5 ベルナールの自白
無事彼女の趣味に合うカップも購入できて、デートの締めに、アンナの親友の職場に行くことになった。
「エルミーヌという友達が、あなたにぜひお会いしたいと言っていまして」
正直なアンナは建前上の用件を繕うつもりもないらしく、訪問の目的を素直に語った。
『借りているものを返したいから、このあとついでに寄ってもいいか』というふうに適当な嘘をつけばいいのに、ストレートにそのまま思惑を伝えてしまうところがいかにも彼女らしい。
おそらく――おせっかいな友達がアンナの縁談を心配して『相手の男を見極めてやるわ』とかなんとか言い出したのではないかとベルナールは推察していた。しかしそれはこちらとしても願ったり叶ったりの事態である。
アンナの近しい人間については、それがどんな相手なのかを、自分の目で確認しておきたい。職業柄(?)どうしても人を疑う癖がついているベルナールであるが、実はエルミーヌについては閣下から事前に「彼女は信用できる」と聞かされていたので、そこまで警戒はしていなかった。
若輩者のベルナールよりも閣下は人を見る目は確かなので、彼が信用しているエルミーヌにおそらく問題はないだろう。
彼女は植物に関する専門家だそうで、その道の第一人者であるらしい。
温室を訪ねた時、エルミーヌは別の客人と会っていた。右目尻に泣き黒子のあるその男は、独特の甘ったるい空気を漂わせていた。癖のある艶やかな黒髪に、身から滲み出る瀟洒な雰囲気。
エルミーヌとその客人は顔を突き合わせてこそこそと話し合いの真っ最中であり、何やら金額について交渉しているらしく、数字が漏れ聞こえてきた。取引相手なのかもしれないが、どうもそうは見えなかった。二人のあいだには少し艶っぽい空気が漂っているので、エルミーヌは研究一筋で男にまるで興味を示さない――というタイプでもないらしい。
「エルミーヌ、お邪魔だったかしら?」
温室の入口でアンナが声をかけると、エルミーヌは慌てた様子で「じゃあそういうことでよろしく」と男に囁き、こちらとは反対側にある裏口からそそくさと彼を帰してしまった。
そうして何食わぬ顔で、アンナとベルナールを迎えたのだった。
「今の彼、お友達?」
アンナが尋ねると、
「まぁね」
とエルミーヌが肩を竦めてみせる。
「初めて見るわ」
「彼、キュートよね。……実は彼には、ものすごい秘密があってね……」
「どんな秘密?」
「足の指だけを使って、ボタンをはめられるのよ」
「それって何かの役に立つの?」
「そのくらい器用なら、なんだって楽しめるわ」
エルミーヌは悪戯な流し目をくれて、軽くウィンクしてみせた。
白いガーデンテーブルを囲んで和やかな談笑会が始まる。ベルナールは職場では『氷の騎士』と揶揄されるほどに愛想のない男であるのだが、アンナ関連の人付き合いでは人間らしい一面をみせる。それは取り繕って善人ぶっているというよりも、彼女のそばにいるだけで、自然と親切で朗らかな一面が引き出されるためである。
エルミーヌが出してくれたハーブティーを飲みながら、しばらく当たり障りのない会話を続けていたベルナールであったが、段々と伏し目がちに――……そして反応が緩慢になっていった。
しばらくたつとさらに様子がおかしくなり、口元に手を当てて固まってしまう。エルミーヌはそんなベルナールの様子を医者のような目付きで観察していたのだが、もうそろそろ良い頃合いかと判断して、尋問を開始することにした。
「で、ベルナールさん? アンナとの結婚について、あなたはどうお考えなのかしらぁ?」
これまでの愛想の良い澄まし声から打って変わり、急に意地悪く抑揚をつけた調子で尋ねる。エルミーヌは質問しながらベルナールの目の前で人差し指をゆっくり左右に動かしてみた。しかしこれに対し彼はまるで反応をみせずに、ゆっくりと瞬きするばかりであった。
「ちょっとエルミーヌ? あなた、彼に何かした?」
アンナは眉を顰め、身を乗り出してエルミーヌの腕に触れた。しかし彼女のほうは一切悪びれることなく、ケロリとしたものだった。
「無味無臭の新薬を彼のお茶に混ぜてみた。自白剤と軽い催淫剤の、スペシャル解放ミックスよ」
これを聞いたアンナは仰天し、椅子から転げ落ちそうなほど動揺してしまった。
「な、なんてことをしてくれたの? 彼は騎士よ? あなた、下手したら牢屋行きよ?」
「大丈夫、大丈夫。終わったあとは、彼、一切覚えていないから」
なんという恐ろしい手腕……友人のこの手慣れたやり口に、アンナは戦慄を覚える。そうだわ、エルミーヌって少々規格外というか、お転婆というか……時折思いもかけない暴走をする子だった。
アンナとしては、ベルナールは縁談相手だとあらかじめエルミーヌに話しておいたので、彼女がまさかこんな荒事を企てるとは思ってもみなかったのだ。いや――親友の縁談相手だからこそ、ここまでしたのか。
エルミーヌは悪い子ではないのだが、なんというかものすごく極端なところがある。心配症を拗らせてしまっているというか。これは友達を想うあまりの暴走に違いなかった。だけど当事者のアンナとしては、『ありがとう、友情の証ね』なんて呑気に言ってはいられない。
「ベルナールさんがあとで何も覚えていないからといって、それで無罪にはならないからね!」
「バレなきゃ無罪よ」
女同士わちゃわちゃと揉めていると、
「――アンナ」
と掠れた声が――。
アンナはビクリと華奢な肩を揺らした。
ど、どうしよう……薬を盛った件を、彼に責められたりしたら……
恐る恐る振り返る。視線が絡んだ瞬間、ベルナールがふわりと微笑みを浮かべた。その笑顔は天使のように可愛らしくもあり、その反面強く求めるようにアンナに向けられた視線は、普段の二倍増しで色っぽく感じられた。
彼はアンナの手を取り、壊れものを扱うようにそっと握り込む。
「あの……ベルナールさん? だ、大丈夫?」
怒っているようには見えないのだけれど……でも平常心にも見えない……。
「僕は君と一緒にいたいんだ。全てを君に捧げると誓う。だからどうか――お願いだから、ずっとそばにいて」
思いがけずそんなふうに懇願され、胸が潰れそうに痛んだ。どうしてそんなふうに頼むの? まるで叶わないと思っているみたいに。
どうしてそんなに寂しそうなの? どうしてそんなに優しい目で見るの? アンナは泣きたいような心地になる。そしてなんて――なんて綺麗な瞳なのかしら。まるで夜空に瞬く星が、中に閉じ込められているみたい。
しばらくのあいだ時が止まったかのように、二人は互いを求めて見つめ合っていた。アンナは心臓が破裂しそうだと思った。動悸、耳鳴りがして気が遠くなってくる。そして――ベルナールは唐突に表情をなくすと、椅子の背に寄りかかって目を閉じてしまった。気を抜いた仕草ですらとても綺麗で、こうして瞳を閉じて動かないでいると、特別美しく精巧に作られた人形のようでもあった。
「え、どうしよう……気を失ってしまったわ」
泣きそうになるアンナに対し、エルミーヌは「わぁお」と感嘆の声を上げ、ベルナールの艶やかな黒髪を引っ張ったりして反応を窺っている。
「数分で覚めるはずよ。……訓練しているせいか、薬が切れるのが速いわ」
「ちょっと、彼をものみたいに扱わないで!」
温和なアンナであっても、さすがにこれにはカンカンである。ところがエルミーヌのほうは、まるで後ろめたさを感じていないのだった。それどころか、呆れ返った様子で舌を出している。
「あーあ……ご馳走さま。この超がつく男前、本気であんたに惚れているみたいよ」
***
ある晩のことだ。突然ベルナールがアンナを訪ねて来た。
「顔を見に来た」
彼がそう言うので、一人留守番をしていたアンナは彼を家の中に招き入れた。
彼は後ろ手で扉を閉めたあと、玄関口の棚に置かれていた葡萄酒に気付いたようだ。それはリボンで飾り付けられた酒瓶で、見てすぐに誰かからの贈りものだと分かったのだろう。
ベルナールから「これは?」と尋ねられ、
「さっきグラヴェさんが来ていて……」
騎士団の同僚なので顔見知りかもしれないと思い、アンナは贈り主の名前を口に出した。
グラヴェは「先日夕食に招いていただいたお礼です」と言って、先ほどこのお酒を置いていったのだ。
とはいえアンナからすると、あの時は簡素な家庭料理しか出していないので、特に礼を言われるようなことでもなかった。そもそもグラヴェはあの日、父の所用で連れ回された挙句ここに寄って食事を取っただけである。
それでもわざわざお礼の気持ちを表してくれるのだから、きっと律義な人なのだろう。けれどグラヴェには悪いことをしてしまった。せっかく来ていただいたのに、父が不在で、葡萄酒だけありがたく受け取って、中に入ってもらわなかったからだ。
――ところがベルナールは、先のアンナの発言を少々曲解したらしい。
「男性を無防備に家に上げてはいけないよ。あわよくばという下心があるものだから」
「だけど……」
上げていないものと言いかけるアンナに対し、いつもは終わりまでちゃんと話を聞いてくれる優しいベルナールが、今日はなんだか逆らい難い調子で遮るのだった。
「駄目なものは駄目。約束してくれる?」
もう……だから上げていないのに。そう思いながらも、アンナは別のことに気を取られていた。
男性を家に上げてはいけないと言うけれど、あなたは――?
アンナはベルナールだからこそ、父がいないこんな時間でも、中に入れた。互いの距離はあまりに近くて、少し前まで外気に晒されていた彼の冷たい上着が、アンナの頬をひやりと撫でる。アンナはなんだか心細いような……それでいて胸の奥のほうに炎が灯されたような、不思議な感覚を覚えていた。それはまるで新しい扉を開くような心地にも似ていて、未知の不安と好奇心が同居している。
「じゃあ、あなたは? あわよくばと思ったりするの?」
「僕はない」
そうきっぱりと否定されてしまうと、なんだかがっかりしてしまう。でも……がっかりするなんて、すごくはしたないことだわ。
睫毛を伏せるアンナの頬を指で撫で、ベルナールは彼女の顔を上げさせた。彼の美しいブルーアイが目の前にある。視線は真摯であるのに、どこか熱っぽい感じがした。
視線一つで全身を絡め取られてしまいそうで、アンナは眩暈を覚えた。
彼が密やかに囁きを落とした。
「――僕は本気で君が欲しいんだ。駆け引きなんかじゃなく」
彼の指先がアンナの柔らかい唇に触れる。優しく撫でるように指の腹がそこをなぞり、彼は身体を離して帰って行った。
……夢だったのかしら……
アンナは一人玄関に取り残されていた。
閉じられた扉。
濃密な夜の気配。
しばらくたってからへなへなと膝を折り、腰を抜かしたように床に座り込んでしまう。
「もう……心臓が壊れる」
頬が燃えるように熱かった。アンナは手のひらに顔を埋めた。