83
葦原には珍しい、霧雨の朝だった。
天はどろりとした雲に覆われ、白布にも見える霧が山々を撫でている。
居並ぶ武士は、茹でた蟹を思わせる真っ赤な甲冑を纏っている。
黒い面頬から熱い呼気が漏れ出すと、漂う霧雨は嫌がるように身をよじらせた。
得物は既に抜かれている。
槍、長巻、太刀といった白刃の数々が霧に濡れ、涙にも似た滴を垂らしている。
数は百と少々。
使い手の数も、百と少々。
地に残る草鞋の痕はそれよりずっと多い。
武士たちの後方には数十の弓取りが控え、左右には網を携えた数十の鯨撃ちが展開している。
彼らの視線の先には、一つの建物があった。
「ちさんいたしました」
やや間延びした、清廉な声。
兵たちは身じろぎ一つせず、前を向いたまま。
「おやあ、カヤミ一位ですか」
のんびりした声と共に、一人の武士が振り返る。
甲冑はおろか防具らしいものを何一つ纏っていない老人だった。
着ているのは明るい橙色の裃で、袴の裾は泥で汚れている。
長めの白髪は油で撫でつけ、後方へ流している。
背には『雷』の一文字を入れた編み笠。
「テンライさま。ひさしく」
「本当に久しぶりですねえ」
老人の声音はやや高く、ねっとりと絡むようだった。
「いやあ、大きくなられた。嬉しいことです」
「はんとしぶりですが、そこまでわたしはかわりましたか」
「半年? はて。四年ぶりでは?」
「いえ、はんとしですよ」
「あらぁ。私の思い違いでしたか」
「……」
老人にじっと見つめられ、水色の狩衣を纏うカヤミ一位は僅かに眉を寄せた。
「年は取りたくありませんねぇ。すぐに自分が時の瀬のどこに立っているのか分からなくなる」
とうに六十を過ぎた老人は赤褐色の顔に柔らかい笑みを浮かべた。
温和な表情だが、辺りの兵は一斉に身を強張らせる。
テンライ翁はただの老将ではない。
葦原の武士の頂点、『霞七太刀』の一人だ。
いくらにこにこと愛想の良い笑みを浮かべても、胸に秘めた獰猛さは隠しきれない。
その身には淀んだ血と脂の匂いがこびりついており、鉢合わせれば熊や虎すら進路を変えると言われている。
老人は俺の隣に立つ女丈夫を見た。
「これはランゼツ三位。ご武勇はかねがね」
赤紫の狩衣を纏う弓取りは小さく鼻を鳴らす。
「まるで自分は縁側で茶でも飲んでいたかのような言い草だ、テンライ殿」
「いやあ、ここ最近は大きな争いが無くてねぇ」
溜息をつく老人の腰では、漆塗りの太刀が霧雨に濡れていた。
人馬の肉を惨たらしく破壊する、波刃の一太刀。
「ごろつきや雑兵しか斬れないのなら、いっそ縁側で茶でも啜らせてほしいものです」
一拍。
ランゼツ三位の目がテンライ翁の全身を舐めた。
「……まるで衰えておられませんね。わざわざ前に出るのですか。あなたほどの方が」
「出ますとも出ますとも」
老人は目を細め、蛇を思わせる笑みを浮かべる。
「私も人の肉を斬るのが好きですからねぇ」
そこでテンライ翁の目が俺に向けられた。
毒蛇に絡みつかれるような悪寒。
「彼は……?」
「ワカツ九位です。お初にお目にかかります」
俺が頭を下げると、老人はぺちんと額を叩いた。
「『蛇飼い』ですか。これはまた……思ったよりなよやかでいらっしゃる」
「……未熟にて失礼仕ります」
老人は不思議そうに眉を上げた。
「はて……誰彼構わず噛みつく男だと聞いておるのですが……? んふっ。私のような老いぼれは噛みたくもないですかねえ」
「犬ならともかく、俺は毒蛇ですので」
「ほお?」
「殺す気もない相手に噛みつくのもいかがなものかと」
んふう、と老人は俺を値踏みするように眺めた。
と、その目がぱっと輝く。
「そうか、そうか。シャク=シャカを連れて来たのが君でしたね」
「彼は健在ですか」
「そりゃそうですよ。あれほどの「後にしろ、爺さん」」
野太い声が割り込んだ。
テンライ翁のすぐ傍に立つ男は、ひと目で鯨撃ちと分かる身なりをしていた。
浅黒い肌、盛り上がる筋肉の鎧、濡れることを前提とした軽装。
腰には細長い銛。
大貫衆にしては珍しく、純黒の外套を纏っている。
柄は黄緑色の光を放つ虫。
蛍だ。
眉から上を覆う黒頭巾にも蛍が描かれている。
「タキナリだ」
自分の名をぞんざいに告げた男は、武士、弓取り、大貫衆が包囲する先を顎で示す。
「あれだ、カヤミ一位」
示されたのは大きな酒蔵だった。
ちょっとした屋敷ほどの広さがある。
「あのなかに、きょうりゅうじんが?」
「ああ。銀の鱗を持ってるらしい」
「……!」
日没の少し前、『銀色の恐竜女が出た』という報せを受け取ったカヤミ一位はただちに十弓を招集した。
翼竜狩りを命じられていた俺の出発も一旦見送られ、一位に同行することとなった。
相手がただのアルケオなら俺に白羽の矢が立つことはなかっただろう。
今回発見されたのは銀色の亜種だ。
銀色。
――銀色。
俺の脳裏に銀色の盗竜、銀色の異竜の姿が蘇る。
サギの語った恐竜の特異体、『夜光種』。
それは恐竜のみならず、恐竜人類にも存在する。
名前は確か――――
「ご覧の通り囲んじゃいるんだが」
タキナリの声で我に返る。
「『銀色』ってのが気になってな。あんた方を待ってた」
「賢明だ」
ランゼツ三位が霧雨に濡れた髪をかき上げる。
「銀色の恐竜は手強い。となると、銀色の恐竜女も手強いのが道理だ」
「まだるっこしいですねぇ」
テンライ翁は呆れたように肩を揺らした。
「ささっと押し入って斬ってしまえば良いだけでしょうに」
「……いや、何も良くねえよ。何で爺のくせに思慮が浅いんだ」
「もたもたしている内に穴でも掘って逃げられたら大事でしょうよ」
「そうならないように『十弓』が十重二十重に包囲を敷いてくれてんだろうが」
はああ、とテンライ翁がこれ見よがしに失意を見せた。
「つまらないですねぇ。そういう手堅い戦法は」
「同感だ。刺激が足りんな」
ランゼツ三位は耳の裏を掻いていた。
「殺すか殺されるかの方が愉しいだろうに。包囲なんて興ざめだ」
「ほら御覧なさい。三位もこう言っていますよ」
タキナリは口に苦蓬でも詰め込まれたような顔をした。
「……何でニラバ二位じゃなくてこいつが来たんだ」
「二位のゆみはまわりにひがいがでますので。ほかのじゅっきゅうとともに、もうひとつそとのほういをまかせております」
「いい女と肩を並べられて幸せだな、六傑タキナリ殿」
「ああ、幸せだ。あんたを見てると、ウチの女どもがだいぶまともなんだと気付かされる」
タキナリと名乗った男が俺を見た。
儀礼的な目礼を交わす。
「恐竜女に毒は効くのか」
「効きます」
「根拠は?」
「麻痺毒が効くことを確認済みです。今日はそれより強い毒を持って参りました」
獺祭。
俺の持つ中で最強の毒。
喰らえばアルケオとてひとたまりもないはずだ。
「麻痺毒は何匹に試した? 一匹だけか?」
「はい」
「そうか。……ま、個体差はでかくなさそうだからな。まるで効かんということはないだろ」
問題は、とタキナリが唇を舐める。
「当たるかどうかだな。恐竜女は矢を見切ると聞いてる」
「当たるようにお膳立てするのが私らの仕事でしょうねぇ」
「そもそも九位の出番は無い。矢の雨を降らせて――」
「――、――――」
三位たちが話し込む隙に、一位がそっと俺を連れ出した。
十分に離れたところで耳打ちされる。
「かくにんですが、九位」
霧雨に濡れた一位の髪は頬と首に張り付き、美麗な筋を作っている。
淡い茶色の濡れた筋。
「あるけおの『やこうしゅ』について、サギがなにかいっていましたね?」
「はい。確か――」
鱗の色が普通ではなく、見かけたら必ず逃げろと警告されている個体。
ただ、食性が普通ではなく、人肉を食べないとサギは語っていた。
そいつの名は――『偏食者』。
「サギのはなしはしんらいせいにかけます。ひとをたべないというはなし、まにうけないように」
「承知しました。……ただ、強さについては」
「ほんものでしょうね。もとより、そこをうたがうつもりはありません」
俺の鼓動が僅かに跳ねた。
昂揚と、同じだけの緊張で。
「秘毒を使います。ただ――」
「みかたにあたってもかまいません。しそんじるぐらいなら、ぎせいをだしてでもうちなさい」
「承知しました」
三人の元へ戻る。
テンライ翁とタキナリはまだ話し合っていたが、ランゼツ三位だけはこちらを見つめていた。
「秘密の話ですか」
「ええ」
「私を交えてくださっても良かったのでは?」
「ふようです」
三位は自嘲じみた笑みを浮かべ、俺を見た。
その目には敵意とも軽蔑ともつかない感情が渦を巻いている。
「九位は「御免」」
俺の傍に舞狐とルーヴェが降り立った。
二人とも面をしているが、ただならぬ緊張感をみなぎらせているのが分かる。
「彼奴が動きます。急ぎ構えを」
「!」
その場にいる全員の視線が蔵に突き刺さる。
扉が、ゆっくりと開いた。
中から歩み出したのは、銀の鱗を持つ恐竜人類だった。
手首から先と膝から下を覆うのは、磨かれたように輝く白銀の鱗。
鳥に似た五本の趾は太く長い。
髪は光沢のある栗色。
耳元までは真っ直ぐ伸びているが、そこから先は風に煽られた火のように波打っていた。
元々気だるげな造りの顔に、更に気だるげな表情を乗せている。
年齢は二十そこそこで、これまで見たアルケオの中でも際立って艶美な肉体の持ち主だった。
刃すら柔らかく飲み込んでしまいそうな腕。
覆い布を力強く突き上げる胸。
しなやかに割れた腹の筋肉。
剛毅でありながらまろやかさを併せ持つ腿。
男を打ちのめし、女を圧倒する、凄味を感じさせる銀の女体。
腕から背中を覆う羽の色は松葉を思わせる濃緑。
驚いたことに、腰部には長い尾が生えていた。
銀色の鱗に包まれた、櫛に似た形の尾だ。
女が薄笑みを浮かべた。
その瞬間、辺りの空気が変わった。
「……ッッ?!」
まるで凍て付く夜の海にでも叩き落とされたかのように、五臓六腑が竦み上がる。
筋という筋が強張り、頭皮の穴から汗が噴き出す。
ほとんど無意識に数歩退き、ほとんど無意識に尻穴に力を込める。
「ッ!」
「――」
「っっ」
ランゼツ三位が矢を掴み、番えた。
テンライ翁は目にも留まらぬ速度で抜刀し、大上段の構え。
タキナリは半歩引き、銛を掴む。
僅かに遅れ、俺も矢を番えた。
かちゃちゃちゃ、がちゃちゃ、と。
兵の鎧と得物も不吉な音を立てている。
(……!)
最前線の兵ですら二十歩。
後方の俺たちからは少なくとも五十歩は離れている。
なのに、息が詰まる。
目が乾き、指先が震える。
かちゃかちゃと兵たちが落ち着きなく身を動かしている。
面頬から漏れ出す熱い息が滞留し、辺りの気温を上げていく。
忌まわしい汗が肌を濡らし、不快感が増す。
女が僅かに指を動かすだけで、津波に似た悪寒が押し寄せる。
奥歯を食いしばった兵が呻き、不快感が増す。
(あれが『偏食者』……!)
どっ、どっ、どっ、と。
一拍一拍を俺自身に叩き付けるかのように心臓が強く打つ。
強い。
あれはとてつもなく強い。
シャク=シャカと同じか、それ以上に。
手を触れずとも、構えを見ずとも、それが分かる。
カヤミ一位はこの敵を取り逃がさないよう、十弓を含めた弓衆を同心円状に配置している。
だがその判断は誤りだと俺は感じていた。
全員だ。
こいつを倒すためには全員が必要だった。
ニラバ二位も、イチゴミヤ四位も、ミョウガヤ五位も。
ツボミモモ六位も、エノコロ七位も、ギンレンゲ八位も、アマイモ十位も。
十弓全員とありったけの弓衆で射かけ、傷ついたところにありったけの太刀衆と大貫衆、そして七太刀や六傑をぶつける。
そこまでの攻め手がなければ、こいつには勝てない。
シャク=シャカは唐人であるため手続きも無く加勢を頼むことはできない。
そもそも修行中の彼とは連絡がつかない。
七太刀や六傑のほとんども葦原各地に散っている。
陽動の可能性もあるため、戦力をこんな場所に集中するわけにはいかない。
十分な数の兵。
そこに七太刀一人、六傑一人に三位と俺がいれば事足りる。
サギの話は非戦闘員であるがゆえの誇張である可能性が高い。
そうした一位の話を、俺は馬車の中で何の疑問も抱かず聞いていた。
とんだ間違いだ。
俺は提言すべきだったのだ。
アルケオの夜光種なのだから、もっと数が必要だと。
多少の無理をおしてでもシャク=シャカを捕まえ、象や牛を動員し、集中攻撃で仕留めるべきだと。
たとえ厳しい叱責を受けることになろうとも、俺は一位に申し立てるべきだった。
だがもう遅い。
俺たちは偏食者と出逢ってしまった。
逃げることはできない。
今ここにいる人間でこいつを討ち取るしかない。
女は亀のごとくゆったりと辺りを見回し、唇を僅かに動かした。
(来る……!)
きりりり、と弦が軋る。
濡れた手で摘まんだ矢羽が熱を帯びる。
汗と霧雨が睫毛に乗り、転がり落ちる。
誰もが息を止め、周囲から音が消える。
女の肩が小さく跳ねた。
一度。
二度。三度。
痙攣するような動き。
「……!」
次の瞬間――――
「~~~~~~~~っっっ!!!」
濁った水音と共に、『偏食者』の口から吐瀉物がまき散らされた。




