人生は一番美しい童話である(30)
なにか嫌な思い出がこの名前にはあるのかしら、とセリーヌは、思った。どこにでもあるような名前だ。そう気にかけることもないだろう。
しかし、どうにもトーマスが固まってしまったので彼女は話しかけることにする。他人と話すのは、少し苦手だ。
「何かあった?」
たった一言。そう呟いた。
「…いや、少し昔を思い出しただけなんだ。
君、蝶は好き?」
折角名前を教えたと言うのに呼んでくれないのか、と思いつつ「いいえ」と答える。
「昆虫全般は苦手なの。特に蝶は燐粉があるでしょ?気持ちが悪いわ。たぶん私触ったら手がぶつぶつしてしまうと思うの」
「…そっか」
トーマスは少し考えてからまた先程のように笑った。機嫌が直ったらしい。
「さあ、いつまでもここに立っていても邪魔だから中に入ろう」
そう言ってまた彼女の手を取りエスコートする。彼女はそれに抗うことなく大人しく従った。
カランコロンと澄んだ音が扉を開けると同時に店内に響き渡る。
「いらっしゃい…おう!トーマスか」
店の奥から髭の生えた大柄な男が現れた。
「おいおい、お前もついに女を連れ込むようになったのか。
しかもそうとうなべっぴんさんだね、こんにちは」
にこにこしながら男が近づいてくる。
「俺はここの店長!そうだなー…船長とでも呼んでくれ!
何せここの酒屋の名前は"アーリア号"だからな!」
「店長の初恋の君の名前なんだぜ」
「赤毛のべっぴんさんだったよなぁ」
「お前らやめんか!恥ずかしいことを思い出させるな」
お客からのやじを受けつつも、にこにことしている。店も店主も愛されているな、と感じる光景だった。初めてのことに緊張しながらも、セリーヌも自然と笑顔になった。
いつも薄暗い空間で生き、明るい空間にいたことなど一度もなかった彼女にとって"アーリア号"は初めて尽くしの場所だった。




