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2 彼は貧乏くじを引いた

 

 明るい場所で食事をしたくなり、トレイを持ってダイニングに向かった。


 テーブルの上には届いたばかりの新聞が置いてある。……これまた彼がご親切にも、玄関前に配達されたものを回収しておいてくれたらしい。


 席に着いてフルーツを一切れ口に放り込み、新聞を手に取る。


 紙面を開いてみれば、一面で報じられているのは連続強盗のニュースだった。


「新しい事件ね」


 パンを片手に紙面を読み込んでいく。


 ここから何ブロックか離れているものの、現場はかなり近い。中には若い女性が強姦されたケースもあったらしい。


 なんともやりきれない気持ちになり、アンナはきゅっと眉を(ひそ)めた。とにかく……被害に遭った女性がお気の毒だわ……。


 犯人はまだ捕まっていないので、近隣住民は戸締りに気をつけること――と記事は締めくくられていた。


「彼はこれから大忙しね……」


 独り呟いたあと……いえ、でも……? あることに思い至って動きを止める。


 そういえば、彼の仕事のシフトってなんだか変なのよね。おかしなタイミングで繁忙期が来るというか、時折よく分からない深夜勤務が発生したりするし。


 一月前などがまさにそれで、巷では特に大きな事件も起きていなかったと思うのだが、夫はへとへとになるまで働き詰めという状態が一週間ほど続いた。超勤の締めあたりで花火が打ち上がっていたので、もしかすると何かイベントの警護でもしていたのかな……? と思ったりもした。詳しくはよく知らないのだけれど……。


 そしてその逆で、大きな事件が起こってさぞかし忙しくなるでしょう、と身構えている時ほど、予想を裏切って定時で帰ってきたりする。


 夫ながら彼のことはよく分からないわ……とアンナは首を傾げた。



 ***



 自宅を出たアンナは何気なく隣家を見遣り、足を止めていた。玄関先に置かれているロール状の新聞が気になったのだ。紐で括られた状態なので定かではないのだが、先ほど自分が読んだものとは違う見出しのような気がする。


 ……あれはどこの新聞なのだろう? 好奇心旺盛なアンナの足は、ついフラフラと新聞のほうへ引き寄せられてしまう。


 すると突然隣家の玄関が開き、女性にしては少々大柄な老女が外に出てきた。彼女は前かがみの体勢を保ち、見かけによらず綺麗な手を伸ばすと、サッとその新聞をすくい上げてしまった。


 アンナが驚き、


「あの、おはようございます」


 と挨拶すると、老女は頭にかぶっていた地味な色のスカーフを直しながら、極端な猫背で、


「おはようございます……」


 とお義理程度の挨拶を返してきた。しわがれ声でひどく聞き取りづらい。そのまま雑談をする気もなかったのか、老女はアンナには目もくれず、さっさと家の中に引っ込んでしまった。


 人嫌いなのかしら……。


 隣人がおばあさんであることは知っていたのだが、そういえば、対面したのは今回が初めてである。


 結婚を機に住み慣れた町を離れたので、アンナはここではまだ新参者だった。ご近所さんとも仲良くやっていきたいと思っている。しかし皆忙しいのか留守がちで、いまだに誰とも親交を深められずにいた。昔馴染みの友達とは引っ越しを機に離れてしまったので、人間関係が一気に希薄になり、少し寂しい思いをすることもあった。


 しかしそのぶんベルナールが優しくしてくれるから、そんなに落ち込まずに済んではいたのだけれど……。それにアンナの友達は大層浮世離れした女性で、今でも頻繁に手紙のやり取りはするものの、そもそも彼女は自分が興味のあること(植物に関するアレコレ)しか書いてこないので、結婚しても互いの距離感はそう変わっていないのかもしれなかった。



 ***



 自宅から少し歩くと小ぢんまりした一軒の書店に辿り着く。


 ポケットから鍵を取り出し、店の扉を解錠する。アンナは週三日、ここで店番の仕事をしているのだ。


 夫のベルナールはアンナが仕事に出るのを心配したようだが……(きっと大失敗をやらかすと思ったのね)彼女は『後生ですから』と手のひらをこすり合わせるようにして頼み込み、働くことをやっと許してもらったという経緯があった。


 彼女がどうしても仕事をしたいと切望したのには、二つほど理由がある。


 一つめの理由は、最適な職場が見つかったから。アンナは国内の推理小説をほぼ全て読破しているといっても過言ではないくらいの、大のミステリーフリークであった。この書店は推理小説を主力で扱っているので、彼女からしたら天国のような場所だった。


 そして二つめの理由は、夫が立派過ぎるゆえ、家でゴロゴロしているという状況に耐えられそうになかったから。二人に子供はいなかったし、アンナは家の中のことをすべて切り盛りしているわけでもない。掃除や洗濯は毎日通いで来てくれる人がいる。体が丈夫で、親切で、よく気のつく年配の女性である。アンナは彼女のことが好きだったが、外国の方らしく言葉があまり喋れないのがたまにきずであった。彼女は仕事を手際良くこなすとすぐに帰ってしまうので、現状、あまり仲良くはなれていない。


 彼女を雇ったのは夫のベルナールで、アンナは詳しいこともよく知らないのだった。


 ちなみに元々の契約は夕食の支度も入っていたようなのだが、そうするとアンナのすることがあまりになくなってしまうので、ベルナールと彼女にお願いして、料理に関しては週の半分だけやってもらうことにした。半分お願いしたのは、彼女もその稼ぎをあてにしているかもしれないから、全て取り上げてしまうのもよくないかと考えたためだ。


 ……とまぁこんな調子であったので、とにかくアンナは暇を持て余していたのである。


 こんな状態で一日のんべんだらりと過ごしていると、素晴らしい夫であるベルナールに対して申しわけなくなってくる。


 たとえわずかでも自分で給金を稼ぐことができれば、この罪悪感がいくらか軽減されるかもしれないと思って働きに出ることにしたのだ。


 いざ仕事をするとなると、職場環境が少し心配ではあったのだが、ここのオーナーは穏やかな気質の老紳士で、雇用したアンナにきつく当たるようなこともなかった。


 ――というより、店はアンナに任せっきりでほとんど顔も出さない。


 彼はかなりの財産家らしく、そもそも書店で儲けを出そうとは考えていないようである。本好きの資産家がコレクションの置き場として趣味で経営しているだけ、というような感じらしくて……。


 価値のある書籍は自宅に所蔵しているとのことで、こちらの書店には『集めたものの、手放しても構わないもの』を置いているのだそう。


 しかし店主の思惑がどうであれ、雇用されている自分がそれでよしとするかどうかは別の話である。


 この書店に雇われたばかりの頃のこと――


 アンナはとても張り切っていた。雇われている以上は、ちゃんと儲けを出したいと考えていたのだ。


 ところが仕事を始めてしばらくのあいだ、客が誰一人として訪れなかったのには焦った。アンナは暇過ぎてつらいという経験を、生まれて初めてすることとなる。


 流石にこれはどうなのだろうと頭を悩ませ、夫のベルナールにもそれとなく相談してみたりした。するとその内にチラホラと客がやって来るようになった。


 これで一安心……かと思いきや、今度は一見さんばかりで、固定客がつかないときた。


 そしてこの怪現象はアンナの知的好奇心を大いに刺激することとなった。


 普通、本好きというのは書店には何度も通うものだと思うのだが、ここにはその場限りの客ばかりがやって来るのだ。来る日も、来る日も――。


 こんな奇妙なことが果たしてありうるものなのだろうか? これはもしや、背後になんらかの犯罪が隠れているのでは? 日々脳内で推理を繰り広げていたら、ある日、あっさりと謎が解明された。


 実はあれらの一見さんたちは、とある大富豪の召使たちで、本好きの奥様のために代わる代わる買い出しに来ていたのだそうで……。


「ここはとても良いお店ね」


 その後大富豪のご婦人がやって来て、やっと対面が叶ったので、しばしアンナの頭を悩ませていた(いや、楽しませてくれていた?)不思議な謎にも決着がつき、結果的に妙な満足感を覚えることになったのだった。



 ***



 仕事を終えて通りに出たところで、


「アンナ! アンナじゃないか?」


 後ろから声をかけられた。


 振り返ると、騎士の制服を着た男性が急ぎ足でこちらに向かってくるのが見えた。


「あら、グラヴェさん、お久しぶりです」


 嬉しい再会だった。グラヴェは父の元部下で、昔、彼が二度ほど父を訪ねて家まで来たことがあったので、アンナとも面識があったのだ。


 アンナは驚きに目を見張り、すぐにチャーミングな笑顔を浮かべた。笑うと唇が三日月のように綺麗な弧を描き、頬にえくぼができる。グラヴェはそれを目の当たりにして、一瞬まごついてしまった。気を紛らわすように顎の少し上あたりを手のひらで軽くこすってから、改まった調子で口を開いた。


「アンナ……御父上のことは、お気の毒だったね。いい人だったのに」


 アンナの父は娘が嫁にいくのを見送ったあと、ほどなくして亡くなっている。アンナは思わず瞳を揺らした。


 まだ傷が癒えていないので、つらい話題ではあるけれど――それでもこうして、父を知る人と会えるのは素直に嬉しい。


「あの、ありがとうございます。生前、父もあなたのことを褒めていましたわ」


 グラヴェはおそらくハンサムな部類に入ると思うのだが、鼻の先が丸みを帯びているせいか、どことなく柔和な雰囲気があった。それゆえ相手に緊張感を抱かせない。わりと押しが強いと聞いたこともあるが、雰囲気でそうと悟らせないから、得をしているタイプかもしれない。


「グラヴェさん、奥様はお元気ですか?」


 彼は確かアンナとほぼ同時期に結婚していたはず。それを思い出し尋ねれば、


「まぁ相変わらず……」


 となんとも曖昧な返事が来た。


 相変わらずってどういう意味かしら? 不思議な答え……。


 少し引っかかりを覚えたものの、『それってどういう意味ですか?』と深堀するのも野暮というものだろう。


 彼がちらっと書店を一瞥し、


「君、あの店から出て来た?」


 軽く眉を顰めて聞くが、アンナは悪気もなしに正直に答えていた。


「ええ。私、週三回ここで店番の仕事をしているの」


「なんだって? そんな馬鹿なこと! 本来なら君は、店で人を使う立場のはずじゃないか」


 このありえない勘違いにアンナは度肝を抜かれてしてしまい、すぐには反論することもできなかった。


 そりゃあ確かに父は生前、騎士団ではかなり高い役職に就いていたようだけれど、財産家というわけでもなかったのに……。


「まさかベルナールが働きに出したのか? お父上が生きておられた時は君を大切にしていたようだが、いなくなったらすぐにこれとは」


「えっ、違うのよ。私が自分で――」


「君だって、もっと強気でいていいんだよ」


 グラヴェが強い口調でアンナの台詞を遮る。


「やつが出世できたのは君のおかげなんだから。お父上が思いがけず早くいなくなってしまい、やつにとって利用価値がなくなったからといって、君が粗末にされる筋合いなんてないはずだ。選択を失敗したのは、あいつ自身の責任なのだから」


 アンナは言葉もなかった。他人からこうもはっきりと指摘されると、やはり傷付く。


 アンナは父の紹介で、素晴らしい夫を持つことができた。


 しかし、逆の立場から見たらどうなるだろう?


 優秀なベルナールは、上役の娘を(めと)ることになった。


 先ほどグラヴェは『ベルナールが出世できたのは君のおかげなんだから』と評したが、それが誤りであることをアンナは知っている。


 ベルナールはアンナと結婚する前から出世はしていたのだ。優秀な人であったから。


 二十代前半ですでに役職に就いていたようだから、これは異例の早さであるといえよう。結果的に上役の娘と結婚したことで『つり合いが取れるように、結婚する前に出世させてもらったに違いない』とひねくれた見方をする者もいたようで、アンナとしてはそのことがなんともやるせなかった。


 そして――アンナの父がもっと長く生きていたなら、ベルナールの今後の躍進はもっとめざましいものになっていただろうというのが、大方の見解であるらしい。


 つまり彼はさらに上を狙えたはずなのに、アンナと結婚したことで結果的に貧乏くじを引いたことになり、これ以上の出世の足がかりを失ってしまったのである。


 アンナはそのことに、ただただ申しわけなさを感じるばかりだった。


 彼は本当に貧乏くじを引いたと思う。


 結果論になってしまうが、もっと条件の良いご令嬢は他にいたと思うし、逆に出世がどうでもいいと開き直るならば、恋愛結婚を選択したほうが自由に生きられたはずである。


 そこへきて彼がまた情の深い善人だったことで、妻としては余計に申しわけなさが増すのだった。


 アンナは義務を果たさずに、権利だけ勝ち取ったズルい女なのだ。


 父からベルナールを紹介された時、アンナは生まれて初めての恋に落ちて、ほとんど盲目――何も考えられない状態に(おちい)ってしまった。


 ふわふわと熱に浮かされたように実感のないまま、気付けば彼と夫婦になっていた。結婚後、彼はアンナをとても大切にしてくれたので、これが政略結婚であるという当たり前の事実にさえ、気づきもしなかったのだ。


 自身の甘えた認識を改めるきっかけとなったのが、父の葬儀の日――


 葬儀に参列した人が陰口を叩いているのを、アンナは偶然耳にしてしまう。それは先ほどグラヴェが口にしたのと同じような内容であった。


 その時の記憶がフラッシュバックする。指先が冷え、一気に血の気が引いていった。夫と父に甘えて、まったく現実が見ていなかった過去の愚かな自分。


 過去? いいえ、現実を生きていないのは、今現在も続いているのかも……


「君が我慢をする必要なんてない。僕はいつだって力になるから」


 ぎゅっと手を握られた感触で、アンナはやっと物思いから引き戻された。


「いえ、ですから私、我慢なんて――」


 そう言いかけた時だった。


 後方から、


「グラヴェ!」


 と鋭い声がかかったのは。


 アンナが振り返る間もなく、騎士服を身に纏った三十代とおぼしき女性が正面に回り込んで来る。彼女は冷たい視線を二人の繋がれた手に注いでいた。


 グラヴェは少し気まずそうな様子でアンナから手を離した。


「……ジャンヌ、どうした」


 ジャンヌと呼ばれた女性は、男勝りな、けれどどこか肉感的な印象を与える女性だった。きりっと上がった眉や、角張った顔の輪郭が、彼女の強さを表している。そして少し下がった目尻と、人よりもふっくらした下唇の厚みは、大人の女性の色気を感じさせた。


 濃い金色の長い髪は、機能性を重視して無造作に一つに束ねられている。それがまた妙にさまになっていた。


 ジャンヌが愛想のない口調で言い放つ。


「ここは我々の管轄だ。指揮系統が乱れるから即刻立ち去ってくれ」


 同僚を咎める声にはかなりの迫力があった。声質が少しハスキーなせいだろうか。


「随分な言い草じゃないか、僕は何も――」


「とにかく向こうで話そう」


 つっけんどんに彼の言葉を遮り、アンナのほうに軽く目礼してみせてから、ジャンヌはグラヴェの背を押す。


 一人取り残されたアンナはしばらくその場に立ち尽くしていた。




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