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万竜嵐  作者: icecrepe
【家畜の女王】
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71

 



 玄関には水溜りが広がっていた。

 女中の持つ蝋燭に照らされたそれは、鏡のように俺の顔を映している。


 白百合を思わせる上着と鈴蘭に似たドレス。

 彼女を象徴する純白の布はあちこちが裂け、白い素肌と赤い血が覗く。

 鮮血はそこら中に染みを作っており、まるで矢の雨を浴びたかのようだ。


 へたり込んだナナミィはぐったりと壁にもたれかかっていた。

 淡い茶色の髪は濡れ、水草のように顔に張り付いている。




「……おい」


 その姿を直視した瞬間、俺は弓を取り落としかけた。

 歩みは速まり、半ば駆け寄るようにして彼女の元へ。

 むわりと川の水が匂う。


「おい。……おい、ナナミィ」


 手汗で滑る弓を女中に押し付ける。

 細い肩を掴んで揺さぶると、ナナミィは激しく咳き込んだ。


「蛇。……っ!」


 唾と川の水の混じりものを顔に浴びる。

 だが皮膚が何も感じない。

 口の中が乾ききり、舌が痺れるようだった。

 心臓は不吉に高鳴り、目元の筋肉がまばたきを忘れている。


「おい、何があった。何だこの服……!」


「川に……げほっ!」


 俺は苛立ちに顔を歪めた。


「そんなの見れば分かる! その前だ!」


 まさか風に吹かれただけでドレスが裂け、血の染みができるなんてことはあるまい。

 人だ。

 人の仕業に決まっている。


(物取り……!!)


 ぼっと胸の奥に火が点いた。

 痛みの混じる熱が大小の血管を巡り、ずくんずくんと全身が疼く。

 なぜ護衛の一人もつけなかったんだ、と己の不甲斐なさに腹が立つ。


 だがそれ以上に、許せないことがある。


 見た目こそ華奢だが、ナナミィは武人だ。

 それも、爪獲竜バリオ棘扇竜スピノを退け、怪鳥との混戦を生き延び、アルケオとの死闘を五体満足でくぐり抜けた猛者。

 よほどの達人でもなければ一対一で負けることはないだろう。

 となると、相手は複数だ。


(女相手に複数人……!!)


 全身の血が沸騰するかのようだった。

 俺は奥歯と前歯を軋らせながらナナミィを揺さぶる。


「誰にやられた?! 顔は? 顔は見たか?!」


 ナナミィは咳き込み、髪に纏わりついていた水草を引き剥がす。


「っそれは――「どんな奴だった?! 得物は? どこの通りでやられた?!」」


 頭頂部の毛穴から湯気が噴き出すような感覚。

 俺は頭を振り、一度冷静さを取り戻す。


「何人だ。五人か? 十人か? とにかく、今すぐ見つけ出して目鼻をぶっ潰して車裂きにしてや――」


「……、……!」


 ナナミィは顔の前でぶんぶんと手を振った。


 気持ちはよく分かる。

 一介の戦士として、複数人に叩きのめされるのは恥ずかしいだろう。

 だがそれは――――




「落ちたの……」




 俺は聞き間違いかと思い、彼女の口に耳を寄せる。

 頬を赤らめたナナミィは少しだけ顔を引き、ついと視線を逸らす。


「落ちたの。あの、足が滑って……」


「――」


 俺は念のためドレスを探り、傷口を調べた。

 よく見ると幅と深さが明らかに刃物のそれではない。枝か、あるいは岩だ。

 ひと言断ってから傷口に指を入れると、血と共に砂粒が付着した。


 更に血の染みだと思っていたものは、ほぼすべてがただの紅葉だった。

 衣服に貼り付いた紅葉を剥がしていくと、ドレスが裂けた場所を除いてナナミィに傷は無かった。


 俺はまだ緊張の糸を張ったままだった。


「夕方、橋の……その、欄干らんかん?で笛を吹いている人がいて」


「ああ」


「その人、刀を抜いて踊り始めたの。それが綺麗で見惚れてたら、何か見物してた人にはやされて」


「……ああ」


「ザムジャハルにはこんなことできる奴いないだろーって。それで……ちょっとこう、カチンと来て……しまいまして」


「しまいましたか」


「笛の人も何かこう、挑発するような目で見てるから。私も欄干に乗って槍を抜いて。舞踏合戦をちょっとね」


「……で?」


「川に落ちちゃった……」


 ナナミィは両手で顔を覆い、小刻みに震え始めた。

 泣いているのではなく、羞恥の笑いで震えている。


 俺は女中を見た。


「傷口を消毒する。塩持ってこい」


「ちょっと、蛇! な、何で塩がいるの?!」


「あと辛子からし山葵わさびだ。馬鹿につけると効くかも知れない」


「ちょ、ちょっとちょっと! 山葵わさびってあれでしょ? 鼻にツーンと来る香草でしょ? そんなの要らないから普通に軟膏を――」


 半笑いの女中が去ったところで俺はナナミィの両頬を挟んだ。

 ぷぎ、と河豚ふぐよろしく唇がすぼまる。


「お前、泳げないんだよな?」


「……! ……!」


 こくこくと河豚ふぐ面の少女が頷く。


「じゃ、何で欄干に乗った? ん?」


 『それは自分でも馬鹿だったと思う』という言葉が、『ひょれはじぶんれもばららっらとおもふ』という音となって発せられる。

 俺はナナミィの頬を挟んだまま、額で額をこつこつと叩く。


「この頭には何が入ってるんだ? 脳味噌じゃなくて酢味噌すみそか?」


 ぶんぶんとナナミィが首を振る。

 ちらう、ちらいまふ、と河豚が呻く。


「槍はどうした?」


「なふひら」


「失くしたのか。そっか」


 俺は彼女の頬を解放し――そのまま左右に引っ張る。

 ぬびい、と思った以上に皮が伸びた。


「いふぁいいふぁいいふぁい」


「もう少し考えて行動しろ……!! 俺より馬鹿なことをするんじゃない……!!」


 ぁ、とナナミィがへらりと笑う。


「それちょっと面白い。自分が馬鹿って自覚が……いらららら……!」


 俺は伸ばした頬から手を離し、ナナミィの頭を掴んだ。


「本当に落ちただけだな?」


「落ちて流されたの。ずぅぅっと下まで」


「どうやって助かったんだ」


「岸に引っかかったの。で、ここまで歩いて来た」


 でも、とナナミィは少しだけ得意げな顔をする。


「ちょっと泳げるようになったかも。あと一回ぐらい同じことすれば……。……指、どうかしたの?」


 俺は自分の人差し指と中指をしげしげと見つめていた。


「いや、お前の鼻に入るかなと思って」


「や、やめなさい馬鹿!」


 鼻を押さえたナナミィが後ずさる。

 どうやらへたり込んでいたのは傷のせいではなく、歩き続けて疲れているからのようだ。


「馬鹿はお前だろうが。心配させるな……!」


「別に心配してなんて言ってませんし。私の兄にでもなったつもり?」


 俺は両手を振り上げた。

 うひっとナナミィが頭部を庇ったところで、さっと腕を開き、彼女の両頬を挟む。

 ぷぴ、と河豚の顔。 


「お前、には、シアの、件で、でかい、借りが、ある」


 一言一言区切り、その度に頬をぎゅっと潰しては解放する。

 人、河豚、人、河豚の順にナナミィの顔が変形した。


「死なれ、たら、悔やん、でも、悔やみ、きれん、から、大人、しく、餅、でも、食、って、くつ、ろげ、酢味噌!」


 最後だけ強めに頬を潰すと、ぷぎゅ、とナナミィが唸った。

 少しだけ頬を赤くした彼女は抗議するような目で俺を見る。


「大人しくも何も、私にもやることがあるの」


「何だよそれ」


 ナナミィは歯を剥いた。


「ワカツには教えませーん」


「……」


 薬箱を抱えた女中たちが集まって来る。

 俺は消毒の指示だけ出し、部屋に戻ることにした。






 矢の準備を済ませたところで、すとん、と自室に蓑猿が降り立った。

 蝋燭の炎が僅かに揺れる。


「どうした」


「ナナミィ殿の件で、少々」


「酢味噌か」


 俺の鼻腔が膨らみ、呆れの息が噴き出す。


「あいつ、嘘は言ってなかったか?」


「はい。裏を取りました。やはり川から落ちて流されただけのようです。下手に暴れたせいであのような傷がついたものかと」


「大冒険だな」


 毒づいた俺は本物の毒壺に向き直った。

 が、蓑猿は膝をついた姿勢のまま動かない。


「九位」


「何だ」


「ナナミィ殿は御楓で一番太い川の中流から下流まで流されております」


「ああ。それがどうした?」




「――普通、誰かが助けに入るものです」




「!」


 ぎょっとする。

 そして、自分の鈍さに呆れ驚く。


「助けを呼びに動いた者もおらぬようです。自力で岸に這い上がられたそうですので」


「……。待て。今の時期は川下りの舟があるだろ。少々日が落ちても紅葉を見る客が――」


「助けを求めたそうですが、船頭に無視されたようです」


「……」


 手を止め、蓑猿に向き直る。

 面の下の表情は窺い知れない。


「薄情だな」


 民も、俺も。


 ナナミィの話をきちんと咀嚼していれば、どんな状況だったのかは容易に想像できたはずだ。

 話し始めに笑ったのも、途中で色々と茶々を入れたのも、恐怖心を隠すためかも知れない。

 発端こそ間抜け極まりないが、彼女が異国で一人、誰の助けも得られないまま溺死しかけたのは事実だ。


 優しい言葉の一つもかけてやるべきだった。

 あるいは大げさかも知れないが、肩ぐらい抱いてやるべきだったのかも知れない。

 無事で良かった、と。


(……)


 俺は毒壺の蓋を閉じ、拳をきつく握った。

 普段より汚い悪態が口から飛び出すも、蓑猿は咎めなかった。


「ザムジャハルの方ですから、こうした扱いも無理からぬことかと」


 蓑猿は同情するでもなく、淡々と告げた。


「九位にもお心当たりはございましょう?」


「まあ……な」


 ザムジャハルという国は醜聞が絶えない。

 国同士の協定を破る。何の前触れもなく国境の街を襲う。交渉の席で大使を斬る。

 他国の軍服を着て悪さをする。井戸に家畜の死体を放り込み、病人の着ていた服を流通に乗せる。

 ここ数十年の間に起きた有形無形の争いのほとんどはザムジャハルが発端であり、葦原の民もそれをよく知っている。


 各国で爪弾きになった連中が流れ着く国でもあるため、周辺国家からすれば余計に嫌悪感を抱きやすい。


 四カ国に出入りするザムジャハルの商人や旅人はしばしば理不尽な目に遭うという。

 内部分裂している唐は比較的寛容だが、葦原やエーデルホルンのように国内が平定されている土地では特に排斥を受けやすい。


 蓑猿の言う通り、俺もこれまでザムジャハルの民につらく当たって来た。

 だが――――


「ナナミィは俺の客だ。それに――」


「存じ上げております。シア様の件で大恩がおありだとか」


 肩を落とし、脱力する。

 苛立ち混じりの自己嫌悪が肺の中身を濁した。


「……護衛の一人もつけておけば良かったな」


「いえ、下忍を二人つけておりました」


「! そうなのか?」


「はい。セルディナ殿に二人つける予定でしたが、一人で良いと言われましたので」


「待て。だったら何であいつを助けなかった?」


「下忍を問いただしましたところ、橋の少し手前で『獣面』に絡まれたそうです」


「何……?」


「ツボミモモ六位の獣面でございます」


 俺の脳裏に小柄な十弓の姿が浮かぶ。

 口元には冷笑。


「何で六位の獣面が……?」


「話自体は些事でございます。とは言え、下忍が獣面を振りほどくのも剣呑けんのんな話。最後まで付き合っているうちにナナミィ殿が流されてしまったようです」


 そこでふと、墨が滲むような不安に襲われる。


「……。まさかあいつ、突き落とされたのか?」


「いえ、さすがにそれはないかと。お気づきかと思いますが、ナナミィ殿は腕の立つお方です。忍者とて本人に気づかれず突き飛ばすことはできません」


「どうだろうな。腕が立つのに欄干から落ちるんだぞ」


 蓑猿は小さくかぶりを振る。


「硬い足場に弱いのは『砂海さかい』の動きに慣れ過ぎているからでしょう」


 砂海。

 通常の砂漠と異なり、非常に粒の細かい砂が集まって生じる、文字通り海に似た地形だ。

 特に酷い場所だと地面全体が流砂も同然で、何も知らぬ者が一歩でも踏み込めばそのまま飲み込まれて死に至る。


 大陸西部は粒の大きさと密度が微妙に異なる砂海だらけで、ここでの戦いは忍者すら嫌がる。

 牛馬はもちろんのこと、象ですら砂海では無力だ。

 逆にザムジャハル兵の多くはこの地形に強く、防衛戦においては無類の強さを発揮する。


 一部の兵は『砂海』の戦いに特化していると聞く。

 実際に見たことはないが、特殊な道具で砂海を自在に泳ぎ、盾を足場に帆船のごとく疾駆するらしい。

 白い海の覇者である彼らは、青い海を縄張りとする大貫衆とよく対比される。

 軍の名は――――


「『銀蠍軍サーケルト』だったか。いや、『陽甲虫軍ケスペラ』……?」


「いえ、『黒狼軍アンビュス』です。ナナミィ殿はその候補生です」


「候補生? 下働きってことか?」


「学生でございます。アンビュスを養成する学校の首席で……調べによると年は十六だそうです」


「じゅっ、十六?! 子供かよ!」


「……」


「……。……今、『九位も大して違いませぬ』とか思っただろ」


「話を戻しまする」


「舞狐に似て来たなお前」


 俺の吐息で蝋燭の炎が揺らめく。

 蓑猿は炎の揺らぎが落ち着くのを待ち、口を開いた。


「十弓解散の件は私も聞き及んでおります。再選定されるというお話で間違いございませぬか?」


「ああ。……。……そうか、それでか」


「はい。何人かの十弓は上におもねるため、あれこれと策を弄しておるようです」


 十弓は解散し、四カ国連合軍を組むうえで適任とされる者だけが再選定される。

 多くの者は自分の腕に自信を持っているだろうが、何かの間違いで外されるおそれもある。

 それに一位と二位がいないのであれば、階位を上げる絶好の機会だ。


「ナナミィの素性は誰でも調べられるのか?」


「はい。隠すつもりがないようです。わざわざ入国記録もつけていらっしゃいます」


(……)


 ザムジャハル正規軍に連なる人間は非常に貴重だ。

 まして砂海の戦いに特化した特殊部隊の候補。

 捕獲して差し出せば、『上』の覚えもめでたくなるだろう。


「明日は本当に川へ突き落とされるやも知れませぬ。あるいは攫われるか」


 緩んでいた緊張の糸が、ゆっくりと張られていく。


 俺は手の甲を軽く噛み、その拳を何度か腿に落とした。

 ――良くない状況だ。


「四カ国連合の件はじきに葦原全体に告示されます。ナナミィ殿の立場はいっそう悪くなりましょう」


 さすがに道で石を投げられればナナミィも怒るだろう。

 武士が五、六人出て来たところで彼女なら叩きのめすこともできるだろうが、騒ぎが大きくなると厄介だ。 


「用事があるなら早めに済ませてほしいな……。そもそもあいつ、用があるのは葦原なのか?」


「はい。ただ、内容が分かりませぬゆえ、我らには何とも」


「密偵……とかじゃないよな?」


「それはないでしょう。下忍の報告を聞く限り、葦原を害する意図は感じられませぬ。人を謀るのに向いた方でもありませんし」


「観光ってことはないだろうから、学問か……? もしくはシャク=シャカみたいに武を研ぐためか」


「その辺りかと。ですがあの通り強情な方ですので、口を割ってはくださいませぬ」


「まあ……そうだろうな。しかし家の中に閉じ込めて、ってのもおかしな話だな」


「おそらく抵抗されるかと。やるべきことに対する矜持らしきものはお持ちのようですので」


(……)


 そうだ。彼女には彼女の人生があり、やるべきことがある。

 俺がお節介を焼き過ぎるのは良くない。

 良くないが、このまま放っておくと危なっかしいのも事実だ。


 ツボミモモ六位なら、最悪、腕ずくで押さえ込むこともできなくはない。

 だが万が一、ランゼツ三位に目をつけられたら最後だ。


「九位。申し上げづらいのですが」


「何だ」


「ナナミィ殿には監視を兼ねた護衛が必要かと」


 俺も同じことを考えていた。

 問題は人選だ。


「下忍ではダメか」


「はい。また獣面に出くわすおそれがございます。下忍では荷が勝ちすぎるかと」


「……。確実に護るなら何人要る?」


「私とルーヴェ殿の二人であれば万全でございます」


 確かに万全だ。

 ルーヴェがいれば変装や奇襲はほぼ不可能で、見聞と経験の不足は蓑猿が補う。

 十弓並みの好待遇。


 問題があるとすれば―――― 


「……セルディナの方をどうするかだな。お前とルーヴェが抜けるとさすがに苦しい」


 シアは剣士で、俺は弓兵。セルディナは拳闘家。

 相手が武士ならこの三人で十人でも二十人でも相手取れるだろう。

 だが敵方には『獣面』が紛れている危険性がある。

 忍者との戦いに忍者を連れて行かないのは無謀だ。


(他の十弓にナナミィを預ける……? いや)


 どう見ても面倒の種だ。誰も引き受けはしないだろう。

 それどころか『上』に身柄を差し出しかねない。

 そもそも一位と二位を除いた場合、信頼できる相手がイチゴミヤ四位かアマイモ十位ぐらいしかいない。


 後者はまったく当てにならない。

 前者は性格も能力も信頼できるが、それゆえに頼りづらい。

 五位、六位、七位の三人は四位の周囲を嗅ぎまわっているかも知れない。

 再選の際、ザムジャハル人の身柄を預かったことを明るみにされ、四位から下に落ちてしまったら。

 イチゴミヤ四位本人は笑顔で俺を許してくれるだろうが、俺の方が自分を許せなくなってしまう。


 ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる。


「クソ……。俺にもう少し……。……」


 続く言葉は飲み込んだ。


 『俺にもう少し人望があれば』。

 『俺がもっと、頼れる友人の一人も作っていたら』。

 『俺がもっとまともな奴だったら』。


 ――そんなことを悔やんでも、もう遅い。


 ナナミィの傷は浅い。

 明日には問題なく動けるだろう。

 今からセルディナの言う砦へ向かい、朝までに姫様を連れて戻ることができるだろうか。


 それができるのなら今夜は護衛なしでも問題ない。

 だが少しでも帰還が遅れたらナナミィは外出し、その身に何かが起きるかも知れない。


 いや、それは俺の考えすぎだろうか。

 今日のことは偶然で、十弓が利達のためにナナミィに手を出すなど下衆の勘繰りだろうか。


 懊悩のあまり唇を噛む。


「……分かった、蓑猿。俺がナナミィにつくからお前とルーヴェがセルディナと一緒に……。いや、それもまずいか……?」


「九位。少々時を遡りまするが」


「?」


「ザムジャハルが恐竜女と組んでおるやも知れぬという話です」


「っ。そうか。まだ話の途中だったな」


「いえ、話すべきことはすべてお伝えいたしました。こざこざした謀略の話はさて置き、重要なのは『これから向かう砦で恐竜女に出くわす可能性があること』です」


「……」


「ブアンプラーナでの戦いについては伺いました」


 俺、シア、シャク=シャカ、セルディナ、ナナミィ。

 エーデルホルンの剣士、葦原の老兵。ブアンプラーナの弓兵。それに武士が一人。

 足並みはともかく、十人近い武人でようやく老婆一人を討ち取ることができた。


 翻って砦へ向かうのは俺、シア、ルーヴェ、蓑猿、セルディナ。

 ここから俺を抜くと、四人だ。

 たった四人。


「九位抜きで砦へ向かいました場合、恐竜女と接敵すれば『詰み』にございます」


「……。いたらルーヴェが事前に気付く。その時は退けばいい」


「セルディナ様は退かれぬかと」


 おそらく、そうだろう。

 あの様子だと、進路をアルケオが塞いでいたとしても妹の奪還にこだわるに違いない。

 彼自身が突撃して死ぬのも見過ごせないが、厄介なのはあの無遠慮で図々しい言動だ。

 シアやルーヴェ、蓑猿に向かって『囮になれ』などと言い出すかも知れない。


(……)


 もちろん、アルケオとザムジャハルの協力関係は確証があるものではない。

 砦に敵がいることも、姫君がいることも、アルケオが潜んでいることも、所詮は推測だ。

 ただ、万が一のことがある。

 そして『万が一のことがある』と準備段階で不安を覚える場合、えてしてその『万が一』は起こる。

 悪い予感はなぜかよく当たるのだ。


 不安と緊張のせいかも知れないが、俺は胸騒ぎを感じていた。

 薬を塗った膝も、じくじくと痛み始めている。 


(『獺祭』を託すか……? いや……)


 万が一誰かに奪われた場合、最悪の未来が待っている。

 それ以前に『毒』を武器に使うのなら、事前に訓練が必要だ。

 使い慣れている武器に毒を塗ると、多くの場合、動きが鈍る。


「!」


 すたたた、と素足の音。

 蓑猿が闇に溶ける。


「誰だ」


「私だ」


 すたん、と襖が大きく開き、長身のセルディナが現れた。

 その肩の向こうには濃い闇の広がる空。

 ちらつく白い星は天のみならず、石に囲まれた池でも瞬く。


「プルの方に動きがあったらしい。動けるかい?」


 動ける。

 動けるが、どう動いても良くない結末が待っている気がする。

 不安が黒雲となって俺の胸を濁していた。


 ちゃぷりと亀が池に落ちた。

 黒い水面が歪み、白い星が滲む。


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