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7 恋人達

 

 夜も更けた頃になってベルナールがアンナを訪ねて来た。すでに寝間着姿になっていたアンナは上からガウンを羽織り、彼を出迎えた。


「寒い夜ね」


 吐く息が白く変わるほどではないが、玄関にいると手足が冷たくなってくる。扉を押さえたままベルナールが中に入ろうとしないので、アンナは手を伸ばして彼の指をすくい上げ、促すように引いてみた。ところが引こうとした腕は逆に彼のほうに引き戻され、あっという間に腕の中に閉じ込められてしまった。


 ベルナールは扉を肩で押さえたままアンナを抱き込み、


「君は温かい」


 と彼女の耳元で囁いた。あなたの声が好きだわ、とアンナは思った。だからだろうか……


「……何か不安があるの?」


 いつもと調子が違うようだと、なんだか気になってしまう。顔を見ようと少しだけ上半身を離し、彼の上着に縋りながら見上げると、ベルナールがくすりと笑みを漏らした。


 笑んでいるのに……心の中で泣いているみたい……


「そうだとしたら、慰めてくれる?」


 冗談めかした問い。けれどたぶん……彼は助けを求めている。


「必要ならば」


「僕はたぶん……失敗するのが怖いんだ。職業柄、一瞬のミスが取り返しのつかない事態を招いてしまうから」


 彼の言った意味をよく考えてみる。凡人のアンナに彼の悩みを正確に理解することはできない。けれど凡人だからこそ、こう思うのだ。


「完璧な人間なんていないわ、ベルナールさん」


 彼は責任感が強く繊細な人なのだろう。それからきっと、これは周囲にも問題がある。厳しい状況でも彼ならなんとかしてくれると皆が勝手に期待してしまうのではないか。


 アンナはベルナールと関わってまだ日が浅いが、『彼ならばきっと』と思わせる何かを持っている人だと感じるし、そう期待してしまう周囲の気持ちもよく分かる。けれど完璧を求められ続けるのは、本人にとってかなりキツイに違いない。察しが良いからこそ、彼は懸命に応えてしまう。上手くいかなかった時、きっと彼は自分を責め続ける。


 たった一つの取りこぼしなら『ミスの一つや二つ誰だってするさ』で済ませてもいいところを、ベルナールの場合は設定したハードルが高過ぎるから『もっと何かできたはずだ』と考え続けてしまうのではないか。


「だけど、完璧にやり遂げなければ大切な人を失ってしまうかもしれない。少し傲慢に聞こえるかもしれないが、おそらく――僕がミスをせずに上手くやりきることができたならば、大抵のことについては、ベストな結果がもたらされるはずなんだ。だから失敗した時は、全部僕が悪いということになる」


 アンナは瞳を細めて、彼の端正な顔を見上げた。少し弱っている様子の彼はなんだかとっても人間らしく感じられて、愛おしさが込み上げてきた。彼は騎士として多くの人の命を救ってきたのだろう。


 そんな素晴らしい人であっても彼は一人の人間で、こんなふうに心が折れてしまうことだってある。もしも彼が疲れてしまったというのなら、少しでも慰めてあげられるといいのに……。


「そういえば……昔は父様も、あなたみたいになっていたわ」


 優しい口調で語りかけると、ベルナールが意外そうな顔をした。


「閣下が?」


「ええ、そう。そうすると母がね……こうして」


 彼の背中に手を回した。


 しなやかで男性的なその骨格にドキドキしながら、彼の背をあやすようにポンポンと叩く。


 ――幼い頃の記憶だ。


「大丈夫よって言うの。……あなたはどこか父に似ているわ。父様も完璧主義者で理想主義者なの。だけど私はこう思う――失敗してもいいのよ、次で取り返せば」


 ベルナールの大きく繊細な手のひらが、アンナの背を撫でる。


「君は不思議な人だな。……僕は君と一緒にいると、ほっと息をつける」


 それを聞いて『私はほっとするより、ドキドキするわ』とアンナはこっそり考えていた。胸が高鳴って、切なくなるの。


「あのね。私の母は身体が弱くて、早くに亡くなってしまったの。それで小さい時にとても寂しい思いをしたから、もしかすると私は……心のどこかが欠けてしまっているのかもしれない。そのせいかしら……あなたを見ていると、無性に泣きたくなる時がある」


「……それはどうして?」


「あなたが大事で、絶対に失いたくないと思うから」


 喪失を知っているからこそ、それがまた繰り返されると思うと怖くなる。もう奪われたくないと臆病になる。けれど、だからこそ人は誰かを愛せるのかもしれない。終わりがあると分かっているから、今この時を大切にできる。真摯に生きられる。


「……じゃあ僕と一緒だね」


 以前と同じような台詞を彼が言った。どうやら彼は、互いの共通点探しが好きみたい。しばらく二人抱き合って、互いの体温を分かち合っていた。


「幸い私は身体が丈夫だし、長生きできると思うわ」


 彼も母を早くに亡くしていると言っていた。だからアンナは彼に安心して欲しかった。


「うん……良かった」


 朴訥とした彼の台詞には、心からの安堵が込められていて。アンナは瞳を閉じ、『大丈夫よ』と胸の内で繰り返した。



 ***



 テーブルの上には飲みかけのお茶が入ったカップが二客。護衛のジャンヌは完全に意識を失っている。


 向かいのドレスショップにいるはずのアンナは、忽然と姿を消してしまった。


 アンナが大事だからと、彼女をずっとポケットにしまっておくわけにはいかないのだから――これは以前メールソン閣下がベルナールに言った台詞だ。


 いっそ誰にも見られないように彼女を隠しておけば、こんなことにはならなかったのだろうか? 彼女の意志を無視してでも、ちゃんと隠しておいたなら、こんなことには――




 焼き切れるような焦燥感で視界が揺らめく。


 アンナはどこだ? どこへ消えた――



 ***



 三日前――


 アンナは騎士団の基地(ベース)を訪ねていた。ここへ来ることはほとんどないのでうろ覚えなのだが、確か門のところで取次ぎを頼む決まりだった気がする。


「すみません、ベルナールさんに会いたいのですが」


 思い切って門衛に頼んでみると、


「彼はファンには絶対に会わないよ。やめておきな」


 と取り付く島もなくあっさり断られてしまった。


 それは定型文をそのまま告げたかのように慣れた言い方だったので、意地悪をするつもりはなく、ただ事実をそのまま告げただけなのだろう。ファンは門前払いなのね……ベルナールのその硬派な対応に少し驚いてしまった。そういえば、まだちゃんと名乗っていなかったわ……と自身の不手際に気付く。


 アンナはもう一度仕切り直して、


「私はメールソンの娘で、アンナ・メールソンと申します」


 と告げてみたところ、慌てた様子で取次ぎ手続きに入ってくれたのでほっとした。ドキドキしながら待っていると、そう時間を置かずベルナールが出て来た。パリッとした暗色の騎士服がとても良く似合っていて、身のこなしがこの上なく優雅なことに感心してしまう。


「アンナ、どうしたの?」


 ベルナールの斜め後ろで密かに様子を窺っていた門衛は、『氷の騎士』殿が蕩けるように優しく微笑むのを目撃することとなり、ピシリと固まってしまった。


 しかしまぁ……外野の視線など、恋人たちは気にも留めないものだ。


 アンナはベルナールに会えたことで自然と頬が緩むのを感じた。はにかみながら笑みを浮かべ、弾むような声音で尋ねる。


「お仕事中にごめんなさい。今、少しだけ時間取れるかしら?」


「もちろん。君のためなら可能な限り時間を空ける」


 緊迫した状況にも置かれることの多い仕事だから、会うのが『無理』な時は『無理』であるのはアンナも承知している。今日は駄目元と思って来てみたのだが、どうやら運が良かったらしい。お許しが出たのでアンナは彼の手を握り、外へと連れ出した。


 街場を抜けて丘の上に辿り着くと、一気に視界が開けた。樹木の切れ目から、家並みや空が一望できる。夕暮れ前の不思議な色合いの空に、虹がかかっていた。騎士団の基地からは堅牢な建物が邪魔をして、角度的に見えなかったのではないだろうか……。


「友達のエルミーヌを覚えていますか? 彼女の知り合いに気象に詳しい人がいて、その人から、これから虹が出るって教えてもらったんです。だからあなたにどうしても見てもらいたくて」


「……初めて会った時に僕が話したことを、覚えていてくれたんだ」


 亡き母と眺めた思い出の虹――それについては特に感傷めいた思いもなかったのだけれど、彼女が気にかけてくれたことがベルナールは純粋に嬉しかった。だってそれは離れているあいだも、アンナが彼のことを考えてくれていた証だから。


 つないだ手から温もりが伝わってきた。


 ――彼女がここにいる――


 アンナに対して抱いていた切羽詰まった衝動が形を変えて、別の何かに育っていくのを感じた。やはり執着めいた思いは消えそうにないけれど、焦りよりも穏やかな気持ちのほうが強まって、何かが芽吹くような希望が胸に広がるのだった。


「今日は最高の日だな」


 そう言いながらもベルナールは肝心の虹より、アンナの顔ばかり眺めていた。アンナが照れたような笑顔を浮かべて言う。


「あのね……門衛さんに『ベルナールさんはファンとは絶対に会わないよ』って言われたの。あなたはとってもモテるだろうし、女性に囲まれることも多いだろうと思っていたから、初めから会わないのだと知って驚いたわ」


「僕はロマンチストなんだ。運命の相手に巡り会えるはずだと、ずっと信じていた。隙間を埋めるような、仮初(かりそ)めの相手はいらない」


 ベルナールはそっとアンナの腰を引き寄せ、彼女の頬を長い指で優しく撫でた。


「――君に巡り会えて、良かった」


 そして慎重なほどに優しく口付けを落とす。アンナは初めてのキスについてなんとなく、こんなふうに想像していた


 ――きっと爽やかで、甘くて、心が浮き立つに違いないわ、と。


 子供がおもちゃ箱を前にした時みたいにワクワクして、ただただ幸せな気持ちになるんじゃないかしら、って。けれど実際にキスをしてみたら、胸が詰まって、切なくて、それでいて『もっと』と欲張りになってしまいそうな自分に気付いた。爽やかで、甘くて、うきうきして――それは確かにそう……だけどそれよりも、ここから別の何かが始まるような予感がして、震える。


 心が震えて、あなたで一杯になる。


「私も運命を信じている。ずっとあなたを待っていた」


 アンナはベルナールの瞳を覗き込んだ。やはり彼の瞳は星が瞬いているように美しくて、いつまでも眺めていたいと思ってしまうくらいに素敵だった。時間が止まったかのような不思議な心地がして、今とても幸せだと感じた。


 ――あなたさえいればいい。


「だから……これは私からのお返し」


 アンナは背伸びをして彼にキスを返した。軽く触れてすぐに離れるだけのキス。慣れていないから、あまり上手くできなかったかもしれない。ものすごく照れてしまって……その反動で笑ってしまった。


 花が咲いたかのような可憐な笑顔を前にして、ベルナールも微笑みを返す。彼が目元に熱を乗せ、少しはにかんだ様子で笑うのを、アンナは呆けたように見つめていた。


 彼ってなんてキュートなのかしら……。いつもは大人の男性という感じで、ちょっとした仕草も艶っぽく見えるのに、時々すごく可愛らしく見えたりもして……だけどそんなふうに思ってしまうのは、彼に対して失礼かしら。


「僕は君に恋している。どうしようもないくらい」


 ベルナールの真摯な告白を聞いて、アンナは泣きそうになってしまった。


「……私もよ。私もあなたに恋している」




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