1 屈辱の腕輪
女騎士のジャンヌは、後輩のダニエルと倉庫整理をしていた。というのも、今度お偉いさんが騎士団の視察に来ることになっているので、その前に裏も少し綺麗にしておこうか……ということになったのだ。
「この腕輪はなんですか? なんていうか、武骨で凄みがありますね」
ダニエルが興味津々という様子で木箱の中身を見おろしているので、ジャンヌは彼のもとに向かった。
「――ああ、これは騎士団名物『屈辱の腕輪』ね」
「なんです、そのおどろおどろしいネーミング」
性格が素直なダニエルは目を丸くしている。――ジャンヌは三十代半ばなので、騎士団の行事は一通り経験しているのだが、ダニエルは十以上も若いので、まだ知らないことも多い。
「ダニエルはまだ国際親善試合に参加したことがなかったっけ?」
ジャンヌは木箱から金属製の腕輪を取り出しながら彼に尋ねた。――腕輪の幅は三センチほどで、華やかさも飾り気もないデザインである。使い古されており、表面には細かな傷がいくつもついていた。箱の中には、同様のものが大量に放り込まれている。
「残念ながら、ないですね。名前だけは聞いたことがあるのですが……。確か、五年に一度開催されるんですよね?」
「そう。隣国の騎士団を招いて、親善試合をするのよ。大規模な催しで、一般の見学者も招き入れての、お祭り騒ぎになる。前回開催されたのが……二年前かな」
「その頃僕は、南支部のほうに長期出張していました。半年ばかり」
「ああ、そういえば、帳簿をつけられるやつが欲しいって言われて、あなたが行ったのか」
「そうなんです」
のほほんとしていて、まるでキレ者には見えないのに、仕事をさせてみると意外と有能な男、ダニエル。そのおかげで彼はわりと出張が多い。
ジャンヌは国際親善試合の詳細を説明してやった。
「うちの騎士団と、隣国の騎士団――それぞれ四十名ずつ選抜して、一対一で戦う。各試合の敗者は三か月間、この『屈辱の腕輪』を着けたまま過ごさなければならない」
説明を聞いたダニエルはドン引きしていた。
「試合で負けるだけでも凹むのに、敗者の傷口に塩を塗り込むようなことを……」
「両国騎士団の意地の張り合いだからね。――負けたら騎士団内で居場所がなくなると思え――という、ある種の圧力よね」
「それは絶対に負けられませんね。……なんかすごそうだなぁ」
「大勢の熱狂的な観客も見ているしね。――ていうかあなた、前回は出張で不在だったとしても、このお祭りを見学したことないわけ?」
刃を潰した模造剣が用いられるので、人死にが出ることはほぼないが、素手での殴り合いもOK、基本なんでも有りのルールで、どちらかがギブアップするまで試合が続くので、かなり見応えがある。
残酷な場面もあるので、観戦したがるのは男性ばかりかといえば、そんなこともない。
実際のところ女性の観客もかなり多いのだが、彼女たちの場合は、贔屓の騎士が格好良く戦っているところを見たいという、少し特殊な楽しみ方をしているようである。
「僕はあまり、そういうのに興味がなくて……」
ダニエルは気まずそうにそんな呟きを漏らし、視線を彷徨わせている。
……騎士団に居ながら、こういう草食キャラというのも、ある意味貴重よね……とジャンヌは思った。
「選抜で四十名ずつということは、もちろんベルナールさんも出たんですよね? 彼は一番強いから、トリを飾ったんですか?」
剣術に長けていないダニエルの目から見ても、ベルナールの強さは異常だった。
騎士団内でも『この先少なくとも四半世紀は、彼を倒せる者は現れないだろう』とまで言われているくらいである。
二年前の試合ではベルナールが圧勝したに違いないと、ダニエルは疑ってもいなかったのだ。ところが……
「ベルナールかぁ」ジャンヌが『屈辱の腕輪』を見おろしながら、感慨深げに呟きを漏らす。「彼ね――実は二年前に、この腕輪を嵌めているのよ」
「そんな、まさか!」
ダニエルが仰天している。
「最強の男でも、負けることはある。――弱点は誰にでもあるものだからね」
そうしてジャンヌは、前回開催された親善試合の顛末を語り始めたのだった。
***
――時計の針が巻き戻り、二年前――
***
夕刻。アンナはダイニングテーブルに着いて、推理小説を読んでいた。
夢中になって文字を目で追っていたので、夫が帰宅したことに気付けなかった。足音がすぐそばでして、顔を上げようとしたところで、ふわりと抱き込まれてしまう。
「アンナ――会いたかった」
アンナはショールを頭からふわりとかぶせられたような心地だった。彼の腕に包まれ、右頬と右耳のあたりを指で撫でられ、左肩を軽くさすられ、額――髪の生え際にキスを落とされる。
彼はアンナが腰かけている椅子の側に佇んだまま、上からこちらの頭部を抱え込んでいるようなのだが、抱きしめられている本人からすると、何がどうなっているのか訳が分かっていなかった。彼の左腕がこう回されて、その結果ここに触れていて、右腕は――という全体像が把握できない。触れる手付きは優しいものの、ここまで全力で愛でられると、今何をされているのか分からなくなるものだ。
ふと気付いたら、アンナはベルナールに手厚くくるまれてた――はっきりしているのは、ただそれだけ。
「あの、ベルナール――」
「可愛いアンナ。僕の太陽。愛している」
彼は常日頃から妻に激甘な男であるが、さすがに普段はここまで振り切れてはいない。こういった触れ合いをする前に、目を合わせて、落ち着いて挨拶くらいはしてくれる。
……彼、一体どうしちゃったのかしら?
アンナは首筋を優しく撫でられ、肩甲骨のあたりをさすられ、うっとりして流されかけたところで、はっと我に返った。
「ベルナール、どうかしたの?」
「……どうかしたかと問われれば、たぶんどうかしている」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。君に夢中だ。君のことだけ考えて、過ごせたらいいのに……」
きゅっと束縛が強まった。痛みを感じるような力の入れ方ではなかったけれど、『私はたぶん一生、この囲いから脱出できない』と諦めを覚えるほどの、がんじがらめな愛情の伝え方だった。
アンナは彼の手の甲に触れ、優しくさすり、ポンポンと叩いてから、苦労して首を回して彼の顔を見上げた。
すると彼がやっと拘束を解いてくれたので、やっと互いのあいだに適切な距離が開いた。
彼の佇まいは相変わらず端正で、素敵だった。身だしなみもきちんとしているし、見目麗しい。けれどどことなく……彼のブルーアイに空虚な感情が混ざっているようにも感じられた。強い負荷をかけられた人特有の、『もうどうにでもなれ』という開き直りのようなものが見て取れるというか……。
「……疲れているみたい」
「仕事が立て込んでいて。これからまた戻らないといけない」
そういえば今の彼は騎士服を身に纏っている。アンナは小首を傾げてしまった。
「忘れものでもあって、戻ったの?」
「今夜は遅くなるから、先に寝ていて――と言おうと思って」
「え」びっくりしてしまった。「わざわざそれを伝えに帰って来てくれたの?」
それなら伝言でも良かったし、なんなら連絡なしで遅くなったとしても、職業柄仕方がないと思うのだ。
「君が起きているあいだに話をしたかったから。……というか、僕がピリついていて怖いから、短時間でも一旦帰れと言われたんだ」
……誰に? と疑問に思ったが、それより気になったことがあった。
「ストレスの原因って……もしかして、国際親善試合の件で?」
隣国の騎士団を招いての、大規模な催しが開催されるらしい。日程が迫っているので、彼が時間を取られているとしたら、その件くらいしか思いつかなかった。
アンナとしては彼を気遣ったつもりだった。――ところがベルナールのほうは、アンナの口から国際親善試合の単語が飛び出したことで、心を乱されたようである。
なんともいえない表情を浮かべて、アンナを見おろしてくる。……ふとアンナは、彼とのあいだに薄い壁ができてしまったような、奇妙な錯覚を覚えた。
――彼はたぶん、アンナから追及されることを少し警戒していたし、慎重になっていた。
「別に深刻な話ではないんだ」
彼は誤魔化そうとしているようだった。けれどアンナが訝しげに彼を眺めていることに気付き、躊躇ってから、小さく息を吐いて続けた。
「……まぁ、実はそうなんだ……確かにその件で少し苛立っている」
「どうして?」
「うちの騎士団から四十名を選抜するんだが、勝てばかなりの額の報奨金が貰えるし、人事評価も上がるから、皆が出たがる。――その件で今、揉めていて」
そういえばベルナールは騎士団でかなり高い役職に就いていたはずだ。年齢的に二十代半ばと異例の若さで出世したので、部下からきつい突き上げを食らっているのだろうか? アンナは心配になってしまった。
彼はとても仕事ができるようだけれど、強さがものをいう世界だろうから、腕力で言うことを聞かさなければならない場面もあるのではないだろうか。
アンナの亡父は事務畑出身で剣術はからっきしであるのに、騎士団では生前、高い役職に就いていて、それなりに上手く部下を纏めていたようである。――しかし父の場合は年齢もそれなりに上だったし、他部署で築き上げたキャリアもあったから、ごぼう抜きに出世してしまったベルナールとはまた立場が違う。
アンナから見るとベルナールは、すらりとしていて、恐ろしいほど強いようには見えなかった。もちろん凡人と比べれば圧倒的に強いのだろうけれど、強者揃いの騎士団の中では、彼を倒せる人は掃いて捨てるほど存在するのではないだろうか。
もっと大柄な人、筋肉のすごい人、すばしっこい人、獰猛な人……戦いに特化した人材はいくらでもいそうである。
「あなたが選抜メンバーを決める係なの?」
アンナが尋ねると、ベルナールは気が重そうに瞳を伏せてしまう。
「……いっそ僕が選ぶ係だったら良かった……。面倒だから、希望者全員と手合わせして、生き残ったやつに権利を与えるといったら、問答無用で選定係から外されてしまった。前回開催された時は、国外任務に駆り出ていて参加していないから、勝手がよく分からないというのもあって」
なんだか色々と気になることを言っているのだが、内容が頭に入って来ない。
え、彼、希望している全員と戦うつもりだったの……? 絶対無理じゃない? 最終的に四十名に絞りたいのに、希望者が殺到しているということは、六、七十――下手すると百名以上が名乗りを上げているってことよね? そんなの全員相手にしていたら、訓練の延長とはいえ、彼のほうが死んでしまうと思う。
よく分からなかったのだが、これ以上は触れて欲しくないとベルナールの顔に書いてあったので、アンナは彼のストレス源を探るのはやめにした。
――それで、国際親善試合の話題が出たもので、ちょうどいいから、彼に訊いておこうと思ったのだ。
「当日は、私も見学に行っていいかしら?」
かなり大規模な催しであるし、今回は彼も試合に出るのだろうから、ぜひ見学したかった。――というか、騎士の妻は皆、関係者席で観戦するものらしい。だったら自分も……とアンナが思うのも、当然のことだった。
しかしこちらの申し出に、彼が眉根を微かに寄せたもので、アンナは戸惑ってしまった。
「アンナ、悪いけれど」
「……ベルナール?」
「血生臭い催しだし、君には見てもらいたくない」
彼の意志ははっきりしていた。
アンナは茫然としてしまった。――思い返してみれば、彼からこんなにつれない態度を取られたことはなかった。出会って以来、これが初めてのことである。
「でも……騎士の家族は皆、見に行くって……」
「皆が来るわけじゃない」
「――だけど私、行きたいわ」
別に浮ついた気持ちでそう言っているわけではない。試合で怪我をすることもあるかもしれないし、彼のことが心配だった。
『騎士なんて普段から危険と隣り合わせの職業なのだから、国際親善試合だけ見に行っても仕方がないじゃないか』という考え方もあるかもしれないが、アンナとしては、やはりそういう問題でもないような気がしていた。大きなイベントとなれば、対戦相手も気合が入るだろうし、思いがけない展開になる恐れもある。アンナが見ているから難を逃れられるわけでもないけれど、それでも現地で、彼のことを見守りたいと思った。
こちらは誠意を込めて伝えたつもりだったのに、ベルナールの返答は冷たかった。
「今度改めて話そう。君にはちゃんと理解してもらいたいから」
「それって、話し合っても結論は変わらないということ?」
「ごめん。もう戻らないと」
視線も合わさずにそう告げると、さっさと家を出て行ってしまう。
一人取り残されたアンナは、しばし放心状態になり、固まっていた。
「……何あれ……」
騎士の家族は皆見に行くようなのに、ベルナールは妻を呼ぶ気が一切ないようだ。
……なんで呼んでくれないの? アンナは難しい顔で考え込んでしまった。