすごかった」

ということばがあることを感じる。 

 

 従姉の愛した少年との相似を指摘されるとき、長井君はその指摘のかげに

「君は愛するひとといつめぐりあうんだ」ということばがあることを感じる。 

 長井君はおのれのもてる才能の全てをあげて親戚の期待に応えようとした。長井君は親戚のみんなが大好きだったのだ。


 しかし、長井君は結局叔父には及ばない、おのれの才能の限界を知った。長井君は挫折した。叔父が読んできたという本を読み進めていくことが、いつしか長井君には苦痛になっていったのである。


 そして恋愛もまた従姉が経験したことを再現することはできなかった。 

 中学三年の二学期、学校に復帰して最初に自分のクラスの教室に入ったとき、長井君は生まれてはじめての一目惚れをした。

 長井君にとって従姉はあまりに美しく、精神的に恋愛の対象とはならなかった。 

 美という面で従姉に並ぶようなひとがいるわけはない。


 しかし自分の相手としてどうしても譲れないものがあった。従姉が大人びた容姿であったことにもより、長井君がその相手として求めたのは

「見るからに清純そのものの少女」であった。 


 長井君が一目惚れした相手は、目のくりっとした、中性的な魅力をもった清潔感あふれる女の子であった。 


 長井君にとっては自分が一目惚れをしたからには、相手もまたそうであるべきであった。それが従姉が経験した恋愛だったのだから。 

しかしいつまで待っても、従姉が演じたようなふたりの物語は始まらない。そしてとうとう卒業式の日をむかえてしまったのであった。 


 ふたつめの挫折は、ひとつめのそれほどには大きな挫折感を長井君に与えることはなかった。挫折への慣れもあったのか、長井君は数日で立直った。 

 しかし、挫折の反動は長井君にそれまでとはまったく対極に位置する目標をもたせることになってしまった。

 だが今日のことで長井君はまた特定のひとを意識してしまいそうである。

「いやだなあ」というのがこのことに関する長井君の感想である。 

ながい沈黙があった。土田君も、谷山君もあえて口を開こうとはしなかった。 

「ねえねえ。僕の話は終わったんだから、今度はふたりの話をきかせてよ」 

「う-ん。土田からさきに頼むわ」 

「どうも衝撃が大きくて、あまり話をする気にはなれないんだけど。でももう相手がいるひとのことを考えてもしかたないね。じゃあ、話しますか」 

「うん。ええと土田はクラスに好きな子はいるの」 

「いるよ。有川。有川美和子」

 有川さんといえば、ランクはたしか・・・・・・。そうだ、「なかなか可愛い」にするか「ちょっと可愛い」にするか迷った末、少し太めだなと思って「ちょっと可愛い」にしたんだったよな。

「へえ、土田はああいうポッチャリしていて胸の大きい子が好みやったんか」

 僕のときに比べたら谷山君の態度はずいぶんと好意的だな。と、長井君は思った。

「有川はね。中三の二学期に俺の中学に転校してきたんだ。クラスは違ったんだけどね。ああ、その前に、俺、中二のときにある女性に恋したんだ」 

「へえ、結構気が多いねんな」

「エレーヌ=フールマンという名前なんだ」

「へえ、外人さんかいな。どこで知りあったんや」

「そのひとって、もしかしてルーべンスの二番目の奥さんのこと」「ああやっばり長井にはわかるんだね」 

「ルーべンスってあの画家のルーべンスかいな」 

「そう、はじめてエレーヌ=フールマンが描かれた絵を見たときに一目で好きになったんだ。僕の理想にぴったりだったんだ。それから色々ルーべンスとエレーヌのことを調べたんだけどエレーヌって性格もすごくよかったみたい。

もう夢中になっちゃって。なかでも一番すきな

「毛皮をまとうエレーヌ=フールマン(ペルスケン)」

という絵はどうしても部屋に複製をかざりたくて兄貴に頼んでウィーンの美術史美術館に手紙を書いてもらって、取り寄せたんだ」 「へえ、見かけによらず情熱家やねんなあ。ほなら今の話から察するに有川は・・・」 

「そうなんだ。エレーヌにイメージがぴったりなんだよ。はじめて有川を見たときはびっくりしちゃった。しかも、驚いたことにだねえ」 

土田君はいかにもこれからものすごく重要なことを話すんだぞ、という風に勿体を付けた。 

「信じられるか。有川って右目がほんの少しだけ斜視なんだ。この前、顔をアップで見る機会があって気がついたんだ。エレーヌと一緒なんだよ」 

「ふうん、土田は、もうこの世にいない人に夢中なんか。でもそれやったら、高校に入学して有川と同じクラスと分かったときには嬉しかったやろう」 

「そう、運命的なものを感じた」 

「まだ気持ちは打明けてないんやな」 

「うん、恐くてできない。でもね。なぜかよく視線が合うんだよ。視線が合うということは向こうも俺のことを見ているってことだろ。俺きっと有川と付き合うからね。そう決めてるからね。でも有川は、岡山について来てくれるかなあ」 

「まあそれはゆっくりこれから考えたらええやん」

「ねえ、俺今まで有川のことは誰にも言わなかったんだけど、こうやって、好きな女の子の名前を口に出すっていいもんだねえ。なあ長井。俺は叫びたい。叫んでもいいか」 

「いいよ」 

「美和子、美和子」 

土田君が大声でわめきだした。 

「おお美和子。僕のエレーヌ」 


 長井君のお母さんが子供部屋の襖を開けて顔をのぞかせた。 「どうかしたんですか」 

「青春の思い出作りってやつでしょう。ほっといてやって下さい」 谷山君が答える。 

「そっか、叫びたくなるときってあるわよね。特に若いうちは。いいなあ」 

お母さんは顔を引っ込めて襖を閉めた。 

「いいなあ、か。ええなあ」 

谷山君は襖のほうをまだ見ている。


「なあ長井、お父さんはご健在なんだよな」 

「うん、生きてる」 

「最近、病気がちとかそういうことはないか」 

「ないなあ」 

「そっか、まあしゃあないわなあ、じゃあクラスの女の子に話を戻してと。俺はねえ、川村」 


 まだ叫んでいた土田君の声がとまった。 

「川村かあ」 

土田君がちょっと困ったような声をだした。 


 川村さん、川村さんと。どの子だっけ。ああ、あの目の細い子だ。ランクはっと「ちょっと可愛い」にするか「その他大勢」にするか少し迷ったけど、結局「その他大勢」にした子だったよな。へええ、あんな子がいいのか。 


「だって川村は美人やもんなあ」 

「ああ、たしかに美人だよな」 

「出るべきところは充分に出ているし」 

「出てるよなあ」 

「それに、すごく色っぽいよな。うちのクラスの中では、ずば抜けていいよな。あ、有川ももちろんいいよ。そういやあ、川村と有川って仲がええんとちがう」 

「うん、あのふたり中三のときも同じクラスだったから」 

「そうなんか、だったらゆくゆくはダブルデートかてできるやんか。長井はほっとこうぜ」 


「ねえねえ」 

「なんや」 

「ちょっと訊きたいんだけど、川村さんて美人なのか」 

谷山君と土田君がきょとんとした顔をして長井君を見た。 


「おい、土田。こいつに何か言ってやってくれ」 

「うーん、いやあ、でも分からなくもないな。毎日、身近にすごい美人を見ているわけだし、それに幼い頃から、あんなに美しいものを見続けているのだったら、あとはもう何を見てもだめなんだろうな」

「ああ、そういうことかいな。でもさ、鈴木だろう。よう分からんわ」 

「結局、どうでもいいんじゃないのか。地上からみたら富士山はとても高い山だけど、広い大宇宙からみたら富士山もそこらのお山もたいして変わらないだろう」 

「ああ、そのたとえ話はとてもよく分かる。そういや、こいつさっき、宇宙がどうしたの、この世界全体がこうしたのとか言うてたよなあ」 


 僕はこのふたりを怒らせてしまったのだろうか。長井君は心配になった。しかし、口振りとは違ってふたりとも楽しそうだった。


「あんなあ長井。お前がどう考えてもそれはお前の自由や。でも世間ではね、川村みたいな顔をした女の子は美人。あるいは別嬪さん、って呼ばれるんやわ。覚えといたほうがええで」 

「分かった。ありがとう。勉強になったよ。でも目が細いんだけどなあ」 

「「細い」ってことばであっさりすますなや。ああいう目はな「切れ長の一重で男心をくすぐる目」って言うんや」

「それが長井の美の基準なんだね。そういえば、写真の女性もそうだし、中学の時に好きだったという子も、鈴木もそうだ。みんな目が大きいね」 

「ああ、そういやそうやな。なるほど、目の大きい子がええんか。そうすると川村はあかんいうことか。でも俺は常識人やからね。川村がええねん」 

「さっき長井のおかげで言いそびれちゃったけど、川村はやめておいたほうがいいよ」 

「なんでやねん」 

「彼氏がいる」 

「ふうん、そういやあ、土田は川村とも同じ中学出身になるんやねえ。相手の男も知っとるの」 

「ああ知ってる。三組の寺田だ」 

「寺田かあ。こりゃ強敵やね」 


 三組の寺田君という男の子は長井君も知っていた。先日、トイレに行ったとき、となりで用を足していた男の子がとてもハンサムだったので思わずスリッパに書かれている名前を見たらその名前だった記憶がある。そうか、あんな格好いい男の子と付き合っているというのだったら、たしかに川村さんは世間的には相当な美人ということになるのだろう。


「でもまあ、あの子やったらもう彼氏はいてるやろう。でも負けへんよ。こっちには同じクラスっていうメリットかてあんねんから。彼氏がおるからというて引き下がってたら綺麗な彼女はできへんでえ」 

「そうか。あのなあ」 

土田君は何か口篭っていた。 

「このことは本人から直接聞いたわけじゃない。あくまでも噂だ。だからこういうところで言うべきことじゃない。でも、俺に教えた奴は寺田本人から聞いたと言っていたから、多分本当のことなんだと思うけど」 

「なんやねん。もったいぶらんと早う教えてえな」 

「あのふたり、もうできているらしいよ」 

「できてる、いうだけやったらいろんな意味にとれるけど、それは、もうあれをすませているという意味かいな」 

「そう、一時うちの中学ですごく噂になってたよ」

「ふうん、そうなんか。そりゃすごいなあ」 

「うん、だから川村はやめたほうがいい」 

「そうやなあ、残念やけどそういうことならあきらめるか。まああと何年か俺も色々な経験を積んでからアタックしてみるかな」 


 長井君は驚いてしまった。もちろん、長井君くらいの歳でもそういう経験をしている子はいる、ということは知っていたが、自分には関係のない遠い世界のことと思っていたのだ。

「十人の女性にひとりづつ」という標語を作った人にしたらずいぶん情けない話である。 


 夕方になって土田君と谷山君は帰っていった。

 その日の長井家の夕食の席では当然このことが大きな話題になった。

 長井君の妹は外で夕方まで遊んでしまい、

「お兄ちゃんのお友達」に会えなかったのを残念がった。 


 お母さんはいつも元気なお父さんに嬉しそうに話した。

「今日、利君のお友達が遊びにきたんですよ。それがふたりともとても良い子なの。明るくて、礼儀正しくて。途中、土田君っていう子が叫んでいたけど、叫び方も礼儀正しいの」 

「そうか、良かったなあ、利久。これからちょくちょく話にでてくるかな。名前はなんていうの」

「土田守と谷山行夫」 

「そうか。覚えておくよ」 



 そのあとの高校生活で長井君の生活に若干の変化があった。


 先ず、鈴木さんをとても意識するようになった。一度何かのことで鈴木さんと教室で話す機会があったのだが、胸がドキドキしてまともに鈴木さんの顔を見ることができなかった。話し終わって気が付くとやっぱり土田君と谷山君がニヤニヤと笑って長井君のほうを見ていた。 


 川村さんを見るとやはり先日の話を思い出してしまう。

「もうすでにそのことを経験している女の子」という目で見ると、何か自分とは無関係なひとと思ってしまう長井君だった。



 五月の連休が終わった次の火曜日。長井君は図書室にいた。

谷山君と土田君はその後それぞれクラブ活動を始めた。

谷山君は将棋部。

土田君はクイズ研究会。

 長井君はふたりにそれぞれ「一緒に入ろう」と誘われた。特に土田君には熱心に誘われた。しかし断った。クイズというのは何か自分の知識のひけらかしのように思えて、長井君はやりたくなかったのだ。

 そういう気持ちをもっとマイルドな表現にして土田君に伝えたのだが、土田君は少し気分を害したようだった。

「だったらスポーツ選手はどうなるの。人前で自分の体力と技術をひけらかしている、ということになるのか」 

しかし、それ以上無理に勧誘してくることはなかった。 


 土田君は最近、休み時間は暇そうにしている子がいたら四、五人をまわりに集めて、即席のクイズを出して遊んでいる。でもやる前に必ず「長井は答えるなよ」と釘をさす。 

 クイズの問題はその場の思いつきでいくらでも出てくる。 

回答者として大体は参加し、そしてほとんどトップになる谷山君が、ある日、土田君に訊いた。 

「いやあ、お前すごいなあ、何も見なくてもいくらでも問題が出せるんやなあ」 

「俺、岡山以外に、いずれテレビのクイズ大会に出て、今、クイズ王の番組にしょっちゅう出ている強豪たちと戦いたいっていう夢も持っているんだ。そういう夢を持っている人間なら、その場でいくらでも問題が出せるっていうのは当たり前のことだ。

 それに、その場で参加しているひとたちのクイズの実力のレベルがどれくらいかを察してその場にあったレベルの問題が出せないといけないんだ。でもこんなこと長井だって朝飯前だよ」 

「いや、僕には無理だな」 

「うそをつけ」 

土田君は信じなかったが、たしかに長井君には無理だった。問題を出し続ける、ということなら、もちろん長井君には簡単なことだった。しかし、その場の参加者のレベルを察してそれに合った問題を出すというのは、これまでの人生で、自分の内面との対話を中心に生きていた長井君には無理だったのだ。


 クラブ活動を始めたといっても、ふたりとも毎日クラブがあるわけではなかったので、相変わらず、ふたりあるいは三人でよく遊んだ。 が、今日はふたりともクラブのある日だ。こういう日は長井君はたいてい図書室で本を読む。 


 長井君が読書にいそしんでいると 

「長井君、ちょっといい」

という女の子のあたりをはばかった小さな声が聞こえてきた。見ると長井君には関係ないはずの人が立っていた。

 長井君と視線が合うとニッコリ笑って、長井君の横に座ってきた。 

「ねえ、何を読んでいるの」 

長井君は、黙って表紙を見せた。 

「古典落語全集、ふうん、長井君ってそういう本を読むんだ」 

そう言ったきり、長井君の横で、じっとしている。


 長井君はまた本を読もうとしたが気になって身が入らない。長井君は川村さんのほうを見た。川村さんはニッコリ笑った。 


「ねえ、今日、私に付き合ってくれないかなあ」 

えっと、僕は今までこの子と親しく会話を交わしたことがあっただろうか。長井君は考えてみたが記憶にはなかった。しかし、付き合ってくれというのを無理に断る理由も無い。しかも世間的には相当な美人らしいし、世間がいうところの美人というものを研究してみるのも悪くはない。

 でもたしかこの人には彼氏がいたはずだが、とも思ったが、それは川村さんが気にすることであって、長井君が考えることではない。 

「いいよ、なにをするの」 

まさかいきなり

「あれをするのよ」

とは言われないだろうとは思ったが、長井君はちょっとおびえた。 

「お茶に付き合って」 

「お茶かあ、じゃあ、「含羞はじらい」に行くのかな」 

長井君は高校の近くにある唯一の喫茶店の名前をあげた。 

「「含羞はじらい」はみんなに見られちゃうからいや」 

自分から誘ってきたくせに我儘な奴っちゃな。 


「じゃあ、どこにするの。僕はほかは知らないよ」 

含羞はじらい」だって入ったことはない。

 

「JRの甲子園口駅の近くに「寂しさのはて」っていう若山牧水ファンのマスターがやっている喫茶店があるの。知らないかな」 「知らない」 

川村さんは簡単な地図を書いた。 

「じゃあ、三十分後にここにきてね」 



 二十六分後に長井君は「寂しさのはて」に着いた。

ちょっと早歩きをした。 川村さんは、まだ着いていなかった。 「かつがれたのかな」 

長井君は思った。 

友達とどこかで見ているのかな。急いでやってきた僕を見て笑っているのかな。 

それは充分にありえることのように思えた。

 だいたい、徒歩通学の長井君に対して川村さんは自転車通学のはずである。長井君より遅いということはありえない。


 長井君がお店に着いて十分以上たってトイレから女の子が出てきた。川村さんだった。 

「お待たせ」

と言いながら、長井君の向かいの席に座った。  

「トイレだったんだ」 

「そうよ」 

「おなかの調子が悪いの」 

「え、違うわよ。いやあねえ、これよ」 

川村さんは自分の顔を軽くたたいた。 

「えっと、あ、お化粧かあ」

 べつに化粧したってたいして変わらんだろうに。おっといけない。この子は「美人」だったんだよな。

「だって、長井君と初めてのデートなんだもん。気合をいれなくちゃ」 

デートだと。 

「これって、デートなの」 

「うん、私はそのつもりだったんだけど。迷惑だった」

「そんなことないよ。ふうんデートだったんだ」 

「どうかしたの」 

「いや、僕、女の子とデートするの初めてだから」 

「え、そうなの」 

長井君はこっくりと頷いた。

「わあ、嬉しい。長井君の初めてのデートの相手になれたんだ。あ、でも長井君は最初が私じゃいやだったかな」 

「そんなことないよ。光栄です」 

だってあなたは美人なんでしょう。 

 それにしてもずいぶん嬉しそうだな。僕と一緒にいて楽しいのだろうか。そんなに面白い男の子だとは思えないけど。


「あ、長井君、まだ何も注文していないんだ」 

「うん、待ち合わせですから相手が来てから頼みます、と言って、注文は待ってもらった」 

「そうなんだ。ごめんね」 

川村さんはマスターを呼んだ。その態度からうかがうに、このお店の常連のようだった。 

「やあ、晴美ちゃん、いらっしゃい。ずいぶん可愛い男の子が入ってきたなあ、と思ったら、晴美ちゃんと一緒だったんだ。えっと、弟さんかな」 

「ううん、同じクラスの長井君」 

「あ、じゃあ彼なのかな、へえ」 

マスターが怪訝そうな顔をした。長井君はマスターの表情から、川村さんが、このお店に寺田とよくきているのだろうと察した。 川村さんはちらっと長井君のほうを見た。


「晴美ちゃんは、いつものコーヒーでいいよね。こっちの彼は何にするのかな」 

長井君はメニューを見て吃驚した。そしてすばやく考えをめぐらした。僕は今いくら持っていたっけ。たしか今朝、財布にほとんどお金がないのに気がついて、お母さんに千円もらったよな。今朝、気がついて本当に良かった、えっと、昼飯はいつもどうり弁当だし、今日は食堂では何もつかっていないよな。あ、ノートを買ったぞ。 長井君は財布を開けて確認したかったが、それは恥ずかしかった。

 長井君は頭の中で計算してみた。所持金は八百円から九百円の間であろうと見当をつけた。

川村さんが頼んだいつものコーヒーというのが気になる。コーヒーは何だか色々な名前のものがいっぱいあった。一番安いもので三百五十円。一番高いので六百五十円。もしこの一番高いものだったらかなり苦しい。 


「ねえ、どうしたの。ずいぶん深刻な顔をしてメニューを見つめているけど」 

「ん、うーん、喫茶店て高いんだなあ、と思って」 

「ええと、もしかして長井君は喫茶店に入るのは初めてなの」 「親と一緒に入ったことはあるよ」 

「じゃ、いくらくらいするのか分かっているでしょう」 

「そのときは親が払っていたからね。いくらだったか、とか覚えていないな。お任せしていました。ふうん、こんなに払っていたんだ」 

「いやあ、ユニークな彼だねえ。というより見たまんまなんだね。小父さんは気に入ったなあ」

マスターが口をはさんだ。 

「あの、お金のことだったら気にしないでね。私が誘ったんだから、私が全部払うよ」 

「なに言ってんの。デートの費用は男がみんな払うって決まっているんだろう。それくらい僕でも知っているよ」 

濃い目のお化粧を好む母親がそう言っていた。


「あらあ、おごってくれるの。ありがとう」 

「ちょっと訊きたいんだけど、川村さんがさっき頼んでいた、いつものコーヒーというのはどれなのかな」 

「これだよ、ブレンドコーヒーの「かなしき白鳥」。マスターは大傑作と思っているんだけど、お客さんでそう言ってくれる人がいないんだって。私は結構、気に入っているけどね」 

良かった。三百五十円だ。寺田君もお金持ちの御曹司というわけではなさそうだ。 

「僕も同じものをお願いします」 

「はいはい、分かりましたよ。高くてごめんね。でもうちは消費税込みだからね」 

消費税か。考えてなかったな。 


「長井君がおごってくれるんならケーキも頼もうかな」 

何を言っていやがる。こうなったら、もうしょうがない。長井君は財布の中身をテーブルの上に全部出した。 

「この範囲内でお願いします」 

川村さんはしっかりと数えた。思ったより多かった。九百十五円あった。川村さんはメニューを見た。 

「この二百五十円のチーズケーキもお願いします」 

こいつ、計算が苦手なのか。 

「ちょっと待って。それじゃあ越えてしまう」

「コーヒーとケーキをセットにすると五十円安くなるんだよ。そこに書いてあるでしょう」 


ブレンドコーヒー「かなしき白鳥」は変な味だった。 


「さっきはちょっとショックだったな」

「なにが」 

「マスターが長井君のことを弟か、って言ったでしょ。ふたりでいたらやっぱり私のほうが年上に見えちゃうんだね。ねえ、長井君は何月生まれなの」 

「三月」 

「そうかあ、私のほうがほとんど一年、上になるんだね。私四月生まれなの。もう十六歳になっちゃった。長井君は年上の人は趣味じゃないかなあ」 

「そんなことはないよ」 

中学のとき好きだった女の子も八ヶ月上だったもんな。 


はっきりと年上が趣味という男ならひとり知っている。彼は誰が好きなんだったかな。あ、今、目の前にいる人だった。彼は五月生まれだから、彼にとっても、少しだけ年上になるんだな。こんなところを見られたら怒られちゃうな。 


 でもいったいなんで僕を誘ったんだろう。深い関係の彼がいるはずなのに。 

長井君は色々と考えてみる。目の前に本人がいるのだから、直接尋ねてみればいいのに、なぜかそうはしない長井君だった。 


 そうか、もしかしたら、僕と同じことを考えているのか。

「それぞれに父親の違う十人の子供を生もう」

と思っているのかな。

それなら話はわかる。

そりゃなかなか大変な人生だけど、そういう人もいるのだろう。で、そろそろ二人目を、ということかな。でもどういう基準で選んでいるんだ。寺田と僕とじゃあ全然タイプが違うよなあ。まあどうでもいいか、所詮、僕には関係のない人だ。


「ねえ、なにを考えているの」 

「なにも考えてないよ」 

たいしたことを考えていたわけではないから、この答でもいいよな。 

「長井君てときどき黙っちゃうんだね。ねえ長井君」

「なあに」 

「今日は付き合ってくれてありがとう。図書室で声を掛けたときは、すごく緊張していたんだ」 

そういう風には見えなかったな。 


「ねえ、長井君は私のことはどう思っていたの」 

ええっと。どうしよう。本当のことを言うのはやっぱりまずいんだろうなあ。「その他大勢」って言ったら怒るだろうなあ。 


「綺麗な女の子だなあ、って思ってた」 

あーあ、とうとう嘘をついちゃった。でも平気で嘘がつけるなんて、僕も大人になったもんだ。長井君は、ちょっと得意だった。


 川村さんの顔がパッと輝いた。

「本当?」 


嘘。 


「本当にそう思ってくれていたんだ。嬉しい。私、長井君は私みたいな女の子は趣味じゃないんだろうなあ、って思っていたの」 


そのとおりだよ。 


「長井君は、鈴木さんみたいな「可愛い」って感じの女の子が好きなんだと思ってた」 


よく分かるなあ。 


 それからの川村さんはとても楽しそうだった。それによくしゃべった。色々な話をしていた。電車の中や、街で、しょっちゅう男の人に声を掛けられる、という類の話が多かった。いったい何を言いたいのだろう、と長井君は思った。考えてみるに、どうも

「自分はすごくもてる女の子なんだ」

ということをアピールしているようだった。しかし「寺田」という名前はその口からは出てこなかった。 


 ふたりは二時間以上も「寂しさのはて」にいた。 

 外に出ると、暗くなっていた。時計を見ると七時になろうとしていた。おなかがへった。 

「ねえ、夕御飯おごろうか」 

「いやいいよ。家に帰ってから食べる」 

「そっか、女の子におごられるの、いやなんだもんね。それじゃ長井君。今から長井君の家に電話して」 

「なんで」 

「僕は今から女の子を彼女の家まで送っていくから帰りは遅くなりますって」 

「なんだって」 

「早く電話しないとどんどん遅くなっちゃうよ。十円しか使えないんだから要領よく話さないとだめだよ」 

長井君は言われたとおりにした。 


 その日、ずいぶん遅い夕食を食べた後、長井君は子供部屋の自分の机の前に座った。 

財布を取り出してそこにたった一枚だけ残った五円玉を机の上に置いた。 

しばらくそれを見つめた後、長井君は机の引き出しを開けて、五円玉をそこにしまった。


 長井君は川村さんとのデートについては土田君にも谷山君にも言いそびれた。だいいち、なんで川村さんが自分を誘ったのかがはっきりしなかったから、言っても混乱させるだけのような気がした。 

 デートの翌日、長井君は川村さんと何度か視線が合った。その都度、川村さんはまわりに分からないように笑顔を送ってきた。 


 しかし、その次の日には川村さんの態度は一変していた。明らかに長井君の視線を避けていた。 

 その次の日も同じだった。いや、長井君を避ける度合いはさらにひどくなっていた。 


「やっぱり一時の気まぐれだったんだな」

長井君はそう思った。 すこし寂しかった。 


 その日の下校時間、長井君は廊下で 

「長井というのはお前か」 

と呼び止められた。


 寺田君が恐い顔をして立っていた。 


「ちょっとそこまで付き合ってくれ」 

寺田君は有無を言わさず、背中を向けて歩き出した。


 長井君は仕方なく付いていった。今まで一度も話したことはないし、思い当たることはひとつしかない。 

殴られちゃうのかなあ。

長井君は腕力には自信がない。これまでの人生で人を殴ったことは一度もない。もし殴られるとしたら割りに合わないよな、と長井君は思った。 

 

 寺田君はゆっくり歩いている。 

寺田君の足が止まった。

場所は人気のない体育館の裏だった。 

ここだと助けを求めても誰の耳にも届かないかもしれない。あ、あそこの民家なら気がついてくれそうだ。 


「なんの話かは分かるよな」 

「うん、多分分かっていると思う」 

「まったく、どんな奴かと思ったら、こんなガキっぽい野郎かよ。晴美もいったいどこが気に入ったんだか」 

寺田君が、長井君を睨みつけた。寺田君はやっぱりハンサムだけど、こうやって見ると結構凄みもある。 


「おととい、晴美に電話したんだよ。ここのところしばらく逢っていなかったからな。そうしたら「別れたい」って言い出した。好きな人ができたって言うんだよ。なかなか名前を言いたがらなかったけど問い詰めたらお前の名前を言った」 


 そうか。もしかしたらそうなのかな、という気はしていたけれど、そうだったのか。寺田君の言うとおりだ。いったいどこが気に入ったんだろう。

もし、僕を好きになってくれる人がこの世にいるとしたら、それは鈴木さんみたいなタイプの人に違いない、って勝手に想像していたけれど、大人の女性に受けるのか。そりゃ知らなかったな。 


「なあ、お前ひとの女に手を出すような真似はするなよ」 

あれは僕が手を出したことになるんだろうか。出されたんだと思うけどな。


「ねえ、なにをやっているの」 

女の子の声がした。川村さんだった。 


「なんだ。なんでここにいるんだ」 

「だってさっき、美和子がすごくあわてた顔をして「寺田君と長井君がふたりで階段を歩いている」って教えてくれたんだもん。陽平は何か秘密の話があるときは必ずここに来るもんね」 

「ふうんそうか。お前も来たのか。なら話が早い」 

寺田君は再び長井君のほうを向いた。 


「なあ長井、お前だってその若さでひとのお古を自分の彼女にしようとは思わないよな」 

「やめて」 

「俺と晴美はもう他人じゃないんだぜ。意味は分かるよな」 

「ねえ、お願いだからやめて」

「つい昨日だって、晴美は俺に抱かれたんだぜ。俺の部屋でな」 「それはあなたが、あなたが無理矢理そうさせたんじゃないの。ねえ、長井君、お願い、聞いて」 


 僕の前でふたりで盛り上がっているなあと思ったら、今度は僕か。何を聞かされるんだろう。しかし凄いな。僕の人生で、こういう場面に立ち会うことが起こるなんて。


「十人の女性にひとりずつ」という野望を持つのであれば、将来の予測として想像しておかなければいけないはずの場面であったが、観念論ばかりで実際の日常との関わりが希薄であった人生経験しか持たない長井君には仕方のないことであった。 


「私、長井君のことが好きになったときから、もう絶対に陽平とは別れようと思っていたの。もちろん、もう何もするつもりもなかった。金輪際、抱かれるのはいやだった。でも、陽平が私を脅したの。長井君に俺達のことを全部ばらすぞって。ばらされるのがいやだったら、もう一度最後に抱かせろって、そうしたら秘密にしておいてやるし、それで別れてやるって。だから仕方なかったのよ」 


ばかだなあ。土田が知っていたくらいだから、別にいまさら秘密にしても意味がなかったのに。だいいち、現にこの僕が知っていたんだから。 


「嘘つき、嘘つき、また騙したのね」 


長井君はびくっとして川村さんのほうを見た。一瞬、自分に対して言っているのか、と思ったからだが、川村さんの目は寺田君のほうに向けられていた。話の流れからしたら、そりゃそうだ。


「俺達は別れることはできないんだよ。お前だって昨日そう思ったはずだ。お前は俺なしでは生きていけないよ。昨日だって、最初は色々言っていたけど、最後はしっかりと感じていたじゃないか」 「やめて、やめて、やめて」 


川村さんはしゃがみこんで泣き出した。 


「なあ長井、俺が晴美を抱いたのは一度や二度じゃないんだぜ」 寺田君がまた話し出した。 

「初めて結ばれてからもう一年近くたつ。俺はね、母親はもういないんだ。兄弟もいない。親父とふたり暮らしだ」 


なんで急に身の上話を始めたのだろう。 


「その親父は仕事の虫で、夜の十時より早く帰ってくることはない。どういう意味か分かるよな」 


分からん。 


「俺の家でいつだってふたりきりになれるってことだよ。学校帰りに毎日のように抱き合っていたときもある。抱き合えば一回だけなんてことはまずないし、多分全部合わせたら」


寺田君は実に好色そうな顔をした。 

とってもハンサムな男の子であっても、やっぱりいやらしい顔付きになっていた。


「百回近くは抱いているんじゃないかなあ。覚えきれないけどね。回数だけじゃない。俺と晴美はお前には考えられないようなすごいことだってやっているんだからな。いまさらこいつがほかの男が好きだなんて言えるわけないんだよ。教えてやろうか。俺がこいつにどんなことをしてやったか。こいつが俺にどんなことをしたか」 


すごく知りたい。

でもここで「教えて」と言うのはやっぱりまずいか。


「それにな」


寺田君がまた、好色な雰囲気を全身から発散させた。


「去年の夏、須磨に海水浴に行ったとき、俺が「思い切り刺激的な、布の少ない水着にしろよ」と言ったら、こいつ、紐で横を結ぶタイプの、幅が極端に短い超ビキニを着てきたんだぜ。あれはマイクロビキニというのかな、お尻の割れ目もはっきりと見えていたな。バストも先端の周囲が隠れているだけ。さすがの俺もぶったまげたよ」


 超ビキニ、マイクロビキニ。

そんな言葉、初めて知った。

長井君は思った。

長井君はこれまで、ごく普通のビキニでさえ、うら若き少女が、こんな露出の多いハレンチな格好をするというのは、許されていいことなのだろうか、と思っていた。

「ビキニ」という単語を聞くだけでも何だか恥ずかしい気持ちになっていた。まして、自分の口から発することのできるような単語ではなかったのに。

 超ビキニ、マイクロビキニ・・・何だそれは。


 寺田君が言っていたような形状の水着を身に付けた川村さんを想像・・・

うーん、長井君は、心の中で唸った。

長井君が心の中で形成している常識的な世界というものからは、その姿は現実離れし過ぎていて、どう想像したらよいのか分からない。


「おい、さっきからずっと黙ってひとの顔を睨みつけやがって。なんとか言えよ。ひとの女に手を出してただですむと思うな」 


おっと、心ここにあらずだったのに、顔を睨みつけたままだったのか。


「やめて陽平。長井君から言ってきたわけじゃない。私が勝手に好きになったの。デートしたってあなたに言ったけど一回だけなの。それだって私から言って無理矢理付き合ってもらったんだから」 


「なんだ、そうなのか。俺はデートしたっていうからてっきり長井がちょっかいを出してきたんだと思った。ああそういえば俺達だってお前のほうから声を掛けてきたんだったよな。「前から憧れていた」って」 


 川村さんが立ち上がった。 長井君のほうへやってきた。 


「長井君、ごめんね。本当にごめんね。私が勝手に好きになって迷惑かけちゃったね。吃驚したでしょ。私、こんな子だったのよ。もうこんなに汚れちゃってるのに長井君のこと好きになっちゃって、おかしいよね。

私ね、最初は陽平に夢中だったの。陽平は見た目がすごくかっこいいし、付き合っているのが得意だったの。でも陽平はそのことがあってからは、そのことばっかり。私、もういやだったの。私ね、あるとき自分が恐くなっちゃったの。私はまだ十五歳なのにこんなことばかりやってていいんだろうか。いったいどこまで堕ちていくんだろうかって。 

高校に入学して初めて長井君を見たとき、私、吃驚したの。ああ、こんなに清純無垢で天使みたいな男の子がいるんだなあって。それで自分のことが哀しくなったの。私は取り返しのつかないことをしてきたんだなあって思って哀しかったの。それでそのとき思ったの。

もう一度やりなおしたい。もう一度汚れちゃう前の私に戻って、この男の子と胸がときめくような恋がしたいって。

でもだめだよね。もうだめだよね。長井君もうみんな分かっちゃったんだものね。こんな女の子いやだよね。こんな女の子が長井君と付き合いたいって思ったなんて笑っちゃうよね」 


長井君は黙っていた。 


「長井君、でもありがとう。長井君、私のことを「綺麗だ」って言ってくれて。私ね、すごく嬉しかったんだよ。でも長井君は「好きだ」とは言ってくれなかったね」 


川村さんは目にいっぱい涙を溜めて、長井君を見た。 

長井君は黙っていた。 


「私、なにを言っているんだろう、当たり前だよね」 


長井君は黙っていた。 


「ありがとう、長井君。「寂しさのはて」で長井君とたくさんおしゃべりができて、私、とても楽しかった」 


長井君はやっぱり黙っていた。 


「言いたいことは全部言ったな。まったくお前もたいした浮気者だよ。お前がそういう女だとは思わなかった。でも見ろ、長井だってあきれてじっと黙ってしまっているだろう。これでよく分かったろ、もう俺以外にお前と付き合ってやろうなんて男はいないってことが」 


長井君はそれでも黙ったままふたりを見た。 

沈黙の時間が流れた。 


「さ、行くか」 


寺田君が川村さんに声を掛けた。川村さんはおずおずと長井君を見て、すぐに目を伏せた。 

ふたりが長井君に背中を向けた。 


「コーヒーとケーキをセットにすると五十円安くなるんだよ。そこに書いてあるでしょう」 


ふいに長井君の耳に幻聴が走った。 


「十円しか使えないんだから、要領よく話さないとだめだよ」


長井君のほうに向けた川村さんの背中が、長井君の視界の中で滲んだ。 


「待てよ」 


ふたりが振り向いた。 


「まだ言っていなかったんだね。もう言ったつもりになっていた」


長井君は川村さんのほうに向かってゆっくりと歩いた。 


 川村さんの前に立ち、その目をじっと見た。

それはたしかに「切れ長の一重で男心をくすぐる目」だった。 


「好きだよ。初めて逢ったときから好きだった」 


川村さんの目からみるみるうちに涙があふれた。 


「これからも僕とお付き合いして下さい。また「寂しさのはて」に行って話そうよ」 


うん、うんと川村さんが頷く。 


「おい、なにを言ってるんだ。ふざけるな」 


「お前なあ、いい加減にしろよ」 


長井君が寺田君に凄んだ。残念ながら、迫力がないこと、はなはだしいが。 


「人間はものじゃないんだぞ。人間には心があるんだ。誰かが誰かのものだなんて、そんなことがあるわけないだろう。お前が最初の男だから川村さんはお前のものだって言うのか。ふざけるな。よし、お前に教えてやろう。よく聴けよ。 


日本国憲法第十三条 「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」 

第十八条 「何人もいかなる奴隷的拘束も受けない。 以下略 」第十九条 「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」 


そしてこれだ。 

第二十四条第一項「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」 

どうだ。お前にこの意味が分かるか」 


寺田君は素直に首を振った。 


「川村さんは俺のことを好きだと言った。俺は川村さんが好きだ。このふたつの事実があれば、川村さんは俺のものだということだ。そのことは憲法によって保証されている。お前、日本の国に喧嘩を売る気か」 


「わけのわからんことを言うな」 


寺田君は長井君に殴りかかった。

口ほどにもなく長井君はあっさりと倒されてしまった。 


「なんだ、こいつ。てんで弱っちいじゃないか。おい晴美、こんな情けない奴はほっといて俺と一緒に来い」 

「いやよ」 

「お前、本当にこんな奴がいいのか」 

「そうよ」 

「ふうん、俺、お前がどんな女かよく分かったよ。お前は俺に厭きたから、別の男が欲しくなったんだろう。こいつと付き合ったって、どうせすぐにまた別の男に言い寄るんだろう。そうやってどんどん男を変えていくんだな」 

「そんなことない。絶対にそんなことない」 


川村さんは叫んだ。 


「私は、長井君だけは裏切らない。絶対に裏切らない。陽平は私達のことをみんな長井君に言ったわね。私、長井君だけには知られたくなかった。でも長井君は全部聞かされたのにそれでも私のことを「好きだ」と言ってくれたのよ。もし、そんな長井君を将来裏切るようなことをしたら、私はそれこそ最低の人間になってしまう」


「じゃあ、どうしても俺と別れるって言うんだな」


「ねえ陽平。あなた、かっこつけ屋さんだったわよね。でも今のあなたってすごくかっこ悪いわよ。せめて最後くらいかっこよく私の前から消えてちょうだい。お願いだから」 


寺田君はふうっとひとつため息をついて、その場から去っていった。後姿のかっこよさを気にしながら。 

でも、川村さんは見ていなかった。 


 長井君は気を失っていたわけではなかった。ここは自分の出る幕ではないなと思ったのと、さっきの一瞬のもみあいで、とても敵いそうもないのが分かったので、そのまま寝転がっていたのだ。


「ねえ、長井君」 


川村さんが長井君の顔をのぞきこんだ。


「気がついているんでしょう」 


長井君は目を開けた。 


「なんだ。分かっていたの」 


「うん、だってあれだけ殴られたくらいで気を失うわけないもの」


 長井君は上半身を起こした。 


「あーあ。俺やっぱり喧嘩は弱いんだな。情けないなあ」 

「いいのよ。喧嘩なんか弱くたって。逃げずにちゃんと立ち向かってくれたというだけで嬉しかったよ」 


 あれは立ち向かったことになるのだろうか。一方的に殴られて、あっさり倒されただけだったのに。

でも川村さんがそう思ってくれたのだったら否定することもないか。まあ、数秒間は寺田君の体にしがみついていたような気はする。


「陽平は、空手を習っていたこともあるし、割りと喧嘩馴れしているのよ」


 川村さんは思い出していた。

付き合って間もない頃、繁華街で不良が絡んできて、その相手を陽平がやっつけたこともあったな。

その時、やっぱりなんてかっこいい人なんだろう、と思ったな。

でもそれからその時の自慢話を、百回近くは聞かされたな、と。


川村さんが長井君の横に座った。 


 ふたりで前を見ながら話す。 


「ねえ長井君」 

「なあに」 

「私のこと、みんなばれちゃったね。それでもいいの」 

「うん。それでもいい。川村さんの気持ちはさっき寝ながら聞かせてもらった」 

「あ、あれね。へへへ」 


川村さんはいたずらっぽく笑った。 


「あれはね、長井君が気がついているの分かっていたから、自己PRしたのよ」 


長井君は川村さんの顔を見た。視線が合った。 川村さんはすぐに視線をそらしてうつむいた。 


「だって私、最初からとても大きなハンデがあるんだもの。得点できるチャンスがあったら、少しでも点数を稼いでおかないといけないもんね」 


長井君は川村さんのことを、とてもいじらしいと思った。

おっと、これも相手の作戦か。 


「ねえ長井君」 

「なあに」 

「私はしっかり聴いていたわよ。ふうん、憲法第二十四条かあ」 「なんだよ」 

「あれって、私へのプロポーズなんでしょう。ねえ、そうなんでしょ」 


なんですぐそういう風にとっちゃうんだ、こいつは。

今日、一日でそこまで行っちゃうのか。 


長井君はまた川村さんの顔を見た。 

川村さんの顔は期待感にあふれていた。 

仕方ないな。 


「そうだよ。ふたりで仲良く一緒に歳を取っていこうね」 

川村さんは大きく頷いた。 


「ねえ長井君」

「なあに」

「さっき陽平が、私のこと色々言っていたとき、私の水着姿、想像してたでしょ」


何で分かるんだろう。僕も寺田君みたいな、いやらしい表情を浮かべてしまっていたのだろうか。

でもあのときの自分の気持ちは、「いやらしい」ことを考えるというよりは、「想像不可能」で途方にくれていたんだけど。

寺田君からは、睨みつけて、と言われたのだから表情にたいして変化もなかったはずなんどけどなあ。

まあ想像を試みてみたというのは、たしかだな。


「・・・ええっと、うん。もし、この夏、一緒に海に行ったら、川村さんはやっぱりそういう水着を・・・」

「着ないよ。普通のビキニにする」


川村さんは、きっぱりと答えた。


「だって長井君とは、胸がときめくような恋をするんだものね。セクシーで、刺激的な水着はもう着ないよ」


 そうなんだ。

長井君は安堵した。

でも一般的には、残念に思う男の子のほうが多いのかもしれないなあ、とは思った。


「長井君は、いやらしいことは考えたらだめ」


はい。いやらしいことを考えることができるほど、まだ気持ちに余裕はないから大丈夫です。


うん、そうだよなあ。胸がときめくような恋をするんだものなあ。

たしかにあまりに刺激的で、布の少ない水着だと、僕の心の中は、胸がときめく、とは異なる形容詞で表現されるのが相応しい状態になるだろうし、川村さんをまともに見ることもできないだろう。

その場から逃げ出してしまうに違いない。


でも・・・やっぱりビキニなんだよなあ。

普通の、という形容詞が付いても、僕には充分セクシーで、刺激的なんだけど。

そう言えば、セクシーという単語も、これまでは聞くだけでも何だか恥ずかしい気持ちになっていたよなあ。頭の中でだけど、使っちゃった。


「一緒に海かあ。長井君、もうそんなこと考えてくれているのね。嬉しいな。早く夏が来ないかな。うふふ、楽しみ」


僕は・・・ちょっと恐い。

でも耐えよう。耐えずばなるまい。


これからの僕は、ビキニという単語も、セクシーという単語も、普通に使えるように・・・慣れなきゃいけないんだろうなあ。


その思いは、長井君を、ゆっくりと高揚させていった。

自分の心が、今まで経験したことのない種類の快さに包まれていくのを、長井君は感じた。


 土田と谷山が初めて僕の家に遊びに来たとき、谷山が、川村さんのことを、クラスの中でもずば抜けて色っぽい、と言っていたもんな。


 僕の彼女になる人は、ずば抜けて色っぽい女の子なんだよなあ。おっといけない。彼女どころじゃない、僕のお嫁さんになる人なのだった。さっき、そう決まってしまったみたいだし。


 そのことを谷山と土田が知ったら何て言うだろう。まあ、あとでゆっくり想像してみよう。


 そう言えばあのとき、ダブルデートとかいう話も出ていたな。それをいずれ実行するとしたら・・・

えっと、女の子は、有川さんと川村さんで同じ。

男の子は土田と僕ということになるな。


 谷山がむくれるだろうなあ。鈴木さんは・・・好みじゃなかったな。それに別に僕に伝がある訳でもないし。


 そうだ。昌代お姉様にトリプルデートをお願いしてみよう。

面白がって、快諾してくれそうだ。

昌代お姉様の婚約者の堀内さんは・・・

うん、あの人も「いいよ」と言ってくれるだろう。

そんなタイプの人だ。


よし、そうしよう。

谷山、喜ぶだろうなあ。


 長井君は、ふと、中学三年生のときに一目惚れした女の子のことを思い浮かべてみた。


 目がくりっとしていて大きくて、可愛くて、優しくて、いつもニコニコしていて、明るくて、清潔感にあふれた、ボーイッシュな女の子。

 セクシーなどという単語とは無縁。

あの子がビキニを着るはずもない。

(作者注:いえ、その女の子も中学三年生の夏、付き合い始めていた彼と、須磨の海水浴場に行ったのですが、ビキニでした。長井君が知らないだけです。はい、残念でした。)


 あの子こそが、僕が心に描いていた理想どおりの女の子のはずだった。

(ちょっだけ違ったのだった)


 でもその女の子は、僕を好きになってはくれなかった。


 そして、今ここに、僕のことを好きだと言ってくれている女の子がいる。一途に僕のことを求めてくれている女の子がいる。


 その女の子は、僕が心に思い描いていたはずの理想の女の子とはまるで違うタイプの女の子。  


 切れ長の一重の目。大人っぽい美人さん。

出るべきところは出ていて、スタイルが良くて。

優しさが溢れているというような性格ではない。

我儘で、自分の欲望に忠実で、自己アピールもしてしまう。

楽しそうに話すけれど、陰影も感じる。

高校生なのに、お化粧もきちんとしようとする。

僕には考えることもできないらしいような、すごいことも色々している。

経験豊富で、もう何だって知っていて、とんでもないくらいに・・・そう、セクシーで。


 でも、僕はそういった川村さんの属性を、いやだとは思えなくなってしまった。

むしろとても愉快な気分になっている。 


 川村さんと喫茶店でお話していた時間、僕はとても愉しかったのだ。


 人生で初めての女の子とのデート。それは、僕にとっては、最大級の緊張を要する出来事のはずだった。

 でも、僕は別に緊張はしなかった。女の子とふたりでいても、普通に、いつもどおりの自分でいられた。


 中学三年生のとき、一目惚れした女の子。

その子と二人だけでお話しているシチュエーションを僕は何度か想像していた。

 その想像の中で、僕は理想の女の子とのそういうシチュエーションに陶酔していた。

 それは、僕にとって神聖な出来事のはずだった。


 でも、相手が理想とはかけ離れていた女の子だった、人生で初めてのデートは、日常の延長だった。

だけど、その時流れた時間の中に、快いときめきは確かに存在していた。

「理想」でも「神聖」でもない。

もっと日常に密着した確かな快さ、ときめき。


 長井君は思う。

 僕の人生は、どんどんどんどん理想から遠ざかっていくなあ。


 ・・・理想、理想、僕の理想か。そんなもの、もうどうだっていい。

頭で勝手に描いていた理想を圧倒する、この強引で一途な思い。現実の力。


 それに・・・

 長井君は思う。

 相手が川村さんということになれば、例の

「十人の女性にひとりづつ」

という夢をあきらめる必要もないだろう。


清純無垢で天使みたいな男の子は、心の中でそんなことを考えていた。  

 俺、凄いな。大人の男じゃないか。

長井君は、とても得意な気持ちになった。


 でも今はとにかく・・・

となりに川村さんがいる。これからはずっと川村さんがとなりにいる。 

そのことを思うと長井君の胸はほのぼのとした感情につつまれる。川村さんのとなりはとても居心地がいいのだ。 


「ねえ長井君」 

「なあに」 

「浮気しないでね」 


こいつ、なにを言っていやがる。

人が折角、現状を納得させているのに。その思いに、穏やかに浸っていたのに。

そこは譲れないな。このままなにもかも言いなりになってしまう訳にはいかない。主張すべきところは主張しておかないと。 


「それって、ちょっと虫がいいんじゃないのかなあ」 


「なに言ってるの。長井君はさっき「それでもいい」って言ったんだからね。もうそのことについては、これからいっさい口に出したらいけないよ。相手の女の子が悲しむんだからね」 


相手というのは、自分のことだろうが。 


「ねえ、どうしたの長井君。返事は」


引き返すのなら今が最後のチャンスだ。

長井君には分かっていた。


長井君は、ほんの少しの時間、自分の気持ちを見直してみた。


・・・引き返す気持ちにはなれなかった。 


さっき人生で初めて感じた種類の、快く高揚した気持ちをもう手放したくはなかった。


 長井君は、時間でいえば、おそらくは十分ほど前に自分の心の中に起こったことを思い返した。


 川村さんが、おずおずとした目で長井君を見て、去ろうとしたとき聞こえた幻聴。

そしてその瞬間、突然沸き起こった、この女の子に対するどうしようもないほどのいとおしさ。

 

 川村さんの、その属性をいやだとは思えなくなった・・・。

いや、違う。川村さんのその属性。

 その容姿を、その性格を、その経験を、そのすべてをひっくるめて、川村さんがいとおしい。

 

 経験も?

そう、経験もだ。

そのことがなければ、川村さんは、僕のことを好きになってはくれなかっただろうから。

 そのことについて、僕に対して懸命に説明していた川村さんの姿。

僕にどう思われるかを、これほど気にする女の子がいたということに、僕は感動してしまったのだから。

 

 僕は、とにかくこの女の子を喜ばせてあげたい、幸せな気持ちにさせてあげたい、と思ってしまっているみたいだ。


 仕方ないな。

川村さんがそれを望むのだったら、もう言いなりになろう。


 長井君は心の中で微笑んだ。

そして、その微笑みは、その顔にも広がっていった。


 清純無垢で天使みたいな男の子の、すべてを受け入れた、その微笑み。


「分かった。安心して。僕は君だけを愛する。一生、君だけを愛し続けるから」   


 川村さんが、少し驚いたような表情をした。 


 長井君は、少し得意な気持ちになった。

どう、川村さん。

こんなに真面目で、素直なことばが返ってくるとは予想していなかったでしょう。


 川村さんは・・・微笑まなかった。

ちょっとだけ哀しげな顔をして静かに頷いた。

 

 川村さんが座ったまま長井君に近づいた。

そして、長井君の胸に顔を押し付けた。 


 長井君は、川村さんの背中に、そっと手をまわした。


 その体勢のまま、川村さんが、その口からことばを紡ぎ出した。

途切れ途切れに。


 「あのね、・・・長井君」

 「なあに」

 「私ね、そういう風には・・・見えないと思うけど、・・・お料理も、洗濯も、お掃除も、・・・家事するの・・・結構・・・好きなんだよ」

 「そうなんだ。良かった」

 「うん」


 川村さんから・・・伝わってくる。


 そのからだのかすかなふるえ。

 僕の制服の胸の部分を、少しずつ湿らせていくもの。


 川村さんとふたりで過ごす時間が、これからの僕の日常になるんだな。

 

 長井君は、目を瞑って、五月の清爽な大気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 この女の子は、


 長井君は、思った。


 きっと僕を幸せにしてくれる。





                                            了



「楽しい高校生活」。私は、どうだったかな。

どんな未来が待っているのか分からない。胸をワクワクさせていた時代。

いやなこと、辛いことも色々あったはずですが、もう二度と戻ることはできない、人生における黄金の日々だった。

そう思います。


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― 新着の感想 ―
[一言] 拝読させていただきました。あの頃、もっと自分が賢明で、もっと正しい選択を選べる人間だったら、と思い返しもしました。二人がこの先ずっと一緒でも、いつか別れてしまっても、この一秒一瞬はかけがえの…
[一言] 追記  別れの場面でどんなに長い期間交際していても、相手の心は繋ぎ止められないのだと思いました。
2018/08/22 08:20 退会済み
管理
[一言] 離れていってしまった心は絶対に取り戻せません。
2018/08/21 08:46 退会済み
管理
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