2 アンナの戸惑い
彼が手伝ってくれた(……というかほぼ作ってくれた)おかげで、今夜のキッシュは素晴らしい出来栄えだった。
夕食の席で彼とは色々な話をしたけれど、特に印象に残ったのは、ベルナールが語った亡母との思い出だった。一度母子二人で虹を一緒に見たことがあったそうで、その情景が今でもはっきりと記憶に残っているとのこと。
それは寒い季節に見た虹で、ひっそりとしていて孤独なのに美しかったと彼は語った。彼はお母様と手をつないでそれを見たのかしら……アンナは小さな男の子がじっと空を見上げている様子を想像して、胸が痛むのを感じた。彼が覚えているその景色が、むせ返るような暑い季節の一幕ではなく、ある寒い日の出来事だったというのが、なんだかとても彼らしいと思ったのだ。
――彼は夏よりも、冬のほうが似合う気がする。
穏やかで温かな瞳をしているけれど、それはもしかすると、長い冬の寒さを耐えてきた過去があり、その経験が、春の訪れを彼に感謝させているのかもしれなかった。
そうして食事もそろそろ終わろうかという頃になって父が、
「そういえばアンナ。確か新しい家具が必要だとか言っていなかったか?」
などと唐突におかしなことを言い出したのだ。
「家具は別に入り用ではないわ。……もしかしてこのあいだカップを割ってしまったから、その替えが必要だという話?」
「ああそうそう、そう」
父はふたたび『平坦な調子で喋る病』に取り憑かれてしまったらしく、トントンと卓上を指で叩きながら、アンナとベルナールを交互に見遣る。
その意味深な動きにアンナが困惑を深めていると、なぜか無関係なはずのベルナールが視線を強めて父を見据えた。
「――閣下」
彼の小さな呼びかけに対し、
「分かっている。ちゃんとアシストするから」
意味不明な囁きを漏らした父が、諦めたように溜息を吐く。
「アンナ……ここにいるベルナール君が良い店を知っている。一緒に行ってもらったらどうだろうか?」
「ええ?」
このあまりに図々しい父の言い草に、アンナは大層驚いてしまった。さすがにこれは部下をこき使い過ぎだし、公私混同もはなはだしいと思うのだが……。
「そんな、ベルナールさんに悪いわ。お忙しいでしょうし」
慌てて予防線を張ってしまったのは、面倒事を押し付けられたと迷惑な顔をする彼を見たくなかったからだろうか。しかし意外にも彼は、前向きな姿勢をみせてくれて……
「よろしければ、ご一緒させていただけますか?」
「ええと……」
アンナはこくりと唾を飲み込んだ。
彼は……上役の頼みを断れないだけかもしれない。窺うように彼を見つめてみるものの、嫌々どころか穏やかで優しい視線が返ってくるばかりで、アンナは正常な思考力が奪われていくような感じがした。
「それじゃあ……あの、お願いします。ベルナールさんが一緒に行ってくださるなら、嬉しいです」
つい素直に吐露してしまい、何を言っているのかしらと顔が赤くなってくる。極度の気恥ずかしさから俯いてしまったアンナは、ベルナールが切なげに瞳を細めたことに、まるで気付かなかった。
***
彼が帰ったあとで、アンナは早速父に苦言を呈することにした。
「父様……買いものについて行けだなんて、ベルナールさんはきっと迷惑に感じたはずよ」
「どうしてだい? とても喜んでいたようだが」
父はまるで千年生きて悟りを開いた人のような凪いだ目付きで、そんなことをのたまう。
「それは彼が良い人だから気を遣ってくれただけよ」
「いいかいアンナ」途端に父はきゅっと眉を顰めて難しい顔になった。
「それはあまりに馬鹿げた意見だと言っておく」
「どうして?」
「なぜかというと、彼は気遣いとは最も縁遠いところにいる人間だからだ」
……意味が分からない。それってある意味悪口じゃないの?
しかし父の醸し出すこの常ならぬ迫力に、アンナはただ頷くことしかできない。
「彼は良い人間だが、自己主張はきちんとするタイプだ。特にプライベートに関して嫌なことは決して受け入れたりしない。だから彼が気持ちよく承諾したことについて、『もしかして迷惑かもしれない』とか余計なことは考えなくていいんだ。そんなことより……むしろ君はどうなの? と私は問いたい。さっき君は、彼が一緒だと嬉しいと言ったが、あれは本心? 彼と出かけるのは嫌だったりするのかい?」
「そんなことないわ。ベルナールさんってとても素敵だもの」
考えるまでもなく、彼を称賛する言葉が口から飛び出していた。あんなに善良な人に対して悪感情を持っているだなんて、ほんの少しでも誤解されたくないと思ったせいなのだけれど、父は別の意味に捉えたらしい。
「なんと、我が娘は面食いだったのか……」
お父さんショックだな……とかぶつぶつ呟いているのを見て、アンナは慌ててしまう。
「いえ、あのね――面食いとかじゃないから。あそこまで顔が整っていると、むしろ私は尻込みしてしまいます。だからそうじゃなくて……彼ってなんていうか、その……瞳がとても優しいと思ったの」
「……ああ、そう……」
父がふたたび遠い目になる。その後ギクシャクしたような、なんとも気まずい沈黙が流れた。やがて気持ちの整理をつけたらしい父が、穏やかに口を開いた。
「実はね……こうなったら話してしまうけれど、今回彼を連れて来たのは、ちょっとしたお見合いのつもりだったんだよ。顔合わせしてみて、気が合うようなら『婚約』って段取りになっているから」
これを聞かされたアンナは天と地がひっくり返ったような衝撃を受けた。全身の毛穴が開ききったみたいな、未知の感覚に震える。
「何? なんでそんな、急に――」
「急かな? まぁ恋なんて急に始まるものだろう」
……なんなの、そのわけの分からない理屈……。
父はとても頭が良いはずなのに、一周回って、時折こんなふうに支離滅裂な発言を繰り出すことがあった。息を呑む娘を見遣り、メールソンが穏やかに語りかける。
「まぁほら……あらかじめ縁談だと教えてしまって、緊張するよりはいいかと思ってさ?」
「彼はそれを……縁談だということを、知っているの?」
「もちろんだよ。彼は結婚を考えてもいい年齢だし」
「でもベルナールさんは、女性に人気がありそうよ」
誰かに結婚相手を世話してもらう必要なんてないくらいに。それどころか……整理券が必要なのではないかしら?
「ところがねぇ……彼は仕事一筋の堅物で、これまで浮いた話一つなかった男なんだよ。……まぁそれは、私が知る限りではという意味だが」
あんな素敵な人に意中の相手がいないだなんて、そんな奇跡みたいな話があるかしら? そんなの嘘みたい……とアンナは思ってしまった。
***
――後日、アンナは友人のもとを訪ねていた。
友人のエルミーヌは植物に関係する仕事をしていて、場合により学者と薬剤師の身分を上手く使い分けているようだ。白いガーデンテーブルを挟んでエルミーヌと向かい合い、彼女に縁談の顛末を聞いてもらうことに。
今二人がいるのは、かなりしっかりした造りの温室の中である。穏やかな陽光が射し込む室内はポカポカと温かく、立体的に配置された植物がなんとも見事で、居心地が良かった。
「実は私、お見合いをしてね」
思い切って話し出すと、エルミーヌはさして驚くこともなく、ユーモラスな仕草で肩を竦めてみせた。
「実は私、それ知ってた」
アンナは呆気に取られてしまった。
「え、どうして?」
「あなたのパパさんから聞いていたから」
「それって、いつ?」
「……結構前かな」
「そんな、嘘でしょう? 私だって昨夜聞いたばかり――というか、昨夜がお見合い本番だったんだけど、終わったあとに聞かされたくらいなのに」
「人生、そんなもんよ。大事なことって、意外と準備する時間も与えられず、その時が来てしまう」
こんな具合にエルミーヌにシレっと流されてしまったのだが、アンナとしてはどうにも納得がいかない。
赤の他人には知らせてあったのに、当人――しかも娘には黙っていたって、どうなの?
エルミーヌがまじまじとこちらを見つめて、軽く眉を顰めて続ける。
「まぁまぁ、そう拗ねないのよ。あなただって結局、彼のこと気に入ったんでしょう? 良かったじゃないの」
「それは……そうだけど……」
「メールソン閣下がセッティングしたお見合いってことで、あたしは成功率100パーセントだと確信していたわよ。あの人が変な男を仲介するわけがないし。だからあたしはもう、あんたのためにバチェロレッテ・パーティを企画しているからね」
「バチェロレッテ・パーティって何?」
「それは花嫁の……って、説明が面倒だわ。とにかくあんたは、どっしり構えていればいいのよ。それでさ、ベルナール氏はどんな人だったの?」
アンナはこれで気を逸らされてしまった。彼のことを思い出すと、なんだか少し……ソワソワしてしまうのだ。
「……ねぇ、信じられる? 彼ってとってもハンサムで、それでいてとっても親切なの。忙しいでしょうに、今度、買いものにも付き合ってくれることになっていて……。仕事一筋で、軽薄なところもないみたい」
エルミーヌは気取らない仕草で紅茶をすすり、アーモンド型をした奥二重の瞳をすっとすがめた。
「疑うわけじゃないんだけど……。そんなに良い男が遊びに興味ない堅物って本当かなー。港ごとに女がいそうだけどね」
ざっくばらんで、なんとも慎みの足りない物言い。
エルミーヌは卵型の女性らしいフェイスラインに、長めの上品な鼻梁、形の良い薄い唇と、典型的な美人顔をしているにもかかわらず、中身はまるでしっとりしていないという、残念美女であった。それでも決してモテないわけではないのだ。本人も異性に対してはそれなりに――いや、かなり興味はある様子。
けれどまあ、エルミーヌは腕っぷし自慢の荒くれ漁師よりもよほど豪気な性格をしていたので、並みの男性では彼女に太刀打ちできないのではないかしら……とアンナはこっそり考えていたのだが……。
エルミーヌはせっかちにカップをソーサーに戻し、行儀悪くぺろりと上唇を舐めてから続けた。
「そうね、じゃあこうしましょう。あたしがそのベルナールさんとやらを見極めてあげる。今度二人でデートに行くって話だったじゃない? その時ここに連れてらっしゃいな」
デートというか、ただ新しいカップを買いに行くだけなんだけど……とそこまで考えて、『あらだけど、二人きりで出かけるわけだから、それって確かにデートね』と遅ればせながらやっとその事実に気付いたアンナであった。
そしてエルミーヌの提案により、いつの間にかこの温室がデートコースに加えられているという……。
さぁ決まりね、と彼女に言われてしまうと、アンナはいつだって勢いに負けてつい頷いてしまう。
言葉を取り繕わないのでちょっとつっけんどんに思われることも多い子だけれど、面白くて頭が良くて――とにかくアンナは彼女のことが大好きなのだった。アンナが少しぼんやりしたところがあるので、姉御肌な彼女が何かと世話を焼いてくれるのは、互いに良かったのかもしれない。
友人に見極めてもらうためにベルナールをここへ連れてくるなんて、彼を試すようで気が引けたのだが、アンナはいつだってこのしっかりした友人に世話になってきたものだから、彼と会ってもらいたいという素直な気持ちのほうが強かった。
そんな純粋培養で育ったかのようなアンナを案ずるように見遣り、エルミーヌが付け足す。
「今度彼に会ったらあなた、縁談についてどう考えているのか訊いてごらんなさいよ。遊び人が真面目なあんたを騙して、結婚後も上手いことやるつもりならあたしも黙っていないけどさ、もしもその男が真面目なタイプなら、縁談について多少受け身でいても許容範囲でしょ? 仕事にのめり込んでいたものだから、自分のことはあと回しになってしまった――それで相手を探すのも億劫になって、上司の勧めに従っただけかもしれない。だけどそれはそれで、パパさんの語った内容とも矛盾しないわけだし、裏表はないってことじゃない?」
とにかくエルミーヌは彼がひどい遊び人かどうかが気がかりらしかった。軽薄な人でないのなら、彼が縁談にそこまで前向きじゃないとしても構わないんじゃないかというニュアンスでものを言う。
実はアンナとしてはベルナールが遊び人かどうかについては、さして心配はしていなかった。というのもすでに彼と直接会っているため、その誠実な人柄については、この目で確認済だったからだ。
それなのにエルミーヌの台詞を聞いている内に、すっかり気が重くなってしまったアンナであった。
……自分は一体何に引っかかっているのだろう? アンナ自身にもよく分からなかった。
「自分で相手を探すのが億劫になって……か」
エルミーヌの台詞を繰り返せば、正体の分からない焦りが込み上げてくる。
縁談を受ける理由は人それぞれであろうし、確かに彼女の言うとおりで、本人が真面目なら背景など構わないはずだ。彼はとても素敵な人だし、父が娘に良い相手を探してやろうと相当頑張って話を纏めてくれたのだと考えると、素直にありがたい。けれど本当に……彼はこの縁談についてどう考えているのかしら……どうしてもそこに行き着いてしまう。
父は縁談については彼も承知していると言っていたのだけれど、肝心の彼の気持ちがよく分からないのでは、アンナの心は宙ぶらりんのままだ。落ち込んでしまったアンナを見遣り、エルミーヌが焦ったようにフォローを入れる。
「まぁほら、始まり方なんて別に気にしなくていいじゃないの。結婚したあと彼があんたのことを大事にしてくれるかどうか――そこが肝心でしょ?」
「ごめんなさい。なんだか私……混乱しているみたい」
アンナは頬に手を当て、はぁと思わず溜息を吐いてしまった。視線をさまよわせて考えを巡らせるうちに……不意に、ある真相へと辿り着いていた。
――もしかすると欲張りになっているのかしら。
彼とは一度会ったきりであるというのに、アンナは確かにあの時『何か』を感じた。だからこそ彼のほうもアンナに対して運命的な『何か』を感じてくれていたらいいのに――
たぶんそんなふうに期待してしまっている。アンナは、自分がベルナールに恋しかけていることに気付いた。