9 激突
ベルナールの馬はまるで空を飛ぶように軽やかに通りを駆けた。しなやかな筋肉が躍動し、地を蹴る。とんでもないスピードで疾走する黒馬を、沿道にいた人が唖然とした様子で見送っていた。
馬上のベルナールは上半身を深く沈め、空気抵抗を最小限に抑えながら、行く先を見据えている。しばらく進んでやっとA地点に辿り着いた。
警備の大外――見張りが配置されている場所だ。通りの両側に騎士数名の姿を認めたベルナールは、馬を駆りながら厳しい声音で号令をかけた。
「全員、全速力で闘技場へ向かえ! 敵は中だ!」
殺気立った彼の叱責に、頬をはたかれたような衝撃を覚えた彼らは、びくりと背をのけ反らせた。
「――弓を!」
要求に従い弓を差し出した騎士は、一瞬あとには手からそれが奪い去られていて、唖然としてしまった。
遠くから何かがすごいスピードで近付いて来ると思っていたら――あっという間にベルナールの乗った馬は傍らを通過していて、瞬きしているあいだにすでに彼方へと消えていた。見張りたちは慌てて馬にまたがり、彼のあとを追う。
一方単騎で突き進むベルナールは、楕円筒型の闘技場が見えたところで馬に声をかけた。
「一気に行く」
首筋を撫でてやると駆けるスピードがさらに上がった。馬はベルナールの思いを汲み取り、彼のためにただ忠実に動く。
石造りの正面階段をそのまま突破した。足元の不安定さも難しさも、愛馬はものともしない。まるで減速せずに一気に石段を駆け上がる。
外壁にぽっかり開いたアーチ状の入口に辿り着いた時、ベルナールはやっと中の様子を確認することができた。
――そこはすでに戦場と化していた。明日の演説会のために一階中央部に即席の舞台が設けられていて、真ん中のそこと、北側の派手なオブジェのある場所だけが、広い競技場の中で少しだけ高くなっていた。楕円形の闘技場は縦に長く、敵が潜んでいたと思われる奈落は最奥北側。ベルナールが入って来た南口から見て最も遠い。
閣下は中央の舞台上にいた。
最奥に据えてあったオブジェを倒し、その地面下から突如湧き出るように発生した賊の群れは、騎士団の動揺を突いて一気にステージのほうへ攻め入ろうとしていた。
騎士がすぐに応戦に当たるが、不意を突かれたことで陣形が崩され、押されている。閣下は一応帯剣しているものの、事務畑出身の彼は残念ながら剣術には長けていない。
彼の元に敵の一人でも辿り着かせてしまえば、こちらの負けが決まる。
崩され、防戦一方の味方。対し、勢いづく敵。
奥から騎士の壁を切り崩し、敵の第一陣が最終防衛ラインを突破した。
闘技場入口にやっと差しかかったばかりのベルナールは、視界が開けた一瞬で戦況を正しく見て取っていた。現在地から閣下の場所まではまだかなり距離がある。剣はもちろん届かない。
――では弓だ。
しかし配置がまずい。ベルナールは右利きであるから、馬上から狙うならば馬の真横――それも左側面にいる標的しか射れないことになる。進行方向――しかもかなり離れた正面にいる敵を、弓で倒すのは到底不可能なことだった。
ベルナールはほとんど無意識の内に鐙から右足を離していた。そうして右膝を愛馬の腰に乗せるようにして、左足はそのまま鐙に突っ張り腰を上げた。これにより自然半身を捻るような体勢となり、進行方向に向かって弓を構えることが可能となる。
とはいえ、さも簡単そうにベルナールはこれらの動作をこなしているが、外階段を上ったあとは、一階競技場広場へ向けての急な下り階段が始まっている。足場が悪く、前傾で馬が駆けているこの状況で、曲芸めいた体勢を保てていることが、周囲の者からするとあまりに信じがたい光景であった。彼はすっかり立ち上がっていて右膝など馬の背に添えているだけなのに、身体の軸がまるでぶれていない。
ところで占い師から渡された例の矢筒には、全部で三本の矢が入っていた。普通の矢が二本に、幸運の赤い矢が一本。紐のついたその筒を斜めがけにし、背中に背負っていたベルナールは、後ろ手で筒から矢を抜き、弓に番えた。
選り好みしている余裕はないので、手に取った順に引くこととなる。一本目に選ばれたのは、普通の矢だった。左肩を進行方向に向け、半身引いている姿勢を保ちながら、素早く弓を構える。
構え、起こし、引き分け――全ての動作があまりに素早く、そして精密に展開された。鍛え抜かれた背筋がぐっと狭まり、一本目の矢が放たれる。
閣下のすぐそばに迫っていた一番乗りの賊が、胸を射抜かれて仰向けに倒れた。
ベルナールは飛び跳ねる馬上で片足をすっかり馬の背に上げ、なんの支えもなく、なぜ馬の背から転げ落ちないのか――それどころか敵味方混戦したこの状況で、なぜ正確に矢を放てるのか――ここにいる誰もが夢を見ているような心地だった。
いつでも平常心を失わないよう厳しい訓練を受けているはずの騎士たちが、目の前の敵と相対しながらも、つい横目でベルナールの馬鹿げた身体能力を確認してしまう。
彼は一本目の矢を放ったあと、すぐさま二本目を構え、それを放った。
二人目に命中する。しかし状況は好転しない。混戦で隊形が大きく乱れ、左奥深くから攻め入ってくる手練れがいた。
明らかに他とは格が違う。瞬く間に騎士数人を切り伏せ鬼人のごとき強さで進んでくる。
あれが向こうの首領であるカザレスだろう。
ベルナールは最後の一本――幸運の赤い矢を番えた。
カザレスはまだ遠くにいるベルナールが馬上から弓を構え、こちらに狙いを定めていることに気付いた。混戦状態で死角を突いているこの位置ならば、本来なら最も狙われづらいはずであるのに、忌々しくもすでに標的とされているこの事態に思わず舌打ちが出る。
一方のベルナールは深く集中していた。
この瞬間のためにずっと鍛錬を重ねてきたのだと、運命の流れのようなものを彼は感じていた。
――逃がさない――
敵の瞳が動き、足の筋肉が緊張する。ベルナールは鷹のような目でそれらの動きをつぶさに確認していた。おそらく次の瞬間、敵は前か後ろ、どちらかに飛んで回避しようとするだろう。この弓を外せば、やつの勝ちが決まる。凶刃は閣下の身に届いてしまう。
ベルナールは分析の結果、ほとんど迷わずに、敵が後ろに飛ぶであろうと予測した。それはベルナールから見て、『左』――
的を微かに左にずらし、これまで放った二本と寸分違わぬ正確なリズムで矢を放つ。時間がゆっくりと流れているかのようだった。敵がバックステップで回避の動作に入る。
ベルナールの放った矢が空を切り、赤い軌跡を描きながらカザレスを追う。カザレスは混戦の中で、近くにいた騎士が振り回した剣に一瞬気を取られた。
そのせいでベルナールの矢を見失った。
右腕を矢に貫かれた瞬間――カザレスは攻撃を回避できなかったことに、驚きを禁じえなかった。
ベルナールが矢を放ってから、後ろに飛んだんだぞ。あいつがいる世界は、自分たちとは次元が違うのか?
しかし利き手を潰されようとも、まだカザレスには明確なるアドバンテージがあった。ここで選択を誤らなければ、こちらの勝ちだ。
もうすぐベルナールがここに辿り着くが、標的のメールソンはすぐ目の前。迫り来る黒馬を無視し、ベルナールに背を向けて、メールソンに狙いを絞るか? それとも一旦ベルナールに向き合い、迎撃し仕留めてから、メールソンに取りかかるか?
カザレスの一瞬の逡巡を読み取ったベルナールは、殺気を全開に放った。
並みの馬ならばこれに当てられて取り乱しているところだが、彼の馬は賢い。迷いなく真っ直ぐ敵に向かって突き進んで行く。カザレスはこの殺気に当てられ判断を誤った。剣を無事な左手に持ち替えベルナールを迎撃すべく向き直ったのだ。
ベルナールは弓を捨て抜剣した。敵は向かって左にいるので利き手である右に剣を握ると動作が制限される。そこで剣を左手に持ち替え、だらりと下におろした。
――変則的な下段の構え。
ベルナールは馬の腰に乗せていた右膝を、前側に折り畳む要領で下ろしながら、ほぼ同時に左手に握った剣を動かした。
すくい上げるようなコンパクトな動作で、ほとんど力は入っていないように見える。柔軟に手首を返しながら、カザレスの首を狩るべく剣先が空を切った。
敵はこの単調な攻撃を見切り、構えた剣で受け止めた。
カザレスは思った。
――なんと真っ直ぐな剣筋なのだろう。
若さゆえか。十年早かったな、若造が――
ベルナールは馬を御することに気を取られていたのだろう、力が乗っていないその剣は容易く受け止めることができた。
そう、カザレスはそれを受け止めた。一撃を止めたことで、カザレスは勝ちを確信していた。剣先におろしていた瞳を上げると、忌々しい黒馬が前を横切って行くのが視界に映った。
勝った――
カザレスは薄い唇の端を捻じ曲げ、笑みを浮かべた。直進して来る馬のスピードはとてつもなく速い。互いの剣が一閃し交わったあとには、あっという間にはるか彼方に消えて行く。
刹那――当然そこにあるはずの騎士の姿が、去り行く馬の背から消え失せていることに気付いた。カザレスは状況を見失い、激しく混乱した。
ベルナールは一撃目を受け止められた瞬間、交わった剣を起点とするように、ふわりと飛んだ。左手に握った剣を押し返してくる敵の力を利用し、それを軸にして、一気に左足の鐙を蹴る。宙返りのような要領になり、ベルナールの身体は体重をほとんど感じさせずにカザレスの頭上を回転し、通過する。
敵の背後を取りつつ、身体を捻って脇差の短剣を素早く引き抜くと、落下しながらそれをカザレスの首に叩きおろした。
彼があまりに綺麗にふわりと飛んだので、見ていた誰しもが着地の成功を疑わなかった。しかし馬が蓄えていた直進するエネルギーが、上に飛んだことで一部相殺されたとはいえ、敵に短剣を叩きつけた反動でおかしな具合に働き、一気にバランスを崩した。
それにより肩から落下することとなったベルナールは、それでも上手いこと受け身を取ったので、首はやらずに済んだものの……しかしなかなかに痛い思いをすることとなった。
カザレスとの交戦で落とした剣を拾い上げ、閣下の横に並ぶ。右手から迫る敵を一蹴し、ベルナールは殺気立った視線でぐるり周囲を睥睨した。すぅと息を吸い、凛と背筋を伸ばして、腹の底から怒鳴る。
「一気に片を付けろ!」
雷が落ちたかのようなその苛烈な怒号に、ビリビリと辺りの空気が震えた。戦場に響き渡った彼の厳しい号令に鼓舞され、騎士団の全員が咆哮を上げる。彼より経験を積んだ者、役職が上の者――ここには様々な上位者がいたわけだが、彼以上に強い者は存在しなかった。あれだけのものを見せられたあとでは、皆が当然のようにベルナールに従う。
押され気味だった形成はこれで一気に逆転し、瞬きする間に制圧が完了していた。
「大丈夫か?」
肩から落ちたベルナールを閣下が呑気に気遣うと、先ほどよりピリつき具合が治まったベルナールが端的に答えた。
「左肩が外れました」
「そ、そうか……はめてやろうか?」
できるかどうか分からない……という不安が言葉尻に漂っていたので、ベルナールは遠慮することにした。
「いえ、結構です」
長引かせても仕方がないので自分ではめる。激痛が背筋を伝ったが、これでもう終わりと息は抜けない。まだすべきことが残っていた。
「閣下、詳しい説明をしていただきたいところですが、行くところがありますので、失礼します」
「ああそうか。アンナのところだね?」
閣下の問いかけに対し、ベルナールの瞳の色が深みを増す。
「ええ――彼女の所へ」