7
想像していなかったわけではない。
冒涜大陸は確かに過酷な環境だが、空気に毒素が含まれているわけではないし、夜になると棘の雨が降るわけでもない。
適切な場所を選べば人間が暮らすことも不可能ではない。
不可能ではないが――異常だ。
いやしくも軍人である俺やオリューシアですら半日生き延びるのが精いっぱいだった。
そんな土地に――――
(女……?)
俺は樹上から身を乗り出し、食い入るようにその人物を見つめた。
そいつの顔は薄汚れ、赤みがかった鳶色の髪は使い過ぎた箒のごとくぼさぼさだった。
胴部を覆うのは色あせた獣の皮で、そこから伸びる長い手足には血と泥が乾いている。
何か白く長いものを握った女は、じっと俺を見上げている。
その所作はどこか動物じみていたが、俺は直感的にそいつが女だと分かった。
「おい。……おい、シア。起きろ」
俺は女と目を合わせたままシアを揺さぶった。
ん、と煩わしそうに鼻を鳴らしたシアが片目を開く。
「どうしました?」
「人だ。下に人がいる」
濡れた黒曜石を思わせるシアの瞳が、すっと細められた。
「……ワカツ。昨夜、きちんと休みませんでしたね?」
予想外の言葉に俺は彼女の方を見る。
彼女の視線は俺の手元に向けられていた。そこには昨夜削ったり折ったりを繰り返した枝の破片が散らばっている。
「ほぼすべての職業に通じる真理だと思いますが、休息も仕事の内です。葦原の軍では教わりませんでしたか?」
「いや、教わったが――」
「ではきちんと休んでください。休息が不十分だから幻覚を見るんです」
シアの声は諫めるような響きを帯びていた。
むっとした俺は木の下を指さす。
「幻覚じゃない。見ろあそこに――――」
女はいなくなっていた。
「……」
「……」
ぴぴぴぴぴぴ、と遠い枝で鳥が鳴いていた。
シアはシーツを払うようにして狩衣を脱ぎ、寝汗に濡れた髪を流麗な仕草で梳く。
「ワカツ」
「何だよ」
「おはようございます」
「……おはよう」
夜の名残を残した紫色の空は、今や淡い桜色に変わりつつあった。
葦原では見たことのない空の色だ。
樹上から降りた俺は先ほど女が立っていた場所に近づいた。
足跡の一つも残されてはいないかと目を皿にして探したが、何も見つからなかった。
そもそもあの女は靴を履いていただろうか。
「ワカツ」
呆れたような声に振り返る。
シアはすっかり髪を梳き終え、乱れた衣服の釦を留めていた。
山吹色の髪はやや光沢を失っていたが、きちんと片目を隠すよう形が整えられている。
「いや。……本当に居たんだ」
「猿と見間違えたんですよ」
違う。サルではない。
なぜなら、と俺はその場にかがみこむ。
「あいつ、鳴子をくぐって来てる」
「……」
「見ろ。これだけ仕掛けたのに一つも引っかかってない。猿の動きじゃないぞ」
ふう、とシアは肩をすくめた。物覚えの悪い子供に手を焼く教師を思わせる仕草だ。
今更だが、彼女は俺より年上なのだろうか。
「仮に人間だったとして、どうするつもりです?」
「? 話しかけるに決まってるだろ」
「相手がこちらと同程度の知性を持っていると本気で考えているんですか? ……土着の人間ということはないでしょうから、十中八九、霧の向こうからここへ迷い込んだ人間でしょう。それなのにワカツが見た人物は私たちに話しかけなかった。ということは――」
「ぁ」
正気を失っている、ということか。
確かにあの状況下で俺たちに接触を試みないのは不自然だ。
「……いや待て。鳴子を越えてるんだぞ。正気を失っているわけがない」
「ひと口に『正気を失う』と言っても色々な種類があります。酔っぱらったようにフラフラになる場合もありますし、鳥の真似をしてガアガア鳴く症例もありますが、部分的に理性を保ったまま発狂状態に陥る事例もあると聞きます」
「部分的に理性を?」
「例えば、一見すると普通に社会に溶け込んでいても、『目に映る女性すべてがトカゲに見える』人間がいたらどうでしょう。その人は正気でしょうか」
「?!」
「摂取した食物の怨嗟の声が聞こえる人間は? 人より馬の方が崇高な生き物だと思い、馬小屋で暮らしている武士は? 自分がキャベツの中から生まれたと思い込んでいる騎士は?」
「な、え。キャベツ?」
「物の喩えです。真面目に考えないでください。……私が言いたいのは、『鳴子をくぐり抜ける』という行為が必ずしもその人物の正気を担保するものではない、ということです。『知性の喪失』と『狂気』は似て非なるものですよ」
「……もう少し簡単に頼む」
「その人物は鳴子を抜ける程度の知性は有していたが、私たちを理性ある生物、『人間』であると認識することができなかった、ということです。トカゲに見えていたのか、ニワトリに見えていたのかは知りませんが、それは確かにある種の狂人です」
シアは髪をかき上げた。
それ以上この話題に触れることを望んでいるようには見えない。
「ワカツ。はっきり言って状況は昨日より悪化しています。頭であれ、体であれ、余計なことに割り振る余裕はありません」
「……」
その通りだ。
俺たちは疲労困憊しており、そこら中に恐竜と巨大哺乳類がうようよしている。
葦原へ向かう道は異竜すら殺す『何か』に阻まれており、目的地も見失った。
「正直、あなたの観察眼と判断力には舌を巻いています。私一人ではきっとアロに食い殺されるか、大型哺乳類の餌にされていたでしょう。……恩着せがましいようですが、それはあなたも同じはずです」
シアは真剣な表情を見せた。
確かに彼女がいなければ動転した俺はあたりをめちゃくちゃに駆け回り、そのまま死んでいただろう。
「もう分かっているはずです。この土地において、私たち一人ひとりの力はあまりにも小さく、脆い。お互い、生き延びるために死力を尽くす必要があります。……帰るべき場所へたどり着くために」
脳裏にトヨチカの顔が浮かんだ。
それに都の弓兵たちの姿も。
「今の私たちに必要なのは1足す1を10や20にする気力と体力です。居もしない女に気を取られて大事な何かを見落としては本末転倒ですよ」
「……」
「人なのか猿なのか知りませんが、忘れてください」
それより、と手を伸ばしたシアは俺の口をこじ開けた。
俺は何が何だか分からず、ナマズのように大口を開ける。
「水と食料を探しましょう。いくら体を休めてもこのままでは判断が鈍る一方です」
「あふぁ。そうらな」
「昨日は暗くて見えませんでしたが、身支度をしている時に水場が見えました。そっちへ行きましょう」
剣を携えたシアは俺の手を握り、前へ進み始めた。
一度だけ背後を振り返った俺は誰も追って来ていないことを確認し、彼女に追従する。
日が昇るや、冒涜大陸は一気に蒸し暑さを増した。
さすがに夏ほどの気温ではないが、服の下では汗が吹き出し、額も塩辛い粒に覆われる。
汗の理由は気温だけではない。
一歩進むのも命がけな俺たちは絶えず警戒し、緊張している。
極限まで研ぎ澄まされた俺の目はテントウムシの挙動すら捉え、シアの耳は落ちる葉の音すら拾った。
異音を察知する度に俺たちは息を殺し、登ることのできそうな樹へそろりと身を寄せる。
どくんどくんと鳴り響く心音。
緊張と興奮で全身の毛穴から汗が噴き出し、髪を伝って地に落ちる。
薄氷を踏むがごとき慎重さで俺たちは前に進む。
「……」
途中、シアは水の溜まった木のうろを見つけたが素通りした。
俺も手と額を濡らすにとどめ、先を急ぐ。
こんな森の中に溜まった水を飲むことはできない。
清らかな泉や渓流であろうと同じだ。獣ひしめく環境で生水を口にすれば確実に腹を下す。
最悪の場合、嘔吐を繰り返し、発熱し、幻覚を見、全身をかきむしりながら死に至るかもしれない。
俺とシアが探しているのは水分を含んだ植物だ。
一度植物に吸われた水は比較的安全であることが多い。
とは言え――――
「ワカツ」
シアが掴んだのは細い蔓だった。
水場が近づいているせいだろう。太い樹木ではなく小さな草木が増えている。
じゃれつくように木の幹に絡んだ蔓を見た俺は首を振る。
「やめておいた方がいい。たぶんヤマゴボウの仲間だ」
「これもですか。……」
シアはすぐにでも蔓と茎を切り、中の水を啜りたそうにしていた。
だが俺は未練がましそうに蔓を掴んだ彼女の手をぴしりと叩く。
「野草を甘く見るな」
俺の専門は矢毒だが、経口毒についても多少は心得がある。
自然界における経口毒の多くは植物に含まれている。
植物の茎を流れる水は魅力的だが、見境なく口にすれば中毒死する危険性が高い。
喉がひからびた極限状態ではあったが、口にする植物はよく吟味しなければならなかった。
「果物でもあれば……」
「……」
呻いたシアと俺は樹上を見上げる。
残念ながらそこに果物なんて気の利いたものは無い。
一応、地面にも目を凝らしているのだが、ひしゃげた実一つ見つからなかった。
秋は実りの季節と言うが、俺が秋を嫌っているせいだろうか。
本当に幻覚が見えるのではないかと思うほど歩き、ふらふらになりながら俺たちは水場に出た。
そこは家一軒ほどの広さしかない小さな池で、周囲から水が流れ込んでいる様子は無かった。地下から湧き出しているのだろう。
先ほどまで地を覆っていたのは小さな落ち葉だったが、この付近に散らばっているのは魚の骨じみた大きな葉だった。
「草……あまり生えていませんね」
枝の無い大樹に手を置き、シアが溜息をついた。
冷徹さを感じさせる顔が疲労で歪みつつある。
(……?)
冒涜大陸に慣れたせいか、俺はまずその場所の違和感に気付いた。
水場だというのに動物の気配がしない。
いや、それどころか――――
「……」
落ち葉を軽く靴で払った俺は白いものを見つけていた。
骨だ。
恐竜のものではなさそうだが、それでも生物の骨には違いない。
「ワカツ。見てください」
緊張したシアの声。
彼女のそばに寄った俺は池の中に大量の白骨が沈んでいることに気付く。
かなりの量だ。脊椎や肋骨がほぼ完全な形で水底に埋もれている。
「ワニか?」
「だとしたら骨がきれいに残り過ぎです。……」
シアは鞘に収まった剣をつかみ、周囲を警戒していた。
ひょう、と乾いた風が吹く。
「何かわかりませんが……嫌な感じがします」
「……」
生物の寄り付かない水場。
なぜか原型をとどめたまま水中に残された骨。
俺の肉体に残るわずかな水分が冷や汗となって肌に滲んだ。
視界は曇り、きんきんという耳鳴りがしていた。
(まずいぞ。今変な生き物に襲われたら……)
毒蛇か。
あるいは小型の肉食生物か。
シアと背を合わせ、周囲を警戒していた俺はふと、池の中に転がっているものに気付いた。
丸っこく、抱えるほど大きな球体。
「……?」
さらにその近くに沈んだ生物の頭蓋骨を見つめる。
割れている。
頑丈なはずの生物の頭蓋が、割れている。
(――――)
周囲に群生している植物を見上げた俺は、はたと気づく。
「これ……椰子の木じゃないか?」
「ヤシ?」
ああ、と俺は気づく。
シアは寒地の生まれだ。
「ブアンプラーナの海岸に生えてる樹だ。……」
俺は枝のない樹にじっと目を凝らした。
若竹じみた幹の頂上部には櫛歯状の葉が生い茂っており、その根元に丸っこいものが実っている。
「確か椰子の木には実がつく」
「食べられるんですか?」
「ああ。油を取ったりもできたはずだ。……」
俺は周囲を睥睨し、得心する。
「この辺、椰子の実が落ちるのか」
「?」
「硬いんだ。しかも……あの高さから落ちてくる」
どうやら池の底に沈んでいるのは不幸な生物の骨らしい。
水を飲んでいたところで頭上に椰子の実が落ちたのだろう。
決して珍しい話ではない。
確かブアンプラーナでも椰子の実の収穫は専門の人間が行っていると聞く。
群生地帯には人を近づけないよう看板すら立っていると耳にしたこともある。
シアは既に樹上を見上げ、俺の方を見ようともしなかった。
彼女は両手をぱんぱんと叩き、木の幹に触れる。
「取ってきます。待っていてください」
「……シア」
「はい?」
「それ、嫌味か?」
俺は靭に残された最後の矢を掴んだ。
先端に刺股状の鏃をつけ、きりりり、と弦を引く。
普段より音が悪い。
だがあいにくと俺は弓に美しさを求めない。
要は当たればいいのだ。
(――――)
照準を定めること、三秒。
びゅお、と空を切った矢は椰子の実の付け根に直撃した。
ごづっと鈴のように実が揺れたかと思うと、いくつかの実が地上へ落下する。
ぼどぼどぼど、と鈍い音が聞こえたが、実は割れなかった。
「……」
俺は心地よい疲労を感じながら椰子の実を手に取る。
大きな球体は茶みがかった黄緑色で、表面はややつるつるしていた。
俺の知る限り、椰子の毒に中って死んだ奴はいないはずだ。
「借りるぞ」
俺は異竜の牙を握り、あぐらをかいた。
皮をむき、牙を突き立て、転がし、また皮をむく。
叩いて音を聞き、振り、岩にぶつけ、また皮をむく。
試行錯誤の末、ようやく殻のような皮に穴が開いた。
「本当に硬いですね」
白々しいことを口にしながらシアが俺の肩に手を置き、実の中を覗き込む。
椰子の実の内部には白い肉がたっぷりとついていた。
手触りは何とも言えない。柔らかいような、脆いような。
指先で軽く白肉を掬った俺は口へ運ぶ。
「――!」
甘い。
ちょっとしつこいが、甘い。
「シア」
俺は白肉を少しだけ掬い、彼女に向ける。
「ほら。口開」
ちゅぽっと指を吸われる。
「……」
「んー!! おいしー!!」
背後から俺の肩に両手を乗せたシアは嬉しそうに目を閉じ、足をばたばたさせた。
危うく飲み込まれそうだったので俺は慌てて指を抜く。
「食おう」
椰子の実の歯触りは粘度の高い雪のようだった。
俺とシアは夢中になって一つの実を啜り、それから二つ目にとりついた。
二つ目の実は内部が空洞になっており、甘い汁を湛えていた。
俺とシアは交互にその実に口をつけ、濃厚な蜜をごくごくと啜る。
ひび割れた頭と体に水分と甘さが沁み込むのがわかった。
「!」
と、大きな鳥が森の奥から姿を見せた。
アロにやられた首長鳥に似ている。
胴体は毛むくじゃらで、脚には鋭い鉤爪が生えていた。
のしっ、のしっと歩いてきた鳥は俺たちのすぐ近くに長い首を下ろし、水を飲み始めた。
ごくごくという嚥下の音すら聞こえる距離。
「まるで警戒されていませんね」
「まあ、そうだろうな」
人間の武器は知恵だと言われている。
が、それは無形の力だ。
冒涜大陸の生物たちから見れば俺たちはのろまな猿に過ぎない。
と、ごくごく水を飲んでいた鳥が俺を見た。
いや、俺ではなく俺の持つ果実を、だ。
「……」
黄色い目の鳥はぬっと顔を寄せてきた。
脅しているつもりではないのだろうが、目つきは真剣そのものだ。
「ワカツ」
俺が実を差し出すと、さふりと鳥が椰子の肉をついばんだ。
鳥はちゃぷちゃぷと味わうように嘴を動かし、やがて夢中になったように身を貪る。
「お。お」
その勢いに俺はのけぞるところだった。
この大きさの生物にじゃれつかれたらさすがに体重を支え切れない。
「それはその子にあげましょう。石を探してきます」
シアが立ち上がったところで鳥がなぜか片足を持ち上げ、俺の体に宛がった。
しかもそのまま体重を乗せる。
「は――?」
ぐらりと身を傾がせた俺はそのまま池に落ちた。
一瞬、骨が視界を埋め尽くしたことで冷や汗をかく。
ぶはっと水面に顔を出した俺は両手で顔を拭いた。
「何をやってるんですか、ワカツ」
シアが俺の手首を掴んだ。
「ああ。すまな――――」
シアと目が合う。
彼女は、俺の掴んだ手の遥か後方に立っていた。
そうだ。
さっき彼女は「石を探す」と言って俺から離れたばかりだった。
じゃあこの手は――――
顔を上げる。
『あの女』がそこに居た。
「っ!!」
掴んだ手を離そうとしたが、そいつは恐ろしいほどの力で俺の手を掴んでいた。
両手で引きはがそうとしたが、かなりの力が込められており、すぐには剥がせなかった。
(こいつ……!!)
ようやく手を振りほどくと、ぬっと顔が近づく。
ぼさぼさの髪の隙間から見えるのはぎらついた茶色の目だった。
茶色の目。
初めて見た。
「それ……」
「?!」
「ほしい」
『それ』だけなら俺は『音』と認識しただろう。
だが彼女は今確かに『欲しい』と言った。
(喋った?!)
そいつの声にはどこか幼さがあった。
いや、幼さではない。無垢さだ。
「それ、ほしい」
女は背丈こそ高いが、肌の質感からして実年齢は十代半ばごろだろう。
その話し方は異様で、人間的ではない。
仰天した俺は水場から脱出することも忘れ、ただ茫然とそこに漬かっていた。
と、視界の隅で何かが動いた。
オリューシアが剣の鞘を払っている。