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かつて、『唐』と呼ばれる国があった。
唐は炎に喩えられた。
地を覆う兵は森を越え、砂漠を覆い、雪原に至った。
人を飲み込み、金を飲み込み、文化を飲み込み、なお燃え盛る大国。
沈まない太陽。
鳴りやまない音楽。
終わらない祝祭。
ありとあらゆる麗句で例えられたかの国は、ある時、小さな国を支配した。
貧しい国だった。
民草の装いは紫染めの布一枚で、食事は豆と雑穀、それに僅かばかりの海老と小魚だった。
その小国に剣士はほとんどいなかった。
装備に金が掛かるからだ。
小国には弓兵すらもいなかった。
装備に金が掛かるからだ。
小国の軍は徒手を極めた男たちで構成されていた。
皆、禿頭だった。
そして象を率いていた。
多勢に無勢を悟った小国は唐と干戈を交えることなく、恭順の意を示した。
ただ一言、「象たちをそっとしておいてほしい」とだけ告げて。
小国では象が敬われていた。
長い鼻と優しげな瞳を持つ灰色の四足獣は小国の暮らしに、そして歴史に寄り添っていた。
長い鼻で水を吸い、驚かすように人に浴びせる。
泣く子がいれば歩み寄り、長い鼻で撫でてやる。
告別の場ではじっとしており、葬礼の歌が終わるや、一声悲しそうに鳴く。
荷を運び、雨に打たれ、根菜を噛み、四季の移ろいに佇む。
象は、小国の『民』だった。
唐の皇帝はおおむね善政を敷いた。
暴威と恐怖による支配は短期的には有効だが、いずれ必ず覆される。
重要なのは支配を支配と思わせないこと。
各国に派遣された代官や将軍はその言いつけをよく守っていた。
後に悪将として語られることとなる一人の男がいた。
小国の代官に任じられた男は、貧しくさもしいその国の暮らしに飽いていた。
面白いことはないかと常に目を光らせていた。
ある時、彼は小国の名士や王族が不意に姿を消すことに気付いた。
反乱の相談でもしているのか。そう考えた男は後を追った。
そして人知れぬ森の奥に建つ『聖廟』を目の当たりにした。
そこは『象の墓』だった。
小国で象の姿を見かけない日は無いが、男は象の骨を見たことがなかった。部下たちも同様だった。
その理由は死した象たちがこの場所に集められているからだった。
あるいは、野生の象もここに集うのかも知れない。
そう考えざるを得ないほど大量の『ソレ』が聖廟には積み上げられていた。
象牙だった。
それも、山ほどの象牙。
上質な手触りの象牙は最高級の素材であると同時に富の象徴だった。
唐では高値で取引されており、時に皇帝への貢物とされるほどだった。
その象牙が、天に届くほど高く積み上げられている。
目がくらむような光景だった。
後日、男は兵を連れ、聖廟を制圧した。
我が国に献上すべき象牙を隠したのだと大義を掲げて。
聖廟の男たちは必死に弁明し、釈明した。
その場所が小国で最も歴史ある建物であり、象の骨は誰にも渡せないのだと抵抗した。
結果、血祭りに上げられた。
翌日、小国を地鳴りが包んだ。
唐兵の多くが首を傾げる中、『それ』は現れた。
象だった。
地を覆いつくすほどの、象。
その背には紫色の布を纏う男たちが乗っていた。
灰色の軍勢は、津波に似ていた。
象に危害を加えてはならない。象を冒涜してはならない。
小国の王はそう忠告していた。
善良な皇帝はその意を汲んだ。
代官や将軍は皇帝の言いつけ通り、象を拘束せず、処刑もしなかった。
その善政が、裏目に出た。
国中から集まった象の大群は立ち塞がる唐兵をなぎ倒し、代官の館を破砕した。
象の津波は胡麻を最後の一粒まですり潰すかのように、その場のすべてを踏み潰した。
象の通り過ぎた後には、更地だけが残された。
進撃は終わらなかった。
象の津波は国境を越え、唐へと至った。
止められる者は居なかった。
小国の民が貧しいのは、国費の大半が象の食事に費やされているからだった。
象は友であり、家族であり、戦友だった。
ゆえに、装備も万全だった。
革鎧を纏う象は矢の雨に臆さなかった。
長い歴史の中で特殊な歩法を学んだ象は自由自在に減速し、加速し、方向転換し、落とし穴をかわした。
毒も効かず、音にも怯えない。
罠を見破り、天候を予知する。
いかなる名将・猛将でも津波を食い止めることはできない。
家屋、人、木々、家畜。
そこに『在る』ことが罪だとでも言わんばかりに、象の一群はすべてを踏み潰した。
象の通り過ぎた後には、更地だけが残された。
象は山を越え、川を越えた。
象は千の人々を殺し、万の軍勢を蹴散らした。
象は、宮殿に至った。
善政が、裏目に出た。
国土を拡張し過ぎたことで宮殿の防備は十分ではなかった。
世界中から援軍が押し寄せていたが、間に合う見込みは無かった。
皇帝とその一族は自らも兜を身に着け、出陣した。
そして地面の染みと消えた。
頭を潰されても動くことのできる生物は存在する。
だが心臓を潰されればそれで終わりだ。
皇帝という心臓を潰された唐は腐肉のごとく四分し、八分し、十六分した。
かくして、黄金の国は滅びた。
小国は静寂を取り戻した。
それは嵐の通り過ぎた海のようでもあり、雷鳴轟く黒雲の去った空のようでもあった。
彼らは何者をも支配しなかった。
謝罪も、賠償も、交渉も、受け付けなかった。
ただ、散らばる象の骨を一つ一つ拾い、無残な姿となった聖廟を建て直した。
小国の民は今も貧しく、今も慎ましやかに、象と共に暮らしている。
国の名は『ブアンプラーナ』。




