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万竜嵐  作者: icecrepe
【家畜の女王】
80/91

73

 

 宙へ。


 姿勢と体勢が崩れている。


 足を踏み外したのか。

 転ぶのか。いや滑落か。

 まず心。次に体の順で衝撃に備える。


(――――!!)


 浮遊感と悪寒。

 下方へ、更に下方へ。肉体を引っ張られる獰猛な感覚。


 転倒ではない。『落下』だ。

 落ちている。俺はどこかに。


「ッッ」


 岩だと思っていたものは『蓋』だった。

 そしてその先には空洞が続いていたらしい。

 しかも横穴ではなく縦穴だ。


 まばたき一つの時間を経て、時が動き出す。


「っ!」


 杖を手放し、弓を抱く。

 一回転。

 どの向きに回転したのか、まるで分からない。


「っ!」


 二回転。三回転。

 視界は完全な闇。

 大波に洗われるいものごとく、不規則に回転する。


 どふん、と何かにぶつかる。

 柔らかい。土だ。

 だが落下は終わらない。

 縦穴は、斜め下方へ向かう穴に変化した。


 四。五、六、七。

 八。九。十。

 泥と朽葉くちばと砂利を絡めながら、俺は下へ下へと転がり落ちる。


「~~~~!!」


 勢いが弱まったところで穴の壁に五指を突き立てる。

 が、そこにあるのは柔らかい土。

 みりみりと五本の溝が生まれる。

 端的に言えば、指を入れた場所が崩れかけている。 


(こ、このままじゃ……!)


 片手ではダメだ。

 せめて両手で踏ん張らないと。

 だがその為には弓が邪魔だ。


(っ……)


 弓を手放せば両腕で自分を支えられる。

 だが弓を失えば俺は無力だ。


 叫ぶために息を吸う。

 が、その動きだけで濡れた土壁がぼろりと崩れた。

 蓑猿の「み」を発した途端、俺はこのまま落ちるだろう。

 ――選べる道は二つ。


 弓を捨ててしがみつけ。

 弓を捨てずにこのまま落ちろ。

 二つの声が、小さめの脳内でせめぎ合う。


「っ……!」


 俺は弓を捨てない。

 剣士が刀を捨てないように。


 結果、壁はふた呼吸と持たずに崩れた。


「っ、くっ……!」


 なおも斜面を転がり落ちる。

 五回転。六回転。

 巻き上げた土が頬を打ち、髪を濡らす。

 森の臭いがむわりと俺を包む。


 十回転。

 そこで何かがブーツに触れた。

 いや、俺は『それ』をブーツで蹴り、更に体重を乗せていた。


「おあっ?!」


  『それ』は何かを呻いた。

 人だ、と思ったところで、ぎぎぎ、と落下速度が鈍る。

 どうやら『そいつ』は壁に指を立てているらしい。


「おい。……おい、聞こえるか、落ちて来たきみ……」


 甘く低い男の声。

 三十か、四十か。だいぶ年上のようだ。


 俺は壁に手を伸ばそうとしたが、途端、拳ひとつ分ほど下方へ滑った。

 二人分の体重を支えることなど到底できず、土壁が崩れかけている。


「ッ!」


「聞いてほしい。あと十か、十二ほど数えたら我々は落ちる。……あっ、と! 落ちないのは無理だ。もう私の指が外れるからな……」


 ず、ずず、と言葉の通り俺たちは下へ吸われていく。


「下の地面は柔らかい。落ちても死にはしないさ」


「わ、分かった」


「ただし、私の上には落ちないでくれ。お互い別々の方向に落ちよう。枝が二つに裂ける様を想像してもらいたい」


「何とかする」


 ずりり、ずりりり、と俺たちは落ちていく。

 首を巡らすと、あえなか灯りに照らされた地面が見える。

 土と落ち葉が積もった地面。

 穴はほんの少し先で終わりのようだ。


「三、二、一……落ちるぞ!」


 浮遊感。

 俺と男は落下しつつ、互いを突き飛ばした。

 そして左右に別れながら地面に落下する。


 ずどんと全身に衝撃。

 湿った土がめくれ、落ち葉が散る。

 ぱらぱらと土が落ちて来る。


 男の言った通り、地面には弾力があった。

 肺の空気が抜ける感覚を味わった俺も、地面を押して素早く立ち上がる。


 暗い。

 だが闇ではない。


 狭い部屋だった。

 縦横の長さは大人の足で七歩か八歩。


 天井だけが妙に高く、そこに穴が開いている。

 穴の出口は漏斗ろうとを逆さまにした形に抉れており、地面には金属製の蓋が転がっていた。

 どうやら男は天井を塞ぐ蓋を開け、強引に登ろうとしていたらしい。


「おい。大丈夫か」


 俺は地に臥す男に駆け寄る。

 そいつはうつ伏せに倒れたまま、「あー……」と呻く。


「誰だか知らんが、ありがとう。おかげですべて台無しだ」


 年を経た男らしい、どこか余裕のある声音。

 栗を煮詰めたような、濃く甘い芳香が漂う。


 ゆらりと立ち上がった男は長袖のシャツ一枚だった。

 ズボンは泥だらけで、背中に届く焦げ茶色の髪には落ち葉が絡みついている。

 毛先は丸まっており、そこから泥の塊がぼろぼろと落ちた。


 頬はつるりとしていたが、短めの口髭くちひげとやはり短めの顎髭あごひげが繋がっている。

 よほど手入れしているのだろう。

 男は髪ではなく髭の泥を指で落としていた。


 瞳の色は黒。

 つまりエーデルホルンの人間だ。

 背は高く、口元には上品な笑み。


「……君は葦原の弓兵か。もしかして私を捜索に?」


「捜索はしてる。でも相手はあんたじゃない」


「それは残念だ」


 男は軽く肩をすくめ、ちらりと横を見た。

 俺もつられてそちらを見る。

 灯りは部屋の壁に埋め込まれており、逆側――つまり男の視線の先はほぼ真っ暗闇だ。

 どうやら室内のみが照らされるよう、明るさが調節されているらしい。


「ここがどこだか分かるか?」


「葦原だ」


 男が目を丸くした。


「葦原にも冗談を言う文化があるのか。人類学的な発見だな」


「……」


 俺は男の視線の先、つまり闇へ向かって歩き始めた。

 歩きながら自分の状況を把握する。

 弓もうつぼも壊れてはいない。膝は痛むが、骨にも筋にも異常はない。

 四歩目を踏み出す。


「っ!?」


 がぼん、と硬いものにぶつかる。

 よろめきながら目を凝らすと、そこに何があるのか分かった。

 ――鉄格子。


「そう。ここは檻だ。……体を張ったご回答、恐れ入る」


 俺の後方で、男は軽い調子で告げる。


 何となく想像はしていたが、やはりだ。

 どうやら砦内部に落ちてしまったらしい。

 それも、檻の中に。


「檻に落ちるのは初めてかい? 私もだ。お互い、貴重な経験だな」


 軽い調子で言いつつ、男が俺に近づく。 


「……あんた、誰だ?」


「ヴァンと呼んでほしい。君は?」


「『傘門十弓』のワカツ九位だ」


「『蛇飼いワカツ』か。お会いできて光栄だ」


 男は俺の手を握り、軽く振った。

 感触で察する。


「……騎士ですか?」


「いや、違うが」


「じゃあ傭兵?」


「違うな」


「どこで剣を習われました?」


「菓子職人でね。よく分厚いケーキを切るんだ」


 俺が睨みつけると、ああ、とヴァンは両手で制止する。


「分かっている。今のは少しキレが悪かった。次に期待してほしい」


(……)


「で、君は一人でここに来たのかい?」


「いや――」


 俺は穴を見上げた。

 かなり長かったが、人が通れないほどではない。

 じきにルーヴェと蓑猿が俺の不在を察知し、助けに来るだろう。


 そこでようやく、自分が落ちた時の状況を思い出す。


(穴……確かに『いっぱい』だな……)


 だが、だからといってすぐ傍にあるなど誰が想像できるのか。

 警告ぐらいしてほしかった、というのが正直なところだ。

 だがルーヴェにもそこまでの心の余裕は無かったのだろう。


「九位。灯りが落ちて来なかったが、まさか手探りで歩いていたのか?」


「いえ、夜目の利く仲間の先導で杖をつきながら……」


「……。その状態でなぜここに落ちた?」


「転びそうになって体重を杖に」


 ああー、とヴァンが芝居がかった仕草で目元を覆う。


「いるいる。感覚で道具を使う粗忽者そこつものな」


「転びそうになったんだから仕方ないだろ」


「杖は転ばないために使うものだ」


 ぐうの音も出なかった。

 だが真っ暗闇の中で姿勢を崩したのだから――


(……いや、違うか)


 俺は自分の膝を見た。

 このところ、どうも調子の悪い膝を。


 転倒しそうになったあの時、とっさにその場で踏ん張ることもできたはずなのだ。

 だが膝がこの調子なので、無意識に自分の脚ではなく杖を信頼してしまったのかも知れない。

 戻ったら医者に相談しなければ、と心に書き留める。


「無事脱出できたら杖と和解するといい」


 ヴァンはくつくつと笑っていた。

 あまり嫌味を感じないのは笑い方が上品だからかも知れない。

 それに表情や声音から蔑みや侮りの意図を感じない。

 少しだけ、警戒を解く。


「……。ヴァン。ここに来てどれぐらいだ?」


「二、三日だ」


「誰に捕まった?」


「葦原の武士とニンジャだ。夜道をふらふらしていると、突然背後から襲われた」


「菓子職人なら何もできずに捕まるのも無理はないな」


「おっと。名誉のために言っておくが、私に油断はなかった。ただちょっと……泥酔していただけだ」


 世間的にはそれを油断と呼ぶのだが、俺は黙っておいた。


「ここに何人ぐらい詰めているか、分かるか?」


「様子を見るに十人少々だろうな」


「それ以上いる可能性は?」


「無い。それ以上の数を統率できる指揮官なら、相手と、時宜と、場所を弁えるだろう」


 ヴァンは落ち葉だらけの地面に座り込み、軽く息を吐いた。

 あまり憔悴しているようにも、緊張しているようにも思えない。


「天井の蓋を外すのにずいぶん時間をかけた」


 彼の十指は泥だらけだった。

 一部は乾燥し、化粧のように白くなっている。


「ようやく脱出できるぞと思ったところに――なぜか君が落ちて来た」


「俺だって落ちたくて落ちたわけじゃないし、あんたの邪魔をしたかったわけでもない」


「お互い、不本意な出会いだな」


 ヴァンは寝台を示した。

 寝台と呼んで良いのか怪しい、朽ち木の塊だ。

 枕らしきものがあるので、かろうじて休息に用いる設備だと分かる。


「休んでいたらどうだい。十弓なら護衛の忍者がいるだろう?」



 ところが、蓑猿はなかなか降りて来なかった。



 結構な時間が経ったにも関わらず、彼女の気配を感じない。

 たまに濡れた土や砂粒が落ちるのだが、それ以上の何かが落ちて来ることはない。


 原因には心当たりがある。


(セルディナ……何か余計なことを言ったな……)


 基本的に『獣面』は十弓の護衛を最優先とする。

 が、他国の王族が一緒となると多少は判断の余地が生まれるだろう。

 強硬派の舞狐と違い、蓑猿は思慮深い。

 あれこれと思案するあまり、行動できずにいるのかも知れない。


「まだ来ないのか。困ったな」


 ヴァンが身を起こしていた。


「そろそろ巡回が来るぞ。君をどこかに隠さないと」


「いや、こうなったら上に登る」


「無理だ。さっき穴の入り口が崩れた」


 檻の中央には土の山が生まれていた。

 それに植物の蔓とおぼしきものがとぐろを巻いている。


「さっきはそこの蔓が伸びていたから、それを頼りに這い上がったんだ。だが私が登った時にちぎれた」


 頭上を見る。

 穴までは結構な高さがあるものの、絶望的な距離ではない。


「俺があんたの肩に乗って、あそこに飛び込むのは?」


「勢い良く飛びつけば穴が崩れる。土が柔らかいからな」


「……」


 やむをえず、檻の中を見回す。

 壁面は石だ。

 それも漆喰で固めてあるのではなく、巨岩がはめ込まれている。

 これでは破りようがない。


 鉄格子に近づく。

 かなり古い建物のはずだが、ほとんど錆びていない。

 腐食は見受けられたが、体当たりで破れるようには見えない。

 おそらくここしばらくの間に差し替えられたのだろう。


 当然、檻の中に隠れる場所はない。


(まずいな……)


 俺には弓矢と毒がある。

 多少敵が来たところで問題なく迎撃できる。


 だがもし火責めや煙責めを使われたらひとたまりもない。

 それに勘の良い奴なら俺の目当てがセルディナの妹だと気づくだろう。その子を盾に使われたら。


 迎撃の先に待っているのは『死』だ。

 ここは身を隠すしかない。


「弓なら格子越しでも戦えるのだろうが、火を点けられでもしたら死ぬぞ。土を掘るからそこに隠れてくれ」


「……いや、それも安全じゃないだろう」


 檻の灯りはか細いが、室内が照らされるよう調節されている。

 堆積しているのは落ち葉と土だ。

 土を掘り返せば目につく。


「中に入って来ることはないだろうけど、ヴァンに『そこを掘ってみろ』と言うかも知れない」


 確かに、と男が腕を組んで思案した。


「そもそも天井がこの有り様だからな。どうあっても不審に思われるか……」


 俺は周囲を見渡し、もはや檻の中に俺を救うものがないことに気付く。

 天井の穴には届かない。

 壁は破れない。

 地面を掘っても気づかれる。


(このまま蓑猿を待つか……? いや、巡回までに来るとは限らない……)


 蓑猿の到着がいつになるかは見当もつかない。

 一秒後かも知れないが、十分後になる可能性もある。


(と言うか、おかしいぞ……。いくら何でも遅すぎる……)


 まさか、と気付く。

 俺が落ちた後に何かあったのではないか。

 誰かが同じように落ちたか、あるいは敵がぞろぞろと現れたか。


 シアとナナミィが合図を送った可能性もある。

 でなければ、こうも蓑猿が遅れていることに説明がつかない。


 どっ、どっ、どっと心のみならず心臓までもが焦り始める。

 湿度と緊張で顔と背中に汗が滲む。 


(蓑猿が来ない……? そうなったら俺は……)


 再び格子に取り付く。

 腕ぐらいは出せるが、どう頑張っても胴体は出ない。

 格子の根本を掘ればいつかは外に出られるのだろうが、その頃には巡回が来るだろう。


 抜け道のたぐいは無い。

 手汗が格子を濡らした。


(クソ……!)


 ヴァンはなおも髭をいじっていた。

 焦りは感じないが、八方塞がりであることは彼も同じだ。

 何せ天井の蓋が落ちているのだ。彼の言う通り、巡回は確実に異変を察知するだろう。


 人が増えたばかりに窮地に陥る。

 ヴァンにしてみれば思いがけない――――


(!)


 はっと気づく。

 そうだ。二人いることの利点を生かせばいい。


「ヴァン」


「ん?」


「俺が土に埋まる。で、あんたが腹痛を訴えるとかはどうだ? 入ってきたら二人で襲うんだ」


「んー……」


「もしくは、穴の方から人が来る音がする、って言うとか。そうすれば巡回が中に――」


「……」


 ヴァンは髭を指で撫でていたが、やがて首を振った。


「無理だな」


「何でだ?」


「さっき君も言っただろう。巡回が中に入って来るとは限らない。腹痛にせよ異音にせよ、異常を察知したら仲間を呼ぶか、私自身に命令を下すだろう」


「……。だったらむしろ、ただ俺が埋まった方がマシか」


「そう。だがその場合も天井の異変は隠せない。どの道、仲間を呼ばれる」


「……」


「参ったな。ここまで進退に窮するとは」


 俺はヴァンから視線を剥がし、再び格子に取り付いた。


「他に捕まってる奴は?」


「隣に女が二人。今は二人とも眠っているようだから、声は掛けないでやってくれ」


 格子にべったりと顔をくっつけ、鼻を突き出す。

 ぎょろぎょろと左右を見るが、『隣』は見えない。


「あ、隣と言っても壁一枚隔てた先じゃないぞ。結構離れている。灯りも夕方に切れたようだ」


「……!」


「協力は望めないから安心してほしい。……いや、逆か。……逆とはどういうことだ。『不安してほしい』……?」


 鍵はごく単純な造りだ。

 とは言え、俺に錠前破りの技術は無い。


 はっと気付く。


「ヴァン。檻の鍵は? 向こうが少数なら、誰かが持ち歩いてるってことはないだろ」


「……この矢印の先だ」


 ヴァンは格子の根本に描かれた矢印を示す。

 彼自身が指で掘ったものらしい。


「不穏当な道具と一緒に、大きめの鍵が吊ってある」


「距離は?」


「二十七歩」


「高さは?」


「ちょうど私の顎あたりだ」


「……正確か?」


「これでも目端は利く方だ」


 一瞬、剣を思わせる鋭い光がヴァンの瞳に煌めいた。


「巡回の足音は数えているし、私との身長差も把握している」


「……」


「参考までに言っておくが、ここから鍵に手は届かない」


「……。手はな」


「何?」


 昂揚が湧き上がる。

 距離と高さが分かっていれば、暗闇など関係ない。


「運が良いぞ、俺たち」


 幅広のやじりを持つ矢を一本手に取った。

 そして靭に巻いた紐をほどき、矢の尾部、はずに巻く。

 精密さは失われるが、これで使った矢を引き戻すことができる。


「矢を射る気か? 鍵は壁に掛けられている。落とせないぞ」


「俺以外の弓兵ならな」


 きりり、と弦を引く。


「『蛇の矢』」






 むしろ、床に落とした後の方が手間だった。


 俺はヴァンのシャツを結んだ矢を放ち、それを紐で引き寄せることを繰り返した。

 数度の試行と錯誤を経て、ようやく鍵は俺たちの手元へ。


「よしよし」


 ヴァンは興奮した様子で鍵を手にした。

 シャツに袖を通し、俺の頭をぽんぽんと叩く。


「やるじゃないか。曲芸もそこまで行くと大したものだ。見物料を払いたくなる」


 少し前に同じことを言った奴は片目を潰されたのだが、そんな与太話をしている場合ではない。

 かちゃかちゃとヴァンが檻の鍵を開ける。



「ちょっと、おじさーん?」



 少し離れた場所で明るい声が聞こえた。

 若い女の声だ。


「何かうるさいけど、どうかしたの?」


「アルク、助けが来たぞ! ちょっと待っていなさい」


「本当?! やったっ!」


 女も肝が太いのか、無邪気に喜んでいるようだ。


 がちゃんと檻が開く。

 周囲はかなり暗い。灯りなしで進むのは難しい。

 が、もたもたしていれば巡回が来てしまう。


 ヴァンは壁に埋め込まれた灯りをがちゃがちゃといじっている。


「ワカツ。灯りを外す。少し時間が掛かるから、先にアルクを」


「分かった。……この辺に穴とか、無いよな?」


「巡回はいつも真っ直ぐ歩いている。大丈夫だ」


 鍵を手に、隣の檻へ。

 隣といっても厚い岩盤に隔てられた先だ。

 小走りで通路を駆ける。


「あの、『ワカツ』って聞こえたんですけど」


 朗らかな女の声。


「――もしかして葦原の『ワカツ九位』ですか?」


「ああ」


「わあ、すごい! お会いできてうれしいです!!」


「……」


 檻の前に到着する。

 俺とヴァンの檻より遥かに広いようだ。

 灯りはついておらず、格子の向こうには闇が続いている。


「鍵を開ける。下がってろ、アルク」


「もう下がってまーす」


 手元が暗い。

 苦心しながら鍵を穴に突っ込み、がちゃんと檻を開ける。


「よし! 開いたぞ、アルク。こっちへ」


「あ、待ってください。先にその子を!」


「……?!」


 闇に目を凝らす。

 檻に入ってすぐの場所に毛布が敷かれていた。


 一人の少女が倒れている。

 ひどく小柄で、頭に細い金の鎖を巻いている。

 額には宝石。身に纏うのは布一枚だが、みすぼらしさは感じない。


 セルディナの妹だ。

 喜びと同時に不安が湧き上がる。


「……っ大丈夫なのか、この子」


「大丈夫です。生きてます。でも、すごく疲れてるみたいで……」


「っ」


 俺は少女の胸に耳を当てた。

 とくん、とくん、と規則的な心音。


「その子、どうかしたんですか?」


「知り合いだ。この子を助けに来た」


「そうなんですか?!」


「ちょっと黙っててくれ。気が散る」


 プルは眠っているようだった。

 薬を使われたのか、多少揺すっても起きる気配が無い。

 気付け薬を嗅がせても良いのだが、子供には毒だ。

 そもそも寝かせておいた方が何かと都合が良いかも知れない。泣かれても困る。


「アルク、ずっと一緒の檻だったのか?」


「うん! ……あ、はい!」


「水とか食事は?」


「ちゃんと来ましたよ。栄養状態は問題ないと思います」


「そうか……」


 闇に響くアルクの声は明朗快活で、それだけで俺をいくらか安らがせた。

 確かにプルの顔色は悪くない。やせ細ってもいない。

 怪我をしている様子もない。

 ひとまず安心だ。


「ふぅ……」


 安堵した俺はプルの傍にへたり込んだ。


「九位! ワカツ九位」


 遠い闇からヴァンが鋭い声を放つ。

 灯りを外すのにどれだけ手間取っているのか。

 俺は苛立ち混じりで応じた。


「もう助けたぞ、ヴァン。明日の朝までには灯りを外しておいてくれ」


「灯りならとっくに外している! ニンジャが来たぞ!」


「何?! 敵か?!」


「いや違う! 君と同じ穴からだ! 猿の仮面をつけている」


(蓑猿……!)


「あれ、また誰か来たんですか?」


 檻の奥から裾の長い貫頭衣姿の女が歩み出す。

 闇のせいで顔は見えないが、長い髪がちらりと覗いた。

 さくさくと落ち葉を踏む音を聞きながら、通路に飛び出す。


「ヴァン、そいつは仲間だ。……蓑猿!」


 灯りを手にしたヴァンはちょうど檻から出るところだった。

 その脇を飛び出す忍者が一人。

 蓑猿だ。


「九位! ご無事ですか?」


 彼女はヴァンをしり目に、早足で俺の元へ向かっている。

 数十歩の距離がゆっくりと縮んでいく。


「ああ! ……済まん! さっきは迂闊だった」


 ヴァンと蓑猿が近づくにつれ、俺の周辺も少しずつ明るくなっていく。

 忍者は俺の十数歩先で神妙に頷いた。


「いえ、私こそすぐにお迎えできず申し訳ございません。少々問題が起きまして」


「問題?」


「実は――」




 視界の隅で何かが動いた。




 何気なく、そちらへ目を向ける。


 プルの体の上に何か黒いものが乗っていた。

 細長い、枯れ葉のようなものだ。


(……?)


 枯れ葉がなぜ急に、と思ったところで気づく。

 少女に乗っている黒い葉は一枚ではなく、五枚だ。




 ――もっと言えば。


 葉ではなく、爪のような。




「……」


 爪の根本を目で追うと、緑色の鱗が見えた。

 吸われるようにして、俺の視線が『そいつ』を這い上がる。

 足から上は貫頭衣。

 貫頭衣の上に、顔。


「ほーんと、会えて嬉しいな」


 十代半ばから後半の若い女。

 長い黒髪に琥珀の髪飾り。

 声は快活。

 目の色、緑。



「ワ・カ・ツ♪」



 『秋の赤い甘い懐かしい風』が、プルの胸を踏んでいる。



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