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万竜嵐  作者: icecrepe
【葦原】
58/91

53

 



 例えるならそれは、『島』だった。


 落ちて来るのは生物ではない。

 一つの『島』。




 後足立ちとなり、前肢を振り上げた首長竜。

 その様は手綱を引かれ、猛る馬に似ていた。


 違うのは、大きさ。

 俺の知る最も巨大な生物は、長須鯨ながすくじらだ。

 記録によると最大の個体は馬でおよそ十頭分、仰向けになった成人男性で十五、六人分の長さがあるという。

 首長竜の長大さはそれに匹敵している。


 ただし、紡錘状の肉体を持つ鯨と違い、首長竜は胴体部分に重量が集中している。

 脚は巨木並みに太く、みっしりと肉の詰まった腹部は巨大な心臓の動きで絶えず波打つようにも見えた。


 その脚二本が、振り上げられている。

 その巨体が、世界を覆っている。


 伸びる影は長く大きい。

 白雲も、青天も、陽光も。

 すべてが等しく巨竜の体に遮られる。


 その圧倒的な存在感を前に、俺はただ立ち尽くしていた。

 開いた口からは間抜けな声が漏れる。


「ぁ――――」


 恐怖なら、何度も感じてきた。

 愕然とすることや戦慄することも、すっかり慣れっこだ。

 ただ、すべてを通り越した諦念を覚えるのはこれが初めてだった。


 時間がゆっくりと流れ始める。

 空気は泥のごとく粘り、身体がうまく動かない。

 『島』は見る見る大きくなっていく。

 つまり、俺を押し潰さんと迫って来る。

 俺は――




「ワカ!!」




 声に続き、何かが俺を突き飛ばす。

 否、『何か』は俺を抱き、飛んでいた。


 藍色の忍び装束から仄かに女の匂いを感じる。

 もちろんそれはルーヴェだった。

 この場に立つ誰よりも危険な大地で生まれ育った少女は、巨竜の姿に怯まなかった。



 次の瞬間、世界が激しく震動した。

 文字通りの「地震」。



 木々が左右に揺れ、大量の葉を散らす。

 舞い上がった木切れと土くれが吹雪さながらに舞う。

 滝が咳き込み、水が霧となって散り、風がかき混ぜられる。


 ルーヴェの肩越しに大貫衆と恐竜人類の姿が見えた。

 屈強な三人の鯨撃ちと人を超える身体能力の持ち主が、碗の中で弾ける豆のごとく宙に浮いている。

 否、人だけではない。

 その瞬間、トロオやコンピーといった小さな恐竜、木々を降りたリスや鼠、ともすればいなごまでもが一斉に宙に浮いていた。


「――――ッ!」


 世界が時間を取り戻す。


 一拍遅れて、俺の耳が音を感じ取った。

 崖崩れに似た轟音。

 皮膚にぴりりと音が刺さり、鼓膜に痛みすら覚える。


 ルーヴェが着地すると、辺りに泥と小石の雨が降った。

 いや、『雨』という例えでは生易しい。

 それは土砂降りの雨だった。字面通りの土砂の雨。

 普段は決して地表に現れない濡れた泥の匂い、朽ちた葉の匂いが辺りに充満する。 


「ふっ……ふっ……!」


「大丈夫?」


 ルーヴェは返事も聞かず振り向いた。

 行く手には足を振り下ろした首長竜。

 太い脚は中ほどまで地に埋もれていたが、そのまま動けなくなる、なんて都合の良い話は無かった。

 ずぼりと土中から脚が引き抜かれる。


「……あいつ、さっきもじゃました」


 彼女が睨むのは巨大な首長竜ではなく、トロオだった。

 一部は今も首長竜の巨体にしがみついており、地に降りた個体は恨めしそうな目をこちらに向けている。


 動物にも敵と仇敵を見分ける程度の知能はある。

 トロオは俺たちを報復すべき相手と見定めているに違いない。


「ワカ! また来る!」


 首長竜にはなおも数頭のトロオが食い付いていた。

 鼠色の胴体に赤い裂傷がいくつも走る。

 動脈を破り、死に至らしめるほどの傷ではない。

 だが放っておくことなどできるわけもない。


 オオオオオン、と悲鳴に似た咆哮が響いた。

 長い首が大蛇さながらにぐりんと動く。


 こちらを見た首長竜はいかにも愚鈍そうな顔をしていた。

 その小さな目が留まる。

 俺やルーヴェの周辺を走り回るトロオに。


 泥の雨を降らせながら、再び前脚が持ち上げられる。

 大陸そのものが浮上するかのごとき光景。


「――!」

「――――!」

「――!」


 幾つかの怒号が飛び交った。

 巨竜の向こうでウズサダやアワノが声を上げているのだ。

 忠言なのかも知れないが、耳を澄ましている場合ではない。

 俺とルーヴェは死に物狂いで走り出した。


 遠目に見える雪崩のごとく緩やかに、首長竜の前脚が振り下ろされた。

 大地が揺れ、波打ち、震える。

 衝撃が地を伝い、弾むようにして俺とルーヴェの身が浮いた。

 地面に亀裂が走る。

 土が、木々が、滝が、再び震え、おののく。


「っ」

「くっ!」


 首長竜から数十歩ほどのの距離で転倒した俺たちは膝をついていた。


「っ。……っ」


「はっ……はっ!」


 呼吸が乱れているわけではなかった。

 心臓が突き上げるように打ち、呼気と声が同時に漏れ出しているのだ。


 俺は恐怖を感じていた。

 圧死することに、ではない。

 今にも地の底が抜け、大陸にひびが入るのではないかという、空想じみた恐怖に全身を貫かれていた。


「ワカ。また来る! あのおおきいの、殺さないと!」


 ルーヴェが忍者刀を掲げていた。

 俺はその手首を掴む。


「あのでかいのは殺せない! 殺すなら――」


 見ればトロオがちょろちょろと周囲を駆け回っている。

 自分達が喧嘩を吹っかけた首長竜を俺たちの元に誘導しているのだ。


(嫌なこと考えやがって……!)


 歯軋りと共に矢を掴む。


「シッ!」


 獺祭を塗った矢を放つ。

 征矢は蛇のごとく飛び、軌道上のトロオを食い殺す。


 一匹。二匹。三び――


「!」


 トロオ達が一斉に俺目がけて突っ込んで来る。

 一匹一匹は犬ほどの大きさしかないが、犬も群れれば人を殺す。


「ぐっ!」


 逆巻で後方へ走り出す。

 大きく迂回する蛇の矢を続けざまに放ち、奴らにたたらを踏ませる。

 ルーヴェは俺に並走していたが、彼女は後方を見るまでもなく状況を把握していた。


「ワカ!! あいつ来る!」


 言われるまでもなく、背走する俺の目にはその姿が映っていた。

 巨大な脚を地面から引き抜いた首長竜が、トロオを追ってこちらに迫る姿が。


 一歩、一歩、また一歩。

 四つ足を持つ巨竜の歩みは速い。

 ティラノのように猛追するわけではなく、ただ早足で歩くようにして見る見る俺たちとの距離を詰める。


 俊足とは言い難いが、歩幅が違いすぎる。

 太陽を負う巨竜から伸びる影は既に俺たちに追いつきつつあった。


「くっ、そっ!」


 ぐりんと反転し、ルーヴェと共に速度を上げる。

 だが――――


「トロオも来てる!」


「……ッ!」


「ワカ、くるよ! ぎゅってして!」


 俺はルーヴェにしがみつこうとした。

 が、走りながらではうまく彼女を掴めず、忍者として未熟な彼女も俺をうまく抱え上げることができなかった。

 そうこうしている内に、首長竜が地を踏んだ。


 小規模の地震。

 回避不能の衝撃が地を伝い、俺とルーヴェは派手に転んだ。


「!」

「っ」


 土くれが舞い、ついには木々が倒れる。

 地面の上で数回転した俺たちは膝をつき、吸った砂塵を吐くべくむせ込んだ。

 ふと後方を見やる。




 トロオ達が突っ込んで来る。




(こいつら、転んでない――?!)


 考え、すぐにその考えを否定する。

 転んでいないわけではない。

 転んだが、俺たちより素早く体勢を立て直したのだ。


 小柄なせいか、四つ足を持つせいか。

 いずれにせよ、トロオは転倒からの復帰が俺たちより僅かに早いのだ。


 藤色の風となった十数頭のトロオが突貫する。

 巨竜に踏ませるのは次善策に過ぎない。

 奴らにとっての最善は、自分達の牙で俺を葬ること。


「うっ!」


 矢。

 間に合わない。

 では――


「じゃま」


 さっとルーヴェが腕を振るう。

 飛来する黒い雨――手裏剣が先頭を駆けるトロオ数匹に突き刺さった。

 致命傷にはならない。奴らは小さくとも恐竜で、恐竜のほとんどは鱗で体表を護られている。

 だが先頭集団が転んだことでトロオたちは急停止した。

 その隙に俺たちは素早く立ち上がり、後退する。


 矢を番えながら叫ぶ。


「ルーヴェ! もっとだ! もっと手裏剣を投げろ! あいつらを殺さないとこのまま――」


「しゅりけん、うりきれ」


 ぴったりと並走するルーヴェはやや申し訳なさそうにうな垂れた。


「――――!」


「もうなげるもの、ない」


「クッソ……!」


 トロオ達は怒れる群衆のごとく迫る。

 更にその後方では、鼠色の首長竜がどだどだと足踏みをし、俺たちを追う。


(まずい。さっさとこいつら片付けないと――!)


 矢を向けると、トロオがさっと左右に散った。

 舌打ちと共に放った矢はかろうじて一匹を仕留めるにとどまる。


「……!」


 トロオの数は十数匹。

 そして俺は一対多の戦いができない。

 つまり、ちまちまやるしかない。


 だがそれは死を意味していた。

 なぜなら奴らは転倒からの復帰が俺たちより速い。

 次に転倒したらトロオ達に襲われる。手を噛まれ、首を噛まれる。

 傷を負えば動きが鈍る。恐竜との戦いで、動きの鈍った者は死ぬ。


 転倒を防ぐためにはルーヴェと共に飛ぶしかない。

 だが恐竜に追われながら人間を抱え、飛ぶことは今の彼女には難しい。

 足を止めればトロオ達に追いつかれ、やはり飛べなくなる。


 八方塞がり。

 頬から顎を伝った汗が地面に落ちる。


(ど、どうする……?!)


 網なんて便利なものは無い。

 あったとして、賢いトロオに通じるわけがない。

 ではどうやってトロオを殺すのか。

 矢ではダメだ。手裏剣は無い。広い場所で撒き菱は無意味。

 このまま走り、転倒し、その後も使える殺傷力の高い道具――――


(!)


 閃く。

 と同時に、葛藤する。


 そんなことができるのか、と。

 そんなことが許されるのか、と。


「ワカ?」


「……」


 緊張で汗が粘った。

 鼻から漏れる息が湿りを帯びる。


 だがもう時間が無い。

 逆巻で走りながら、俺は覚悟を決める。


「ルーヴェ。――」


 囁くと、彼女は目をしばたかせた。

 そして静かに頷く。


「できるよ。だいじょうぶ」


「せめて布を――」


「いい。かんかくが変わる」


 首長竜が前脚を振り上げた。

 トロオ達は囃すように駆け回り、俺たちを仕留めるべく包囲陣を取る。

 転倒したらすぐに立ち上がり、こちらへ突っ込んで来るつもりだろう。


 影が俺たちを包む。

 俺は矢を弦から外し、大きく後方へ跳ぶ。


「ルーヴェ。お前は――」


「おんじん」


 藍色の忍び装束を着る少女もまた、跳びながらうなずく。


「ワカもわたしのおんじん」


「……」


 地を揺るがす衝撃が俺たちを襲う。

 せめてものあがきにと踏ん張ってみたが、無駄だった。

 泥の雨の中、俺たちは転び、トロオもまた転ぶ。 


 巨大な槌にも似た脚が地面にめり込んでいる。


 俺は地に伏せたまま、うつぼの底を開いた。

 予備の鏃がじゃりりり、と地を叩く。

 弦巻や矢羽といった予備の道具も。

 その中に、小さな筒がある。

 ルーヴェはそれを拾い、中身を手に塗った。

 そして鏃を拾い、手を汚す膏薬を塗り付ける。


 がじゃ、と一度だけ慎重に手の中で鏃を鳴らし、彼女は拳を握った。

 指と指の隙間からいびつな形の鏃が突き出す。




「だっさい」




 致死毒を塗った手裏剣が無秩序な軌道で飛んだ。

 手裏剣の威力を甘く見積もり、俺たちの余力を甘く見積もったトロオ達は既に駆け出している。

 恐竜の小隊はルーヴェの放った手裏剣をまともに浴びた。


 刺さる。

 刺さる。刺さる。

 そして――音もなく息絶える。


 恐竜たちがどよめき、騒ぐ。

 知性が彼らの反応を遅らせる。


「じゃあね」


 追撃の手裏剣が混乱するトロオの命を次々に奪う。

 残されたものは慌てふためき――――




 首長竜の脚がトロオ達を踏み潰す。




 地面にぼっかりと大穴が空いた。

 太い脚は胡麻ごまをすり潰すように動いた後、ゆっくりと持ち上げられる。

 首長竜の太い足裏には潰された蚊のように数匹のトロオが張り付いていたが、それもボタボタと穴の底へ落ちていく。

 雨樋あまどいを伝うように、血の滴が巨大な脚を伝った。


「ルーヴェ! 手!」


 俺は彼女の手を取った。

 傷は――無い。

 ほっと胸を撫で下ろし、竹筒を取り出す。

 解毒剤ではなく、除毒剤だ。獺祭の成分を無毒なものに変質させる。


 手ぬぐいに染み込ませ、ルーヴェの手を丹念に拭いてやる。


「わか。じぶんでできる」


「いいからじっとしてろ」


「ん。……ごめん」


「こういう時は「ありがとう」だ」


「ありがとう」


 道で転んだ子供のようにルーヴェは黙って手を出していた。

 俺はきっちりと獺祭を拭い、そして――


(……?)


 ふと、妙な視線を感じた。

 顔を上げる。




 首長竜がこちらを見下ろしている。




「……」

「……」


 小さな目。

 小さな、目。


 草食性で、他の生物のことに関心を示さない生物。

 あらゆる陸上生物に勝る巨体。

 彼らの目から見れば俺たちなど、蟻に等しい。


 いや、俺たちだけではない。

 ラプトルも、トロオも。

 すべて等しく蟻。




 首長竜が前脚を振り上げた。




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