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万竜嵐  作者: icecrepe
【家畜の女王】
83/91

76

 



 汗の滴が前髪の一本を垂らす。

 虫の重みで細長い葉が垂れるように。


 粒はまだ落ちない。

 まるで俺の体感する『時』が止まったかのようだ。


 忍者との戦いに長期戦は無い。

 あるのは即殺。あるいは即殺。


 距離、十数歩。

 噛山羊かんやぎは既に攻撃態勢。


 アキは気付いている。

 声。息遣い。そのどちらも感じないが、緊張が肌に触れる。


 垂れた前髪から、汗の粒が離れる。

 ゆっくりと落ちていくそれを見ながら、止まった時が動き出すことを知る。




 振り返らず、しゃがむ。

 頭上を通り過ぎた手裏剣が壁の刃を叩く。


 すぐさま、側転。

 俺を追う棒手裏剣が、た、た、た、と次々に壁を貫く。


 実際には、たたた、と間断なく壁を叩いているはずだ。

 だが俺の耳にはひどくゆっくりな攻撃に感じる。

 体感時間が何十倍にも引き延ばされているせいで。


 音も、空気も、歪んでいる。

 泥中を泳ぐような緩慢な動き。


 棒手裏剣の追撃が止まる。

 アキ。

 俺はそう信じ、忍者に背を向けたまま矢を番える。


 ぎりりり、とひどくゆっくりと弦が軋る。

 あまりにも隙だらけの挙動。


 だが、俺の背を貫くものはない。

 ただ、何倍何十倍にも引き延ばされた轟音が耳を叩く。

 まるで水の中。


 敵に背を向けたまま地を蹴り、跳ぶ。

 海老のごとき動きで後方へ。

 回転しながら着地。

 やじりを上げ、初めて敵と相対。


 アキの両脚が、二本の小太刀を握る腕を掴んでいる。

 アルケオの肉体は宙に浮いており、噛山羊はその重みにやや前のめりとなっている。

 忍者の足がびくりと動く。

 爪先。あるいは甲に武器。


 俺の矢は忍者の胴から脚へ向く。

 手を離す。

 びいん、と振動。

 ゆっくりと離れた矢が足首へ向かう。


 池泳ぐ鯉の速度で飛ぶ矢。

 噛山羊の黒足袋から短い刃が突き出す。

 振り上げられんとした刃が宙で止まり、飛来する矢を弾いた。

 きぎい、と音が遅く響く。


 既に俺は矢筒に手を入れている。

 既に俺は矢を掴み、放擲するための筋肉をしならせている。

 既に俺は腰に、脚に力を込めている。

 だから、忍者の次の動きに危機感を覚える。


 噛山羊の重心が動く。

 自らの両腕を掴むアキを、振り回すように俺へ。

 濡れ腐る泥色をした貫頭衣の残像。

 小さなプルが描く橙色の残像。

 つまり己の腕を掴む怪物を盾にする腹。


 引くしかない。矢を投げればアキあるいはプルに当たる。

 アキなら好都合だが背負っているプルに刺されば、最悪、死ぬ。

 だが引けば噛山羊に『間』を許す。

 忍者の攻め手は無数。攻勢を許せば不利。


 一瞬の判断。


 俺は勢いを緩めない。

 靴裏で地を蹴り、振り回されるアキに自分からぶつかる。

 肩と肩が触れる。衝撃が全身を揺らす。

 竜巻あるいは渦潮に飲まれるようにして、噛山羊の回転に巻き込まれる。


 俺と忍者の間に障害は無い。

 アキとプル諸共振り回されながら、腕を振り上げる。


 鏃には毒。

 それを知らぬ獣面はいない。

 噛山羊の腕が焦りで軋む。


 が、俺の体勢が崩れる。

 アキが忍者の腕掴む脚を離し、宙で回転していた。

 このまま振り回されれば、どう着地しても背中の少女が重傷を負うからだと気づく。


 爪が離れるや、噛山羊の上腕がしなる。

 忍び装束の手首を破り、無数の針が飛び出す。

 ゆっくりと飛来する針が、まだ宙にいる俺の頬を刺し、耳を刺し、首を刺す。


 勢いを削がれたところへ、忍者の掌底。

 悪あがきの一撃だったが、俺は後方へ突き飛ばされる。

 後方には卓。ぶつかれば背を強打し、動きが止まる。

 動きが止まれば忍者に『間』を与える。

 攻勢を許せば、死。


 俺は守勢に転じない。

 片方。片方だけ、宙で足を曲げる。

 突き飛ばされた先で靴裏が卓に触れ、衝撃が伝う。

 蹴り、跳ね返るように飛ぶ。




 『毒だ』




 針を喰らった顔の半分が、同意するようにずきりと痛む。


 だがその嘘は俺に通じない。

 針は殺傷部位が二か所ある。

 己を傷つけかねない暗器に忍者は毒を塗らない。


 燕のごとく飛びながら弓を振り抜く。

 振り抜き始めた時には既に、噛山羊が虎のごとく伏せ始めている。


 半歩先を読む目。

 半歩先に動く身。

 これが獣面。忍者の頂点。


 噛山羊は振り抜かれた弓をくぐる。

 矢のごとく飛ぶ俺の下へ忍者が滑り込む。

 まるで交差する天の鷹と地の虎。


 忍者の手に小太刀。

 狙いは俺の脚。

 飛びながら膝を引く。


 脛に衝撃。

 銀の三日月が二つ閃く。

 僅かに遅れ、金属音。

 ブーツに仕込んだ鉄板が凶刃を防いだ。


 己の臍を見るように頭を動かす。

 頭頂部が地を向き、目には逆さまの世界。


 矢はとうに番えている。宙を飛びながら、放つ。

 逆さまの忍者は残心の最中。

 当たる。そう信じ、放つ。


 忍者が小太刀を手放す。

 残心放棄。

 目が合う。


 手が伸び、矢が掴まれる。

 迷いのない動き。

 至近距離で『蛇の矢』が使えないことを知られている。


 肩から地に落ち、回転。

 振り返らず、忍者に背を向けたまま横へ跳ぶ。

 一拍前に自分が居た場所に、矢と針が突き刺さる。


 強い。勝てない。

 そう頭が叫ぶ。


 だが勝つ。弱くとも勝つ。

 そう心が叫ぶ。


 弱ければ弱さのままに勝つ。

 心が喉を裂き、吠える。


 決断と共に振り返る。

 脚に力。

 跳ぶための備え。


 姿勢を低くした忍者が、一瞬で距離を詰める。

 否、詰めて『いた』。

 知覚した時には既に過去。


 一歩で、三歩分。

 目の前。


 振り上げられた腕。握られる刃。

 追撃のため力む脚。

 完璧な攻撃態勢。


 退かず、前へ。

 なおも前へ。

 仮面に唇が触れるほど前へ。


 忍者の膝を踏み、蹴りを封じる。

 小太刀を弓で受け、地に残した足裏に力を入れる。


 踏んだ膝を蹴り、肩を踏み、飛び越える。

 宙で弓を手放す。

 両手をうつぼに。

 矢を二つ取り、着地より早く一射。


 射撃ではなく、投擲。

 忍者が半身を逸らし、かわす。


 二射。

 弓ほどの速度無し。

 そう判じた噛山羊は悠然と回避し、俺の噴いた唾を目に浴びる。


 呻き声。

 好機。 


 斜め上に飛び上がる膝蹴り。

 骨と肉の感触。

 衝撃に貫かれ、忍者がのけ反る。

 後方では弓が軽やかに地を叩く。


 忍者が背中から倒れ、呻きながら一度跳ねる。

 跳ねたところへ、ブーツを振り下ろす。

 顔砕き。

 かわされ、土を踏む。

 焦げ茶の飛沫。


 足を払うため、忍者の腕が動く。

 先読みではなく、対応。

 俺の思考が半歩先。


 足払いより早く両脚を土から離し、自ら浮く。

 跳ぶのではなく、浮くだけ。

 ただし、仰向けの忍者の真上へ。


 宙で片膝を折る。

 全体重を乗せ、胸へ落ちる。

 当たれば心肺を潰す一撃。


 何かが腰を絡める。

 忍者の脚。

 下半身が蛸のごとく動いている。


 宙で絡まれ、振られる。

 予想不能の角度、速度で土に叩き付けられる。

 受け身を取れず、立ち直りが僅かに遅れる。


 忍者が飛び跳ねる音。

 危機感と共に地を押し、立つ。


 僅かに速く、忍者が刃を振り下ろす。

 かわせない。防ぐしかない。




 刃が濡れている。




 毒。

 心臓がぎゅっと縮む。

 死と相討ちを覚悟する。


 刃が止まる。

 忍者の顔が激しく揺れる。


 粉々に砕けた面が左方へ飛び、顔の半分を打たれた男の顔が露わとなる。

 青目に無精髭。若くはない。


 飛び蹴りを見舞ったアキが着地。

 両手は後方に回したまま。


 弾かれるように靭から矢を抜く。

 ぐらついた忍者の口から、針。

 アルケオの戦士は僅かな動きで回避し、しゃがみながら回転。

 頭をぐっと地に寄せた、顔面への回し蹴り。


 空を切る。

 武の心得なき蹴りは、動きに無駄が多い。

 忍者は容易に回避し、刃を振るわんと構える。


 花弁のごとくアキの五指が開く。


 人間ではありえない、『蹴りからの掴み』。

 忍者は既にあしゆびの動きを見ている。未知の動きではない。


 だが目に唾。そして涙。

 顔を痛打された直後という状況。

 判断。反応。行動。

 そのすべてが遅れる。


 アルケオの脚に掴まれた忍者の頭が、そのまま地面へ。

 ぶぐ、と鼻がひしゃげる。


 更にもう一度、アキの脚が蹴りさながらに動く。

 掴まれた忍者の頭は、果実も同然。

 振るわれた勢いで卓に叩き付けられ、骨が鳴き、鼻血が噴く。


 アキが俺を見る。

 矢を掲げ、忍者の脚に深く突き立てる。


 痙攣。

 続いて、麻痺。


 戦いが終わる。

 半分ほど。


「――」


「――」


 息遣い二つ。

 アキが五指の力を緩め、忍者を手放す。


 どさりと土に落ちる噛山羊。

 その片腕を――へし折る。 

 苦悶。

 逆の腕をアキが脚で掴み、折る。

 また苦悶。


 戦いが終わる。

 八割ほど。


 忍者の口に両手を入れ、左右に。

 がぶん、と顎が外れる。


 戦いが終わる。

 九割ほど。




 時間にして、ほんの一分足らず。

 まず耳が時を取り戻す。

 土、砂、刃、風の音が聞こえる。


 続いて目。

 ぱらららら、と驟雨さながらに砂粒が床を叩く。


 肉体が激しく上下する。

 限界を超えて打った心臓が、空気を求め暴れている。


 口を開けたままの忍者が喘ぐ。

 片目だけがぎょろりと動き、俺を見る。


「自害は――」


 言葉を出すのが、何年ぶりにも感じられる。


「――させん……!」


 思い出したかのように、全身が熱に包まれた。

 ぶわりと汗が噴き出し、肌を濡らす。




 ややあって、ふいい、とアキが安堵の息を漏らした。


「いやー、びっくりした」


 俺はどうにか呼吸を整え、周囲に敵の気配がないことを確かめる。

 両手を戒められたまま、アキは爪で噛山羊を示す。


「これ、強い人? さっきの人と顔が似てるけど」


「俺の部下の方が強い」


「ふーん……」


 鍵に向かおうとするアキを「待て」と呼び止める。

 山羊の獣面はすっかり脱力しているが、俺は騙されない。


 脚に麻痺。腕をへし折り、顎を外した。

 それでもまだ忍者を無力化するには足りない。

 戦いは九割しか終わっていない。


「手伝え」


「? 何を?」


 小首をかしげたアキが、ぴくんと身を震わせる。

 やはり察しが良い。


「いいよ。じゃあ、やろっか」


 忍者に近づく。

 憎悪に満ちた目に、悔しさが滲む。


 二人同時に、足を振り上げる。


 大の字となった忍者が投げ出した手を、踏む。

 踏む。踏む。踏む。

 骨を割り、砕き、すり潰す。

 砂利を踏むような音が聞こえるまで。


 蝋燭に照らされた俺たちの影は、踊っているようにも見えた。


 戦いが終わる。

 完全に。







 小太刀を受けた弓には亀裂が入っていたが、重傷ではない。

 僅かに狙いは狂うが、誤差だ。

 そもそも、俺の矢は精密さにこだわらない。


 アキは忍者をほぼ丸裸に剥き、脚で手裏剣を弄んでいる。

 プルはその近くの地面に寝かされている。

 戦闘中、やや乱暴に振り落とされたにも関わらず、完全に寝入っているようだ。


(……)


 問題はここからだ。

 それを思い出させるように鼓動が高鳴る。

 どくっ、どくっと。

 また全身に熱い血が巡る。


 錠を外せばプルは解放される。

 だがアキは俺を逃すつもりがない。


 なら、戦いが始まる。

 アキと俺の戦い。

 万全のアルケオと、獺祭を失った弓兵の戦い。


 ――いや。

 鍵を外す時点で弓を置き、靭を外すよう命じられることは目に見えている。

 その状態で戦いが始まれば、ほぼ一方的に俺が不利だ。


(……)


 檻に囚われていた蓑猿はまだ来ない。

 鍵を開くのに手間取っているのか。

 それとも本人が言った通り、あえてルーヴェの元へ向かったのか。

 俺の護衛より優先するということは、やはり外にいるのはアルケオなのか。


 それとも他の要因が――――


「ねえ、ワカツ」


 アルケオの戦士は後ろに回った手を持ち上げる。

 物欲しげな表情。

 俺は殺意を隠さず、彼女を見据えた。


「このかせなんだけどさ」


 屈託のない笑み。




「このままにしよっか?」




 数秒、ぽかんとする。

 ゆっくり、染みるように理解する。


「……は?」


「鍵、ワカツが持ってていいよ。私はこのままで」


「――――」


 まるで訳が分からない。

 俺は針で射抜かれた頬に触れ、その熱と痛みでどうにか気持ちを落ち着ける。


 枷を解かない。

 それによってアキに何の得があるのか。

 両腕が動かなければ彼女の戦闘能力は大幅に落ちる。

 アルケオの巣に戻ることも、何らかの役割を果たすこともできないはず。


「今ここで解いたらさ、ワカツと私、殺し合うことになるでしょ?」


「……」


「その内、さっきのお姉さんも来ると思うのね。で、外のお仲間も来るでしょ? それはアキちゃんに具合が悪いから、今のままがいいなって」


「嘘だ」


「うん。嘘だよ」


 赤いアルケオはあっけらかんと言い放つ。

 目には緑の光。


「嘘だけど、ワカツは断れないよね?」


「……」


「だって鍵を外したら、私とやり合わないといけなくなるし。今さっきの動きで分かったでしょ?」


 ごく単純な真理。


「私、ワカツより強いよ? 脚だけでも全然勝てちゃう」


 もちろん、と明るい声が続く。


「やりたいならやってもいいけどさ。……ワカツ、負けず嫌いっぽいし? アキちゃんに勝ちたいって気持ちは分かるな~」


「……」


「でも、軍人なら他にやることがあるでしょ? それに責任とか何とか、ね」


「……」


「私にもあるの。だから、まだワカツと殺し合いたくはないかなって」


「俺とやり合ったら、勝ち負けに関わらずお前の任務に支障が出るのか」


「そーそー! そういうこと」


「……」


「もちろん最終的には外してもらうけどさ。今ここじゃなくて、もっと後の方が都合がいいの」


 ぱららら、とまた砂粒が落ちる。

 まだ三人の敵が残っているはずだが、物音はまるで聞こえない。

 プルを護送する馬車の方にいるのだろうか。


 外の恐竜は少し離れた場所で暴れているようだ。

 セルディナとルーヴェは無事だろうか。

 シアとナナミィは。


「どうする? 選んでいいよ?」


 今この場でアキの錠を解き、十中八九負ける戦いに臨むか。

 互いの務めと立場のため、あえて休戦を続けるか。


 運が良ければ、アキを倒せるかも知れない。

 麻痺毒を食らわせるだけでも、蓑猿やシア、ルーヴェ、ひいては葦原に寄与することになりうる。

 だがその可能性は細く頼りない。


 事実上、俺はプルだけなく自分の命をも盾に取られている。


(……)


 先ほど、アキがこう言った。

 自分は戦士だから命惜しさに好機は逃さない、と。


 俺も戦士だ。

 命惜しさに好機は――


(……違う)


 好機ではない。

 今陥っているのは危機。

 行く手に見える光はやぶれかぶれの先にある幻。


 アキに挑み、傷一つつけることができなければ俺は犬死にだ。

 気持ち良く死ぬことを選ぶな。

 務めを思い出せ。


(――――待て。そもそも……)


 俺はアキをじろりと睨んだ。


「お前、錠をつけたままどうするつもりだ」


「どうって?」


「どこにも行けないし、何もできないだろ」


「それをワカツに手伝ってもらうんだよ~」


「……」


 選択が固まりかける。

 敵に与するぐらいなら、今この場で死んだ方がマシだ。


「あ、これは任務とか女王様は関係ないよ。個人的なお願い」


「?」


 アキは、にたーっと笑った。










 山を下ると、そこら中の木々が薙ぎ倒されていた。

 めくれた土から湿った香りが漂い、そこかしこで動物が逃げ惑う。


 馬車には誰も残っていなかった。

 灯りだけがぽつんと残されている。


 シアも、ナナミィも、下忍もいない。

 ルーヴェも、セルディナも、蓑猿も。


 彼らとの合流を待つことは許されなかった。

 アキは速やかに『俺がここへ来た手段』へ案内することを求めたからだ。

 拒めばアキは暴れ、プルが死ぬ。少し遅れて俺も死ぬ。

 情けなさを噛みしめながら、同時に、得体の知れない疑念を抱きながら、俺はここへ来た。


(……)


 山から音は聞こえない。

 もう恐竜あるいはアルケオは討ち取られたのだろうか。

 それとも――――


「おおー。いいねいいね」


 アキは二頭の馬をしげしげと見つめている。

 背中にはプル王女。

 枷はそのままだが、よく見ると拘束されているのは手首だけだ。

 つまり、爪はある程度動く。

 その気になれば少女の脚を引き裂くことも可能だ。


「後ろ、誰も来てないみたいだね」


 アキは闇の中を見やった。

 アルケオの視力は人間より上だが、化け物の域に達しているわけではない。

 心から確信しているわけではないのだろう。


 だがルーヴェは違う。

 彼女は確実に俺が下山したことを察知している。

 それを知れば蓑猿も動く。彼女はアキの知覚範囲に入ることなく、俺を追跡できるはず。


 問題は、その二人のどちらが来てもこの状況を打破できないことだ。

 シアでも、ナナミィでも、セルディナでも不可能だろう。


 欲しいのはアキを一瞬で――つまり、獺祭以上に確実に仕留められる人間。

 あるいは、プル王女を殺すことに何の痛痒も覚えない破廉恥な人間。

 もしくは、アキと対等に交渉できる人間。


 そんな奴がいるだろうか。




 ――いる。




 いるのだ。

 ここにはいないが。


 これから向かう先に、いる。

 それも大勢。


 アキが顎で御者席を示す。


「じゃ、行こうか」


 二人でのそのそと席へ。

 俺は弓を置き、手綱を握る。


 んふー、とアキは俺に顔を寄せた。

 背にプルを負うため、彼女は背もたれに身を預けない。

 預けるのは体側だけで、体の正面は俺に向けている。


「嬉しいな~。ずっと行きたかったんだよねー」


「――――」


「『葦原は良いところだ』」


 やや険しい表情となったアキが、低い声で言う。


「『ここから出たら連れて行ってやる。旅費は俺が持つ』」


 脅すような声音。


「それ、俺か?」


「他に誰がいるのさー」


「……そんな不機嫌な顔じゃなかった」


「んーん。こんな感じだったよ?」


「……」


 手綱を振るうと、馬が歩き出す。

 夜風が頬を撫でると、寒くもないくせにアキが俺にへばりつく。


(……) 


 じきに朝陽が昇る。


 弓取りの朝は早い。

 腕利きなら誰もが、ともすれば夜明け前から弓を引く。

 そして護衛の獣面は眠らない。


 俺では無理でも、『彼ら』なら。


「楽しみだなぁ。どんなところかな」


 俺たちの目的地は――――


「……御楓」


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