4 かく語りき
お気に入りのダイニングテーブルに向かい合って着席する。彼が当たり前のようにお茶を用意しようとするので、アンナが「私がやります」と申し出るも、それをやんわり却下されるといういつもの光景が繰り広げられた。そうして良い香りのするお茶を前に向かい合えば、この場に流れる空気は妙にしっくりきて、これまで積み重ねて来た二人の時間を実感させた。
彼には聞いて欲しい話が沢山あった。
夫婦間の問題もちゃんと話し合っておきたいが、それよりも先に伝えておかなければならないことがある。それは例の胡散臭い隣人についてだった。まだ具体的な証拠は掴んでいないものの、とにかく怪しさ満点だし、あれがまだ野放しになっているのが気掛かりで仕方ない。
――と思ったのだが……
「近隣住民の身辺調査は完璧に済ませている。彼女は確かに……本物の年寄りではないのだが、訳あってそうしているので、気にしなくていい」
「訳があるの?」
「……職務上の秘密で、今は話せない。その話はまた今度……」
彼にしては歯切れの悪いもの言いである。よく分からなかったが、機密事項なら詳しく知る必要はないかと思った。彼が問題ないと言うのなら、まさしくそのとおりなのだろうし。
それからアンナは、心に引っかかっていたことを彼に聞いてもらった。
――父の葬儀の時、心ない陰口を聞いてしまったこと。
――グラヴェから政略結婚についてネガティブな台詞を吐かれ、傷付いたこと。
――それからベルナールがジャンヌのこめかみに触れたのを見てしまい、動揺したこと。
「ああそれは」なんてことない、というふうに彼が顔をしかめる。
「彼女の顔に汚れがついていたから取ってやっただけだ。あれは訓練の過程でついたもので、汚れたまま放置しておくと、外部に訓練内容を悟られる危険があった。彼女は同僚というか、部下に当たるのだけれど、気心の知れた相手だから接触に他意はない。大体……ジャンヌには年上の夫がいて上手くいっているようだし、互いに異性としてはタイプじゃない」
あんな美人がタイプじゃないなんて彼って相当変わっているわ……こんな時になんだが、アンナはおかしな点に感心してしまった。でも、彼が変わり者でよかった。そんな人でなければ、自分をここまで深く愛してはくれなかっただろうと思うから。
彼がテーブルを迂回し、アンナのところにやって来て、片膝をついてこちらを見上げた。
「君を不安にさせてしまっていたなんて、僕の愛が足りなかったのだろうか……」
アンナも椅子から滑り降りるようにして、夫の前で膝立ちになり、彼の頬を両手でそっと包み込む。
「足りないものなど何もないわ。もしかすると、私のほうが言葉足らずだったかもしれないわね。どんなにあなたに感謝しているか、日々幸せであるか、もっと沢山、言葉を尽くして伝えておくべきだった」
***
――朝方。
ダイニングテーブルに一人着席し、小ぶりのナイフを巧みに操りながら、ベルナールは妻のためにフルーツを切り分けていた。手先を器用に動かしながら考えを巡らせる。
……昨日ははぐらかしてしまったが、そろそろ真実を告げるべきだろうか。
夫婦間で隠しごとをするとろくな結果にならないと、今回骨の髄まで思い知ることとなったわけだが、打ち明けるとなると中々覚悟が決まらなかった。
これまで自分がしてきたことは、明らかに常軌を逸しているし……(一応、本人にその自覚はあるのだ)……嫌われてしまったらどうしようという恐れがどうしても抜けない。
隠しごとは幾つかあった。
まず初めに、隣家に騎士団の人間を待機させている件。――実はあの老婆の正体は、部下のジャンヌなのである。アンナは夫の社会的地位にさして興味がないようであるが、ベルナールは妻が想定しているよりも、今はずっと高い役職に就いている。
近年騎士団の組織図が刷新されたので、中央から弾かれた外野がベルナールをやっかんで、あれこれ――評判ほどたいして偉くはないであるとか――陰口を叩いているようだが、それらはまるきり的外れな見解だった。
ベルナールを貶せば貶すほど、彼らは自身がいかに時勢から遠ざかっているかを主張してしまっている。組織や権力の勢力図が正確に頭に入っていたなら、まずベルナールに喧嘩を売ろうとは思わないはずだからだ。
けれどまぁ、言いたいやつには言わせておけばいいと放っておいた皺寄せが、まさか可愛い妻のところにいっていたとは思いもしなかった。
最愛の父の葬儀の日に、心ない言葉を聞かされた彼女が、どれだけ悲しい思いをしたか……想像するだけで潰れそうに胸が苦しくなった。これについては後日きっちり落とし前をつける必要があるだろう。ベルナールは陰口を叩きそうな小者達を頭の中でリストアップし、念のため後日ジャンヌに漏れがないか確認してもらった上で、全員等しく血祭りにあげることを決めた。やるなら徹底的に、が彼のモットーである。とまぁ、それはさておき、話を元に戻そう。
彼は実質要人のくくりに入るので、当然家族の身辺警護は予算の内で認められている。だから警備の任に部下が当たるのは、別段公私混同とはなっておらず、本来ならば家族のすぐ近くで制服の騎士が張り付いているのがあるべき姿なのである。
しかし妻を溺愛しているベルナールはそれをどうしても許容できなかった。騎士とはいえ男が年中妻に張り付いているなんて悪夢以外の何ものでもない。それからどこか呑気なところがある彼女が、四六時中監視されて窮屈な思いをするのも嫌だった。
とにかくベルナールは、部下の女性騎士に隣家を基地として与え、交代制でその任に就かせることにした。老女に変装させた理由は、年若い女が一人で隣に住んでいるとなると、なんだかアンナが気にしそうに思えたからだ。それに変装は部下の潜入技術を高める訓練にもなる。
ジャンヌの顔をこすっていたのは、彼女のこめかみにマスクを固定するための糊が付着していたから、というのが真相である。
常軌を逸しているといわれればそれまでだが、ベルナールのほうにも言い分はあった。部下が隠密で家族を警護するというやり方は、アンナの父親も同じことをしていたので、ベルナールばかりがおかしいわけでもなかったのだ。
ただまあ……メールソン閣下は、部下に変装まではさせなかったのだが……。
そしてベルナールはやるとなったらとことんやるヤバい男で、私財を投じてまで妻の身辺警護(という名の束縛?)を行っていた。彼女が仕事をしたいと言い出した時は、どういうところで働きたいのかを聞き出し、手頃な店を買い上げて完璧に準備を整えた。
ちなみに店主役の老紳士はベルナールが仕込んだ役者だ。
自身が陰のオーナーなので、上下関係で妻が無体なことをされる心配はない。
ではこれで万事解決かといえば、決してそんなことはなく、ベルナールの悩みは尽きなかった。若い男性客がリピーターになって彼女につきまとっても困るし、店番をしていて強盗に遭うかもしれないし、もしも酔っ払いが乱入して来て絡まれたりしたら? 等々、アンナが関係すると、ベルナールの被害妄想的気苦労はとめどなくなる。だからアンナを無事雇い入れたあとは、客の出入りをコントロールすることにした。
するとしばらくたってから『客が来ない』と彼女が嘆き始めたので、日雇いのアルバイトを客として店に行かせるよう手筈を整えたのだが……そうしたらそうしたで今度は『リピーターがおらず、おかしい』と言われ、謎の(本好きな)富豪を作り出し、その老女が使用人に買いに行かせていたというわけの分からないストーリーを作り上げて、なんとか辻褄を合わせた。
もうこの辺りで、ベルナールは自分が一体何をしているのか、よく分からなくなってきていた。
アンナの仕事については一応これで片がついたのだが、私生活にも問題の芽はあった。とにかく彼女は好奇心旺盛な性格で、事件が起こると現場を見に行ったりと、危ないことばかりする。
ただ現場を眺めるだけで気が済むようなのだが、犯人は現場に戻るというし、護衛がこっそりあとをつけているとはいえ、突然の災難に見舞われたりしたらと思うとベルナールは心配で仕方なかった。
そこでついに彼は最終手段に打って出ることに。
新聞社に金を積み、社会面の記事をひと月前の古いものに差し替えて、アンナ用に一部刷ってもらうことにしたのだ。(今は運用も落ち着いているが、切り替え時はストックがなくて苦労したというのは余談である……)
こうしてアンナからリアルタイムの情報をシャットアウトして時間稼ぎをしているあいだに、ベルナールは町の平穏を守るべく、事件捜査に邁進するわけだ。今回などは特に凶悪な強盗強姦事件――しかも新しい事件は我が家のすぐそばで起きたとあって、ベルナールは鬼と化した。
そもそも強盗事件がここまで複数続いてしまったのは、管轄の問題が関係していた。連続した事件とみなされず、きちんと報告が上がってこなかったのだ。初めから彼が担当していれば、ここまで事件は野放しにはされていなかったはずである。
ベルナールが事件を担当すると決まってからは、あっという間のスピード解決であった。
事件が広く知られた頃にはすでに解決していたので、大半の人間は不安を感じる間もなかったようだが、それでも極悪人が捕まったとして町では束の間お祭り騒ぎになり、花火も上がったようだ。それがひと月前のこと。
そしてベルナールは事件解決後も気を緩めることなく、すぐに管轄の問題点を見直した。
こんなふうにひとたび凶悪事件が起これば、ベルナールは住民のため――いやほとんど妻のために、鬼気迫る勢いで解決していくのだ。
おかげでアンナの手元に新聞が届く頃には、事件はあらかた解決済みで、彼女がどれだけ現地見学をしたとしても、ちゃんと安全は確保されていたのである。
この細工がバレないよう、勤め先の書店には新聞を置かず、あらゆる注意を払った。妻が外部の人間と接触しないよう、気を配ったり。彼女がよく行く店の店員も買収したり、場合によりベルナールの手の者が潜入したりして、偽装がバレないように気を遣っていた。
このような綱渡り(?)が成り立ってしまっていたのは、アンナがこちらに越して来てまだ間もなく知人が少ないことや、元々親しくしていた植物学者の友人女性が大層な変わり者であることなどが関係していた。
いや、そもそもの話――こんな細工をせずとも、妻に「事件現場を見に行くな」と言えばいいじゃないかとお思いだろうか?
しかしベルナールは、つまらない小言を言ってアンナに嫌われたくないのだった。
ところで部下たちはベルナールが妻を(常軌を逸して)溺愛しているのをよく知っていたので、グラヴェの暴走行為を非常に腹立たしい思いで見ていたのである。
――余計なことをして、あの人を怒らせるんじゃねえ!
彼らにとっては死活問題なので、自然、元凶への当たりは厳しくなる。そもそも娶った妻がキツい性分だからって、昔好きだった女(しかも今は人妻)に言い寄ってんじゃねえよ、とジャンヌ一同、ヤツへの苛々が止まらない。というわけでこの浮気者については昨夜のうちにジャンヌが鉄槌を下し、すでにボコボコにしてあるのだが、それはアンナはもちろんのこと、ベルナールでさえもまだ知らない事実である。
まぁどのみち……グラヴェは日を改めて、ベルナールから恐怖の制裁を下される運命にあるのだが……それはまた、別の話だ。