8
ラプトルより大きな生物とは戦わない。
そう宣言したオリューシアが最初に剣を抜いた相手は人間だった。
俺から十数歩も離れていたシアは剣を持つ手をだらりと垂らし、酩酊したかのようにふらついた。
俺が怪訝に思った次の瞬間、彼女は五歩もの距離を詰めている。文字通り、目にも留まらぬ速さで。
(!)
騎士の動きではない。
まるで忍者だ。
シアは更に身を揺らめかせた。次の五歩で目の前の女は射程に入るだろう。
だが俺の手を掴む女はシアの動きに気づいているようだった。
獲物を見つけた爬虫類のごとく目を細めた女が俺を解放し、いつの間にか地に突き立てられていた白い棒を掴む。
いや、棒ではない。骨だ。
骨を削って作られた波状の剣。
シアが地を蹴り、黒い風と化す。
骨を掴む女が振り返る。
俺の頭と体は事態に追いついていない。
池の中に立ち尽くしたまま叫ぶ。
「ゃめ――――」
剣を振り上げた二人の女は。
互いの中間地点に飛び出した恐竜に襲い掛かっていた。
「っ」
ずんぐりとした体から蛇のように細く小さな頭が伸びる恐竜だった。
胴体に骨の剣を突き刺され、前足をばっさりと切り落とされた爬虫類は、ぎぎい、と苦し気に呻いた。
奇妙な足運びで半回転したオリューシアが返す刃で首に切りかかる。
さぐっと肉に刃がめり込み、皮一枚でつながった首がべろんと垂れる。
ぶしゃっと上がった血を浴びながら、名も知れぬ女が胴に刺した剣を捻った。
既に胴体と泣き別れになった顔から、コエエ、と末期の嘆きが発せられる。
どっと倒れた恐竜を挟み、二人の女が向かい合う。
殺された恐竜はラプトルより少しだけ小さかった。
「だから言ったでしょう、ワカツ。余計なものに気を取られるな、って」
女の肩越しに、シアが冷ややかな視線を向けている。
「索敵をおろそかにする弓兵が精鋭を名乗れるだなんて、葦原の人員不足には同情してしまいます」
「ぅ……すまん」
ざぶりと池から身を上げた俺は二人に合流した。
びくんびくんと痙攣する恐竜の胴体は血の池に漬かりつつある。
「……」
薄汚れた女は俺とシアを交互に見つめている。
警戒しているようには見えない。警戒に値しないから、だろうか。
「あんた……誰だ?」
女は答えなかった。
言葉が通じていない、ということはあるまい。
先ほど彼女は確かに言葉を口にした。
恐竜に突き刺さった骨の剣を抜き、女は池へ向かった。
こちらに背を向け、ちゃぷちゃぷと骨を洗い始める。
「葦原のワカツだ。……あー……君は?」
君などという鳥肌が立つ呼び方をしたにも関わらず、女は返事をしなかった。
骨の剣を洗い終えた女はそこに落ちている椰子の実を興味深そうに見つめている。
俺は彼女の求めにまだ答えていないことを思い出した。
「……ほしいのか?」
こく、と女は頷いた。
「やるよ。だから質問に答えてほしい」
女は割れた椰子の実を抱え、じっと俺を見つめた。
その瞳の色に俺の胸はさざめく。
(茶色だ……)
俺やトヨチカのように葦原で生を受けた者の瞳は、青。
エーデルホルンのオリューシアは、黒。
唐が赤、ブアンプラーナが紫、ザムジャハルが白。
混血の場合は左右で目の色が違うか、多少色が混じる。実際に俺は灰色や水色に近い目を見たこともある。
だがここまで純粋な『茶色』は初めて見た。
気づけば彼女もまた俺の目を覗き込んでいた。
頬と額は汚れ、全身から血と泥の匂う女だったが、顔立ちは整っている。
葦原や唐ではなく、ザムジャハルやエーデルホルン寄りの顔だ。
「いいにおい、する」
「ん?」
女はすんすんと鼻を鳴らす。
「ワカ、いいにおいする」
「……?」
俺は手の甲や肘を嗅いでみたが、良い匂いなど感じられない。
川の水や汗のせいで臭いぐらいだ。
「あんた、名前は……?」
「なまえ、ない」
「?」
「なまえ、ない」
頭が痛くなってきた。
やはりこの女、気が触れているのだろうか。
「ワカとシアは、なに?」
今度は女の方が問いを投げる。
「ここでなにしてる?」
「何って……外に出ようと――……待て。何で名前を知ってるんだ」
「さっきみえた」
話がまるで噛み合わないことに俺は当惑した。
と、「ワカツ」とシアが声を投げる。
ぞんざいな口ぶりだったが、声音には慎重さがあった。
「行きましょう。時間の無駄です」
「しかし……」
「椰子の実を拾ってください。これだけ血の匂いがすればすぐに恐竜が集まってきます」
シアはさっさと歩き出してしまった。
俺は彼女の後を追ったが、数歩も進まないうちに振り返る。
(……)
獣の皮を繋ぎ合わせた粗末な衣服。
泥と血に汚れた肌。汗で固まりかけた髪。
おそらくは俺より年下で、しかも女。
「君、家族は?」
「おとうさん、いた」
「ワカツ」
「お父さんは今どこにいる? それ以外に、人は?」
「ワカツ。いい加減にしてください」
シアが珍しく声を大きくしたが、俺はそれ以上に大きな声で怒鳴り返す。
「こんなところに見捨てておけるか! 連れていくぞ!」
シアが怒りで言葉を失うのがわかった。
だが俺にも言い分がある。
「気が触れていようがいまいが関係ない。冒涜大陸に迷い込んだ人間がいるなら保護して連れ帰るのが筋だ」
「……。ここはどの国の土地でもないでしょう」
「だったら今この瞬間から葦原の土地だ。俺は俺の務めを果たさせてもらう」
シアはぷいと顔を背け、「足手まといになるだけです」と言い捨てた。
その表現が見当違いだということはシア自身、よく分かっているだろう。
この小汚い女は一切臆することなく恐竜に襲い掛かり、殺した。
昨日今日冒涜大陸に入ったようには見えない。おそらく、相当な場数を踏んでいる。
殺しの場数を。
「霧も見つけていないのに、どうしてそう軽率な判断をするんですか」
心なしか、シアの言葉には棘があった。
そういえば最初にこの子のことを伝えた時も――
(……!)
俺が重大な事実に気づくのと、女が口を開くのが同時だった。
「きり? きりは、なに?」
俺は手短に霧のことを伝えた。
感覚崩壊のことまで伝えても混乱を招くだけなので、視覚的な特徴――白くもやもやしたもの、という形容を伝える。
女は小鳥のように首をかしげた。
「それ、しってる。あっちにいっぱいある」
「!!」
「?!」
これにはさすがのシアも振り向いた。
俺は女の肩を掴む。
「本当か?!」
「ほんとう。……ワカとシア、きりにいく?」
「ああ」
「きりのそと、あぶない」
「な、何言ってるんだ。ここの方が危ないだろう」
「ここ、ひとはいない。ひとはあぶない」
「……」
確かに、そういう見方もできるのかもしれない。
恐竜はおぞましい生物だが、陰険な策謀をめぐらせたり、自分以外の誰かを貶めることに躍起になったりはしない。
彼らは手が付けられないほど狂暴だが、悪ではない。
「連れて行ってくれ。謝礼は何でもする」
「しゃれい? しゃれいはなに? おかえし?」
「そうだ。何でもする。俺たちを霧まで連れて行ってほしい」
女は腕を組み、考え込んだ。
この知性に問題のありそうな女でも一応、「考える」ことはできるらしい。
「なまえ」
「ん?」
「なまえ、ほしい。なまえくれたらつれていく」
自分に名前をつけてほしい。
そんな意味に受け取れる。
だが彼女には父親がいたはずだ。親がいるということは、すでに名前を授かっているということではないのか。
そう問うと彼女は淡々と答えた。
「おとうさん、なまえだれかにもらえっていってた」
(……名前を『貰う』?)
異様だ。
親にとって、子に名を授けることほど嬉しい悩みは無いはず。
それを放棄して他人に命名させるという感覚が俺には分からない。
俺は誰の父親でもないので断言はできないが、その異様さだけは理解できる。
だが今は彼女の生い立ちにあれこれ思惟をめぐらせている場合ではない。
俺は彼女の顔をじっと見つめた。
この顔立ちに葦原風の名前はふさわしくない。
なら――
「『ルーヴェ』」
「るー、ヴぇ」
「嫌か?」
「ううん。いい」
ルーヴェは椰子の実の中身をずぞぞぞ、と下品に啜った。
褒められた仕草ではなかったが、命の恩人になるかもしれない相手なので黙っておくことにした。
(命の恩人、か)
俺は椰子の木の下に落ちた矢を拾う。
歪んだ鏃を回収し、靭に矢を戻し、蓋を閉じる。
(矢、欲しいな……)
先ほどの攻防で俺は何もできなかった。
弓兵の仕事は誰よりも早く敵の存在を察知し、その数を減らすことにある。
剣士が動き出してからようやく反応する弓兵など、芋虫の糞以下の価値しかない。
もちろん、シアとルーヴェの反応速度が異常過ぎるのも理由の一つだが、それにしたって情けないことには変わりない。
矢だ。
とにかく、矢が欲しい。
「ワカ。きり、いく?」
「ああ。その前にどこかで休ませてくれないか。腹が減ってる」
「ん。……ワカ、あれとあれ、取って」
水中の骨を指さしたルーヴェがちらと目を向けると、一連の騒ぎにもほとんど動じなかった毛むくじゃらの鳥が、ここっと鳴いた。
俺は首をかしげながら水中に沈んだ恐竜の頭蓋骨を手にする。
森を横断すると、先日俺たちが流された大河とは別の川が流れていた。
水深はかなり浅い。魚すら泳げないほどだ。
「……!」
暴君竜や異竜こそいないものの、それなりに危険そうな恐竜がうろつく光景に俺とシアは二の足を踏む。
丸っこい頭をした二足歩行の恐竜が同種の恐竜と頭をぶつけ合っている。
俺たちをまたぐほど巨大な首長の竜が悠然と世界を見下ろしている。
馬面で四つ足の草食恐竜がぼとぼとと糞を垂れ流している。
その巣から卵を持ち去った中型の恐竜が、嘴じみた顎でここっと殻を割り、中身を啜っている。
「かぶって」
鳥に乗るルーヴェは恐竜の頭蓋骨をかぶり、鳥にも骨を被せた。
俺とシアも半信半疑でそれに倣う。
「とかげ、ほねがきらい」
ルーヴェは俺とシアを鳥の尾部に近づくよう促した。
遠目には一つの生物に見えるかもしれない。
そろりそろりとルーヴェは鳥を歩かせる。
手綱をつけているわけでもないのに、鳥は乗り手に従順だった。
草地に差し掛かると、恐竜たちが騒ぎ出した。
草食恐竜はオウ、オウ、と海驢を思わせる鳴き声を放ち、肉食恐竜は開いた口から困ったような呻きを漏らす。
卵を抱えていた恐竜はそれを放り出して逃げ出していた。
「ほね、あるかない。とかげはこわがる」
「……なるほど」
首から上が骨になっている生物が動き回っていたら確かに恐ろしい。
いくら美味しい肉の匂いを感じても、襲う気すら起きないに違いない。
恐竜に『探知されない』のではなく、『探知されても構わない』姿を取る。
ルーヴェの行動は大胆だが、理にかなっていた。
草原を横切り、川に沿って歩く。
水深はどんどん深くなり、水面には魚鱗がちらつくようになっていた。
大型の恐竜にこの手は使えないらしく、ティラノを見かけたルーヴェは茂みで息をひそめるよう促した。
やがて、目的地が見えてきた。
その異様な光景を前に、シアは一言呟いた。
「アスパラガス……?」
俺たちが目の当たりにしているのは細長く、背の高い植物の群生地帯だった。
日当たりの良いその場所は幅の広い川に面していたが、水面の半分ほどは植物の影に覆われている。
シアが口にしたのは野菜の名だ。
枝をほとんど持たず、地面からまっすぐ伸びる植物の姿に彼女は祖国の野菜を思い出したらしい。
だが俺はこの植物の名を知っている。
「竹だ」
「竹? ……ああ」
名前ぐらいは知っているのだろう。
シアは広い竹林に向かうルーヴェの後を追った。
一歩竹林に踏み入ると、心地よい緑色の風が吹いた。
竹の香りほど脳を慰撫するものはない。
俺は思わず足を止め、その匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「……良いところですね」
シアは左右を見回しながらうっそりと呟いた。
「ああ。竹はいい」
「そうではありません。実用的な意味で、です」
言われ、周囲を見渡す。
葦原の竹林は避暑地として人気が高く、歌会や茶会の場としても好まれる。
そうした竹林には砂利を敷き詰めた遊歩道が用意されているものだが、この竹林は違った。
竹は足の踏み場もないほど生い茂り、行く手を遮るように伸びている。
ルーヴェの鳥が入り込めたのもごく浅い場所までで、そこから先は強靭な竹をかき分けなければニワトリ一羽すら立ち入れないほど竹が密集している。
長い骨を担いだルーヴェは竹を押し開いて道を作り、俺たちを誘う。
「こっち」
俺とシアの歩みは実にもたついていた。
竹は決して太くはないが、しなやかで、しかも丈夫だ。
悪戦苦闘しながらシアが先ほどの話を続けた。
「こんな環境では生物はまず入り込めないでしょう。無理やり通ろうとすれば――」
時折力を込めて竹を押すと、頂上部でさらさらと葉が揺れる。
「――こうやって音が聞こえます」
天然の柵と鳴子。
確かにこの場所なら大型生物の侵入を防ぐことができる。
更にルーヴェは強引に押し入ろうとする生物への対策も怠っていなかった。
「!」
竹槍だ。
斜めに切断された竹槍が至る所から突き出している。
不用意に進めばほとんどの生物の腹を突き破る高さだ。
要所要所に設置されている槍束は生物の腱で結ばれているようだった。
大した仕掛けだ、と感心したが同時に一つの疑念が頭をもたげる。
(本当にこの子が用意したのか……?)
立地と言い、仕掛けと言い、出来過ぎている。
外部から迷い込んだルーヴェがこの場所を選び、この仕掛けを用意したとは思えない。
彼女がこの土地で生まれ育った人間なら納得できるが、今度は別のところに不自然が生じる。
言葉だ。彼女は外の世界の言葉を知っている。ここで生まれ育ったとは思えない。
(この子、何なんだ……?)
疑問に思う俺の頬を、勢いよくしなった竹が打った。
ルーヴェの住処は竹藪の奥にぽつんと設けられていた。
竹を連ね、竹を重ね、獣皮をかぶせた粗末な家。
それなりに広くはあった。四辺の長さは大人の足で十歩ほどだ。
近くには深く大きな穴が開いており、底は赤黒い池になっている。
不要なものや排泄物はここに投げ込まれるのだろう。
一方で白いものがため込まれた浅い穴もある。
こちらには生物の骨が山ほど放り込まれていた。
金属を持たない彼女にとってモノの加工や裁断には骨が必須なのだろう。
竹の葉が暖簾になった家の中へ入る。
そこには骨をふんだんに使った武器や道具の数々が並べられていた。
料理はしないのだろう。干した肉や魚、赤や黄色の果実は無造作に骨の皿に積まれている。
今、ルーヴェは竹筒から水を飲んでいる。
おそらく雨水を溜めているのだろう。
くるるる、と腹の虫が鳴った。
俺のものではない。シアだ。
「……仕方ないでしょう。こればかりは」
赤面したシアは唇を尖らせた。
ルーヴェは俺たちに竹筒を寄越し、骨の皿を指さす。
「たべる?」
「い、いいのか?」
「いいよ」
俺とシアは競うように食事にありついた。
シアは肉をがじがじと齧り、俺は甘酸っぱい果実と大根に似た根菜を口にする。
根菜には多少渋みがあったが、ルーヴェが口にしているのなら安全だろう。
人心地ついた俺は椰子の実を啜る彼女に向き直る。
「今、お父さんはどこにいるんだ?」
「いない。でていった」
「いつ?」
「ずうっとまえ」
おそらく死んでいるのだろう。
彼がここで生まれ育ったのか、外から入ってきたのかは分からないが。
ここまで娘を育てておいて、逃げ出したとは思えない。
狩りの途中で恐竜に襲われたか、あるいは病で死期を悟ったのか。
「ルーヴェとお父さんの他に、人はいないのか?」
「いない」
嬉しいようでもあり、悲しいようでもあった。
ルーヴェはこの世界に一人ぼっちで生きてきたのだ。
感傷に浸っている時間は無い。
俺はすぐに霧へ向かうことを提案した。
が――――
「むり」
「ど、どうして?」
「とり、ひとつしかない。さんにんはむり」
「遠いの?」
シアが初めてルーヴェに声を投げた。
「とおい。ずっとむこう」
「近くにもあるはずです。アロが縄張りにしていた辺りに……」
俺とシアは苦労してアロの縄張りの場所を説明し、その付近にも霧があるはずだと伝えた。
だがルーヴェは首を振る。
「あの辺、とかげおおきくてあぶない。それに――」
「それに?」
「きょう、なんかへん。なんかいる」
「……」
俺の胸中で淡い希望がついえた。
俺はアロを殺した何者かの正体がルーヴェだと考えていたのだ。
いや、そうであったら良いと思っていた。
どうやら違うらしい。
「あっち、いかないほうがいい。きりにいくならわたしのしってるところがいい」
ルーヴェはやおら立ち上がり、椰子の実を啜りつくした。
「とり、もっとつれてくる」
「一人で行くのか? 危ないぞ」
「わたし、いつもひとり」
ルーヴェはそれだけ言い残し、住処を出て行った。
俺とシアは顔を見合わせ、しばし横になることにした。
身体に温もりを感じ、目を開ける。
(しまった……)
気づけば竹林の隙間から飴色の夕陽が差していた。
身体は驚くほど軽くなっていたが、半日を無駄にしてしまったことへの後悔に苛まれる。
「シア?」
彼女の姿は見当たらなかった。便所だろうか。
俺はその場にあぐらをかいた。
(……)
おぼろげながら道は見えてきた。
シアとルーヴェと共に霧へ向かう。
可能であれば体臭を消す術を手にしたいが、当面、外敵は骨をかぶることでその目を欺くとしよう。
問題は霧だ。
あれをどうやって越えれば良いのか。
「!」
ワカツ、と名を呼ぶ声に顔を上げる。
見ればシアが太さも長さも異なる竹筒を抱えていた。
中でも特に細い一本を俺に投げて寄越す。
「弓に使えませんか?」
節の少ない竹。
確かに、俺の矢に似ている。
だが――――
「いや……生木は矢に使えない」
五百年、千年前ならともかく、今の「矢」というものは一度火を通してから精製される。
さもなくば精度がまったく担保されないからだ。
こんな矢でも相手がティラノほどの巨体なら当てることは容易だろう。
だが狙いが定まらない以上、それは投石と何ら変わらない。
「乾かせば使えるんですか?」
「ああ。とは言え……」
乾いているかどうかも大事だが、矢の価値を決めるのは重量だ。
僅かでも上下左右のどちらかが重ければ、狙いが狂う。
本来なら矢羽も厳選しなければならない。
だがルーヴェがため込んでいる鳥の羽は形も種類もばらばらだ。
「贅沢は言っていられません」
シアは火打ち金を取り出した。
世界が紫色に染まってもルーヴェは戻って来なかった。
探しに行こうかとも思ったが、彼女にしてみればそれこそ足手まといだろう。
俺たちは小さな火を囲み、竹を乾かしていた。
竹林に燃え移れば大事なので、火の勢いは弱い。
俺は乾かした竹に切り込みを入れ、無理やり矢羽をねじ込む作業を繰り返す。
十数本の矢を靭に放り込んだところで、シア、と口を開く。
「どうかしました?」
「……今朝のこと、覚えてるか? 俺が人を見たって話をした時のことだ」
シアは不思議そうに俺を見つめる。
ひょう、と吹いた強い風が彼女の髪を舞い上げた。
普段隠している彼女の片目はぴったりと瞼が閉じていた。
「お前、『そんな女のことは忘れろ』って言わなかったか」
「……」
「俺は『人がいる』としか言わなかった。女だとは一言も言ってない」
出来上がった矢を手の中でくるくると回し、彼女に鏃を向ける。
死地を潜り抜け、一夜を共にしたこの女に俺は今ふたたび猜疑の目を向け始めていた。
「お前……何か隠してないか」
剣を研いでいたシアは軽く首を揉み、それから、ふうと息をつく。
「ありますよ。隠していること」
「……! やっぱりお前――」
「お互い国に仕えているのだから当たり前でしょう」
ぴしゃりと頬を張るような言葉。
俺は何も言い返せなくなる。
「誤解を生まないように言っておきますが、あの子……ルーヴェのことは知りません。あの時はたまたまあなたより先に目が覚めていただけです」
「……本当か?」
「本当です。と言うか、私があの子のことについて何か知っていたとして、あなたがそれを知る意味はありますか?」
「……」
言われてみれば、無い。
ルーヴェが何者であろうと、シアが冒涜大陸についてどの程度の知識を持っていようと、俺たちの置かれている状況は変わらない。
俺たちは恐竜ひしめく土地に閉じ込められている。
俺が考えるべきは何よりもまず外へ出ることだ。
ルーヴェの素性を問わないのであれば、シアの思惑も問わないのが筋だ。
「女性を二人連れて、気負ってしまう気持ちはわかります。ですが目的を見失わないでください」
これから先、と彼女は鋭い目を見せる。
「子供や老人、けが人がいたらいちいち助けて回るつもりですか? 守り切れますか? あなたと私だけで」
シアの作った矢は俺が仕上げたものよりはるかに均整が取れていた。
考えてみれば矢を失った俺こそ彼女にとって足手まといなのだ。
他人に施しを受けながら、俺はその真意を疑ってしまった。
情けない話だ。
「……」
俺は立ち上がった。
シアが目だけで行き先を尋ねる。
「風に当たって来る」
ルーヴェの住処から少し離れた場所で、俺は竹に額を当てた。
冷たい。
頭がよく冷える。
(……)
そういえば昔、似たようなことがあった。
当時の四位に率いられた俺は国境付近での演習に参加していた。
だが急遽伝令が現れ、所属不明の船舶の追跡作戦に加わるようにと指示を受けたのだ。
腕前こそ認められていたが新兵だった俺は四位の使い走りも同然で、それでいて自分より年上の男たちに指示を出す立場だった。
あの時も確か「何か隠し事をしている」と誰かに怒鳴り散らし、ひと悶着起こした。
喧嘩の相手は当時面識のなかったトヨチカだった。
半ば殺し合いに近い喧嘩の末、俺たちは四位に大目玉を食らった。
結局、指示は完遂されておらず、隠し事とやらも蓋を開けてみれば大した内容ではなかった。
ひとしきり怒鳴られた後、トヨチカがぼそりとつぶやいた言葉が耳に残っている。
『そんなに自分を偉く見せたいのか』と。奴はそう言った。
昔から、他人に隠し事をされるのが嫌いだった。
育ての親すら、何か秘密を隠しているときは問い詰めたりもした。
その行動の底にあるのが「他人に甘く見られたくない」「一目置かれていたい」という感情なのだと喝破されたようで、俺はひどく恥ずかしい思いをした。
殴られたことよりも、胸の内を見透かされたことの方が強い痛みとなった。
あれから何年経っただろう。
二年。いや三年か。
俺も今や十九歳。あの日のトヨチカと同じ年だ。
今、俺は二年前の奴の背中に追いつけているのだろうか。
俺の知る十九歳の男というのは、もっと大人だった。
世のままなら無さを受け入れ、清濁併せ呑み、様々な利害関係に理解を示し、その上で最善を模索するような年。
俺はもしかして、年だけ重ねて心は成長できていないのではないか。
ふう、とため息をつく。
遠くで竹の葉がかさかさと鳴る音がした。
ルーヴェが戻ってきたのかもしれない。
顔を上げる。
ふと、視界の隅でちらりと何かが光った。
「ん?」
竹藪の奥に目を凝らし、俺は慄然とした。
それは盗竜だった。
――ただし、肉体は美しい白銀の鱗に包まれている。
地上に降りた三日月とでも形容できそうなその姿に俺は息をのんだ。
ラプトルが首をめぐらせ、俺の姿を視認した。
その瞬間、全身から溢れんばかりの殺意が発散される。
びりびりと空気が震え、竹の葉がざわめき、風が吹く。
命なき竹林が、奴に怯えている。
「……!」
本来、捕食者と被捕食者は対等ではない。対等ではないのだから、そこに喜楽以外の感情は生じえない。
ニワトリに怯えるオオカミはいないし、イナゴに怒るモズもいない。
だが白銀のラプトルは明らかに「殺意」を向けていた。
その振る舞いに俺を捕食する意思は感じられない。
獲物を見つけた喜びなど露ほども感じない。
――怒りだ。
感じられるのは、純粋な『怒り』。
(何だ……? 何であいつはあんなに)
怒りの理由を探した俺は、はたと気づく。
あのラプトルは、俺が踏んだ卵の親だ。