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5 ベルナールは善き夫

 

 ベルナールは寝室に入り、静かにベッドの端に腰掛ける。起こさないよう細心の注意を払いながら妻の寝顔を眺め、ベルナールは視線を和らげた。


 彼女を手に入れるまでの十か年計画は、本当に長く険しい道のりだった……。


 ――ベルナールは貧しい家の出で、騎士団に入った十代前半の頃は、栄養状態の悪さからとても身体が小さかった。


 当時の騎士団は苛めや腐敗が横行しており、家柄も体格も劣る彼は当然のように虐げられた。きつい仕事ばかりを割り当てられ、ボロ雑巾のようになるまでこき使われる日々。華奢で小柄なせいで実年齢よりも二つ三つ年下に見られ、馬鹿にされていた。


 仲間からはそんな扱いを受けていたし、外の人間も大抵似たり寄ったりの態度だった。騎士目当てで集まって来る若い女たちは、みすぼらしい子供(ベルナール)のことなど歯牙にもかけやしない。視界にも入っていないようであった。ずっと暗い穴の中にいるみたいで、時折息苦しさに叫び出したくなった。


 そんなふうに不遇の子供時代を過ごしていたベルナールであったが、つらい状況にあっても己を腐らせてしまわない、強い自制心が彼には備わっていた。


 彼はこの頃からクレバーで我慢強かった。周囲を観察し、大局的に物事を眺める癖がついていた。だからじっと耐えられたのだと思う。いつか花咲く時が来ると信じて、精進し続けた。そんなふうに耐え忍ぶ彼に、明るい兆しが見え始める。


 彼が十四になったばかりの頃だ。新しく騎士団にやって来た統括本部長は、元々王宮の事務畑にいた人物で、名目上は会計などの書類関係を見るために異動が決まったのだと噂されていた。


 学者あがりで、かなり頭が切れるという。権力の中枢部に太いパイプを持ち、ここの無軌道なやり方とは真逆の、合理的で理性的な手法を好む人物らしかった。


 このように事務方の人材がスライドしてくるのは異例中の異例であり、組織で何かが起きているのは確かだった。


 新しい風が吹けば、この腐った組織も変わるかもしれない。ベルナールはその一縷の希望を胸に、その日も力仕事を黙々とこなしていた。


 柵の補強工事を申しつけられたのだが、当然誰も手伝ってはくれず、一人黙って穴を掘っていた。作業を続けるうちに、世界中で一人ぼっちのような孤独感に襲われる。誰もベルナールがここにいることを知らない。このまま姿を消したとしても、誰も気付きもしないのでないだろうか……。


 突然穴の上から「ねぇ」と可愛らしい声が降ってきた。驚いて顔を上げれば、切り取られた空をバックに背負って、十歳くらいの女の子が穴の縁からこちらを見おろしていた。


 ブルネットの髪の可愛らしい少女は、悪戯に瞳をきらめかせて、穴の下にいる彼に語りかけてきた。


「あたし騎士団の中にこっそり潜入したいの。無理かしら?」


 ……無理に決まっているでしょ。


 手の甲で汗と泥を拭いながら、呆れてしまう。


 年を訊くと、九歳だという。……自分より五つ年下だ。しかしベルナールが幼く見えるのと、栄養状態が良いらしいその子は大人びて見えたので、体感としては二歳程度の差に感じられた。


 彼女はぐいっと腕を伸ばして来て、彼のほうにひらひらと振ってみせた。


「……何?」


「あなた、上がってきてよ。どうやって潜入するか、一緒に考えて?」


 彼女の白い手を見て、触れることをためらった。自分が触って汚してしまうのが嫌だったのだ。視線を逸らすようにして梯子を上がったら、最後のところで彼女はベルナールの手を取り、勝手に引っ張るようにして、地上に出る手伝いをしてくれた。


 この突然の接触に驚いて本人を見遣ると、彼女は手伝ってあげたわとなんだか得意になっているようである。彼女の行いは、まるで介助の役には立っていなかったけれど……なんだか胸がざわついた。


「どうして中に入りたいの?」


 気を紛らわすように尋ねれば、


「父さまが、ここの偉い人なの」


 と少女が屈託なく答えてくれた。


 父さまが、ここの偉い人――? 彼女の髪と瞳の色を見て、面影を重ね、もしやと思った。


 着任時に彼が全団員を集めて挨拶した時、遠目ではあったが、確かにベルナールはその姿を見ているのだ。


 胸騒ぎを覚えながら名前を尋ねると案の定、アンナ・メールソンとの答えが返って来た。


 ――やはりメールソン閣下のお嬢さんか! 


 それを聞いた瞬間、ベルナールはここ最近で一番心拍数が上がった。そんないいとこのお嬢さんが、こんなふうにフラフラ一人で出歩いているとは! 危なっかしいにもほどがある。悪夢以外の何ものでもなかった。


「潜入しなくたって、君なら申請すればすぐに入れるよ」


 いやむしろ、潜入を諦めた彼女がこのまま帰ってしまうほうが、安全上の観点から考えてマズイかもしれない。


 要人の子供が一人で歩き回っていて、帰路に攫われたりでもしたらと考えるとぞっとする。


 とにかく彼女を閣下のもとまで送り届けるべく、段取りを組まなければとベルナールは思った。


「あら、だけどこっそり見たかったのよ、父さまの仕事場を」


 こちらの気も知らず、アンナは呆れるほど呑気だった。


「それはちょっと難しそうだね。君は女の子だし、ここでは目立つ」


「そうね、男装してくればよかったわ」


 えくぼを浮かべて彼女は笑った。それは陽だまりを思わせる、見ているこちらの心がほっこり温まるような優しい笑みだった。


 好奇心旺盛な彼女は目に映るもの全てが気になるらしく、あれやこれやと尋ねてくるので、ベルナールはその都度会話をしのぎながら、彼女を伴って正門に向かった。


「ちょっと待っていて」


 一旦彼女のそばを離れ、代理で面会申請を行う。アンナは(好きにお喋りしていたはずなのに)いつの間にか門の前まで辿り着いていて、事態がどんどん進んでいくことに感心しきりのようだった。


「それじゃ、僕はこれで」


 社会的立場が違い過ぎるのでこれ以上気安い真似もできない。ベルナールは自らの立ち位置を自覚しながら、別れの挨拶をして立ち去りかけた。


 すると、


「ありがとう! あたしやっぱり、ここへ来てよかったと思う。あなたとお喋りもできたし」


 アンナが慌てた様子でそんな言葉をかけて来た。ベルナールは思わず足を止め、戸惑いのあまり眉尻を下げてしまった。


「僕と?」


「だって同じくらいの歳で頑張っている人がいると思えば、あたしも頑張れるもの。……そうだこれ、良かったら」


 彼女はこちらに駆け寄って来て、クッキーの入った可愛らしい包みを差し出してきた。


「あ、これは大人が作ったものだから、ちゃんとしているわよ? 変なものじゃないから、安心してね」


 こんなふうに人間扱いされたのは久しぶりだったから、どうしていいのか分からなくなってしまった。この時のベルナールは真顔で礼を言うのが精一杯で……とにかく逃げるようにその場を立ち去った記憶がある。


 これがベルナールの初恋だった。


 この時、彼は思ったのだ。この先の長い人生で、もう一度二人の運命が交差する奇跡が起きたならば、その時自らを恥じないで済むよう、ちゃんとした大人になっていたい。その思いが以降、彼を支える力となった。


 そしてひたむきに努力する彼に追い風が吹いた。アンナの父であるメールソン閣下は、驚くほど高潔であったが、それと同時にまるで抜け目がなく、頭が切れて、やるとなったらとことん苛烈(かれつ)にやり切る人だった。


 彼は騎士団の古い体質を一掃するため、持てるコネを全て使いきり、数年という短いスパンで組織を制圧してしまったのだ。彼が統括するようになってから、団は完全な実力主義に切り替わり、そのことがベルナールにとって有利に働いた。


 閣下はすぐにこの若い才能に目をつけ、ベルナールを懐刀として重用することとなった。閣下がある時「一度家に食事に来ないか」と誘ってくれたことがあったのだが、ベルナールはまだ彼女に会える段階ではないと考え、丁重に辞退した。


 それから年月がたち、やっとある程度の地位に就けたとベルナール自身が納得できた時、彼は改まった調子でメールソン閣下に切り出した。


「お嬢さんと結婚したいのですが」


 すると、思い切り呆れられてしまった。


「娘と会ったこともないだろうに」


 ざっくばらんにそう言い返した閣下は、戸惑った様子で顎を引き、こちらの様子を窺っている。


「そうでもないんです」


 昔の思い出を告げたところ、なぜか彼に少し苦い顔をされてしまった。


「うーん、だけどなぁ……。いや、お前はいい男だし、人間的に問題はないのだが……なんていうか……初恋を引きずっているというのが、ちょっとなぁ」


 ちょっとなぁって、なんでだよ、とベルナールは軽く眉を顰める。メールソン閣下もさすがに言葉足らずだと思ったのか、考え考え説明してくれた。


「初恋って、うたかたの夢みたいなものだろう? お前が夢から覚めた時、愛も冷めたとか言われちゃなぁ。……それに実は、先日うちに来たグラヴェが、娘のことを気に入ったみたいなんだよ。グラヴェはちょっと優柔不断なところがあるけれど、アンナはあれで一本筋の通った娘だし、足りないところを補って、成長させることができるかもしれないと思ってな。見合いをさせるか悩んでいたところなんだ」


 これを聞いて、胃の腑がねじれるような心地を味わった。


 他の男が彼女を熱を込めた視線で眺めていたと思うだけで、悶え狂いそうになる。


「だけど僕のほうが有能で、彼女を深く愛しています」


「……私もお前は好きだけどね? じゃあ、仕方ない……とりあえず顔見せだな。アンナがお前を気に入ったら、婚約して、数ヶ月様子を見ようか。相性が悪いようなら認めないからな」


 様子見なんて意味がないとベルナールには分かっていた。


 そして運命の顔合わせの日――


 騎士団では『氷の騎士』と呼ばれている彼が、娘相手に穏やかな笑みを浮かべて話すのを、メールソン閣下は呆れながら見守っていた。二人の相性は驚くほど良かったようで、互いが互いを深く慈しむのにそう時間はかからなかった。


 ある日メールソン閣下は、このところずっと抱えていた思いをベルナールに吐露した。


「一体どうして君は、こうも娘をまっすぐに愛せるのだろうねぇ。こうなったらもう理由なんてないんだろうが、不思議で仕方ないよ」


 閣下の戸惑いを聞いて、ベルナールはおかしくなってしまった。


「理由なんて簡単です。僕はあなたが好きなんですよ」


 この予想外の告白に、メールソン閣下はポカンと口を開けた。


「はぁ? なんだって?」


「僕はあなたが就任して以来、ずっとあなたを尊敬し、父のように慕ってきました。確かに彼女との出会いは大昔のことだし、あなたからすれば、僕が過去を美化して盲目状態に陥っているのではないかとご心配なのでしょう。それも理解できます。ですが僕はこの十年、あなたのそばにいて、あなたを見てきた。彼女とは確かに何年も会っていない期間がありましたが、僕はあなたを介して、娘さんとずっと触れ合っていたような気持ちなのです。尊敬するあなたが自慢する娘さんを、僕が好きにならずにいられるでしょうか」


 この真摯な告白にほだされ、メールソン閣下はついにベルナールに口説き落とされた。父が結婚を許可し、アンナ自身もそれを望んだために、入籍まで短期間で話が進んだ。


 結婚して数ヶ月後、閣下は事故により亡くなってしまったのだが……今になってみれば、あの人が娘の縁談をあの時妙に急いでいたのは、きっと虫の知らせのようなものがあって、心残りを片付けたかったのではないかと、ベルナールは思っていた。


 ――とにかくそんな訳で、あの鮮烈な出会いから、ここまで十年の歳月がかかった。


 まどろむ妻の額にキスをして、ベルナールはそっと彼女に囁く。


「君がお転婆(てんば)をしないように……夜、もっと疲れさせてしまおうかな」


 アンナはいつも寝坊をしたと落ち込んでいるようだけれど、もとはといえば、それは彼が妻を求めすぎるせいなのだ。


 だから彼女がいくら朝寝坊しようが、彼はまるで気にならない。むしろもっとドロドロに甘やかしたいくらいだ。


 さてどうしたものか……。


 もう一度優しく彼女の額にキスを落としながら、二人の関係性をもう一段階深めるか否かについて、真剣に考え始めるベルナールなのであった……。




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