人生は一番美しい童話である(52)
翌朝、セリーヌは身体中を未だ支配しようとする眠気と戦いながらトットの部屋を静かにノックした。彼女の指が扉に触れるか触れないか、というところで内側から開く。行き場を失った彼女の指先は空をきってから彼女の右のこめかみに添えられた。
「…扉の前で主人の帰りを待つ犬の真似でもしてたのか」
口許に笑みを浮かべながらそう言った彼女にトットが軽くパンチを入れる。昨日あったばかりなのが嘘のように、彼らは心を許していた。昨日のアルバートの言葉が彼らの心の壁を取り払ったのかもしれない。たまにはいいこと言うじゃないか、とセリーヌは心の中も微笑んだ。
「オレは犬よりウサギが好きなんだ」
「独りだと寂しく死ぬから扉の前にいたのか」
「それじゃもうよくわからないよ!」
クスクスと笑いながらトットが言う。しかしセリーヌにはわかっていた。昨夜、彼が眠れず窓の外をぼうっとした目で見つめていたのを。そして今の明るさはそれを取り繕うためのものだと。何故なら彼女も昨日同じように寝れずに外を眺めていたからだ。互いに視線を交えることはなくとも、心の隅で相手を認識していたことも。
笑顔がふっと消える。2人して図ったかのように、それは同時だった。トットは廊下の先を見つめ、セリーヌは足許に広がる絨毯を見る。思いがけず昨夜の記憶がフラッシュバックしてきて、彼女は勢いよく頭を振った。
「…行こうか」
どちらともなくそう言って歩き出した。
その足取りは先程までの空気とは違い、重苦しさを奏でている。それをどうにか振り払おうと2人は無言で足を前へ前へと踏み出す。
「アタシはご主人を待つ犬より、待ち伏せする狼がお似合いかしら」
そう言って玄関扉に寄りかかったまま、アリーはウインクした。