3 閣下の心配
ベルナールはメールソン閣下のオフィスで込み入った説明を受けていた。
「――実はかなりまずい相手から命を狙われている状況なんだ。ほら、私の代になってから強盗やら人殺しやらをやたら厳しく取り締まってきただろう? それであちこちの悪党からひどく恨みを買っていてさぁ……」
命を狙われていると言いながら、閣下はリラックスしきった様子で椅子の背に上半身を預けている。一方のベルナールは隙のない立ち姿で話を聞いていた。
閣下はベルナールの凛とした佇まいを見ていると、完成された美しい絵画を鑑賞しているような静謐な気持ちになるのだった。
「該当部署で潜入捜査に当たっていた者が、私の暗殺計画を嗅ぎ付けたらしい」
メールソンは盤上のゲームを眺めているかのように、どこか他人事めいた調子で語る。
「敵は誰です?」
「正確には、まだ絞り切れていない」
「……どういうことですか?」
ベルナールは微かに眉根を寄せた。……現状で未確定ということも、なくはないのだろうが……なんとなく違和感を覚えたのだ。
「用心深いやつらでねぇ……。諜報部がコンタクトを取れたのは、下っ端も下っ端だったんだよ。今はまだやっと敵の影を踏んだくらいのものだね」
「では、決行日は?」
メールソン閣下を狙うのは相当骨が折れるだろう。閣下の警護に当たっているのは、選り抜きの実力者たちだ。
「詳細を突き止める前に、身バレの危険があったので撤退させたから、それも不明だ。だがまぁ、大体の見当はついている。近く――凶悪犯罪の厳罰化に向けた、大規模な演説を行うだろう? やるならそこだろうね。民衆の前で私を屠れば、インパクトを残せる。後任は二の舞を恐れて、腰砕けになるだろう」
そうなれば暗黒時代の幕が開く。閣下は身近な相手に対しては非常に穏やかで気さくな態度を取るのだが、悪党に対してはまるで正反対の顔をみせる。だからそういった手合いから恨みを買うのも、当然の成り行きであるといえた。
「演説会を取りやめたらどうですか」
ベルナール自身は危険に飛び込むことを躊躇わない。この仕事に就いた時に、覚悟は決めている。おそらく他の騎士団メンバーも同じだろう。
しかし――これが閣下に関する話となると、別の考えに変わる。この優れた叡智を失うわけにはいかないと、ベルナールは固く心に誓っているのだ。
ところが閣下はこちらの心配など余計だとばかりに、にやりと笑ってみせた。アンナと同じ灰色の瞳が、アンナとはまるで違う酷薄な気配を漂わせて、こちらに据えられる。
「なぜ演説会を取りやめるんだ? 相手をおびき寄せる、絶好の機会じゃないか」
「しかし危険です。群衆に囲まれていては、警護に死角が出てしまう」
「死角がなければ、敵はのこのこ前に出て来ないよ、ベルナール。私が案外せっかちな性分なのは君も知っているよね? 駆け引きめいたことをしてでも、厄介ごとは手っ取り早く片付けたいのさ」
確かに彼はせっかちな一面を持っている。それは我慢が足りないからそうなるわけではなく、合理的な考え方をするあまりに無駄が嫌いなだけのようだ。だから合理的でありさえすれば、釣りの名人のように待つべき時は待てる人だということも知っていた。
だからこそ今のやり取り、何かが引っかかる……ベルナールは微かに眉根を寄せ、あえてさらに質問を重ねることにした。
「……どうしてそんなに焦っているのですか? 相手を罠に嵌めるとしても、もっと時を選んでもよいはずです」
「それはだね、私にもプライベートな事情があるのだよ」
突然わけの分からない理屈をこねるものだ……そう思いはしたが、ベルナールは大変良くわきまえた男であった。
「プライベートな事情なら、私はお聞きしないほうがよいですね」
「おや」閣下がくすりと悪戯な笑みを漏らす。
「将来義理の息子になるというのに、私の個人的な問題に踏み込んでこないとは……随分他人行儀だなぁ」
このからかいにベルナールは虚を衝かれてしまった。
普段は冷静沈着な彼がこんなふうに無防備な顔を晒したことに、閣下はとても満足した様子でカラリと笑った。
経験値の違いから若輩者扱いされるのは仕方がない話であるから、ベルナールは複雑な表情を浮かべつつも、別の切り口から説得に入ることにした。
「閣下、敵は相当手強いのですね?」
「そうだね。かなり」
「アンナさんは安全でしょうか?」
大切な娘さんのためにも、もう一度計画を練り直して欲しいと言外に訴えてみたのだが、閣下にそれを一蹴された。
「敵は私の命を直接取りにくるよ。だって家族に手出しをさせないために、あえて私の警護を緩めているわけだから、これで尻込みするようじゃ、腰抜けの大間抜けってことで敵のメンツも潰れるからね。ついでに言っておくと、優秀な部下がアンナの護衛にあたっているから、大丈夫だ。君以外で、私が最も信頼している部下をつけている」
その言い方でピンときた。
「――ジャンヌですね」
「そうだ」
ならばアンナについてはほぼ心配はないか……ベルナールは一番気がかりだった点に対し、閣下が最善を取っていると知り、やっと安堵することができた。しかしその一方で、閣下の無鉄砲なやり口にはほとほと呆れてしまう。娘に注意が向かないように自身の警護を緩めているって、一体どういう神経をしているのだろう。血気盛んに博打を打つような真似は、即刻やめていただきたいものである。
ベルナールは役職が平だった時代とは打って変わり、今では重要な案件を幾つも抱えているため、閣下の警護にずっと当たってはいられない身だった。ただしこのような非常事態なら話は別なので、側付に戻してもらおうと考えたのだが……こうして先手を打って「わざと警護を緩くしている」と言っているくらいだから、閣下はきっと聞き入れまい。
視線で問えば、案の定『駄目だ』と首を横に振られる。隙を作ってXデーに向けて全てが決着するよう調整しているので、これから計画を練り直すと問題が出る――閣下はそう考えているようだった。
湿っぽい空気が嫌なのか、メールソン閣下が可笑しそうに口の端を上げ、なんとも古い話を持ち出してきた。
「そういや君、何年か前にジャンヌとひと悶着あったよね」
「……そうでしたね」
二人は一時頭の痛い問題を忘れ、当時の顛末を懐かしく思い返すのだった。
***
――数年前。
メールソン閣下が、政敵から命を狙われていた時のことである。
部下のベルナールが、
「お嬢さんの警護は万全ですか?」
と尋ねてきたので、これに対し閣下は「おや」と違和感を覚えた。
ベルナールは自らの職務においては全力を尽くす男だが、余計なことはしない性質だったからだ。そのため通常ならば、このような口出しはしてこない。そんな彼が娘の警護について尋ねた。長い付き合いから、その淡々とした口調の中に、本心からの気遣いを汲み取ったメールソンは意外に感じていた。
お嬢さん――という他人行儀な呼び方からも分かるとおり、ベルナールと娘は一度も面識がないはずだった。日常会話としてメールソンが娘の話を彼に聞かせることは時折あったので、それで情が芽生えたというのだろうか? ……しかしこのクールな男が、その程度のことで?
「……優秀な部下がその任に当たっているよ」
とりあえず閣下が先の問いに答えてやると、ベルナールは小さく頷き元の忠実な猟犬に戻った。それでその場は話が終わったのだが……。
――後日ベルナールは、アンナの警護責任者が『ジャンヌ』という名前の女性騎士であることを突き止めた。ジャンヌは支部のほうに独自のコネがあるらしく、本部以外の場所に軸足を置いて活動していたので、騎士団の鍛錬場に顔を出すことがほとんどなかった。
さらにいえばジャンヌは隠密作戦を得意としており、ベルナール自身も影に徹することが多かったので、閣下という明確な繋がりがありながらも、互いにここまで接触がないままきてしまったようである。
二十代前半で閣下の右腕として仕事を任されつつあったベルナールは、その立場を利用して、『業務上の案件』と称して、ジャンヌを本部に呼びつけた。そうして鍛錬場に立ち寄った彼女と偶然遭遇したていを装って、手合わせを願い出たのだった。
ジャンヌは微かに目を見張り考えを巡らせていたようだが、やがて肩の力を抜いて、「いいわよ」と頷いた。
閑散としている鍛錬場で、二人は距離を置いて対峙する。殺し合いをするつもりはないので、使用するのは刃を潰した稽古用の模造品だ。
剣を交えた途端、二人とものめり込んだ。実際に手合わせしてみると、ジャンヌはかなり強かった。しなやかで速い。そして独特の癖があり、なんともやりづらい相手だった。野生の動物のような不規則な攻撃のリズムに翻弄される。しかしそういったジャンヌの奇策が通用したのも最初のうちだけであった。時間の経過と共に、段々と実力の差が出てくる。
ベルナールの剣は重く、速い。ジャンヌはポーカーフェイスを保ちながらも、こめかみに汗が伝うのを感じた。
――強い!
ここまで一方的に押されたのは初めての経験で、目の前の青年を驚きと共に見遣る。しかも憎らしいことに、相手はおそらく本気を出していない。こちらの力量を試すために、あえて力を引き出そうとしている気配すらあった。
鍔迫り合いで押し返そうとした途端、どうしようもない腕の痺れを覚えた。
そろそろ限界が近い。
しかし易々と勝ちを譲ってやるつもりはなかった。ジャンヌはこっそりとタイミングを計っていた。フェイントを混ぜて相手の正面から半歩身体を横にずらし、渾身の力でベルナールの剣先めがけて振り下ろす。ジャンヌほどの手練れから角度をつけて剣の先端を叩かれれば、ベルナールといえども剣先が横下に弾かれるのを防ぐことはできない。とはいえ彼の能力を持ってすれば、立て直しは比較的容易なはずだった。
本来ならば隙すらみせなかっただろう――集中さえしていれば――
ジャンヌが早口に告げる。
「この手合わせだけど、閣下には許可を取っているのでしょうね?」
問いかけと同時に、鍛錬場の入口付近で微かな足音が響いた。位置的にジャンヌからは来訪者の姿が視界に入っているが――ベルナールからは死角に当たる。しかし勘の鋭い彼ならば、音と気配だけで、誰がやって来たのか判別はできるはず。
案の定、ベルナールが背後に一瞬気を取られた。その隙を逃さず、ジャンヌは一気に彼の懐めがけて飛び込んで行く。男性騎士よりも力が弱いゆえ、必然的に最小限の動きで息の根を止める戦法が得意になる。
ジャンヌは前進するスピードに乗せて、予備動作なしで剣先を前に突き出した。それは槍のように真っ直ぐにベルナールの心臓めがけて伸びる。
――もらった――
ジャンヌは勝ちを確信した。彼の剣は下を向いている。回避行動は間に合わない。絶対に。ジャンヌの作戦に一瞬気を逸らしたベルナールであったが、ほとんど動物的な勘で視線を前に戻していた。ほぼ同時に右手首を柔軟に返す。下を向いていた剣先がしなやかに翻った。左手を剣柄に添えるようにして凪ぐように速度を乗せれば、美しい弧を描き剣先が一閃した。
――とんでもない速さだった。
懐に飛び込んだジャンヌはカウンターを食らった事実にあとで気付いたくらいだ。この一手前で、ベルナールの体勢を崩したとジャンヌ自身は思い込んでいたのだが、彼の残身には一切の隙が見当たらなかった。綺麗に、前傾気味に体重が分散されている。
ふと気付けば時間が止まったかのように、二人の剣先は互いの身体に触れるか触れぬかの位置で静止していた。至近距離で睨み合う。いや――ジャンヌのほうははっきりと敵意を剥き出しにしていたが、ベルナールはあくまでも平静な態度を保っていた。
「お見事……ところで、今のはどちらの勝ちなんだい?」
鍛錬場の入口から呑気な声が投げかけられ、メールソン閣下が気負わぬ様子で歩み寄って来た。
「……閣下が来るのがあらかじめ分かっていたんですね」
ベルナールが剣を収め、対峙するジャンヌに語りかける。そんなふうに述べる若造の口調の中に、どこか感心しているような気配があったので、これにジャンヌはますます苛立ちを募らせてしまった。刺々しい調子で口を開く。
「君が手合わせを依頼してきた時、閣下が渡り廊下を通過するのが見えた。――こちらを見おろした閣下が意外そうな顔をしたので、きっと降りて来ると思ったのよ。あなたが彼のお気に入りであるのは知っていたしね」
「なるほど、確かにあなたは強い」
ベルナールはこれほど手応えのある相手とやり合ったのは久しぶりだった。そしてこのように知略に長けた人間がアンナの警護をしてくれていると知れて満足した。
――ところが、である。彼女に信頼を寄せたベルナールとは対照的に、ジャンヌのほうはかんかんだった。
「あなた生意気ね。あたしは上官でもない人間に試されるのは好きじゃないの」
チクリと釘を刺し、足音高くその場を去ってしまう。腕組みをして成り行きを眺めていた閣下は、ジャンヌを見送り、やれやれと溜息を吐いていた。
「彼女はとても優秀な護衛だ。アンナが護衛の存在に気付いて窮屈に感じないよう、完全に隠密でことを運んでくれている。……優秀な同僚をこんなふうに敵に回すのは、お前にとっては大きなマイナスだぞ」
ベルナールはある意味周囲に無頓着であったので、自分から血気盛んに誰かに突っかかったりして問題を起こしたことはこれまでなかった。攻撃をされたら自衛のためやり返していたようだが、それは自分から何かを仕掛けるのとは話が違う。そのためそういった方面ではすっかり安心しきっていた閣下は、今更『同僚と仲良くしろ』と忠告しているこの事態に驚いていた。
ところがベルナールはまるで懲りた様子もなく、平然と言ってのけるのだった。
「僕は誰かに嫌われるのは別に構わないんです。――それで大切な者さえ守れるならば」
彼の言に閣下は呆れ、少々考え込んでしまった。
***
出会ってすぐに衝突したベルナールとジャンヌの喧嘩は、その後も長く続いたのか? いや、そんなことにはならなかった。腕の立つ騎士同士、仲直りするのもあっという間の出来事であった。
二人が初めて手合わせし、ジャンヌから、
「あなた生意気ね。あたしは上官でもない人間に試されるのは好きじゃないの」
とベルナールが釘を刺された、数日後のこと。鍛錬場にいた彼のもとへ、ふらりとジャンヌが近寄って来た。
「手合わせをお願いできる?」
どこか硬い調子ではあったが、すでに彼女は腹を立てていないようで、声音に敵意はなかった。
「ええ、もちろん」
ベルナールは後輩として礼儀正しくこれを了承した。
彼はこの頃いくらか出世し始めていたのだが、まだ影として動くことが多かったので、閣下から目立つ役職は与えられていなかった。ただし「もうすぐ立ち位置が大きく変わる。根回しが必要なので少し待つように」と内々に聞かされてはいた。
そのため現状ベルナールは、キャリア・地位共にジャンヌより明確に下の立場であった。そう考えると先日の彼のやり口は、非常に礼を欠いたものであったといえるだろう。
――剣先を静かに合わせ、打ち合いを始める。
先日のように相手を試す気持ちは微塵もなく、ただ素直に剣を合わせた。真正面から打ち合えば、千の言葉を尽くすよりも、相手の性格がわかる。
ジャンヌは安定していて、とても気持ちの良い性分であることが分かった。そしてベルナールの剣からも彼の気質がジャンヌに伝わり、次第に彼女の瞳には弟を前にしているような、温かい感情が宿っていった。
手合わせを終え壁に寄りかかりながら、ジャンヌが白い歯をみせて笑う。
「あなたって意外に真っ直ぐな剣筋なのね」
……意外にって、逆にどんなイメージだったのだろうか……。
ベルナールはふとそんなことを思ったのだが、それは聞かぬが花というものであろう。
「素直で率直だわ」
ジャンヌの口調がなんだか称賛するような調子だったので、ベルナールは小首を傾げてしまう。
「剣士としてはあまり良くないですよね」
指摘された内容は自覚していたことなので、反発は覚えなかった。ただそれについて、先輩からなにがしかのアドバイスをもらえないかと考えていた。ところがジャンヌは琥珀色の瞳に真面目な意思を宿して、ベルナールを見つめてきた。
「そんなことはない。あなたは突出しているからそのままでいい。結局ね――王道が一番強いのよ。小手先に逃げるというのは、実力が追いつかない人間が知恵を絞った結果なんだもの。私は自分の能力の限界を知っているから、勝つためにはいろいろ工夫をしなければならなかったの。それで私はこの形に落ち着いた。……別にこういう戦い方が好きってわけじゃないのよ」
とても気持ちの良い物言いだった。
相手が優れていると思えば褒めるし、自ら足りないと思えばそれをあっさりと認める。けれど自らの不足を語っていても、決して自虐的ではない。むしろできることは全てやるのだという、賢く努力家な一面が伝わってきた。
「閣下があなたを気に入っているのが、よく分かります」
平素職場では笑顔のたぐいは決してみせないベルナールであったが、この時ばかりは口元に笑みを浮かべ、仲間に対する信頼を彼女に対して感じながら、優しく瞳を細めた。
ここまでの感情を抱いたのは、閣下以外の職場の人間では、ジャンヌが初めてだった。
これに彼女は粋に笑ってみせ、
「ねぇ――君は今後偉くなりそうだから、私に敬語を使わなくていいわ」
と言い出した。
「ですが……」
そもそも『偉くなりそうだから』という、彼女の理屈がよく分からない。
「ほら、今は礼儀正しくしていても、偉くなった途端『おいジャンヌ、あれをしろ!』とかやられたら敵わないからさぁ。偉くなったあとで敬語がなくなるのは、なんだか苛っとくるわ」
それはなんと言ったものか……。
たとえ立場が上になったとしても、ベルナールとしてはそれで横柄な態度を取るつもりもなかったが、階級が上になった場合、指揮系統をはっきりさせるために、口調や態度は変える必要があるかもしれない。そのため彼女の見解に対し、はっきりとは否定できなかった。
黙ってしまったベルナールを横目で見遣り、ジャンヌはまたからりと笑い声を上げた。
「冗談よ。――元々、騎士団の仲間とは敬語を使わない主義なの。だからあたしのことは友人みたいに扱ってよ」
そう言ってジャンヌは腕を持ち上げ、さっと真横に払うようなジェスチャーをしてみせた。
「それは何?」
「あたしたちのチームが使っている暗号。――横線は『問題ない』って意味ね――だからあたしがこうしてみせたら、『気にすんな』ってことなのよ」
こんなふうに二人は仲直りを果たした。今となっては懐かしい思い出である。
――喧嘩から始まった関係であったのに、今ではベルナールのほうから恋愛相談をするまでになっているのだから、人との出会いは不思議なものである。
なんとなく、ジャンヌはベルナールのことを弟のように思ってくれているようなのだが、実は彼のほうはジャンヌのことを『姉』ではなく『兄』のようだと考えていて……さすがにこれは、本人には内緒にしているのだった。
***
――現在、執務室。
メールソンは昔のベルナールを思い出し、感慨深さを覚えていた。あれから数年がたち、ベルナールとアンナは先日ついに対面を果たすこととなった。娘に心を捧げている腹心の部下は、なんでも如才なくこなしそうに見えるのに、肝心のところはひどく不器用だった。
目の前に佇む彼を、メールソンは心配そうに見遣る。
老婆心ながらも忠告せずにはいられない。おそらくこの問題については本人が悩んで答えに辿り着かなくてはならないのだろうが、それでも彼や娘を大切に想う自分が、おせっかいを焼くくらいは許されるだろう。
「お前が娘を大切に思ってくれているのはありがたいし、程々にしておけと言うつもりもない。けれど視野狭窄に陥ってはいけないよ。アンナが大事だからと、彼女をずっとポケットにしまっておくわけにはいかないのだから」
「……私は大局を見失っていますか?」
忠告をされたことで、ベルナールは僅かに不安を感じて確認していた。
――自らの揺らぎがアンナや閣下を危険に晒すことになる――それは彼にとっては最も避けたい事態であった。
「私は君が心配なんだ、ベルナール。君はとても愛情深い人間で、愛する者を守るためなら、大きな犠牲を払えてしまうのだろう。たとえその行為で世界中の人間から忌み嫌われようとも、必要とあらば、君はきっとやり遂げる。君の弱点はその愛情の深さだな。もしかするとそれは現実逃避に近い部分もあるのかなと私は考えている。愛する者で意識を一杯にしてしまうのは、ある意味では楽なことだから」
確かにそうかもしれないとベルナールは思った。
それが愛だ、人生の全てだ、何が悪いと開き直れてしまうほど、ベルナールは能天気にはなれなかった。
自身の危うさにもちゃんと気付いている。閣下の言うとおり、いざとなったら自分は多くのしがらみや、大切にしていたはずの繋がりを躊躇いなく切り捨てて、たった一つを選んでしまうのだろう。
閣下は物思う様子で、年若い青年にアドバイスを送るのだった。
「私はもう一段階、君には高みを目指して欲しいんだ。簡単に他を犠牲にできる人間には、なって欲しくない。ギリギリまで考え続けろ。お前には不可能を可能にする力がある。両方を手に入れることはできないと諦めるな、案外犠牲を払わずとも、全てが上手くいく方法があるものだ。苦しい状況に置かれた時には、騎士の誓いを思い出せ。――正義を全うすることこそが、回り回ってアンナの安寧に繋がる」
閣下の教えはいつだって及第点が高い。
一切の甘えを許さず最適の解を求める彼のやり方が、ベルナールは好きだった。そして閣下は純粋に家族を心配しているのだろう。ベルナールが道を踏み外せば、アンナが不幸になるから。それはすなわち、ベルナールを家族として迎え入れると、メールソン閣下が認めてくれた証でもある。
もしかすると今が過渡期なのかもしれない……。
アンナのためにも、これまでほったらかしにしてきた自らの問題と向き合う時が来ている。全てのことに希薄であるのに、根の生真面目さで仕事だけはきちんとこなしてきた。けれどそれではやはり空虚さは埋まらない。
――だって彼女が手に入っていないから――
全ての根幹にあるもの、それがアンナだった。
この執着めいた強い感情は、そんなに悪いものなのだろうか。もっとバランス良く危なげなく、彼女を愛すれば良かったのか……?
けれど、どのみち――程々に彼女を愛するなんて器用な真似は、自分にはできそうもなかった。