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1 縁談

 

「あなたってとっても器用ね」


 慣れた手付きで果物の皮剥きをする夫を眺め、アンナは思わず感嘆の声を漏らしていた。


 ナイフを巧みに操りながらベルナールはくすりと笑みを漏らし、陽だまりを思わせる温かな視線を彼女に向けた。


「器用な男は好き?」


「そうね、もちろん」


 だってあなたは器用だもの、好きに決まっているわ……そう結論付けたあと、ふとあることに思い至って慌てて付け加える。


「あ、でも――あなただったら不器用でも、きっと素敵なはずよ」


「それは嬉しいな」


 ベルナールが口角を微かに上げて悪戯に微笑むものだから、アンナは思いがけずドギマギしてしまった。


 彼はとても親切で穏やかな人なのだけれど、時折こんなふうに、なんともいえない艶っぽい雰囲気を醸し出すので、夫婦となった今でもアンナは翻弄されっぱなしなのだ。


 こんな妻を彼はきっと可笑しく思っているに違いなく……アンナとしてももう少し体裁を繕いたいところではあるのだけれど、一枚も二枚も上手うわての彼を前にすると、平静を保つことさえ一苦労なのだった。


 気持ちを落ち着かせる為に視線をさまよわせれば、籠に積まれた黄色の果実が視界に入った。


「……ねぇ私、梨を見ると、あなたと出会った日のことを思い出すわ」


「ああ、そうだね」


 ベルナールも手を止めて、フルーツ籠を見遣った。


 二人が見合いをしてから結婚式を挙げるまでは、紆余曲折あったものだ。あとになってみれば、なんだかんだ良い思い出ばかりであるのだが、かなり濃い時間を過ごしたのも事実で……当時のことを思い返すと、なんとなくしんみりしてしまう二人であった……。



 ***



 帰宅した父を迎えに玄関口まで出て来たアンナは、


「こちら部下のベルナール君だ」


 と突然一人の青年を紹介され、少々戸惑ってしまった。


「はじめまして、アンナさん」


 その青年は真っ直ぐな気性を思わせる澄んだ瞳をこちらに合わせて、礼儀正しく挨拶した。低く落ち着いた声音であるのにぶっきら棒な感じはしなくて、ずっと聞いていたいような気持ちにさせられる優しい声だった。


 普段あまり物怖じしないほうだと自認しているアンナであったが、今回ばかりは何だか気圧されたような心地になり、無意識に半歩ほど身を引いてしまう。


 ……というのも彼はずば抜けて顔立ちの整った男性であったからだ。艶やかな癖のない黒髪は清潔感があり、涼しげな瞳には力強さと柔らかさが同居している。


 鼻梁のラインの美しさは文句のつけようがないほどで、全てが完璧に調和され、華美でありながら清廉であるという、不思議な雰囲気を漂わせているのだった。


「は、はじめまして……」


 なんとか言葉を押し出すが、喉につかえてどもってしまう。


 彼は誰かに見惚れられることはきっと慣れっこなのだろう。少々挙動不審になっているアンナを奇妙な目で見ることもなかった。それどころかむしろ親しみを込めた笑みを口元に乗せて、持っていたフルーツ籠を掲げてみせた。


「美味しそうな果物が手に入ったので、よろしかったらどうぞ」


 籠に盛られているのはこのあたりでは希少な果物だった。これを見てアンナは瞳を輝かせた。


「私、果物の中では梨が一番好きなんです。ありがとうございます」


 初対面の緊張がいくぶん解れ、彼女らしい柔和な笑みが浮かぶ。えくぼが浮かんだチャーミングな笑顔を前にして、ベルナールの瞳が微かに揺れた。


 アンナは彼のこのちょっとした変化に気付き、胸の中を掻き回されるような不思議な感覚に襲われた。上手く説明できないのだが――どこか懐かしいような、大昔に別れたきりの大切な人についに再会できたような、切ない気持ちが湧き上がってくる。


 どうしてそんな気分になったのか、自分でも分からない。


 ――もしかすると彼の瞳に一瞬浮かんだように見えた切なげな光の中に、アンナの記憶を揺さぶる何かがあったのかもしれない。


 もう一度彼の瞳を覗き込んでみると、そこには従前の穏やかな光があるばかりで、先ほど感じ取ったはずのあの奇妙な揺らぎのようなものは跡形もなくなっていた。あれはただの勘違いだったのねと、アンナは思うことにした。


「――僕も世界一好きです」


 ぼんやりと考えごとをしていたアンナは、彼が口にしたその台詞ではっと意識を引き戻された。ふと気付けば蜂蜜よりも甘く蕩けるような笑顔がこちらに向けられている。


 それであっという間に顔が熱くなってしまった。心拍数が上がり心の中が乱されて、そして一拍たってやっと言葉の意味を理解することができた。


 いやだわ……『世界一好き』って『梨』のことね? 変に動揺してしまって恥ずかしい。アンナが照れながら微笑んでみせると、一連の流れを黙って眺めていたメールソン閣下が不自然なほど平坦な調子で割って入る。


「立ち話もなんだから、アンナ」


「あ、ごめんなさい、そうですね。……あの、ベルナールさん夕食は?」


 アンナが小首を傾げて尋ねると、彼は控えめに「まだです」と答えた。


「じゃあうちで食べていったらどうかな」


 メールソンがまたもや平坦な口調で傍らに立つ部下に言う。


「しかしご迷惑では……」


 生真面目な調子でベルナールが遠慮するので、アンナは彼を見上げ心を込めて誘った。


「あの、よろしければご一緒に。ぜひ」


「ありがとうございます。……ではお言葉に甘えて」


 目尻を微かに下げて誘いに応じたベルナールは、社交辞令ではなくなんだか心の底からほっとした様子に見えたので、どうしてだかアンナは彼に強く惹きつけられてしまった。


 呼吸をするごとに互いに深くなじんでいくような、不思議な繋がりを彼に対して感じた。


 ……これは何かしら……。


 初めて味わう感覚にアンナはすっかり戸惑ってしまう。先に台所に取って返したアンナの背中を見送ったあと、メールソンは部下に呆れたような視線を送った。


「……お前確か、梨は好きじゃなかったよな?」


 世界一好きですってなんだよと、若干引き気味の親心が顔を出す。『梨』が世界一好きで文脈合っているよな? それともそれは『娘』のことだったりするのかい? そもそも君は彼女の父親が目の前にいるってこと、ちゃんと自覚しているんだろうね?


 これに対し部下のベルナールは声のトーンを落とし、閣下を叱責(!)するのだった。


「今日から大好物です。……いいから黙ってください」


 おいおい、ずいぶんな言い草じゃないの? メールソンはやれやれと片眉を上げる。


 というか……この若い二人の甘ったるい空気の真っ只中にこれから放り込まれるのか? それってなんの罰だ? とげんなりせずにはいられない。


 職場でのクールな印象から、ベルナールという男は意中の相手に対しても硬派に線引きをするタイプかと思っていた。しかし今目の前にいる男は娘に対して、ただただひたすら甘く優しく親切(ただし娘の父親に対しては若干ぞんざい)なただの好男子ではないか! メールソンはこの事態に内心激しく動揺していたのだが、培ってきた人生の経験を生かし、なんとか精神を凪いだ状態に保った。


 しかし自我を押さえつけ過ぎた副作用なのか、先ほどから台詞が若干棒読みになってしまっているのはご容赦いただきたいところである。


 玄関口で上着を脱いで吊るしたあと、


「食事の準備、アンナは大丈夫かな……」


 メールソンが今更な心配をして娘を追って厨房に向かったので、ベルナールもそれにならった。


 閣下が先に中に入るとすぐに、


「父様、お客様を連れて来るならあらかじめ言っておいて欲しかったわ」


 とアンナが言っているのが聞こえてきた。


「夕食に誘っておいてなんだけれど、おもてなしできるようなものがないの」


 どうやら困っているようなので、ベルナールも厨房に入って行く。


 台の上に土産の梨を置き、


「支度を手伝います」


 と申し出ると、これにアンナは目を丸くした。


「いいえそんな、とんでもない!」


 アンナとしては厨房に男性が立つという話はあまり聞いたことがなかったし、だいいち客人に手伝いをさせるなんてありえないことだ。


 ところが、


「ぜひやらせてください」


 ベルナールが穏やかでありながら引く気配がなく続けるもので、困ってしまって父を見遣った。


 父は一瞬への字口になったあと、すっと瞳をすがめて、先ほどからおなじみになっている平坦な口調で促す。


「……いいんじゃないか? 手伝ってもらえば」


 若干拗ねているように感じられるのだが、どうしたのだろう?


「ええ? だけど……」


「彼に手伝ってもらいなさい。遠慮は無用だ」


 きっぱり父に言われ、こうなってはアンナも頷くしかない。父が出て行き、厨房に未婚の男女が二人きりで残されるという、中々に奇妙な状況ができあがる。


 調理台の前に彼が並んで立つと、腕と腕がくっつきそうになるくらいに距離が縮まった。アンナは初対面であることも忘れ、傍らの彼を見上げて、つい素直な感想を漏らしていた。


「……ベルナールさんってとても背が高いんですね。並ぶと私、子供のようだわ」


 目の位置が彼の肩よりも下にくる。すらりとしていて涼しげなので威圧感はないけれど、これだけ身長差があると圧倒されるものを感じた。


「子供のよう、ですか? 僕からすると、あなたは何もかもが理想通りに見えますが」


 なんだか際どい台詞だわ、とアンナは照れ臭く感じてしまう。おそらく彼には長身ゆえの悩みがあって「あなたくらいのサイズ感がちょうどよいですよ」と言いたいのだろうけど、なんだかこれが口説き文句に聞こえてしまうのは、受け手側の問題なのだろうか……。


「もしもベルナールさんが私と同じ背丈だったら、剣術ではとっても苦労されたことでしょうね?」


 ふとおかしな妄想が頭に浮かび、アンナは瞳をきらめかせて尋ねてみた。アンナが持ちかけた『もしも』遊びに、ベルナールは楽しげに応じてくれる。


「確かにリーチが長いのはそれだけで有利でしょうが……上背があるから無敵というわけでもないんですよ。自分の体格に合った戦い方がありますので」


「それじゃあ、女の私でも鍛えたら強くなれますか?」


「そうですね、きっと強くなれます」


 ベルナールは大変よくできた人で、アンナの無邪気な問いを頭ごなしに否定したりはしなかった。細かい点だけれど、こういう気遣いのできる人って好きだわとアンナは思った。ただの軽薄なお愛想ではなくて、他者を応援できる人特有の誠意と優しさのようなものを感じる。彼女が密かに感心しているあいだに、彼が先を続けた。


「それにあなたには戦術上有利な点もありますし」


「有利な点ですか?」


「可愛らしい見た目で相手の油断を誘えます」


 可愛らしい……その単語に反応してアンナの頬にさっと朱がさした。しかしこういった台詞を口にしても、ちっとも軽薄に見えないのが彼のすごいところだ。


 凛として一本筋の通った硬派さがあるからだろうか。誠実なのにとても当たりが柔らかくて楽しくて、不思議な人だとアンナは思う。


 なんとなく無口になってしまったアンナにベルナールが語りかける。


「あとは……あなたが最強になれる、とっておきの良い策があります」


 秘密めかした彼の言に思わず、


「えっ、それはぜひ知りたいわ」


 と食い気味にお願いすると、ベルナールは口元に笑みを乗せて答えてくれた。


「私を護衛につけてください。――何があっても絶対にあなたをお護りしますから」


 この意外な申し出にアンナは驚いてしまった。


 なんて気の利いた社交辞令なのかしら! こんなふうに誠実な物腰で言われては、軟派な人だと気を悪くするはずもないし、これでトキメかない女性なんていないんじゃないかしらと思う。アンナは調理台の端をきゅっと強く握り、照れながらなんとか言葉を押し出した。


「……あなたが護ってくださったら、きっと私は世界一安全でしょうね。だけど……あなたに護衛をお願いする対価としては、今夜夕食に一度ご招待したくらいでは全然足りないと思うわ。実は私……料理があまり上手じゃないんですもの」


 申しわけなさそうに眉尻を下げるアンナを見おろして、ベルナールが穏やかに語った。


「僕は母子家庭で育ち、その母も子供の頃に亡くなってしまいました。それ以降、天涯孤独の身です。ですから家庭料理には特別な憧れがあって……こうしてご一緒できるだけで、とても嬉しいんです」


 照れたように語る彼の顔を見て、アンナは胸の奥のほうがきゅうと引き絞られるように痛んだ。


「じゃあ……父と私と、皆で一緒に食事をすれば、それだけで美味しく感じられるかしら?」


「ええ、きっと」


 そうよね、食事はその場の雰囲気も大事だもの。それでアンナは気を取り直して、食事の準備に取りかかることにした。


「具沢山のキッシュを作ろうと思うのですけれど……苦手ではないですか?」


 メインを決めないと……と考えながら尋ねると、彼が優しい瞳でアンナを見おろす。


「大好きです」


 アンナは口を開きかけ――結局言葉を呑み込んでしまった。


 なんだかこれって……すごく……


 先ほど梨の話題の時も感じたことだが、彼はもう少し言葉の使い方――『相手に与える威力』というものを考慮したほうがいい。


 こんな素敵な男性に、瞳を見つめられて「大好きです」と言われてしまうと、違う意味だと頭では分かっているのに、心臓が飛び跳ねてしまう。


 駄目だわ……冷静にならないと……


 それで野菜を洗おうと水を張ってあった桶に手を伸ばそうとしたら、ベルナールが横からさっと彼女の手をすくい、


「冷たい水であなたの手が荒れてしまいます」


 とか大真面目に言い出して、その後もなんでも代わりにしてくれようとするのには少し困ってしまった。なんだかんだと客人に色々やってもらうのは、招く側のマナーとしてどうなの? とか思わなくもないのだが……穏やかそうに見える彼は意外と主張を通すのが上手くて、アンナは次々と仕事を奪われてしまった。


 おまけに彼は驚くほど手先が器用で、アンナがやるよりもずっと手早く綺麗に、なんでも処理することができるのだった。




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