1 可愛いアンナ
アンナは父の紹介で素晴らしい夫を得ることができた。彼がどんなふうに素晴らしいのかというと……
「可愛いアンナ」
まどろみの中にあったアンナは、こめかみにキスを落とされた感触でゆるやかに覚醒した。
まるで天国にいるみたい……
瞼越しでも周囲がぼんやりと明るいのが分かる。陽光が柔らかく室内に差し込んでいるのだろう。その透明な輝きが、目を閉じていても感じられた。
少し気だるいけれど、全てが完璧な状態――アンナは今、心の底から安心しきっていて、幸せだった。時間がゆるやかに流れているかのよう……。
うつ伏せの状態で、アンナは左側に顔を向けていた。
右肩にキスが落とされる――
ノースリーブの寝衣を身に纏っているので、彼女の滑らかな肩は剥き出しになっていた。背中を優しく撫でる温かい手の感触。
くすぐったいわ……
アンナは口元に笑みを浮かべた。睫毛を震わせ、そっと目を開ける。ベッドの隣が空なのに気付き、はたと我に返った。
しまった! 寝過ごした? 彼はどこに――
寝返りを打つように慌てて体を仰向けると、彼が覆いかぶさるようにして、こちらを見下ろしていた。いないと思って焦ってしまったのだが、ベッドの反対側にちゃんといたようだ。ベッドサイドに腰掛けるようにして、アンナの体の横に手を突き、彼女のほうを覗き込んでいる。すでに彼は身支度を終えていた。
見上げた先の彼は、何から何まで全てが『完璧』だった。
物柔らかな視線。端正な佇まい。彼はいつだって妻思いで、寛大だ。親切で、公平で、それに……
「ベルナール」
名前を呼ぶと、彼がはにかんだような笑みを浮かべる。星が瞬いているかのような美しい光が、青い瞳の中にあって……つい見惚れてしまう。
彼に見つめられているだけで、一瞬で指先まで熱くなるのが分かった。
「おはよう、アンナ」
囁きが落とされる。
ベルナールの視線に絡め取られると、アンナは頭がなんだかぼんやりしてきて……しばし言葉を忘れてしまうのだった。
***
「……私、また寝坊してしまった?」
アンナが慌てて起き上がろうとすれば、絶妙なタイミングで肩甲骨の下に大きな手があてがわれ、背中を支えられる。介助の必要などないというのに、とびきり親切な彼はこういった気遣いを欠かさない。ベッドの縁に腰掛けている夫の顔を見つめ、アンナは申し訳なさから、思わず眉尻を下げてしまった。
「いいや。僕が早く起きただけ」
ベルナールは笑み交じりにそう答えて、
「朝食を用意したよ。……食欲ある?」
そう優しく続けた。
夫は料理上手だ。そしてとてもマメな性分。なんでも簡単に作ってしまう彼の器用さに、アンナはいつも驚かされる。
そして……起き上がってからまだ少ししか時間がたっていないというのに、アンナは髪を撫でられ、額に、頬にと、いくつもキスを落とされていた。
魂が抜けかける。
ああ……完璧な彼に比べて、自分の駄目さ加減といったら、もう!
起こされるまで呑気に惰眠を貪っていたのだから、もう救いようがない。アンナは思わず顔を両手で覆ってしまった。すると頭上から焦ったような声が降ってきた。
「具合が悪いの?」
「か……顔を洗ってきます」
「うん、ごゆっくり」
起き抜けであまり構い倒すと、アンナがおかしな状態になるのを承知しているベルナールは、妻がベッドから慌てて這い出すのを淡い笑みを浮かべて眺めていた。
一方のアンナは洗面所に駆け込み、手早く顔を洗った。覗き込んだ鏡には、ありふれたブルネットの髪に灰色の瞳を持つ、二十歳前の娘が映っていた。
個々のパーツは柔和な雰囲気なのだが、瞳の色が薄いせいか、真顔でいると冷たい人間に見えてしまうのが彼女のちょっとした悩みだった。
アンナは思わずため息を吐く。
「今日こそはと思っていたのに……また寝坊……」
激務をこなしている旦那様のために、たまには朝食を作りたい。そう思っているのに、いつも当たり前のことができない。彼はこんなに至らない妻に対して、よく腹を立てないものだといつも不思議に思う。
一瞬遠い目になってしまうアンナであったが、忙しい彼を待たせているのだと気付けば、そうのんびりしてもいられなかった。
手早く髪を整えて寝室に戻ると、ベッドはすでに整えられていて(!)、そのそばに小卓が据えてあり、朝食のトレイが載せてあった。そこにはパンと卵、そしてカットフルーツまで載っているではないか。
彩りが綺麗でとても美味しそうだ。
ベッドの端っこ――自分が座っている隣をポンポンと叩くベルナール。
「さぁおいで。可愛い奥さん」
口の端を微かに上げて、悪戯に、けれど優しく微笑む彼。
――ダイニングに行って食べるべきだわ! アンナは思わずそう叫び出しそうになった。
それに、それに……彼は妻に対して『可愛い』と不用意に連呼し過ぎる。
毎日当たり前のように彼がそう口にするものだから、アンナ自身もなんだかその響きに慣れてしまい、先日街で「可愛い!」という言葉が耳に飛び込んできた時は、当たり前のように自分が呼ばれたのだと思ってしまったくらいだ。
そうして振り返った先では小さな女の子が犬を撫でていたので、ああ『可愛い』ってあのワンちゃんのことなのねとやっと悟って、その瞬間、自身の滑稽な勘違いが妙に恥ずかしく感じられたものだった。
……一生の不覚である。こんな失態、絶対人に言えやしない。とにかく彼の甘やかしは、アンナを着実に駄目人間にしているものと思われた。
けれども。分かってはいるけど、というやつで……。良くしてもらっている立場では、この境遇に文句をつけられるはずもない。そうなるとアンナとしてはもう、彼の親切を全面的に受け入れるしか選択肢はないのである。
そんなわけで、今現在もアンナのほうに拒否権はない。
バツが悪い思いをしながらベッドにそろそろと近寄り、彼の指示に従ってその隣にちょこんと腰を下ろした。
「あの、朝食、ありがとう」
お礼を言ったら、彼が瞳を細めて照れたように笑った。
こんなふうに並んで座ると、斜め横のアングルから鑑賞できるので、ベルナールの顔の造形の良さを隅々まで堪能することができた。
呆れたことに、そう――彼はなんと顔までハンサムなのである!
癖のない黒髪は艶やかで、高い鼻梁も品の良い形をしているし、唇の形もセクシーだ。そして背も高くて、おまけに筋肉質だし、足も長い……ああもう、彼ったら本当に欠点が見当たらないわ。
アンナは頭を抱えたくなってしまった。これが赤の他人だったら呑気に「素敵ね」なんて言っていられるのだけれど、これが夫とあっては、妻としては素直に感心ばかりもしていられない。
隣にいるのが自分でいいのかと、どうしても考えてしまうのだ。
「……あなたは食べないの?」
気になって尋ねたら、「僕は向こうで食べるから」との返事がきた。
騎士団に所属している彼は、まだ二十代半ばの若さであるのに、そこそこ上の役職に就いているらしい。苦労を一切見せない人だけれど、仕事量は相当なものに違いなかった。
詳しいことは知らないが、仕事を効率良く進めるために朝食を取りながらミーティングをするというような、騎士団内のしきたりがあるのかもしれない。
「でも私だけ食べるわけには……」
と言いつつ丸パンに手を伸ばすと、ほわりとした温かさが指先に伝わってきて、ぎょっとしてしまった。
え、なんで温かいの?
「チーズとハムを挟んであるんだけど、その組み合せなら温かいほうが美味しいかと思って」
この気遣い……まるでよくできた嫁だわ、とアンナはふたたび遠い目になる。
いえ、はい、そうですね……本来は妻たる自分がこのくらいのことは、やってのけなければならないはずなのです。本当にごめんなさい。断腸の思いです。
明日こそは! 明日こそは必ず――
「あ、あなたも半分食べない?」
すでに罪悪感で心がいっぱいになっているアンナは、思わず声を上ずらせてしまう。
するとベルナールはにっこり笑い、
「君が食べるのを見ているほうがいい。……でも、もう時間だな」
そう言って不意打ちで唇を重ねてきた。
アンナは胸の前でパンを捧げ持ちながら、瞳を閉じて、この交流にうっとりと身を任せた。
柔らかな接触は戯れのようでいて、それでいて艶っぽくて、沢山の会話を交わしているみたいで……。
「ん……」
彼のキスが好きだわ、と考えていると、ベルナールがすっと身体を離した。
「もう行かないと。愛してる」
キスの余韻でほとんど放心状態に陥っていたアンナは、彼が寝室から出て行くのをぼんやりと眺めていた。
しばし時間が経過してからハッと我に返る。
「いけない、私、見送りもしなかった!」
アンナはがっくりと脱力し、そのまま横向きにベッドに倒れようとしたところで――ああ、このままパタリといくと持っているパンがシーツの上に落ちてしまうかもしれない、と気付き、とっさに軌道修正して仰向けに倒れた。パンを死守するように、両手を高く掲げながら。
視界に、真っ直ぐ上に伸ばした自身の手と、ぎゅっと握りしめられたパン、その先に見慣れた天井が映った。
私って、私って……なんて食い意地が張っているのかしら! とっさに食べ物をかばってしまった自身の卑しさに、アンナはほとほと嫌気がさしてしまった。