人生は一番美しい童話である(34)
「君が黒蝶でなくてよかった」
そう言ってトーマスはセリーヌを抱き締めた。息が詰まるほど、強く。強く。このまま絞め殺されてもいいんじゃないかな。そんな風に思う自分自身に、彼女は嘲りの笑みを浮かべる。しかしその顔はトーマスの身体に隠されて、表に出ることはなかった。
「…私が黒蝶だったら、あなたどうしてたの?」
「たぶんこのまま殺してる」
彼女の言葉に被せるように彼は返した。その返答を聞いて、彼女は押し黙った。
今まで感謝しかされたことがない。彼女たちが街の犯罪者を殺す度に、街の隅々から感謝の声があがった。それが彼女の当たり前で、その為に色々な事を命を懸けてやり遂げてきた。
彼女はじっと彼の目を見つめる。
しかし彼女の脳裏には何も浮かばない。
おかしかった。彼女がおかしくなったのか、彼がおかしいのか。何もわからなかった。ただただ、彼との未来が見えず彼女はためらった。
「…変な話をしてしまったね、ごめん」
そう言ってトーマスは彼女の肩を今度は優しく掴む。
「僕、喧嘩とか嫌いなんだ。みんなが仲良くできればそれでいいんだ。悪い奴がいればみんなで団結して対処してきた。だけど彼らが現れてから、街のみんなは彼らに任せっきりだ。
彼らの殺り方に任せっきり。
そしたら平和にはなったけど、彼らに抗おうと興味本意で犯罪者になって、その命の炎を消す馬鹿野郎も現れた」
そこまで捲し立てて、彼は一息つく。
「彼らは僕らに一生の安泰を与えた。だけど。
犯罪者が生まれる街をも、与えたんだ」
セリーヌは何も言えずじっと黙ったままでいた。今、彼に「そう思うだろう?」と聞かれたら、なんと答えたらいいんだろうか。何が正解なのだろうか。
「こんな話を別れ際にしてしまってごめん」
とぼとぼと歩き出す彼女を見かねて、トーマスが声をかける。
「いいえ、良いの。そんな考え方もあるんだなって思えたから」
そう言って彼女は笑った。
「もうあと少しで家だから。
今日はありがとう、トーマス」
「トミーでいいよ」
「じゃあ、私もサリーでいいわ」
セリーヌなんて名前、嫌だものね。その一言を飲み込み、彼に手を振る。
「また会ってくれる?」
その問いかけに微笑みながら彼女は走り出した。
会いたいならいつでも会える。
だけど、私達は、水と油だ。
決して交わることはない。交わることは許されない存在。
「これっきりよ、トミー」
彼女の呟きは突然降りだした雨と共に流れ落ちていく。やがて、彼女の頬を伝う水を掻き消すように、豪雨へと変わった。