77
葦原が朝を迎える。
葉露は星と共に消え、気の早い野鳩が鳴いている。
車輪の回る音と振動。
行きと違い、眠気は感じない。
仇敵が俺の肩に頭を預け、眠っているからだ。
(……)
すうすうという寝息。
アキの口からは容赦ない涎がこぼれ、俺の肩を濡らす。
プルは深い眠りに落ちており、目覚める気配が無い。
奇襲は諦めるしかなかった。
密着している以上、鼓動や息遣いは直に伝わる。
少しでも攻撃の『呼吸』を感じられたら、その場でプルが殺される。
アキは後ろ手に拘束されているが、先の戦いで見た通り、彼女の脚は手と同じ動きをする。
攻撃を察知したアキが回避行動を取るのに半秒。宙に放り出されたプルを鋭い爪で貫くのに半秒。
計一秒。多く見て二秒。
加えて、肉体は人より頑強。
今の俺に彼女を二秒で仕留める術は無い。
肉体を動かせない俺は思考に耽った。
シア、ナナミィ、ルーヴェ、蓑猿、セルディナのことは一旦忘れるしかなかった。
彼らの多くは大型恐竜との交戦経験がある。
それにルーヴェがいればアルケオと遭遇することはないだろう。
――ないと信じたい。
思考。
ザムジャハルとアルケオが協力関係を結んだ。
そのザムジャハルに葦原の一部が与しており、プル王女を差し出そうとしている。
実権無き王族の幼女を攫う目的は何だ。
帝王の愛妾。アルケオに捧ぐ餌。
――どちらも、腑に落ちない。
思考。
アキはなぜ檻にいたのか。
同盟解消には早すぎる。俺のように粗相でもしたのか。
あるいは、それ以外か。
思考。
アキの目的とは。
俺を殺せる実力がありながら、俺を殺さない理由は。
砦で俺を殺せば任務に支障が出る。その真意は。
(……)
見当もつかない。何もかも。
なら、見当のつくことをやるしかない。
やるべきことは単純だ。
この状況からのプル王女の奪還。
アキとプルを引き離す。もしくは、アキだけを二秒以内に指一本動かない状態に陥らせる。
それができるか。
――やるしかないのだ。
御楓はまだいい。敵に街区の地理を知られても、まだ城がある。
だが御楓の先には都がある。
都は防備のほとんどを複雑な地理地形に頼っており、その中心には帝様が御出でだ。
絶対にアキを通してはならない。
馬車が御楓に入る頃には、朝陽が昇っていた。
門衛は頭を垂れている。
狩衣を血で汚しているとは言え、俺は十弓。当然ながら素通りだ。
――残念ながら、連れている女も。
街区に入る。
曙光を浴びた川は銀鱗のごとく輝き、秋の快風が柳を揺らす。
行き交う人々は俺に頭を垂れる。
恭しく、ではない。血だらけの俺を見て明らかに怯えている。
「ワカツ、本当に偉い人なんだねぇ」
アキは俺に身を寄せたまま、のんびりと呟く。
その目が、一際目立つ建築物へ。
「あれ、何?」
来ると思った。
そして嘘はつけない。
「城だ」
御楓の城。
天を衝く威容と、濃い橙色の煉瓦が目を引く。
「入れないぞ。貴人が来てる」
「ワカツ強いんでしょ?」
「強ければ偉いってわけじゃない。偉いのは金持ちだ」
腹立たしいことに。
だが間違いではないのだろう。
金は、少なくとも強さよりは、正しさに近い。
アキは城から視線を外し、街路を見やる。
俺の周囲で一礼し、行き交う人々。
町人、商人、武士、子供。
大工に飛脚、女衒、女中。
大勢の弓兵。
「人、いっぱいだね」
「……」
幸い、アキの目に食欲らしきものは見えない。
彼女は純粋に、人の多さに驚嘆しているらしい。
「葉っぱ、きれい……」
赤きアルケオの視線を追うと、街路の紅葉。
木々は炎よりも赤い葉に彩られ、朝の柔らかい風に揺れる。
幾つかは鮒の泳ぐ川面に落ち、そのまま広く長い川の果てへ消える。
更に馬車を進めると街路の赤に鮮やかな黄色が混じった。
銀杏の葉。いくつかは既に朽ち、茶色に変色している。
その赤と黄と茶が、箒の音と共にかき混ぜられる。
しゃ、しゃっと落ち葉を掃くのは女中たち。
そのすぐ脇を、水桶を運ぶ丁稚が通り過ぎる。
丁稚を目で追うと、野菜の盛られた笊を並べる商売人。
落雁屋の親父が伸びをする横で、ほっほっと息を吐く飛脚が客を運ぶ。
はたはたと翻る幟。
青瓦と漆喰。猫に破られた障子。
家々を見下ろす、茜色の城。
「――――」
アキはぽうっと夢を見るように世界を眺めている。
彼女達が万年、あるいは数十万年かけて築き上げた王国と、葦原。
どちらが優れているのか、などという話は栓も無い。
ただ、奇異に映るのは間違いないだろう。
「道」
「何?」
「道、きれいだね。ほら、色々通ってるのに」
牛馬が行き交う道には、確かに糞の一つも落ちていない。
「集めてる奴らがいる」
「何で?」
「畑に撒くんだろ」
「へー……あれは何? 何て書いてあるの?」
「酒屋だ」
「さかなや?」
「酒屋だ。酒を売ってる」
「サケ……? あっちは?」
「団子屋だ」
「ダンゴ……?」
「甘い食い物だ」
「! 甘いの?!」
アキは全身で葦原を体感している。
好都合だ。
受容に徹している今なら、判断力も鈍っている。
何とかして、俺の有利に持ち込む。
プルを取り返す手段は奇襲しかない。
それには地の利が必要だ。
「屋敷に行く」
「ふぇ? アキちゃん、もうちょっと見てたいなー」
「この格好でうろつけるか。傷も手当てしたい」
(今この状況を突破できそうなのは……)
イチゴミヤ四位の『矢』なら、あるいは。
知恵と話術ならミョウガヤ五位。民を動かす影響力ならツボミモモ六位。
強さならニラバ二位かランゼツ三位だが、はたしてアキを仕留められるか。
「ねえねえワカツ。アキちゃんお腹空いたな~」
俺は腰を浮かし、弓を掴んだ。
全身の筋肉が張り詰めているのが分かる。
「アキ……!」
絶対に。
それだけは絶対にやらせない。
アキはへらりと笑った。
「分かってる分かってる。人は食べないって」
「人『は』?」
「……いや、何かは食べないと死んじゃうよ」
「何かって何だ」
にまーっとアキが笑う。
「それはワカツが決めてよ。……私、知ってるよ。霧の外の人って、すごく美味しいもの食べてるんでしょ?」
サギの話を聞く限り、アルケオの調理技術は未発達だ。
食料は肉、肉、肉、それに魚と果実。
なるほど、アキが人類の食事に興味を持つのも頷ける。
もしかすると女王辺りがザムジャハルの食事を口にしたのだろうか。
(……。こいつまさか、その為に葦原に……?)
いや、と自分で自分の考えを否定する。
さすがにそんなことはないだろう。
屋敷へ向かった俺は、慎重にアキを下ろした。
裾の長い貫頭衣の背部には切れ込みが入っており、そこに腕が隠れている。
プルはアキの背の膨らみに乗る形だ。
屋敷の砂利を踏むや、戸が開いた。
「あらお帰りなさい、九位」
迎えたのはいつもの女中。
でっぷりした割烹着姿。年は五十そこそこだろう。
彼女の目がアキへ。
「……あら?」
「こーんにーちはー」
アキが頭を左右に動かす。
女中は目を白黒させ、俺を見た。
「九位……! どうされたんです、また女の子を連れ込んで……」
声は驚いている。
顔は半笑い。
「連れ込んでない。こいつはその……勝手について来ただけだ」
「でも最近、ナナミィちゃんにシアちゃんに、ルーヴェちゃんに……」
女中が指を折ると、アキが白けた目で俺を見る。
「わかーつ」
「……何だ」
「ずいぶん人気なんだね? アキちゃんがいるのにさー」
「知るか。お前には関係ない」
「あーるよー。ねえねえおばさん」
「はい?」
「その女の子たちと私、どっちが可愛いと思います?」
「んー……そうねぇ。顔はシアちゃんかねえ。ちょっと冷たい感じがするけど」
「えぇー!」
「おい」
「ルーヴェちゃんも猫みたいで可愛いですよねぇ、九位」
「……傷を消毒したいんだが。あと、替えの狩衣」
「ナナミィちゃんは何だか妹みたいですよねぇ。たまにお酒をくすねてるみたいですけど、そういうやんちゃなところも似た者同士で微笑ましいと言うか」
「ええー?!」
「おい」
でも、と女中は頬に手をやりながらアキを見る。
「九位は暗い方ですから、一緒になるなら明るい子の方がいいと思うねぇ」
ぱあっとアキが表情を明るくした。
そして俺の肩にがしがしと頭をこすり付ける。
「ほらー! 聞いた? やっぱりアキちゃんと一緒に来るべきじゃない? べきじゃない?」
「やかましいぞ。いいから、消毒……!」
「あ、はいはい。……おーい」
ぱんぱんと女中が手を叩くと、屋敷の奥から二人の下忍が現れた。
彼らは俺の耳を消毒し、血で濡れた狩衣を新しいものに替える。
が、誰一人アキの素性に気付かない。
プルの素性にも。
(見ただけじゃ分からないからな……)
恐竜の話はとっくに世界中に知れ渡っているが、アルケオの情報は一部を除いて伏せられている。
彼女達を見分ける、『目が緑』『体の半分が恐竜』という話も同じだ。
下忍も女中も、目の前の女が人食いの鳥女だとは知る由もない。
まして背に負う少女がブアンプラーナの姫君だなどとは夢にも思わないだろう。
いや、むしろ気づかれなくて良かったのだ。
下手に気付かれて騒ぎでも起こされたら、人が集まる。
人が集まればアキが警戒態勢に入り、プルを取り返せなく――
「!」
下忍の一人が、アキの背部を見ていた。
視線の先には貫頭衣の切れ目。
(よせ、何も言うなよ……! 状況をよく考えろ……!)
じっと切れ目を見る下忍。
どくっ、どくっと心臓が跳ね始める。
声を掛けるか。
いや、アキに不審に思われる。
アキは忍び装束を着た人間が『特別な仕事人』だと知っている。
下手に声を掛けると彼女は確実に訝しむ。
そうしている間にも、下忍はアキの腰のあたりを見つめていた。
見えたのはおそらく――――鱗に覆われた手。
(違うぞ……! もしお前が見たものが本物なら、何で俺がそいつを屋敷に入れるんだよ……!! 脅されてるんだ、気づけ……! 気づいたら、気づかない振りをしろ……!)
切れ目の奥は暗い。
見間違いだと思ったのだろう。
下忍は軽く脱力した。
俺もほっと一息つく。
が、下忍は動いた。
『念のため』確認することにしたらしい。
アキの背に、すっと伸びる指。
主の連れている女に対して無礼だが、わざわざ聞くのはなお無礼。
ただの女になら気づかれるわけがないと過信し、自分の目で確かめようとしている。
めくられ、見られたら騒ぎになる。
俺は止めようとしたが、遅すぎた。
「ばっ――――」
アキが『何か』に気付き、顔を僅かに動かす。
噛山羊と戦った時と同じく、体感時間が伸びる感覚。
背を走る悪寒。
殺意を帯びた爬虫類の目。
爪が地面を離れ、下忍の方へ――
「遅いぞ、蛇飼い」
その声は唐突に聞こえた。
屋敷の庭から現れたのは、砂利をこするほどの長い被衣を纏う弓兵。
全身は薄い刃を挿した革帯に覆われている。
手には小鉢が一つ。
「ネコジャラシ七位……! 何でここに?」
「エノコロだ……!」
七位は心底腹立たしそうに呟く。
一方の俺は小さく胸を撫で下ろした。
アキと女中の目は七位に吸い寄せられており、下忍もひざまずいている。
どうにか、アキの素性は知られずに済んだ。
「何でも何も、お前が茶に誘ったんだろうが」
ネコジャラシ七位は手にした小鉢に楊枝を刺し、薄切りの漬物を頬張った。
しょりしょりと噛む音。
「一日待ちぼうけを食うとは思わなかったぞ」
何のことかと思惟を巡らせ、思い出す。
そう言えば再会した時、「少し話したい」と喋ったのだった。
「……。いや、別にすぐに会おうとは言わなかっただろ」
「ボクはお前の都合では動かない。ボクにとって具合が良いのが昨夜だったんだ」
「いちいち癇に障る奴だな」
「お互い様だ。……。……」
ネコジャラシ七位の目がアキに向いた。
アキは目をぱちぱちさせている。
「ワカツ。この人、何……? 女の人……?」
エノコロは小鉢を女中に渡し、「もう一杯」と告げた。
女中と下忍は俺の目配せを受け、退く。
(まずいな……)
状況は依然として良くない。
七位はアルケオの事を知っている。
もしちらりとでも敵意を見せれば、やはりアキが警戒態勢に入ってしまう。
状況に気付いてくれれば、七位ならプルを奪い返すことができるかも知れない。
だがその為には、無害を装う必要がある。
アキを敵と認識する。そこまではいい。
それがアキに伝わったら最後なのだ。
だが、それを七位に伝える術がない。
俺と七位は蓑猿のように符牒を共有してはいない。
(クソ。どうする……!)
嫌な汗が滲む。
鼓動のあまり、閉じた口の中で舌が震えている。
「なな「それ、ワカツと同じ服だね。ふうん……」」
狩衣を見つめられた途端、七位の表情が一変する。
極めて深刻な顔。
「……蛇飼い」
「な、何だ」
にい、と嫌らしい嘲笑。
「お前が最近よく女を連れ込んでるって噂は本当らしいな」
「……ご、誤解だ」
「何慌ててるのさ、ワカツー」
幸い、アキは七位を警戒していない。
いや、警戒はしているのだろうが、それを表には出していない。
まだ値踏みをしている段階だ。
ふん、と七位は鼻を鳴らす。
「別にいいじゃないか。お前は『十弓』の男の中で、ボクの次の次の次の次に顔がいいんだ。女の二人や三人、転がしてもいいだろう」
だが、と女装の弓兵はアキの佇まいを上から下まで眺めまわした。
「何だ、この下品な女は」
「はあ?! 下品って言った?」
「下品だろうが。化粧もしてない、服は襤褸、眉も睫毛も生えっぱなしで……おまけに何だこの匂いは」
「に、匂いなんてしないもん! ……あ。もしかして果物と花のいい匂――」
「狸と同じ匂いだ」
「――――」
アキの目に殺意が宿る。
が、さすがにこの場で暴れるほど彼女は間抜けではない。
「女っ気がなかったくせに美女ばかりを招いている、と聞いていたが……とんだ拍子抜けだねぇ」
鼻をつまんだエノコロ七位はゆらりとアキの周囲を一周する。
アキの方はやや身を引き、警戒に身構えた。
七位からプルが見えない角度を保ち、今まで以上に俺に密着する。
(近すぎだ、クソ……!)
ますますプルを奪いにくい姿勢。
七位を絞め殺したくなる。
「蛇飼い。ボクが話したかったのはお前が冒涜大陸――霧の中から抜け出した時の報告だ」
「……何?」
「内部で出くわしたティラノに追い回されて霧の外に出た、で間違いないんだな?」
「……。……ああ、間違いない」
「そうか。ならいいんだ」
違う。
俺が冒涜大陸を抜けたのは、『半分恐竜の姿をした、不気味な女に追い回されたから』だ。
それは報告書にもしっかり書き留めている。
粗忽者の十位ならともかく、他の十弓がその記述を見漏らしたり、見逃すわけがない。
七位は嘘をついている。
(目か……!)
アキの目は緑色だ。俺が恐竜女の特徴として共有した通り。
それを見た七位は即座に彼女を『敵』と判断し、嘘をついた。
アキにとって無害な人物であることを装うための嘘。
「抜け漏れはないだろうね?」
「もちろんだ」
「そうかな?」
嘲りと侮蔑を含んだ目。
「蛇飼い。お前が何か隠してるらしいって話があるんだ。霧の向こうで、何か別のモノに出くわしたんじゃないかって話がね」
「……女の前だ。後にしろ」
「断る。ボクはお前の都合なんて知らない」
七位は嫌味ったらしい目をアキに向けた。
いかにも、『お前に聞かれるのは好ましくないが、女の前でこいつに恥をかかせてやりたいからこの話をするんだ』と言わんばかりの表情。
性悪男の演じる、性悪男。
「なあ、蛇飼い。まさかそんなことはないだろうね? ボクらに内緒で何か重大な秘密を抱えているだなんてことは」
「抱えて、どうするんだ」
「こっそり一位に伝えれば、十弓の再編で少しでも上に行けるだろう?」
「……俺は位になんて興味はない」
「嘘だね」
「嘘じゃない。俺は国の為に弓が引ければそれでいい」
「いや、嘘だよ。弓しかないお前にとって、弓の腕を正しく認められないことは屈辱のはずだ」
「……」
口を噤んでいたアキが、耐えかねたように「ねえ」と割って入る。
「ネコジャラシー……なない?」
「エノコロ七位だ。正しく記憶しろ」
「七位って、ワカツより偉いの?」
「そうだ」
「じゃあさ……」
アキが七位にずいと顔を寄せる。
「私の目を見て、何か思わない?」
心臓が飛び跳ね、息を呑みかける。
これは『審判』だ。
アキが七位の立ち位置を確かめようとしている。
おそらく今の話に何か不自然さを感じたのだろう。
あるいは、会話の入り方と状況に僅かな綻びを認めたのかも知れない。
現にアキの目は鋭い。
快活な笑みの裏側に、血塗られた殺意を感じる。
(……七位……!)
緑の目を直視した時の反応が少しでもアキの意に沿わなければ。
その場で『何か』が起きる。
俺たちにとっておぞましい『何か』が。
「目だと?」
七位はアキの目を覗き込み、笑う。
柳が揺れるがごとく、自然に。
「なるほど、『緑色に見える目』か。確かに美しいが、それが何だ?」
「……」
「ボクの屋敷にもそういうのは二、三人いる。自慢のつもりなら残念だったね」
七位は俺と同じ狩衣を着ており、俺より偉いと言い切った。
だったら俺からアルケオについての情報共有を受けていると考えるのが普通だ。
だが七位は『俺がアルケオの情報を隠している』と思わせるようなことを言った。
そして今の『目』についてのやり取り。
「……うわー。この人、意地っ張りー」
「別に意地なんて張ってない。事実だ」
ちらりとアキが俺を見る。
どこか馬鹿にしたような目。
「……思ってたほどでもないんだね」
弛緩した、暗い小声。
葦原と俺を馬鹿にした声。
彼女はまだ自分の素性を知られていることに気付いていない。
七位の敵意に、触れてしまった鳴子に気付いていない。
完全なる油断。
「おい、蛇飼い!」
七位はプルに気付き、目を見開いた。
「この女、子連れなのか? 人妻に手を出したのか、お前!」
「違うよ~。あんまり見ないでよぉ」
アキは素早く身を動かし、プルを隠そうとした。
それはそうだ。相手に敵意がなくとも、プルを奪われればアキは圧倒的不利に陥る。
俺と一対一なら勝てる可能性が高いので何の問題もない。
だが今この場には七位がいる。下忍もいるし、外には武士もいる。
ここでプルを奪われれば、さしものアキとて無事では済まない。
背負っている状態ならいいが、『手放す』わけには行かないのだ。
つまり、アキは追い込まれつつあるのだ。
今はまだ本人の想定内だろう。
だが彼女は気付いていない。
七位が蜘蛛の巣を張り巡らせつつあることに。
俺の心臓が興奮に高鳴る。
「ってか、ネコジャラシ臭~い。こっち寄らないで……」
「ふん。香も嗜まないとは、鼻も下品なのか。だが……なるほどな」
エノコロ七位は、とんとん、と自らの頭に巻く紅玉を叩いた。
「状況は理解した」
「?」
(!)
分かった。
今の仕草は額に装飾品を巻いたプルを示しているのだ。
俺の屋敷にセルディナが出入りしていることや、ブアンプラーナの騒動については七位も承知している。
身に着けている品で、アキが背負うのが貴人であることを察したのだろう。
――俺がどんな状況にあるのかも。
「何を理解したって?」
アキが薄い警戒を見せる。
「君の下品さの理由だ、あー……」
「アキ」
「アキ。つまり君には華が無い。十弓の女としては不適格だ」
「何を~?!」
「事実だ。こいつと懇意にしている女たちはよく着飾っている。君とは違ってね」
「着飾るってことは、それだけ中身が無いってことじゃん? 私は中身があるから、そういうのはいいの」
アキが珍しくむきになっている。
「中身?」
「強さとか、優しさとか。ねえワカツ?」
「……」
「何か言ってよぉ!」
「強くて優しいから美しさは要らない? とんだ勘違いだね。着飾ることをしないというのは、相手に寛容を強いる傲慢な態度だ」
ふ、と七位は嘲笑を浮かべる。
「外見の美しさは、確かに別の美しさで補える。だが傲慢さが混じればすべて台無しだ。押しつけがましい美しさに人は心を打たれない」
七位は紅玉をゆっくりと外した。
同時に、砂利を撫でるほど長く麗しい被衣も外される。
「見たまえ。こういうものが『華』であり、『美』だ」
「……そんなの、私も持ってるもん。ほら」
アルケオの戦士は軽く頭を振り、黒髪を彩る琥珀の飾りを示した。
「そのしょぼくれた石が何だって?」
「ぅ……」
気のせいでなければ、アキの声音から勢いが削がれている。
七位の言葉に何か感じるところがあったのか。
「これをよくご覧。葦原に二つとない貴重な紅玉だぞ」
七位が冠を見せつけると、アキの目が吸い寄せられた。
誇張ではなく、実際に前のめりになっている。
視線の先にあるのは、この世のあらゆる「赤」と「紅」を煮詰めたかのような、残酷な美しさを感じる宝石。
(!)
そうだ。
アルケオの数少ない文化の一つに、『宝石を愛でる』というものがある。
ヨルやユリも宝飾品を身に着けていた。
七位の見事な冠は、アキの目にも魅力的に映るのだろう。
「被衣も見るといい。この狩衣なんかよりずっと高価な逸品だぞ」
アキがごくりと喉を鳴らす。
「触ってみるか?」
「い、いやいい。いいけど……」
アキの目は七位に釘付けだった。
そこで俺は気付く。
(獣面がいない……!)
七位の護衛。
そうだ。奴らも当然、アルケオのことを知っているはず。
そして主の目の前にアキがいるというのに、姿を見せない。
この場にいないわけがない。見えないだけだ。
見えないとはつまり――――
(死角からプルを奪い返す気か……!)
気づいた瞬間、心臓が今までで一番大きく跳ねた。
熱い血は競い合うように全身を巡る。
ふーむ、と七位が小さく唸る。
「アキ。君、顔の素材はいいな。化粧をすればもう少しマシになるかもしれない」
「化粧?」
「化粧も知らないのかい? ほら、ボクの頬をご覧」
七位は冠を胸に寄せ、自らの頬を差し出した。
アキの顔がますます七位に寄り、猫背に近い姿勢となる。
「……」
ここは屋敷の玄関。
そして七位が来た方向は、庭。
遮蔽物は少なく、開けている。
ここなら獣面が左右からアキに飛びつき、背を蹴って離脱という手が使える。
プルはアキの手に乗っているだけで、縛られているわけではない。
さしものアキも、忍者に背を踏まれれば対応できない。
忍者が離脱したら、俺と七位で取り押さえる。
これなら、あるいは――――
「何で肌、白くするの?」
「皴や染みが見えなくなるからさ」
「何それ。若いんだから要らなくない?」
「年を取ってから使うのは老いを隠すための惨めな手段だ。若いうちから化粧をすれば、変わらぬ姿でお互い愛し合えるだろう?」
「ちょっと老けたぐらいで無くなる愛って……ねえ?」
「それが傲慢だと言うんだ。愛は花だ。敬意の土壌に、礼儀という名の水を与えて、初めて美しく咲く花だよ」
「……なんか七位、喋り方気持ち悪ーい」
「大きなお世話だ」
七位が一瞬、俺を見る。
白粉のせいで分かりづらいが、見える。
極度の緊張で首が赤くなっている。
「……」
「……」
分かっている。
本音を言えば今すぐアキの首を刃で貫き、王女を奪還したいのだろう。
だがそれはできない。
それができるなら、とっくに俺がそうしている。
俺の毒でもダメなら、七位の剣弓でも即死させることは不可能。
焦ってはならない。
焦らず、慎重に事を運ばなければならない。
(今の位置関係は……)
アキと七位が向かい合い、俺がアキの隣。
これでは俺の体が邪魔で、プルの奪還が難しい。
幸い、アキは七位に吸い寄せられている。
――――今なら。
(……)
俺は一切視線を動かさず、あくまでもさりげなく動く。
すり足で、まず半歩。
うるさく高鳴る心臓。
唇を噛み、黙れ、黙れ、と繰り返し命じる。
「その様子だと口紅も知らないな? 見えるかい、この唇」
七位は薬指で自分の唇を示す。
「それ、何か塗ってるの?」
「そうさ」
アキはかなり前のめりになっており、プルの両脚がだらりと垂れていた。
隙だらけだ。
もしかすると俺でも奪還できるのでは。
そんな妄想で、半歩ではなく一歩動きかける。
踏みとどまる。
俺は弓兵。忍者ではない。
勝てないのなら、勝てる者に好機を。
奥歯を噛み、己を抑える。
「人にはそれぞれ似合う唇の色がある」
「宝石みたいな?」
「そうさ。あとは気分で色を変える。陽気さ、賢さ、期待、不安、悲哀……。時に唇の色一つで、女は目よりも多くを語る」
じっとりと汗ばむ。
七位も声音をゆっくりにすることで隠しているが、緊張している。
していないのはアキだけだ。
まるで猛獣を前にしたかのように。
俺と七位は静かに深く息をする。
半歩。
更に、半歩。
アキの横を離れ、七位の方へ。
完全に七位の隣に立てば、もうアキの背中のプルを遮るものはない。
左右どちらからでも獣面が飛びかかれる。
(あと、少し……!)
足を擦り、半歩。
――――到達。
アキの左右が完全にがら空きとなる。
七位を見る。
至近距離。
「? どしたの、ネコジャラシー」
「いや、どうもしないさ。『もういいぞ』」
ぱあん、と。
何かが割れる音が響いた。
はっと振り向く。
女中だ。若い女中が、小鉢を落としている。
入っているのは漬物。
(さっき七位が頼んだ……!)
そこで気づく。女中の視線の先に。
アキの左右が空いたということは、貫頭衣の裂け目が見えるということ。
そこに覗くのは――――
「きゅ、きゅ、九位! その人っ、その人、手が……!」
若い女中の指の先には貫頭衣の裂け目。
覗くのは、拘束されたアキの手。
――鱗に包まれた、アルケオの手。
「うえー。バレちゃったね」
「バレる……?」
「ひ、皮膚病だ。手の皮膚が少しおかしい女なんだ」
俺の弁解にアキが薄く笑う。
女中は信じているのかいないのか、いまだ唇を震わせていた。
七位はかろうじて、汗を一滴垂らすにとどまる。
既にアキは俺にぴったりと身を寄せている。
これではプルだけを奪い返すのは無理だ。
「外に行こっか、ワカツ」
あ、とアキが呟く。
「その前に、ネコジャラシ。その帯、一本くれる?」
「何……?」
「この子、落ちちゃいそうだからさ。結ぶの」
「っ」
エノコロ七位はあくまでも冷静だった。
一切表情を変えず、動揺している。
「高い帯だ。君が蛇飼いの女だろうと、おいそれとは渡せない」
「ええ~。欲しいなぁ」
頑なな口調。
アキがたまに見せる、アルケオの『爪』としての声。
こうなると彼女は譲らない。
(……まずい)
帯で固定されたら、不意打ちでプルを奪い返すことが難しくなる。
だが――――
七位と目が合う。
緊張した面持ち。
今ここで獣面二人と七位、九位の四人で仕留めた方が早いのではないか。
そう問う目。
十弓の中でアルケオとの交戦経験があるのは俺と二位だけだ。
その俺の目でどう思うかを問うている。
アキを殺すだけでは足りない。
殺して、プルを奪い返す。
これを四人でやれるか。
(……!)
血液が激流のごとく巡る。
七位は元獣面候補。剣の間合いなら間違いなく俺より強い。
それに姿を隠した獣面が二人。俺。
既に剣の間合い。
俺の矢は使えないが、七位にとっては最適の距離。
七位の抜剣と攻撃、俺が攻撃態勢に入るので半秒。
七位の攻撃で硬直したアキに俺の追撃が入るのに半秒。同時に獣面が地を蹴る。
獣面がプルを奪還。一秒。
あるいは手の空いた俺が奪い返し、アキに背を向けて盾となってもいい。
二秒。
これなら。
唐での戦いを思い出す。
老婆との激戦、噛山羊との戦いを思い出す。
(……っ!)
確信が持てない。
勝てる見込みは、どう好意的に見積もっても半々。
俺たちは一秒を軸に動くが、アキはその半分、あるいは三分の一単位で反応できる。
俺の知らない速度。
俺の知らない世界。
賭けに出るにはあまりにも無謀だ。
しくじればプルが死ぬ。
他国の王女が、葦原の、弓兵の本拠地でむざむざと殺される。
十弓二人の目の前で。
四カ国会談の直前に。
ぬるい汗が頬を伝った。
俺は静かに首を振る。
「悪い、エノコロ七位」
「……分かった」
七位は帯の一つを外し、刃物を慎重に抜いた。
その間も俺は隣のアキの様子を探るが、やはり隙が無い。
気のせいでなければ、先ほどよりぴったりと俺にくっついている。
「ほら」
アキは俺に目配せした。
俺は彼女の背に帯を回し、正面で結ぶ。
これで奇襲による奪還は不能。
アキの拘束も倍だが、本人は気にしていない。
戦闘能力の低下はごく僅か。
人質を一秒ないし二秒で殺すことに支障の無い拘束。
状況が悪化した。
俺は白くなるほど唇を噛む。
(クソ……! どうする……?!)
女中はまだ震えている。
無理もない。
「さーさー。騒ぎになる前に出ようよ、ワカツ。私、お腹空いちゃったし」
「……」
半ば脅されるようにして敷地を出る。
アマイモ十位が立っている。




