49
女の体からは黒糖を思わせる匂いを感じた。
血と脂と土の匂いが鼻に染みついた今の俺には毒だった。
危うく押し倒されそうになる俺の視界の隅で、ルーヴェが腕を振り上げる。
指に挟んだ手裏剣が鈍い光を放つ。
――『助けてください』。
女の言葉が頭蓋の中で反響する。
『助けてください』。
『助けてください』。
『助けてください』。
刹那、俺の脳裏を様々な声が飛び交った。
殺せ。
待て。
考えろ。
許すな。
騙されるな。
助けって何だ。
利用しろ。
敵に助けを。
殺せ。
普通じゃない。
射ろ。
獺祭だ。
聞け。
殺せ。
どの声が正しいのか、俺には分からなかった。
もしかするとどの声も正しいのかも知れない。
だが選べるのは一つだけ。
手の中には獺祭。
「待て!」
ぴたりとルーヴェが動きを止めた。
何故か、俺に抱き付いた女までもが停止する。
「動くな。どっちも……!」
俺は女を押し返した。
腕の感触こそ鱗に覆われた恐竜人類のそれだが、身体は驚くほど柔らかい。
纏うのは上下ひと続きのゆったりした外衣で、襟と袖口が黒い羽で飾られている。
よろめいた女は顔を上げた。
年は二十代後半。アキやヨルに比べ、柔弱な印象を受ける。
髪は僅かに赤みを帯びた茶褐色――煤竹色で、丸みを帯びた毛先が肩に乗っている。
目尻には涙。
「ワカ」
ルーヴェの冷めた声。
「何で?」
問いは短い。
俺は返すべき言葉を探した。
だが、見つからなかった。
「あの」
女が手を伸ばした。
袖口から恐竜人類特有の鱗に覆われた手が伸び、思わず矢を構える。
「動くなと言ったはずだ! 次は射殺す……!」
「!」
びくっと女が手を引っ込めた。
その挙動が、弱気な顔が、先ほどの言葉が、俺の意思を揺らがせる。
考えるな、怒れ、と自分で自分に喝を入れる。
闘志は炎に似ている。
燃料を欠けばいつか消える。
冷や水を浴びせられたのなら、もう一度燃料をくべるしかない。
ぼふうう、と。
長い息を吐く。
彼女の顔を思い浮かべる。
共に過ごした僅かな日々を振り返る。
逃亡に次ぐ逃亡。戦いに次ぐ戦い。
捉えどころのない笑みと、捉えどころのない怒り。
冷たい牢に捕らわれた姿。
立ち塞がる三位。
大囚獄司タネハル。
二人の忍者。
残り僅かな「わたしっ――」。
女は手を胸に当てていた。
「何も、しません……! 何もしませんから、本当に何もしませんから、話を聞いてください……!」
「……!!」
怒りが、淀む。
泡立つ溶岩のごとき怒りが、ただの汚泥に変じる。
「シアはいいの?」
勢いを削がれた為か、ルーヴェは手裏剣を握る手を下げていた。
だがその手は忍者刀の柄を握っている。
いつでも動き出せるよう、踵も上げていた。
「……良くない」
「? うん。……じゃあ、わたしがころそうか?」
首を振る。
ルーヴェの顔に困惑が浮かぶ。
「ワカ?」
分かっている。――分かっている。
恐竜人類は殺す。
彼女の件が無かったとしても、いつかは全滅させなければならない相手だ。
なぜなら奴らは強大な生物で、しかも人間を食うのだから。
アキ。ヨル。ユリ。老婆。
俺の出会ったすべての恐竜人類は等しく人類を『餌』と見ていた。
そこに友好関係が成立する余地は無い。
だが――
「待ってください。私、私の命なら後でいくらでも差し上げますから……!」
「……?」
さしものルーヴェも首を傾げた。
女は唾を吐く気安さで涙を流すと聞くが、目の前の女が流す滴はそうしたものとは違うように思われた。
「時間が無いんです」
切羽詰まった声で告げた女は両手を頭の後ろで組んだ。
攻撃をしないという意思表示だろう。
「『鷺の黒い柔い哀しい翅』と申します。……私たちのことはご存知ですか?」
「……知ってる」
女が何かを言うより早く、斬りつけるように問う。
「アキはどこだ?」
「『秋の赤い甘い懐かしい風』ですか? 彼女なら、もうここにはいません」
眉を動かし、続きを促す。
「私たちの『女王』に呼ばれました。当分、戻ることはないでしょう」
「……女王」
社会集団を形成していることは何となく察していたが、どうやら彼女達の中にも『王』と呼ばれる存在がいるらしい。
一体どんな奴で、どれほどの権力を有し、どういった考え方の持ち主なのか。
「彼女に――アキに何か用が?」
その問いに、危うく噴き出しそうになる。
――――『用』?
用ならある。
俺たちは襲われ、食われ、侵略される側だ。
襲い、食う者は殺す。
その行為の表現が、『用』?
赤黒い殺意を纏った闘志が燃える。
が、女は素早く言葉を継いだ。
「誤解を招く言い方があったのならお詫びします。……殴りたければ殴ってくださって構いません」
女は片手で裾の長い衣服を掴み、するりと持ち上げた。
鱗に覆われた脚が露わになり、黒布に隠された下腹部と腿が露わになり、筋肉の薄い、白い腹部が見えた。
鱗の無い肌。つまり、『獺祭』が間違いなく通る部位。
それをさらけ出されたことでルーヴェが目の色を変えた。
「ワカ」
促すような声。
だが、俺はまだ動けなかった。
個体差はある。だが、恐竜人類の身体能力は総じて俺たちを上回っているはずだ。
殺そうと思えば殺せるし、脅そうと思えば脅せるはず。
なのになぜ、こうも下手に出るのか。
助けてほしい、と。彼女はそう言った。
そこに何か理由が――
「ころさないとシアがしぬ」
木槌で釘を打つように、ルーヴェが俺の胸に言葉を打ち込んだ。
頬の筋肉が引き攣る。
「子供達が――」
俺の表情の変化に気づいたのか、女が切羽詰まった声で告げた。
「子供達が、死にそうなんです」
「……っ」
ルーヴェに言葉の釘を打ち込まれた場所の逆側に、女が放った言葉の杭が突き刺さった。
闘志に燃える胸に鈍い痛みを感じる。
「私の命なら差し上げます。ですから―ー」
思わず後ずさる。
やめろ、と。
喉から声を絞り出しそうになる。
「どうか助け「ワカ」」
ルーヴェが鷹のような目で俺を見る。
「こいつ、てき。殺さないとだめ」
分かっている。
分かっているが――――
「お願いします……!!」
黒い女はひれ伏さんばかりに頭を下げた。
はらりと衣服が舞い降り、艶めかしい腿を隠す。
「仲間たちは私を助けてくれません……! 私の子供達は『一番下』だから……」
「――――!」
心臓が左右にぐいぐいと引っ張られるかのようだった。
あり得ないことではあるが、みちみちと心臓の筋肉が悲鳴を上げる音すら聞こえる。
俺は――自分の性格を知っている。
為政者が嫌いだ。
貴族や法官が嫌いだし、人を顎で使う成り上がり野郎が嫌いだ。
訳知り顔の学者が嫌いだし、絶えず金勘定のことを考える豪商が嫌いだ。
自分が人の上に立つことを当然だと考えている奴、他人を思うがままに動かそうとする奴も嫌いだ。
誰かに『正しい何か』を説いてやろうとするのぼせ上がった奴が嫌いだし、手に金の匂いを染みつかせた業突く張りが人生の勝者のように振る舞うのが大嫌いだ。
つまるところ、俺は社会における『強者』が嫌いだ。
奴らがおかしなことを考えるのなら、俺はいくらでも噛みつくし、逆らうし、立ち向かう。
――――だが。
だが、『弱者』には噛みつけない。
殴り方も、逆らい方も分からない。
怒りの火の点け方すらも。
害された時は別だ。
その時は容赦なく矢を射てやる。何なら毒もくれてやる。
だが、大きな実害を被らない限りにおいて、自分より貧しい者、不遇の者、弱い者に対してどう怒りを向ければ良いのか分からない。
憎むことはより難しく、殺すことは更に難しい。
――救いを求める手を跳ねのけることも。
この女が少しでも俺を害してくれていれば、それで話は済んだ。
少しでも俺を侮るか、蔑んでくれれば、それで良かった。
そのどちらの行動も、この女は採らなかった。
あくまでも真摯に、誠実に、助けを求めた。
平時なら褒められるべきその振る舞いに、俺はどうしようもない苛立ちを覚えた。
疼痛を伴う苛立ちだった。
視線を逸らしかけるが、責任感でかろうじて踏みとどまる。
結果、俺の視線は宙を曖昧にさまよった。
「……他に、誰もいないのか」
「いません……! いないんです……!」
「俺はお前の敵だ」
「知っています。あなた方が私たちのことをどう思っているかも存じ上げています。ですが……!」
泡となった唾が喉に詰まったのか、女はむせ込んだ。
「……。子供達って何だ。お前らの卵か?」
「違います。もう生まれています。私と同じ姿をした『子供』です」
女――サギは両手を差し出した。
縛れ、と言っているらしい。
「……。ルーヴェ。頼む」
「折った方がいいよ」
「すべて終わった後でなら、折ってくださって構いません」
ルーヴェの言動はどこか冷淡だが、無慈悲な爬虫類ではない。
渋々といった様子で女の手を縛り上げた。
使ったのは縄ではなく、鎖だ。容易にはほどけないだろう。
隠し部屋には木製の机と申し訳程度の椅子が置かれている。
壁面には拘束具もあったが、腐食が進んでいた。
女を椅子に座らせ、念のため矢を向ける。
ルーヴェも忍者刀を抜いている。
「私たちは生まれてすぐに『選別』されます」
「選別?」
「将来、強く育つかどうかを羽の色で判断するんです。私たちの羽はすべて緑色ですが、黒い羽の混じる者は不吉とされ、野に棄てられます」
服を持ち上げるよう、鏃を動かす。
が、よく考えてみると彼女は両手を拘束されている。
「私は違います。でも、子供たちは皆、羽に黒が混じっています」
「……そいつらをお前が保護してるのか」
「はい。……だって、おかしなことでしょう? 羽の色なんて生きていく上で何の意味も持ちません。なのに古いしきたりを理由に生まれたばかりの子供たちを――」
それがおかしいことなのかどうかは知らない。知る必要もない。
ただ、物心つく前に野に放り出される恐ろしさは痛い程よく分かる。
俺がそうだったからだ。
俺は生まれて間もなく腐った釣瓶に放り込まれ、古井戸の底に捨てられた。
幸い、悪夢に見るようなことはない。だが井戸を見ると今でもたまに悪寒が走る。
冒涜大陸は人間の土地とは違う。
泣き声に気付き、井戸を覗き込んでくれる者はいない。
捨てられた子はあっという間に恐竜の餌となる。
この女はそうした状況に我慢がならなかったのだろう。
見上げたことだと言うべきなのかも知れない。
「それで、子供がどうしたんだ」
「地面が急に崩れたんです。それで、滝に――」
「落ちたのか?!」
「いえ、突き出した崖のような場所に引っかかって、どうにか落ちずに済んでいます」
いまいち状況を理解できなかったが、情景は何となく目に浮かんだ。
「なら、お前が登るか、跳んで行って助ければいい」
「無理です。怪我をしている子もいます。順番に助けていたら、恐竜が寄ってきます」
「……お前にできないことが人間にできるわけがない」
「そんなことはありません」
断じ、サギは続ける。
「一人で出来なければ、二人、三人で知恵と力を合わせるんです。そうすれば人数以上の力を発揮できます」
まるで教師のような物言いだった。
幼い子供たちを抱える彼女はそうした役割も担っているのかも知れない。
「時間がありません。あの子たちは弱っています。岸壁を昇ることのできる獣が来たら――」
「ひとをたべるくせに」
ルーヴェの呟きにサギは素早く首を巡らせた。
「私と私の子供達は食べません」
「うそつき」
「嘘ではありません。人間は――皆、あちら側の仲間が取り上げてしまいますから」
「いまはちがう。人間、こっちにたくさんいる」
「……」
「おまえ、人間食べれるからこっちにきたんでしょ」
「違います。こちらの方が安全だと考えて……」
語尾が濁り、消える。
厭な沈黙が漂った。
結局のところ、俺たちは捕食者と被捕食者だ。
隙あらばサギは俺たちを食いかねないし、将来的に彼女もしくは彼女の子供たちが人間を食うかも知れない。
やはり助けるべきではないのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
「食べません」
サギは俺の目をまっすぐに見た。
「食べられないように、歯を抜き、爪を折ってくださっても構いません」
「……。何でそこまでする」
「子供を助けることに理由が必要ですか?」
「血の繋がってない子供だろ」
「あの子たちは私の子です」
そこで初めて、サギが怒りを見せた。
俺の中にある茫洋とした感情が固まりつつあった。
聞きたいことは山ほどある。
だが、今はそれを聞いている場合ではない。俺も、サギも。
時間が無いのはどちらも同じだ。
「サギ」
「はい」
「条件がある」
「はい」
「俺が子供を助けたら――お前たち恐竜人類のことをすべて話してもらう。社会、文化、歴史、風土、軍の人員構成、すべてだ」
「……はい」
それから、と言葉を継ぐ。
「お前には死んでもらう」
「はい」
「……」
それ以上の問答は無かった。
俺は名乗り、ルーヴェも渋々名を告げた。
隠し部屋を出て、一階へ向かう。
サギの話によると、ここは確かにアキを初めとする恐竜人類が居座っていたらしい。
崩れた箇所を塞いだのも彼女達なのだという。
「もしくは、奴隷でしょう」
「どれい?」
「あなたと同じ茶色の目の人間です」
「!」
ルーヴェが足を止めた。
「他にもいる?」
「いたはずです。ほんの少しですが」
「それ――」
矢庭に、ルーヴェが言葉を切る。
「ワカ。ごめん」
「?」
「きづかなかった」
唐突に謝ったルーヴェが目を細め、やや遠方を見やった。
格子状の窓から細い曙光が差し込む、廊下の先を。
「……あいつ、忍者だ」
へっへっ、と。
吃逆をするような笑い声が聞こえた。




