人生は一番美しい童話である(8)
ルーカスが彼女の異変に気づき駆け寄るまで数十秒だけだったというのに、セリーヌにとっては何時間もの時が過ぎ去ったかのようだった。
「…寄るな、小僧」
セリーヌを抱きかかえる様にして、彼女は彼を睨み付ける。
「何者だ?お前」
「…え?」
キョトンとした顔で彼は立ち止まった。それから納得したように大きく頷き、どこかの軍人のように直立不動の体勢をとる。
「私はトーマス、トーマス・ゴールドステインです!」
街中に響き渡るような声で彼は言い放った。
「トーマスか」
「トミーと呼んでください!」
「…その名前、威勢の良さ。このルーカス、脳の隅にしかと刻んでおこう。脳の隅にな」
「ありがとうございます!」
皮肉も通じないようだ。ただの馬鹿なのかもしれない、とセリーヌは思う。きっとこういう人種もいるのだ。
何も考えず行動する人間。
セリーヌがこのタイプの人間に会うのは初めてだった。
「行こう、ルーカス。私は大丈夫」
「でも、お嬢」
始末しなくていいのですか、と言う言葉はうまい具合に飲み込んだが、ルーカスの眼光は今にも殺しにかかりそうなほど鋭い。
「…大丈夫。また会いましょう、トーマス」
「貴女のお名前は」
「…次、私達が会うことがあれば、会話を交わすことがあれば、その時に」
そう言って彼女は彼に背を向ける。彼が何を考えているのか、彼女には全く検討もつかなかった。しかし、彼が何か自分に害を及ぼそうとしているとは、到底思えなかったのだ。
大分長い時間をランニングに費やしてしまったな、と彼女は思う。これは、アルバートに怒られるだろう。
呆気にとられているルーカスとトーマスを背に、彼女は養父の待つ屋敷へと走り始めるのだった。