48
紫陽花を思わせる薄群青の空の下、頭蓋骨を被った男が歩いている。
裸の上半身に墨を入れた男は、吊り橋を渡るがごとき慎重さでそろりそろりと草を踏む。
怯えているからではなく、確かめているからだ。
頭蓋骨を被ることで、本当に恐竜を遠ざけることができるのかを。
結果は――――
「……聞いてないぞ」
牛の頭蓋骨に似た恐竜の骨を脱ぎ、ウズサダが櫓に帰還した。
日に焼けた浅黒い肌は興奮の汗に濡れている。
「報告はした。かなり前に」
ただ、彼らに伝えられることはなかった。それだけだ。
検証が不十分だった。恐竜の頭蓋骨が不足していた。単に大貫衆が疎んじられていた。
理由ならいくらでも考えられる。
俺とルーヴェはディロフォの頭蓋骨を被った。
水洗いが不十分なせいか、苦みのある脂の匂いを感じる。
森を見ると、葉擦れの音が遠ざかっていくところだった。
ウズサダが頭蓋骨を被ったまま歩き回ったせいで、小型から中型恐竜の多くが逃げ出してしまったのだ。
弦の具合を確かめた俺は振り返る。
「……本当について来るのか、あんた達」
「勘違いするな。行く方向が同じだけだ」
大貫衆の長は叩き付けるように告げ、更に言葉を継いだ。
「義理は果たしたからな。ここから先、てめえが死のうと食い殺されようと知ったことじゃねえ」
「上等だ。こっちだって陸の戦いで海の男に助けられるつもりはねえよ」
「言うじゃねえか、最下位殿」
「下から二番目だ。間違えるな」
俺とウズサダが歯を剥く間に、四十人ほどの大貫衆は出立の準備を整えていた。
準備といっても、朱塗りの太刀や重厚な鎧兜、煌びやかな具足などありはしない。
ほとんどが半股引か、良くて股引だ。袴を着る者は数えるほどしかいない。
雪駄を履いている者もいるが、裸足の者も多い。
つまり、ほぼ半裸。
幾人かは腰に網を垂らしているが、多くの者は銛一本を携えるのみ。
つまり、素手同然。
その一団が身に塩を浴び、火打石から散る火花を浴びている。
「あんなかっこうじゃ死ぬよ」
ルーヴェの諫言を耳にすると、ウズサダが笑った。
「一歩間違えりゃ死ぬなんて、いつものことだ」
裁着袴に黒足袋を合わせたウズサダは金輪のついた銛をがしゃんと鳴らす。
「はっきりさせとこうか。俺たちは砦を奪還する。あんた達は鳥女を捕まえる。これでいいな?」
異論は無かった。
砦を彼らの縄張りにされるのは多少歯がゆいが、今はそんな些末なことで争っている場合ではない。
(……日没までか)
移動時間を含めると、おそらくその程度の猶予しかない。
これから昇る陽が再び沈むまでの間に最低でも一人、恐竜人類を捕らえなければならない。
さもなくば、『彼女』の命は無い。
「アワノ。アブラオ。九位の左右につけ」
アワノと呼ばれたのは小豆色の股引を履いた女だった。
長めの黒髪は油で固められており、胸に巻いた晒の脇から泡を模した入れ墨が覗く。
年は二十そこそこで、目つきは鋭い。
アブラオはずる賢い鼬を思わせる面長の男だった。
長い手足には燃え盛る滴の入れ墨が彫られ、実際に身体のあちこちに火傷を負っている。
そこらの男よりは筋肉質だが、他の大貫衆に比べるとやや細身だ。
「助けは要らないって言ってるだろ」
「助けるだなんて言ってねえだろ。……おい、九位が仕留めた獲物はお前らが掻っ攫え」
それから、とウズサダは俺に目をやりながら付け足す。
「九位が死んだら身ぐるみを剥げ。頭を持って行かれようが腕を持って行かれようが構わんが、狩衣と財布だけは必ず護れ」
「わかった」
「へい」
へっへっ、と咳をするように笑ったアブラオが俺の肩を気安く叩いた。
「まあ死にゃしないでしょうけどねぇ。昨夜の技は見事なモンでしたよ、九位」
にしても、と男は長瓜のような顎を撫でる。
「光栄だねぇ、『十弓』のご相伴に与るなんて。ねえ姐御?」
「……いけ好かないね」
「へ?」
「お高くとまった十弓様と手を組むなんて気に入らないっつってんだよ」
アワノのつっけんどんな態度に、アブラオが立ち退きを命じられた露天商のごとき顔をする。
「そんなこと言わないでくださいよぉ。九位って言ったらほら、私らと同じで下の方の出でしょ?」
「どこがだよ」
アワノは俺を上から下まで舐めるように見回した。
「こいつは「無駄口利いてんじゃねえ。並べ!」」
ウズサダが二人の尻を容赦なく蹴った。
ずぱん、という一撃でアブラオが飛び上がり、アワノがうっと呻いて膝を折る。
僅かな灯りに集まっていた男たちが炎に泥を被せた。
「九位が言うには、こいつで騙せるのは中型の恐竜までだ。カルカロやティラノは騙せねえ」
ウズサダの太い指が頭蓋を叩いた。
「でかけりゃでかいほど狙われる。……三人か、多くて五人だ。それ以上の『船団』は組むな」
男たちは無言で鼻息を噴いた。
窯から漏れ出す煙のように、熱く白い呼気が流れる。
「行くぞ」
炎が消えた夜明けの世界を、大貫衆が静かに歩き始める。
雁、魚鱗。鶴翼、方円。
戦場において、太刀衆と弓衆は陣形を組んで進む。
大貫衆は違う。
彼らは大がかりな陣を組まない。
代わりに陸でも「船団」を組織する。
一般的には七から八。
多ければ十から十二。最小が三から五。
並び方は進路に対して縦一列。
小さな「船団」に分かれた大貫衆は時に岩場を越え、時に川を渡り、時に茂みをくぐって敵を討つ。
さり、さりりり、と。
無数の脚が朝露に濡れた草地を踏む音が連なる。
先頭を往くのは俺とルーヴェ。
左右にアブラオとアワノの船団。
その少し後方にウズサダの船団が続く。
誰もが皆、恐竜の頭蓋骨を被っていた。
汚れが酷かったり欠損しているなどの理由で搬出されなかった頭蓋骨だ。
身をぴたりと密着させ、前傾姿勢を取った海の男たちが息を殺して森を往く。
彼らの脚は芋虫か百足のごとく、まったく同じ呼吸で動いていた。
右、左、右、左。
掛け声は無く、遠目には本当に一つの生物のようにも見える。
早足で二十歩進み、五歩で歩幅を整える。
早足で三十歩進み、七歩で歩幅を整える。
さりさりさり、さりりり、と。
男たちが這うように藪を抜け、茂みを抜ける。
森に生物の姿は少ない。
肉食性のディロフォやカルカロがうろついているせいで、哺乳類が棲息するには向かないのだろう。
時折、丸々と太った蝗や蟋蟀がぴょんと跳ね、大樹にぶつかってぽてりと落ちる。
木の幹にしがみついた蜥蜴がぎょろりと俺たちを睨むも、見なかった振りをするようについと目を逸らす。
森を抜け、平地に入る。
吹く風に乗る綿毛がそのまま砦に辿り着いてしまいそうなほど、視界は広く開けていた。
目を凝らすまでもなく砦が見え、俺が引きずり込まれたあの森もはっきりと視認できる。
平地には恐竜の姿が散見された。
だがその多くが眠っているか、ひどく動きが鈍い。
首長竜は水辺でじゃぶじゃぶといつまでも水を啜っている。
草地には鴨に似た口を持つ恐竜が寝そべり、ふごほほ、と鼾をかいている。
遠目に俺たちの姿を認めた恐竜たちは、緩慢な動きでよそへ移動を始めている。
ルーヴェの忠言通り、時間を置いて正解だった。
この恐竜たちがすべて目覚めていたら。そして視界が真っ暗闇だったら。
きっと俺は無事では済まなかっただろう。
「……」
ウズサダが目配せする。
分かっている。
休憩は必要無い。
このまま――――
「わか」
密着したルーヴェがうっそりと囁く。
「うしろ、あいつらいる」
「!」
一瞬、俺は恐竜人類の姿を幻視した。
だが違うらしい。密着したルーヴェの筋肉が強張っていない。
「カルカロか?」
「ちがう。あのちいさいやつ」
トロオ。
確か、ひどく頭の良い恐竜だ。
(――――)
頭がいいから何だ、という思いがあった。
一方で、嫌な予感もしていた。
「おい」
頭蓋骨を被ったウズサダが俺の傍に寄る。
「射れるか、あれ」
ウズサダの示した先には平たい岩があった。
その上に子犬のように群れた小さな恐竜が眠っている。
身を寄せ合う様は一見すると小動物のようだが、よく見ると互いの胴の影からこちらを見つめる瞳が見えた。
信じがたいことだが、奴らは狸寝入りを決め込んでいるらしい。
更に信じがたいことに、奴らは俺たちを『じっと見つめている』。
つまり、同種の頭蓋骨が動いていることに恐怖を覚えていないらしい。
目が良いとか、鼻が利くだけではこんな反応はありなえい。
奴らは本当に『知性』と呼ばれるものを持っているようだ。
(……)
嫌な予感は、鼠色の靄に似ている。
薄気味悪さはあるものの、所詮は形無き靄だ。
それがいくら胸に立ち込めたところで、興奮や恐怖といった強い感情を呼ぶことはない。
だが俺の鼓動は少しずつ、速度を上げ始めていた。
知性を持つ恐竜。
『あいつ』を思い出す。
「あれがトロオだ。できればここで殺すか、散らしておきたい」
ウズサダの言葉はもっともだった。
俺とて、できる限り危険は排除しておきたい。
だがそうも言っていられない事情がある。
「……数が多過ぎる」
侮りや怯えから出た言葉ではなかった。
俺の武器は「矢」だ。
使える数には限りがある。
そしてこの先にはほぼ間違いなく、アキが待っている。
ブアンプラーナでの戦いを思い出す。
シャク=シャカという人類最強格の剣士を含む数人がかりでも、老いた恐竜人類一体に手を焼いた。
今、俺の隣に彼はいない。
更に敵は若くしなやかな肉体を持つアキだ。
矢はもちろん、僅かな体力すら惜しい。
「奴らを放っておく気か?!」
ウズサダの苛立ちはよく分かる。
俺も、知性を持つ恐竜の危険性はいやというほど知っている。
だが、ここですべてを出し尽くすわけにはいかないのだ。
「差し迫った危険が無いのなら――」
地が揺れ、顔を上げる。
遥か遠方に出現した三頭のカルカロが俺たちを認め、今まさに突進を始めるところだった。
「!」
鱗は泥で汚れ、既に息を切らしている。
もしかすると夜の狩猟に失敗し、腹を空かせているのかも知れない。
会話を打ち切ったウズサダが手で合図を送る。
人間を連ねた「船団」が銛を握り直し、獲物を見つけた百足のごとく速度を増す。
「まともにやり合うな! 腹を裂くだけでいい!」
ちらとこちらを見たウズサダが片手を上げ、味方に何らかの合図を送った。
「――――」
えいっ、おうっ、と太く短い声で応じた大貫衆は『蛇の矢』に似た軌道でカルカロに襲い掛かる。
群青色の世界を駆けるカルカロは本物の鮫か鯨のようだった。
だが陸を駆ける恐竜は海を悠然と泳ぐ鯨とはわけが違う。
恐竜は俊敏で、凶暴で、更にこちらを餌と見る。
どだんどだんと土を踏み荒らすカルカロ達は口を開け、涎と咆哮をまき散らした。
どだん、どだん、どだん、と巨大な脚が地を叩く。
眠る生物が飛び起き、転び、逃げ惑う。
十を数える船団と巨竜の距離が見る見る縮む。
三十歩。
二十歩。
十――
ばぐん、ばぐ、ばぐん、と。
三つの顎が閉じられる。
口が閉じた衝撃で生まれた風が下草を揺らし、男たちが腰に下げた網を揺らす。
噛まれた者はおらず、踏まれた者もいない。
口を開けた鯨を避ける魚群のごとく、男たちは紙一重で恐竜の一撃を避けている。
合図無き反撃が始まる。
大貫衆は人間の足を這う蟻のごとくカルカロの脚に乗り、掴まり、腹へ這い上がる。
カルカロは疾駆の勢いで身を左右に振ったが、男たちは決して振り落とされない。
黒々とした腕がしなる。
銛が振り上げられ、空気を切り裂く。
大きかろうと小さかろうと、すべての生物は血と内臓がつまった肉の袋だ。
その袋を、銛が破る。
鰐と同じで多くの恐竜は背部より腹部の方が脆い。
楊枝を入れられた果実のごとく、ぶしっと血が飛沫を上げ、胴を流れる。
赤い粒が風に煽られ、血風と呼ばれるものが生じる。
手練れと思しき男たちは突き刺した銛をぐっと掴み、体重を乗せた。
刃を備えた銛が、ずぱっと胴を裂く。
カルカロが高らかに吠え、大量の血を迸らせる。
そこでようやく、大貫衆が巨体から離れた。
男たちが飛び、落ち、転がる。
振り返ったカルカロは怒りに満ちた咆哮を上げ、男たちを睥睨した。
今にも走り出そうとする恐竜目がけ、俺は矢を射る。
しゃおおお、と弧を描いた矢は狙い違わず裂けた腹に突き刺さった。
太い血管、強い心臓。
巨躯を躍動させる機構が、毒を巡らす機構へ早変わりする。
二射目が傷口に沈むと、カルカロがびくんと身を震わせた。
――効いている。
きりり、と弦を引きながら次の一頭に狙いを定める。
びゅ、と空気を切り裂く矢がウズサダを追い回そうとしていたカルカロの尻から腰を巡り、腹に突き刺さった。
ひゅう、と口笛らしきものが聞こえる。
見ればすぐ傍に船団の長が追従していた。
「すげえなぁ、さすが十弓」
骨を被った男の顔は見えなかった、声に聞き覚えがあった。
アブラオだ。
「じゃ、さっくりとどめを刺してもらいましょうかね。俺らは「ルーヴェ。行くぞ」」
「うん」
俺とルーヴェは速度を上げた。
敵に認識されたのなら身を寄せ合う必要もないため、どちらからともなく二手に分かれる。
「ちょ、ちょっと何で弓兵が前に――?!」
決まっている。今にも三頭目が動き出そうとしているからだ。
奴は遠く、この場所で矢を射ても届かない。
一撃を放った大貫衆たちは地上で散り散りになっており、三頭目が暴れ出せば踏み潰され、蹴り飛ばされるのは必至だ。
ウズサダが指示を飛ばしているが、間に合わない。
矢。毒。体力。
アキとの戦いが始まるまでは、何一つ無駄にするわけにはいかない。
当然そこには『味方』も含まれる。
走りつつ、先端に卵型の機構を備えた蟇矢を放つ。
ぴひょろろろろ、と鳶に似た甲高い音が響き、カルカロの注意が逸れる。
「――――」
「――!」
遠ざかる声。
風が耳を叩く。
姿勢を低くしたルーヴェが加速した。
両手を後方に流した独特の走法は忍者に習ったのだろうか。
首から長い襟巻が伸び、ひらひらと尾のごとく棚引いた。
彼女は振り下ろされるカルカロの顎をかいくぐり、腿裏に下げた忍者刀を抜く。
ルーヴェが藍色の風となって駆け抜ける。
刃が銀の月となって幾度も瞬き、長く垂れた襟巻が華々しく舞う。
カルカロとすれ違ったルーヴェは、ざざざ、と土の上を滑った。
忍者刀の切っ先は紅い血を旗のように纏っている。
「ワカ!」
そのすべてを疾駆しながら見届けた俺は、足を止めたカルカロ目がけて矢を放った。
飛翔する矢が傷口に近づくにつれ、毒持つ蛇と化す。
「『獺祭』」
ルーヴェがこじ開けたカルカロの腹肉に矢が吸い込まれた。
おそらくは刺激にすら感じないほどのひと刺し。
だが体内に入った毒は確実に巡る。
筋肉が休憩を訴え、神経が眠気を覚える。
現に残る二頭は肉体の異変に気付き、どこかおぼつかない足取りで走り出している。
「ウズサダッ!! やれッッ!!」
叫ぶまでもなかった。
大貫衆はここぞとばかりに襲い掛かった。
放擲された銛が次々にカルカロの腹部に突き刺さり、その度に巨体が揺れる。
突き刺さった銛に男たちが飛びつき、めちゃくちゃに傷口を引っかき回す。
血の雨が点々と草地を濡らした。
雷鳴じみた咆哮が轟き、鳥が飛び立つ。
怒りに身をしならせ、てんで出鱈目な方向へ走り出した巨竜が足をもつれさせ、転ぶ。
そこからはあっという間だった。
呼吸器を破壊されたカルカロはあっという間に瞳を濁らせ、死に沈む。
俺は最も粘る一頭を追撃し、その舌に更なる獺祭を打ち込んだ。
どっと倒れたカルカロに、ようやく追いついたアブラオとアワノが取りつく。
解体包丁が振るわれ、鱗が剥ぎ取られた。
牙。爪。尾。
最も手早く回収できる部位が男たちの網にしまわれる。
「よぉしもういい! 離れるぞ!」
ウズサダは素早く銛を抜き、部下に法螺貝を吹かせた。
正しい判断だ。ここは肉食恐竜の庭で、肉食生物の多くは腐肉も食する。
放っておけば恐竜が集まって来るだろう。
「ええ?! ちょっ、もう終わりですかい?!」
頓狂な声を上げたアブラオの尻をアワノが蹴る。
「後にしな! 骨ならいつでも拾えるんだ!」
あっという間に「船団」が再編成され、男たちが進軍態勢を整える。
おい、とウズサダが俺を呼び止めた。
「矢を拾え」
言葉の意味を理解するのに、少しだけ時間を要した。
「……腹に刺さった矢か?」
何故だ、という無言の問いにウズサダが応じる。
「念のためだ」
「……」
俺は訝りつつもカルカロへ近づこうとした。
が、その周囲には既に腐肉漁りの肉食恐竜が集まり始めていた。
頭蓋骨を被っているとは言え、至近距離では彼らを刺激してしまうかも知れない。
「わか。あぶない」
ルーヴェが俺を引き止めると、ウズサダが無理に前へ出ようとした。
が、恐竜たちは既に湿った肉を啄み始めている。
血に濡れた肉をちゃぷちゃぷと啜る恐竜たちは目を血走らせており、不用意に近づけば攻撃されることは目に見えていた。
ウズサダも矢を諦め、進軍する仲間に合流した。
進軍を再開した俺は静かな興奮を覚えていた。
ティラノに匹敵する巨竜を三頭、数分足らずの攻防で討ち取った。
犠牲者はおらず、力尽きた者もいない。
獺祭の存在を差し引いても大貫衆は間違いなく恐竜との戦いに向いている。
そして彼らは俺との相性も良い。
矢毒を使う都合上、俺は相手と「切り結ぶ」武士との相性が悪い。
翻って彼らは銛を打ち込むとすぐに離脱するため、毒矢を射かける「間」がある。
これなら恐竜人類に立ち向かえるのではないか。
巨大な首長竜をわき目に、砦まで数百歩の距離に近づく。
「おい」
気づけばすぐ傍をウズサダが歩んでいた。
今、船団は速度を落としている。
砦に恐竜人類がいることは事前に共有されているため、正念場に向けて呼吸を整えているのだ。
「何でこっちに手を貸した?」
「手が滑ったんだよ」
ウズサダが顔を近づけ、じっと俺の目を覗き込む。
「それだけか?」
「それだけだ。……事故だから許せ」
ティラノの襲撃で踏み殺された部下たちのことを思い出す。
それがどんな奴であれ、部下は部下だ。
喪えば悲しく、悔しい。
「ちょっとちょっとぉ。喧嘩はやめましょうや」
アブラオがにゅっと間に割って入った。
面長の男は歩きながら我が身を抱き、器用に身をくねらせる。
「やー。九位殿は部下思いって聞いてましたが、まさか俺らにまででだあだあっだだっ!!!」
男の頬をアワノが抓っている。
「……おい。ちょっと手柄立てたからって調子に乗るんじゃないよ」
彼女は切れ長の目を俺に向け、心底不愉快そうに吐き捨てた。
「私はああいう恩着せがましいことをする男が嫌いなんだ」
「そう思うんならさっさと恩を返せ」
「は? 今ここで返してやろうかこの……!」
「姐御! ちょっ、ちょっ!」
いきり立つアワノをアブラオが押さえつけ、ウズサダが嘆息する。
「大貫衆は馬鹿が多いって聞いてたが、本当らしいな」
「お前の部下とどっちがマシかな」
「俺の部下は米と麦の区別がつかないぞ」
「大馬鹿じゃねえか。……そっちの方がマシだな」
「ちょっとウズサダ。馴れ合ってんじゃ――」
「ワカ! 小さいのがくる!」
ばっと振り向く。
ルーヴェの言葉に違いはなかった。
向かって来る。
犬ほどの大きさの恐竜が。
色は薄い藤色で、濡れたような鱗が並ぶ。
指は長く、目元には睫毛を思わせる羽毛が生えていた。
姿は以前唐で見た媚竜に近い。
数は、三。
巨竜を仕留めた俺たちに対して、たったの三。
「野郎……!」
ウズサダが足を止めた。
たった三頭――否、三匹の恐竜の追撃に対して、速度を緩めた。
俺も思わず足を止める。
「何してるんだ」
「見りゃ分かるだろ。迎撃するんだよ……!」
ウズサダは大声を上げ、他の船団に先へ進むよう命じた。
男たちはえい、おう、と太く短く応じ、それまで以上の速さで砦へ駆ける。
「こんな奴ら連れて鳥女とは戦えねえ。ここで殺す。必ず殺す……!」
「待て。あんな奴――」
言いかけ、言葉を切る。
トロオと呼ばれた恐竜は、見覚えのあるものを咥えていた。
短い棒だ。
短い棒だが、先端に何かがついている。
――透かし彫りの入った鏃。
「?!」
自分の顔が奇妙な形に歪むのを自覚する。
ルーヴェが静かに言葉を継いだ。
「だっさいのにおい、する」
凍り付く俺の横で、ウズサダが銛を引いた。
「クソ……! やっぱりか!」
先ほどウズサダが矢を拾うよう指示したのはこの為だったのだ。
トロオは「道具」というものの存在を認識している。
巨大な仲間を仕留めた道具――毒矢を自らの武器として扱えることをも理解している。
獺祭は巨竜にすら効く毒だ。
人間が受ければ、ほぼ即死する。
俺はもちろん、ウズサダや三位といった勇者、シャク=シャカのような英傑ですら例外ではない。
「ワカツ! 近づかせるな!」
ウズサダが吠え、俺も怒鳴り返す。
「そんなこと分かってる!」
幸い、向こうの鏃は三つ。
止められるはずだ。
いや、止めるしかない。
俺の『獺祭』が人間を死なせることなどあってはならない。
じっとりと汗ばんだ手で矢を掴む。
と、ルーヴェが俺の手を掴んだ。
「だっさい、使っちゃダメ」
「何でだ!」
「見てるやつがいる」
「!」
はっと周囲を見回す。
平たい岩の上で、木陰で、木の股で、素知らぬ顔をしているトロオ達がこちらに注意を向けている。
正視しようとすれば目を逸らされるのだが、俺が少しでも視線を外すと奴らの視線が手元に注がれた。
「使ったら、使われる」
「……!」
俺の手は靭をさまよい、毒を塗っていない矢を掴んだ。
菱形の鏃を向けると、毒矢を咥えるトロオは早くもぴょんぴょんと左右に跳ね始めた。
「それでかわしてる――――つもりかっっ!!!」
しゃああ、と蛇の矢が弧を描く。
一射。
二射。
三射。
いかに小さかろうと左右に跳ねようと関係ない。
恐竜という生物は地面すれすれを狙う矢をかわせない。
俺の矢は正確に一匹の胴を射貫き、二匹目の頭を射貫き、三匹目の脚を傷つけ、転ばせた。
毬のように跳ねたトロオの口から鏃がこぼれる。
「……面倒をかけやがって」
残心を決めながら弓を下ろす。
かりん、かりりん、と転がった鏃を――――別のトロオが咥え上げる。
「?!」
状況を静観していたトロオたちが一斉に立ち上がった。
キキっ、キキっという声は猿のそれに近い。
呼応するような鳴き声が四方八方から浴びせられ、俺、ウズサダ、ルーヴェ、アワノ、アブラオは立ち竦んだ。
岩の隙間から染み出すようにトロオたちが現れる。
二十。
三十。
いや、もっと増える。
「た、大将まずい! 俺ら、小物の相手は務まらねえって!」
「怖気づくな! 網があるだろうがっ!」
そう。
こちらには網が――――
「ワカ! あっちからも来る!」
大声で叫んだルーヴェが
「は、持ってる!」
ばっと振り返ったウズサダの視線の先には小高い丘があった。
その中腹の辺りに、白く細長いものを咥えたトロオの姿がある。
咥えているのは恐竜の牙だった。
特徴的な、鋭く長い肉切り歯。
カルカロの歯だ。
「……!」
「うぇ?! あんなの使われたら網かぶせても破かれちまう!」
「うろたえるな! 恐竜が道具なんか――」
俺は素早くウズサダを見た。
彼は唾を一つ飲んで頷き、アブラオとアワノの船団に吠える。
「転進!! やり合うな! 殿は俺がやる! 先に行け!」
「い、いやでも砦には恐竜人類がっ……!」
「毒持ってないだけそっちの方がマシだ! 行け! アワノ! 仕切れ!」
「了解!」
船団が走り出した。
正面からは鏃を持つトロオの群れ。
右方からは恐竜の牙を咥えたトロオの群れ。
残された俺、ウズサダ、ルーヴェも恐竜の注意を十分に引きつけたところで後を追う。
「しっ!」
唯一、背走でも速度の落ちない俺は立て続けに矢を放った。
一撃一撃は確実にトロオを仕留めることができるものの、数が多すぎる。
そして獺祭を塗った鏃、務めを果たした鏃は拾われる。
射貫かれた仲間の胴を裂き、鏃をほじくり出したトロオが血に濡れた嘴でそれを咥え、嬉しそうに走り出す。
(これは……!)
俺の武器は毒矢で、ウズサダの武器は銛。
どちらも巨竜を仕留めることには向いているが、小型で大量の恐竜を制圧することには向いていない。
このままでは遠からず追いつかれ、獺祭の毒を喰らってしまう。
(まずい……矢じゃ止められない……!)
心臓が強く大きく打つ。
噴き出した汗が首筋を濡らす。
どうする。
どうすればいい。
どうすれば――――
「ワカ! 毒!」
叫んだのはルーヴェだった。
「毒矢は使うなってお前が言っただろ!」
「ちがう! ちょうだい!」
横を走るルーヴェの狙いに気付き、懐の毒壺を押し付ける。
彼女はそれを革袋に流し込み、振った。
そして―――――中身を勢いよく後方へばら撒く。
黒い星が煌めいた。
それは何度も転がり、転がり、転がって俺たちを離れ―――――トロオの群れの中へ消える。
次の瞬間、火矢でも射かけられたかのようにトロオが跳ね、転び、吠え、大混乱に陥る。
跳ねたものは仲間の上に落下し、転んだものは仲間の脚に巻き込まれ、吠えたものは脚を止めたせいで仲間に轢かれる。
「まきびし」
ルーヴェは革袋を放り捨てた。
更にその手を胸に差し入れ、紐のついた黒い玉を俺に見せる。
「や、かまえて」
真意を問うている場合ではなかった。
俺は素早く矢を番える。
そこにひょいとルーヴェの手が伸びた。
胡桃大の黒い玉が鏃に結ばれる。
「つかって」
「!」
しゃああ、っと矢が飛ぶ。
それは牙を噛むトロオの進路上で地にぶつかり、蛸が吐く墨のような白煙をまき散らした。
「けむりだま」
キキ、キキ、と短い悲鳴が連なる。
転んだトロオたちがカルカロの牙で互いを傷つけてしまったのだろう。
ウズサダが叫ぶ。
「砦だ!」
既に大貫衆たちは砦へ駆け込んでいるようだった。
二階から手を振る男たちは頭蓋骨を外しており、銛や網を掲げている。
(?! アキは……?!)
訝りながらも俺は入り口を護る申し訳程度の傾斜を駆け上がり、木の柵へ突っ込んだ。
ルーヴェとウズサダが続くと、柵の裏側に立つ男たちが息を吸う。
「閉めろ! 閉めろ閉めろ閉めろ!」
うおおおおお、という怒号と共に柵が押し出される。
土が盛り上がり、地面に幾筋もの畝が作られた。
頑丈な丸太を束ねた柵が閉じられ、トロオたちがびたんびたんとぶつかる。
「ウズサダ! 西側が崩れてるはずだ! 人寄こせ!」
「塞げるか?!」
「塞ぐんだよ! アワノ、アブラオ! 来い!」
だが、かつて俺が襲撃を受けた砦の西側は既に塞がれていた。
一階部分には土砂と土嚢が詰まれ、恐竜の立ち入る隙は無い。
二階の大穴は木々を束ねた格子で塞がれており、こちらも生物の侵入を許す造りにはなっていない。
明らかに人の手が入っている。
ただ、どちらの『人』なのかは分からない。
人間の手を持つ人か、それとも恐竜の手を持つ人か。
「九位。どうしやす? 塞がってますが」
鼬顔のアブラオが問うた。
砦は全体を柵で囲われているわけではない。
一階付近は申し訳程度だが石垣が積まれており、あの小柄な恐竜とて立ち入ることは難しい。
「厨房と厠から入られるかも知れない。そっちを塞いでくれ」
「承知! ほら姐御も!」
「チッ」
大貫衆を追おうとした俺は、はっと息を呑む。
とんでもないことを見落としていた。
「ルーヴェ。アキは?! あいつはどこにいる?!」
「……。におい、ちょっとしかしない」
ルーヴェが珍しく困惑の表情を見せた。
「でも何か、いる。何か…」
「何?」
「少しだけ、ある。何か、細いの。ほそいのが……漏れ、てる?」
統合感覚を持つルーヴェがここまでまごつくのは珍しい。
色。音。匂い。あらゆる刺激を五感で知覚するルーヴェがその存在を正確に探知できないということは――――
「!」
分かった。
隠し部屋だ。
この砦は地下に隠し部屋がある。
防音を徹底した部屋であるため、ルーヴェの統合感覚でも中にいる恐竜人類の存在を正確に知覚できないのだろう。
ごくりと唾を呑む。
もしそこにいるのがアキだったとして、やれるか。
(あいつらを……。いや……)
ウズサダ達はトロオの相手に集中している。俺の方に人手を割く余力は無いだろう。
さりとて地下の奴を放置したまま大貫衆に加勢すれば、背を刺される危険性がある。
つまり――――俺たちだけでやるしかない。
それも今、すぐに。
「――――」
アキやヨルの見せた圧倒的な躍動と強さを思い出し、身震いする。
ユリに敗北し、打ちひしがれたシャク=シャカの姿が恐怖を呼び起こす。
だがやるしかない。
やらねば彼女の命が終わる。
状況によっては、それより先に俺たちの命が終わる。
ウズサダ達の命も。
隠し階段を降り、家具に手を掛ける。
箪笥がぐるりと回転し、隠し部屋への扉が現れる。
頑丈な鉄扉。
「……」
「……」
頷き合う。
俺は毒矢を構え、ルーヴェは手裏剣数枚を指に挟み、片手に忍者刀を握る。
二人同時に足を振り上げる。
があん、と。
鉄扉が開いた。
そこにいたのは恐竜人類だった。
ただし、アキではなかった。
ヨルでも、ユリでもない。
烏を思わせる黒い衣服を纏った女が振り向く。
彼女は俺とルーヴェに気付くと、目を見開いた。
――驚愕ではなく、感動に。
「ああ……!」
逃げられることは想定していた。
防がれることも想定していた。
だが、いきなり飛びつかれるとは思っていなかった。
「!」
思わず毒矢を引いた俺に女の体重が乗った。
目尻からこぼれた涙が宙で輝く。
「助けてください……!!」




