40
世の憂いを煮詰めたかのような、物悲しい鐘の音。
ごおん、ごおおん、と連なる音が一時、世界の時間を止めた。
優れた音楽には犬や鳥ですら感じ入るという。
この鐘の音からは一滴の楽しさすら感じないが、優れた音楽には違いない。
象は哀しそうに鼻を垂らし、虫の息の恐竜たちは最期のあがきをやめた。
「な、何なの……?」
「……?」
跪くシアとナナミィはまるで状況を理解していないようだった。
無理もない。
この二人は砂漠の大国ザムジャハルと雪国エーデルホルンの生まれだ。
大陸の真逆に位置するブアンプラーナの習俗など知らないのだろう。
一方、多くの兵は完全に凍り付いていた。
密偵と思しき者たちも、指揮官と思しき者たちも、一様に呼吸と動きを止めている。
動くものと言えば俺たちの衣服からしゃばしゃばと垂れる水だけだが、その音もずいぶん小さくなっていた。
「弔鐘だ」
俺は二人に囁いた。
「誰か死んだんだ」
「……。只の葬式ですか?」
もちろん、違う。
八百屋の親父が死んだぐらいで国中に鐘の音が響き渡ることはない。
「王族の死を報せる鐘だ」
妃や妾、姻戚は含まれない。対象となるのは『王位継承権を持つ者』。
つまり、王子または王女。
弔鐘は音の高低で男女を、打ち鳴らされる回数で『上』からの階位が分かるようになっている。
ごおおん、ごおおおん、ごおおおん、と。
合計六度の低い鐘の音。
この音は『男鐘』だ。
死んだのは第六王子。
ちらと見れば、プルを抱くセルディナはかつてないほど険しい表情を見せていた。
彼が関与したわけではないらしい。
「――」
誰かが何かを口走ろうとした瞬間、またしても鐘の音が聞こえた。
ごおおおん、ごおおおおん、という低い音。
男鐘。
(二人目……?!)
俺は慄然とした。
そんなことがあり得るのか。
この短時間でブアンプラーナの王子が二人も死ぬなどということが。
この国でも恐竜との戦いは始まっているはずだが、彼らは前線に出たりはしない。
王宮でぬくぬくと暮らしているはずだ。
なのに――――
(!)
象に乗るミョウガヤがこちらを見下ろし、唇を動かしていた。
何と呟いているのかは分からない。
ただ、意図を察することはできた。
――今なら包囲を破れる。
なおも鳴り響く鐘の中、シアとナナミィの袖をきゅっと掴む。
次にどう動くべきか悟った二人の女がこくりと喉を鳴らした。
「どういうことだ、これは……!」
ブアンプラーナ兵の取り乱しようは見ていられないほどだった。
屈強な男たちは唇を青紫に変色させ、見えない鳥にでも襲われたかのように目線を泳がせている。
本人の言葉を借りれば、「一人や二人減っても構いはしない」王子の死に対する反応としてはいささか大げさだ。
彼らの反応は指揮官を失った雑兵のそれに似ていた。
地を這う俺たちがゆっくりと泥から足を抜くと、五位は殊更に大きな声で告げた。
「聞いての通りだよ。君らの親しいご友人が亡くなられた音だ」
ああ、とミョウガヤは象の上で嘲笑を浮かべる。
「失礼。お悔やみ申し上げマス」
ぐびりと唾液を飲み込んだ隊長はしばし呆然としていたが、矢庭に目を見開いた。
頬でも張られたかのように。
「ミョウガヤ殿、貴公……。……いや、貴様……貴様っ、殿下に何をしたッッッ!!!」
その怒号は凍てついた空気を一瞬で破砕した。
『花の矢』の四人が斉射の構えを取るも、ミョウガヤは澄ました態度を崩さない。
「僕は何も。昨夜は武官の皆様と少しお喋りをしただけだ。救助隊の中心が君ら近衛部隊で、国境警護の部隊まで分厚くするのなら、第六王子や第三王子のいらっしゃる王宮は人が少なくてさぞ寂しいでしょうねと、そんな話をした。……そう言えば葦原の忍者に当たる『鰐魚隊』まで救助に駆り出すなんて不思議ですね、なんて話もしたかな?」
「……!」
ミョウガヤは葦原兵の格好をした一団と、その背後に見え隠れする黒布の男たちを見やった。
「僕には見当もつかないけど、今の話で何かピンと来た武官がいらっしゃったのかも知れないねぇ」
「弑逆を煽ったのか貴様……!」
「とんでもない。僕はただお喋りをしただけだ。君らの大事な大事な殿下とやらがもう少し臣下に好かれていたらこんなことにはならなかった」
「殿下を侮辱する気か……!!」
「侮辱じゃないよ。事実だ。金と権力を持つとね、他人が向ける好き嫌いの感情に鈍くなるんだよ。俺は唸るほどの金を持ってるから、俺は他人を意のままに操れるから、ってね。……でもそれは大きな落とし穴だ。嫌われ者はふとした瞬間、必ず誰かに追い落とされる。それは権勢を誇る王族だろうと、他人の生殺与奪を握る戦士でも、国に金という血を巡らす貴族でも変わらない」
ミョウガヤはそこで声を低くし、せせら笑った。
「……暗殺なんか企む奴は、暗殺されるに決まってるじゃん?」
からあん、からあん、と今度は明るい鐘の音が鳴る。
最後まで聞かなければ階位は分からないが、王女までもが死んだらしい。
どうやらセルディナの護る少女を殺したがっていた王族は一人や二人ではないようだ。
「じゃ、ナシースプートラ様のご無事も確認できたことだし、僕は帰らせてもらおうかな。……ああ、君らはそこの石塔の中に残ってる奴を救い出して、書類を作って、せいぜい責任を果たすといい」
禿頭の隊長が腰を落とし、拳を構えた。
他の兵も一斉に我に返り、同じ構えを取る。
「ほざけこの……!」
「おいおい。王子様はもういないんだよ? 誰への義理立てだい、それ?」
はっと男たちが息を呑む。
ミョウガヤは蛇じみた表情で嘲った。
「さあ大変だ。よぉく考えてものを言い、行動しないとね? 今や後ろ盾のない君たちを庇護するのは王族の誰なのかな? その人は血統主義者かな? 重商主義者かな? それとも清貧主義者かな? 重農主義かもね?」
「だ、黙――!」
「黙らないさ。ほら考えなよ。頭を使って。王族はまだ二十人以上いるよ? 主が死んだぞ。さあ誰に媚を売る? その為にどうする? この場で起きたことをどう言い繕う? そもそも王宮で影響力を発揮しているのは一体誰かな?」
「だ、黙れっ! 黙れっ!」
隊長は蜘蛛の巣を払うように手を振り、ミョウガヤは小さな手を叩いた。
少年の乗る象と、『花の矢』が乗る二頭の象がさりげなく身を屈める。
「あははは。指揮官様が混乱するからほら、皆固まっちゃってるよ?」
少年が示す先では確かに兵たちが硬直していた。
拳闘士だけでなく、弓兵や象兵、アーヒンガと呼ばれた黒衣の集団も完全に動きを止めている。
彼らが遂行するはずだった汚れ仕事は、王族がそれを命じたという大義ありきで是とされた。
その王族が死んだ今、もはや大義は無い。彼らが死した王子の命令を敢行した場合、そこに残るのは『一兵による王族の暗殺』という醜い事実だけ。
王宮の情勢によっては国家反逆罪にすら問われかねない。
男たちは文字通り頭を抱えていた。
(……)
先ほどまで正義と信じていたものが、一瞬で悪に変わる。
浮き沈みする石の上を渡るように、絶えず正しい側に身を置き続けなければ賊軍扱いを受ける。
俺は一兵として、彼らが身を置く環境のおぞましさに身震いした。
「……サジキリ。三の手だ」
「は!」
「葦原で会おう」
「ご武運を!」
ミョウガヤを挟む二人の弓兵が飛び降り、馬に駆けた。
ぴゅいいい、と指笛が吹き鳴らされると、葦原兵の大半が槍兵のごとく長弓を立てた。
何が起きているのか分かっていない兵、つまり先ほど俺を射殺そうとした者たちの傍に忍者が降り立つ。
狐。山羊。虎。
三種の面を被る忍び装束が舞い、合図を知らない兵の喉を次々に掻き切った。
おそらく中身はアーヒンガと呼ばれた連中だろう。
「退け! 続け!」
馬に乗る副官が指揮棒を振ると葦原の兵たちは袴を掴み、走り出した。
エーデルホルンの兵たちはまごつき、ブアンプラーナの男たちは未だ棒立ちだ。
「走れ!」
俺はシアとナナミィを連れ、素早く駆けた。
走りながら、白衣を脱ぎ捨てる。
僅かに遅れ、プルを抱き上げたセルディナも追いついた。
俺、シア、ナナミィが一つの象に、セルディナとプルが一つの象に、花の矢の一同は素早くミョウガヤの象に。
山羊面と虎面の黒装束はセルディナの側についた。
象たちが曲げていた足を伸ばし、俺は世界を見下ろす。
「出せ」
ミョウガヤの言葉を受け、象を繰る禿頭の男が灰色の耳元で何かを囁いた。
途端、三頭の象が高らかに吠えた。
鐘の音にも負けないほどの大音量で。
俺は咄嗟に叫んだ。
「舞狐!」
しゅ、しゅ、とノミのごとく二度跳ねた黒い影が俺の側へ。
狐面の忍者は低い声を発した。
「これに」
「ルーヴェを葦原へ脱出させろ。……恩人だ。傷一つ許すな」
「御意。武運を」
忍者は黒い影となって木立に消えた。
「待て! ……っ」
禿頭の男は何かの道具に手を掛けたが、踏みとどまった。
象の操法はブアンプラーナでは秘中の秘とされている。
今ここで象を緊急停止させる合図など見せようものなら、俺やミョウガヤ、ナナミィといった他国の人間にまでそれを知られてしまう。
「そうそう。さあ考えなよ? 君の一言一句で部下の生死が決まるからねぇ」
ミョウガヤが湿った言葉を投げつけるや、象が走り出す。
ずどっ、ずどっ、ずどっという上下への振動で俺は危うく舌を噛みそうになった。
お世辞にも座り心地は良くなかったが、贅沢は言っていられない。
真正面からぶつかる風が左右に分かれ、流れ、走る。
緑の世界が歪み、溶け、俺たちの後方へ流れていく。
見る見るうちにサーダラナートが遠ざかっていく。
ミョウガヤは副官の向かった下流方面へ向けて象を走らせていた。
俺は象の上をもぞもぞと動き、四人の兵に囲まれた少年の側へ。
「まさか国境を突破する気か」
「そんな訳ないだろ。この先に別の支流が走ってる。そこから船で海まで出る」
「海?!」
「そう。プラチュメーク川の支流のいくつかは海まで一直線だ。間に街も村もない。……心配しなくても、そこそこの船を用意してるからこの数でも問題ないよ」
「……川と海なら象もかわせる、か」
「僕は兵法には明るくないけど、戦いの基本は自軍に有利な状況で戦うことだろ? 陸上最強はブアンプラーナかも知れないけれど、水上戦闘で最強なのは僕ら葦原だ。その利を活かさない手は無いよね」
(……)
手際が良すぎる、と感じた。
昨日今日準備したようには思えない。
「……気づいてたのか。お前」
「何に?」
「濡れ衣を着せられようとしてたことだ」
ええ、とミョウガヤは表情を歪ませた。
軽蔑の混じった笑いが浮かぶ。
「気付くも何も、政争ってのはそういうものだよ。お互いに甘い汁を啜り合って、金を奪い合って、泥を投げ合って、殺し合って……最後は誰かにすべての汚れをおっ被せて、終了。その『誰か』にならないために知恵を絞り、策を尽くすのが政争の醍醐味だよ。……とは言え」
少年は頬の汗を『花の矢』の女に拭わせた。
「今回のは公正な勝負じゃなかった。ブアンプラーナの連中、明らかに僕一人にすべてをおっ被せるつもりだった。だから、申し訳ないけど禁じ手を使わせてもらった」
「……何をしたんだ」
「さっき言っただろ? 善良な武官の皆様に頑張ってもらった」
「……」
「指し手が死ねば盤面がどう動こうと関係ない。だろ?」
ミョウガヤの顔に年齢不相応の冷酷な笑みが浮かんだ。
その顔こそ、俺には蛇に見えた。
「心配しなくても民衆は彼らを支持するよ。さっき言った通り、あちらの王女様に敵対する連中は嫌われ者ばかりだったからねぇ」
早口で語り終えたミョウガヤは指を折った。
「象協会と恐竜の対処で手いっぱいの国王陛下は労力を省こうとするだろう。なあなあで済まされた調査と処断は新たに台頭する王子だか王女だかが引き受け、彼らにとって都合の良い筋書きと下手人が仕立て上げられる。ブアンプラーナ国民は王家の膿を出しきれたと喜び、王族共は遺された領土と地位を分け合って喜ぶ。葦原に都合の良い王室が出来上がったとも知らずにね。……我ながらいい仕事だよね」
「……いつから準備してたんだ」
「君が権力者を罵って悦に浸ってる間にだよ。ワカツ九位」
その言い草には腹が立ったが、俺はこの子供を過小評価していたと認めざるを得なかった。
ミョウガヤは自分の身に何が起きるのか、どうすればそれをかわせるのかについて熟考し、備えた上でここを訪れたらしい。
――――俺にはとてもできない。
おそらく、あと十歳年を重ねてもこいつのような動き方はできないだろう。
これがこいつの『矢』。
形を持たず、重さを持たないにも関わらず、人間を殺す武器。
「で、結局君は何してたわけ?」
「!」
ぼっと顔に火が点くようだった。
「……。まさか僕を助けるため、とかじゃないよね?」
その通りだとはとても言えず、俺は口だけをぱくぱくと無様に動かした。
ミョウガヤの顔に困惑が浮かぶ。
「え、図星……?」
「そうだよ。悪かったな」
少年は大きなため息をついた。
「こういうことは僕の領分だって言ったじゃん」
「それでも危ないと思ったんだよ……!」
「仮にそうだとして、君、王族相手に立ち回るなんてことできやしないだろ? 逆の立場で考えてみなよ。君が刺客に囲まれて窮地に陥ったとして、僕がこいつらを連れず一人で駆け付けたらどう思う?」
「……足手まといだ」
「そうだよね?」
ぐうの音も出なかった。
今は考えたくも無かったが、俺がミョウガヤを救う方法は他にもあったのかも知れない。
もっと合理的で、もっと賢い方法が。
「……ま、殿を任せる予定だったサジキリ達が命拾いしたことは事実だからね。そのことぐらいは礼を言ってもいい」
ミョウガヤの目がセルディナとプルに流れた。
「お姫様もご無事のようだし。……で、あの御仁は?」
「第六王子だ」
「……話、聞いてた? 第六王子は死んだよ」
「間違えた。第七だ。第七王子だ」
「ああ、セーレルディプトラ様か。日陰者だと思っていたけど、こういう場にも出張るんだね」
ミョウガヤの口元に暗い笑みが浮かぶ。
「おい。何考えてる」
「別に。……そんなことよりちゃんと後方を警戒してくれるかい?」
振り返ると、十頭近い象が迫って来るところだった。
既に『花の矢』の四人はそちらに顔を向けている。
乗り手はどうやら先ほどの救助隊らしい。
ばつん、ばづん、と象の装備が外され、落ちた防具が遥か後方に流れていくのが見えた。
「ここの近衛は思ったほど賢くないみたいだね」
「あいつら……!」
こちらの象は防具を着けている上に複数人を乗せているため、足が遅い。
放っておけば追いつかれてしまう。
ミョウガヤはセルディナ兄妹、二人の忍者、ナナミィ、シアを順に見やった。
「頼むよ、九位。この状況で戦えるのは僕と君だけだ」
「俺と『お前の部下だけ』だ」
「ああ、そうだったね。ご丁寧にドウモ」
「おい、『花の矢』」
凛としたツバキ。しなやかなサザンカ。渋味走るスイセン。恰幅の良いドクダミ。
漆塗りの半仮面で顔の下半分を隠した四人衆が俺を見る。
「手を貸せ」
四人の目が一斉にミョウガヤへ。
「構わない。九位の指示に従え」
ミョウガヤの象が速度を落とし、その間にセルディナの象、シアの象が先へ進んだ。
俺は矢を引き絞り、追走する象に狙いを定める。
「目をやる」
即座に四人衆が縦一列に並んだ。
先頭の一人は尻が地に着くほど腰を落とし、二人目が片膝をつき、三人目は中腰となり、四人目は直立する。
きりりり、と五本の矢が番えられた。
(――――)
象の足音が聞こえなくなる。
上下する視界が灰色に染まる。
弦が二度鳴った。
俺の放った蛇の矢は急旋回し、象の眼球を掠めた。
思わぬ軌道に舌打ちする。
(矢と弦が濡れたせいか……!)
ほぼ同時に放たれた四人衆の征矢は縦一列で飛び、二本が象の目に突き刺さる。
雄叫びを上げた象が転び、乗り手が振り落とされた。
「抜虎、咬山羊! やれ!」
セルディナの傍につく二人の忍者が手に余るほど大きな撒き菱を投げた。
形状から察するに苦無を結んだものらしい。
それは不穏に跳ねながら後方へ転がり――――
――象の悲痛な叫び声が上がる。
「……恐竜用だったんだけど、まあいいか」
巨体が転び、巻き込まれた数頭も横転するのが見えた。
砂埃が舞い上がり、血と悲鳴が飲み込まれる。
「次!」
五本の矢が放たれ、別の象の目を射貫いた。
聞く者の胸を締め付けるような咆哮。
友好国とは言え、ブアンプラーナは唐を滅ぼすほど強大な国だ。
射法を覚えた葦原の弓兵はまず象の対処について学ばされる。
奴らの弱点は鎧でも覆えない目と、足裏。
悪路の逃走戦であることが幸いした。
向こうの象はこちらに目を向けるしかなく、忍者の撒き菱をかわすにも道幅が狭すぎる。
次々に放たれる矢と撒き菱を前に象たちは無力だった。
足をもつれさせ、吠え、倒れ行く彼らの姿に俺はいくばくかの申し訳なさを覚えた。
半分以上の象を失ったところで男たちは足を止めた。
相手が『十弓』であることを思い出したのだろう。
「――――」
遠ざかる男たちを見送り、俺は靭から手を離した。
ミョウガヤに従って川を下ると、細い支流が見つかった。
救助隊が足を止めた形跡は見受けられない。
川を遡る上では障害の一つに過ぎなかったのだろう。
象を止め、降りる。
葦原兵の足跡は見当たらない。
「お前の部下は?」
「別行動だよ。漁船に混ぜて逃がす。僕らは――」
どだっ、どだっどだっと後方から一頭の象が迫っていた。
その歩みはどことなく不安定で、鼻は左右に激しく揺れている。
「かわせ!」
幸い、回避は間に合った。
猪のごとき乱暴さで地を踏み鳴らす象が通り過ぎる瞬間、何かがばしゃあんと川へ落ちる。
「何だ?」
ざぶっと岸に身を上げたのは見覚えのある赤い剣士だった。
岸に這い上がった男は短い金髪を手でかき上げている。
「シャク=シャカ!」
「何を呆けたこと言ってるんだよ、九位。唐の英雄がこんなところにいるわけないだろ」
「いるんだよ、それが」
俺が駆け寄ると、シャク=シャカの絞る軍服から川の水が滴った。
何の冗談か、襟元から小魚がぴょんと飛び出す。
「悪いな。まだ乗れるかい?」
「!」
花の矢四人衆が一斉に矢を構え、二人の忍者が主の前に飛び出した。
ミョウガヤだけはその様子を怪訝そうに見つめている。
「? どうした?」
シャク=シャカはセルディナ、プル、シア、ナナミィを順に指差し、俺を指差し、満足そうに頷いた。
「良し。……で、道はこっちで合ってるのか、ワカツ」
「ええ。川から船に乗り換えて海へ出ます」
「ほぉ、船か。このチビちゃんの差配かい?」
シャク=シャカがミョウガヤに近づこうとすると四人の兵がきりり、と弓を引いた。
忍者に至っては既に小刀を構えている。
「おいおい、やめろや。敵じゃねえって。ンなことより――」
クオオオオオン、と。
物悲しい咆哮が空気を切り裂いた。
事情を知る数人が元来た道、つまりサーダラナートの方角を振り返る。
ミョウガヤが目を細めた。
「何だ?」
「銀羽紫だ」
「……何だって?」
「恐ろしく強いラプトルだ」
シャク=シャカが刀を抜いていた。
「後ろから来やがるな。追いつかれる前に船とやらに――」
ちゃりり、と。
何かが揺れた。
俺は手元を見、腰を見た。
「……?」
ふと、象を見上げる。
その全身を覆う鈍色の鎖甲冑が小刻みに震えていた。
象が震えているのか。
あるいは――――
ぱらら、と。
どこかで砂がこぼれた。
ちゃぷ、と。
どこかで水が跳ねた。
「わ、ワカツ!!」
「蛇ッッ!!」
「ワカツ九位!!」
象に乗るオリューシア、ナナミィ、セルディナがほぼ同時に声を上げた。
三人の顔は一様に青ざめ、その目はこれから向かう先、つまり支流へ向けられている。
「ぞ、象がっっ!! 象が来てるっっ!!」
はっと振り返り、素早く象の上に飛び乗る。
「――――!」
まだ遠い。
だが、見える。
象軍は砂埃の代わりに濡れた土と葉を撒き散らし、一直線にこちらへ迫っていた。
まるで視界そのものが歪むかのごとき地響き。
空気そのものが壁となって俺を押すかのごとき圧迫感。
木々の間をトカゲがすり抜け、ネズミたちが走り出し、浅瀬の魚たちがばしゃばしゃと逃げ出す。
「な、んで象が……?!」
ミョウガヤは顔面蒼白になっていた。
彼は何かを否定するように激しく頭を振り、両手で金髪をかきむしる。
「お前じゃないのか」
「そんなわけないだろ!」
「じゃあ――」
続く言葉を飲み込む。
あの殺気立った動きは援軍のものではない。
「あ、あり得ない。この先には川と藪しかないんだぞ! 地形的に回り込んで待ち伏せなんてできるわけがない! 前もって船で象を運ばなきゃ――」
「――運ばれてたってことだろ」
「……!」
「読まれてたんだよ。お前」
少年が何かを喚き散らすのを聞きながら、俺は苦いものを飲み込んだ。
ミョウガヤの聡明さを疑うつもりはないが、相手の方が一枚上手だったらしい。
この場合の『相手』が、初めから彼を敵視していた人間なのか、味方だと思っていた人間なのか、おこぼれを狙う第三者なのかは分からない。
いずれにせよ、ミョウガヤの行動は予測され、分析され、対処されていた。
進路には地上最強の象軍が配され、俺達を押し潰さんと迫って来る。
「シャク=シャカ。一応聞きますけど――」
「突っ走り始めた象軍にゃ勝てねえよ。恐竜共とは勝手が違ぇ」
「ですよね」
「逃げるが勝ちだ。問題は――どこに逃げるかだな」
地鳴りが近づいて来る。
俺の心臓もまた、地面と同じく震え始めた。
どおん、と。
あり得ない音が響いた。
「倒木……?!」
シアの声に誰もが耳を疑った。
「せ、セルディナ! 象は樹を引きずり倒すだけじゃなくて……押し倒すこともできるのか?」
「……いや、できない。普通の種は」
「普通の種?」
噛みつくように問い返す。
「猛炎種と呼ばれる象なら、できる。枷を嵌め、特殊な水と食事を与えて育てた象だ」
「まだそんな象を隠してやがるのか……!」
「だが、とうの昔に保持・交配・育成を禁じられた種だ! 現存するはずが……」
「だったらあれは何だよ!」
どおん、どお、どおおん、と。
倒木の音が近づいて来る。
セルディナは押し黙った。
ミョウガヤはかちかちと歯を鳴らしている。
「ど、どうする……どうする……!?」
俺は平静さを保っていた。
鼓動は早鐘のように鳴っているが、手足はまったく震えていない。
彼が取り乱している状況下で俺まで冷静さを失えば終わりだと体が理解しているのだろう。
「ミョウガヤ。このまま下流へ向かったらどうなる?」
「国境に象軍が待ち構えてる。圧し潰されて終わりだ!」
象の上からシアが声を上げた。
「さっきみたいに矢で迎撃できませんか?!」
「状況が違う! 真正面からやり合ったら全滅だ!」
俺が吠えると今度はセルディナが首を伸ばす。
「川を泳いで渡るのはどうだ?」
「だ、駄目! 私泳げないから死んじゃう!」
「向こうもきっと予測してる! さっきみたいに矢を射かけられて終わりだ。それにまだ水中に恐竜がいるかも知れない……!」
涙目のナナミィが両手を打った。
「じゃ、じゃあ散り散りになって藪や水辺に隠れるのはどう!? これなら泳げなくても大丈――」
「ダメだ。象と足跡が残ってる。奴らすぐにこの道を象で封鎖して捜索を始めるぞ」
「そもそも、やり過ごした後が八方塞がりだ。国の外に出る手段が無い」
「ぅぅ……!」
「かと言って、戻っても何もねえからなァ。あの塔に閉じこもっても象に攻められたら終わりだ」
「あ、あなたシャク=シャカなんでしょ?! 何とかできないの?!」
「俺一人ならどうとでもなるさ。だがここにいる全員を助ける方法が無ぇ」
「もしもの時は私が交渉しよう」
セルディナが胸に手を置いたが、シアが冷ややかな言葉を投げる。
「それで済むと本気で思っているわけではありませんよね、セルディナ。交渉の通じる相手がいきなり象で突撃してくると思いますか」
「……む」
粘っこい汗がじわりと背に滲んだ。
「――、――」
「――――! ――」
「――――――」
進むか、引くか。
隠れるか、戦うか。
その場の全員があれこれと案を出したが、どれも現実味を欠くか、用をなさなかった。
そうこうしている内にも倒木と地響きが迫って来る。
象に乗るつもりなら急がなければならない。
騎手も顔を真っ青にしており、今にも逃げ出してしまいそうだ。
(クソ……!)
どうする。
どうする。
どうする。
俺。オリューシア。ナナミィ。
シャク=シャカ。セルディナ。ミョウガヤ。
花の矢。それにプル。
誰もが自問自答を繰り返し、その場に汗と溜息の霧が生まれた。
呼気に焦燥が混じり、苛立ちが混じり、不安が混じる。
失意が混じり、恐怖が混じり、絶望が混じる。
場に滞留する空気が濁り始めたその瞬間だった。
(!!)
頭の中で大波が砕けるような感覚に襲われ、俺は顔を上げた。
「セルディナ! 玉宝巣の上流には何がある?!」
「何も無い! 森だけだ!」
「そうじゃない!! 森の先だ! もっとずっと上まで川を遡ったら?!」
「そっちは――」
ごくっとセルディナが唾を呑んだ。
彼は信じられないといった表情で首を左右に振る。
「……冒涜大陸だ」
「!」
何人かが息を呑み、身を強張らせた。
俺は膝を折って屈んだ象に飛び乗る。
「ミョウガヤ! 反転するぞ!」
進む先には石塔と、深い森が見える。
「冒涜大陸を通って葦原に帰還する!」




