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万竜嵐  作者: icecrepe
【唐】
26/91

24

 

 『百合の黄色い清い熱い蜜』に出会ったのは今日が初めてではない。

 俺は冒涜大陸で一度、彼女の姿を目撃している。

 そしてその頃から不思議に思っていた。『なぜ、剣を持った恐竜人類がいるのだろう』と。


 彼女たちの手には爪がある。足には蹴爪もある。

 どちらも強靭で、折れることはあっても落としたり手放してしまうことはない。

 剣など無用の長物のはずだ。


 身体能力に優れる生物が武器を使うという非合理。あるいは矛盾。

 そこに薄気味悪さを感じたのは俺だけではないらしい。


「ワカ」


 ルーヴェが俺の腕を掴んだ。

 顔からは血の気が引いている。

 肉食恐竜が闊歩する過酷な環境で暮らしてきたルーヴェが、怯えている。


「あいつ、たたかったらだめ」


「何……?」


「あいつ――」


 続く言葉は甲高い金属音にかき消された。

 目を上げた俺が見たのは、シャク=シャカとユリの間に走る銀の閃きだった。


 瞬き一つの間に、三度みたび刃が交叉する。


 振り上げ、振り下ろし、薙ぎ払い。

 シャク=シャカの押し込むような連撃をユリはいなすように弾き、弾き、弾き、そして後方へひらりと跳んだ。

 そして風に舞う花弁のごとくゆっくりと着地する。


 鉱物を削り出して作ったと思しき彼女の剣は肉厚だった。

 色は白色不透明で、柄の部分には黒い木の皮が巻かれているだけだ。


 無骨な剣とその持ち主をじっと見つめ、シャク=シャカが顎を撫でる。

 口元には微かな笑み。


「……そっちの姉ちゃんより強ぇな、あんた」


 唐の戦士の地声は大きい。

 怯えるようにびくりと身じろぎしたユリは、申し訳なさそうに呟く。


「私は――私たちの中で一番強い、です」


「ほぉ?」


 シャク=シャカが獰猛な笑みを浮かべる。


「恐竜人類の中で最強なのがあんた……ってことで良いかい?」


「あ、いえ。剣を使うのは私だけだから、その――」


 もにゅもにゅと言葉を濁し、ユリは押し黙ってしまった。

 まるで叱られた子供のように。


「ユリちゃん。アレは?」


 足を血に濡らしたアキが問うと、ユリは上階を指さした。


「あったよ。ヨルさんが言ってたの、たぶんアレだと思う」


「ホント?!」


「そう。だから――」


 まなじりを吊り上げたかと思うと、ユリは迫る太刀を打ち払った。

 火の玉じみた赤い風となったシャク=シャカが、目にも留まらぬ連撃を放つ。


 怒らせた長身が敵の視界を塞ぎ、赤い軍服が翻る。

 半壊した渡り廊下に新たな穴が開くほどの踏み込み。

 筋肉をしならせた十を超える斬撃。

 ひと太刀ひと太刀が重く、必殺の破壊力を秘めている。

 それはまさに赤い刃の嵐と形容できそうだった。


 が、ユリは取り乱さなかった。


 子の頭を撫でるような仕草で振り上げをいなす。

 返す刃を見切り、手首を返して弾く。

 身を反らし、しゃがみ、急停止し、また回る。

 伸ばされる手をかわし、掌中から放たれた砂を翼で払う。


 足の甲を踏み、勢いを削ぐ。

 男の腰に手を当て、回転を止める。

 剣を刀に添えてぐるんと逸らし、行き先を狂わせる。


(……!)


 シャク=シャカは剣士だが、騎士でも武士でもない。

 その太刀筋は奔放で捉えどころがなく、体捌きもまるで不規則だった。


 タコのように足をうねらせたかと思えば、落雷さながらに振り下ろす。

 刀が飛びかかる狼のごとき弧を描いたかと思えば、蹴りの一撃が死角から敵を襲う。

 宙に放った刀を逆の手で掴み、振り、いつの間にか逆の手で掴み、突きを放つ。


 繰り出されるのは無秩序な斬撃の嵐。

 複数の流派を独自に織り交ぜたものだろう。

 どう防げば良いのか見当もつかない。

 俺ならとうに刺身にされている。


 だが、刃の嵐は一度たりともユリには届かなかった。

 彼女はシャク=シャカの動きに合わせて足踏みをし、手を揺らめかせ、脚を組み替え、くるりと回る。

 舞踊。

 ユリの動きはまさにそれだ。

 シャク=シャカの刀はことごとくいなされ、合間に絡む体術も完全に空振りしている。


 巧みに、そして鮮やかに連撃を捌いたユリは欄干に至った。

 追い詰められたのではない。

 明らかにシャク=シャカを誘導していた。

 広い地上の方が自分に有利だと知っているのだろう。


 小さな石が一つ、橋の縁から地上へ落ちる。


「アキちゃん。アレは奥の部屋にあったから、回収、お願いしていい?」


 ユリは息一つ乱さず告げた。

 声音には怯えに似た慈しみの情が滲む。


「足、怪我してるよね? 下に馬がいたから、それを使って先に帰って」


「ゆ、ユリちゃんは? そいつ、普通じゃないよ?」


 ユリは迷い子をあやすように微笑した。


「大丈夫。すぐに片付けるから」


「……ははっ」


 刀の切っ先を下ろしたシャク=シャカがゆっくりと上着を脱いだ。




 ごどん、と不穏な音を立てて上着が床を叩く。




(?!)


 尋常な音ではない。

 まさかあの服、重りでも入っているのか。


「……すぐに片付ける、か。そんな事言われんのはいつ振りだろうなァ」


 シャク=シャカは胸をかきむしるようにして肌着を引き裂き、二の腕に嵌めた鈍色の金輪を外した。

 これも、ごどり、と重たげな音を立て床を転がる。


 すっ、と。

 唐最強の剣士が息を吸う。


 次の瞬間、彼の筋繊維がみちみちと歓喜の雄たけびを上げた。

 背や肩、腕に丸みを帯びた筋肉が盛り上がる。

 縄ほどに太い血管が首から肘を伝い、噴き出した汗で褐色の肉体がてらてらと光る。


 熱を帯びた殺気が頬に触れ、味方であるはずの俺やルーヴェまでもが後ずさる。

 兵が震え上がり、僅かに残る鳥たちが一斉に木々から飛び立つ。


 長く、大きく息を吐いたシャク=シャカがゆっくりを腕を持ち上げた。

 ひゅひゅひゅん、と刀が鞭のごとく宙を泳ぐ。


「?!」


 もはや俺の目では捉えることもできなかった。

 ちらと見ればルーヴェも呆気に取られている。


「どぉれ……」


 暗く、低く、おぞましい声。

 ユリが唾を呑む。


「死合おうかい」


 シャク=シャカがユリに飛びかかった。

 欄干を越えた二人はもつれ合うようにして地上へ。


「ワカ!」


「!」


 アキが廊下の奥へ消えるのが見えた。

 ユリが見つけた『アレ』とやらを回収するためだろう。

 それが何なのか知らないが、奴らに利するものをむざむざ渡すわけにも行かない。

 既にルーヴェは喧嘩剣を掴んでいる。


 俺は眼下に目をやり、兵に叫ぶ。


「近づくな! 巻き込まれるぞ!」


 二人の戦士は触れるものを八つ裂きにする刃の嵐と化していた。

 倒れ伏す橙色の恐竜は時折細断に巻き込まれ、肉と鱗を引き裂かれている。

 援護に入ればシャク=シャカの刃で命を落としかねない状況だ。


「負傷者を救護してハンリ=バンリと合流しろ! それから――」


 俺はすぐ近くに残っていた兵に指示を残し、それからアキを追った。






 廊下にはアキの脛から流れた赤い血が残っていた。

 俺とルーヴェは階段を駆け上がり、アキが倒したと思しき家具を飛び越え、うろうろしている鳥を射殺す。


 五階、主の居室にたどり着く。

 扉を蹴破ると、窓枠に足を掛けるアキの姿が目に入る。


「動くな!」


 きりり、と矢を番える。

 彼女はにたりと口元を歪めた。


「や~だよ~」


 俺は矢を放った。

 が、アキはそれをばしんとたやすく受け止める。


「こんなものが私たちに当たるわけないじゃん」


 めきりと矢をへし折ったアキはそれを床に放る。


「しゃかしゃかにはびっくりしたけど、ワカツはそんなに強くないよね」


「……その強くない奴の前で、『ぶぎゅ』とか言ってた女は誰だ」


「そういうのは忘れてよぉ」


 よく見ると彼女は片腕に何か細長い筒状のものを抱えていた。

 あれが探していた品だろう。


 目を凝らそうとすると、ああ、とアキが冷笑を浮かべる。


「助けに行ってあげないと、あの人、死ぬよ?」


「……シャク=シャカが敗けるわけがない」


「ふふっ。ま、私にはどうでもいいけどね。あの人、お肉臭いし~」


 アキはゆるりと唇を動かした。

 口元に浮かぶのは残忍でありながらどこか親し気な笑み。


「次会う時まで死なないでね、ワカツ。そのお肉を食べるのは私だから。それから、もっと甘~いお肉になってね?」


「……!」


 矢を放つ。

 放ちながら前進する。

 一射を掴まれ、一射をかわされ、最後の一射をまた掴まれる。


「あははは! 当たらない当たらな~い」


 たっと駆けたルーヴェが剣を突き出したが、翼を広げたアキは既に階下へ消えていた。

 かららら、と瓦が小気味よい音を奏でる。


 窓辺に駆け寄った俺が見たのは、二階に突き出した庇に着地し、膝を折るアキの姿だった。

 シャク=シャカに切られた脛が効いているのだろう。

 足からの出血はかなり激しい。


 彼女は筒状の何かを血で濡らすまいと身をひねっていた。

 どうやら材質は紙のようだ。

 ――――紙。


 そこでようやく、俺は彼女たちが探し求めたものの正体に気付く。


(!)


 新たな矢を掴む。

 アキは数度横転し、死角へ消えていた。

 からら、と屋根を滑り落ちた粘土瓦が割れる。


「ワカ。あいつ何か持ってた」


 結い上げたルーヴェの髪が風に踊る。


「……地図だ」


「ちず?」


 アキ達は霧の外に人類がいることを知っていたようだが、こちら側にどんな国が存在するのかについては何も知らなかった。

 地理についても同様なのだろう。


 どこからどこまでがどの国に属するのか。

 どこに山があり、川があるのか。

 どこが交通の要衝で、大きな都市はどこにあり、その周辺はどんな地形なのか。

 本格的にこちら側へ侵攻するにあたり、彼女たちはそうした情報を必要としていた。

 そしてそれら地勢に関する情報はその土地を支配する権力者の手元にあると考えた。


 いや、少し違う。

 彼女たちはそもそも地図の存在を知っていた。

 国土や地理に関する情報が権力者の手元にある、と考えたのではない。

 権力者の家には地図がある、という考えを前提に動いている。

 これは――


(――……)


 思考を止める。


 俺は兵士だ。

 俺が見るべきは目の前の現実、対処すべきも目の前の現実だ。


(……)


 おそらくアキ達は各国の文字を読むことができないだろう。

 地名や注釈を読み取ることはできないはず。

 だが基本的に地図は文字の読めない者でも感覚的に内容を把握できるように作られている。


 アキ達の手に地図が渡れば各国の地勢が露見してしまう。

 身体能力で後れを取る俺たちが、情報でまで後れを取るわけにはいかない。


 それだけではない。

 こちらの地形が把握されてしまうと戦略的に恐竜を配置される危険性がある。 

 高低差のある土地にはティラノよりアロやラプトルの方が適しているし、大きな建物がある都市にはまず橙色の奴をけしかけた方が効率が良い。

 大河があるのなら帆立恐竜を住まわせ、船の往来を潰す。

 森があるのなら小型の恐竜を潜ませ、輸送される兵站を破壊する。


 心胆を寒からしめる未来予想に俺は奥歯を噛んだ。

 奴らに地図を渡してはならない。

 絶対に。


 俺の焦燥を悟ってか、ルーヴェが扉へ歩き出す。


「まだ追いつけるよ」


「ああ。厩舎だ。行くぞ……!」


 俺は一度だけ窓を見やり、広い室内を見回した。

 太く鮮やかな色彩の蝋燭や寝具、書き物机には墨壺が残されている。


(……)


 俺はいくつかの品を懐に収め、部屋を出た。






 俺たちは足早に階段を駆け下りていた。

 五階から四階へ。

 四階から三階。


 アキにとって予想外だったのはルーヴェの存在だろう。

 彼女は正確にアキの位置を探知しており、迂回したり引き返すといった小細工も見破っていた。


「いま、地面に降りた。……イタイイタイって言ってる」


「だろうな」


 何せアキは足を斬られている。

 先ほどは強がっていたが速度は鈍っているし、そう長くは走り続けられないだろう。

 厩舎にたどり着かれる前に殺すか、地図を奪い返さなければならない。


 三階から二階へ。

 ルーヴェが足を止めた。


「どうした?」


「……ブソン、と、シア」


「何?」


「二人、こっち来てる……、……あいつに追われてる!」


「!!」


 窓にとりついた俺は木製の格子の向こうに疾駆する三つの影を認めた。

 二つは馬だった。

 シアとブソンが乗っている。


 それを追うのは――――先ほど集まって来た大型の鳥だ。

 乗り手はヨル。


 この土地の東部は遮蔽物が少なく、見晴らしが良い。

 馬を駆って戦地を離れようとしていた二人はアキやユリと別行動を取っていたヨルに見つかってしまったのだろう。


 あっという間に二頭へ迫ったヨルが爪を振るう。

 シアが手綱を操って器用にそれをかわし、ブソンもそれに倣う。

 急激に曲がったことで馬が泡立つほどの涎を噴く。

 遠目にもはっきりとわかるほど真っ赤な血が腓腹から流れだしている。


 鳥の脚は馬より速かった。

 二人はもはやヨルを振り払うことができない。

 降りて戦うこともできなくはないが、相手は『夜の青い暗い鋭い星』だ。ただでは済まないだろう。


「ワカ! シアが……!」


 ルーヴェが俺の指示を待たず、喧嘩剣で木枠を叩き折った。

 俺たちはそのまま窓を突き破り、外へ飛び出す。

 屋根瓦をからからと踏み、地上へ飛び下りる。


 邸の裏庭に当たるそこは広く石畳が敷かれていた。

 敷地の隅には灰色の灯篭がいくつも並んでおり、見事な大樹が白い花をつけている。


 灰色の地面に点々と赤いものが残されていた。

 アキの血だ。


 僅かばかりの階段を下ると赤い塀がぐるりと敷地を囲うのが見える。

 その先では大きな門が行く手を塞いでいた。

 門を身体で押し開けようとしていたアキがぎょっとしたように振り返る。

 彼女の進路には厩舎と草地、それに邸の外を警備する者が寝泊まりする小さな建物が見えた。


 アキは門を押し開くと、そのまま一直線に厩舎へと駆けた。

 俺とルーヴェは必死に走り、その距離を詰めていく。

 片足を引きずるアキとの距離が徐々に縮まる。


 百歩が八十歩へ。

 八十歩が六十歩へ。


 一方、鳥に追われるブソンとシアもこちらへ迫ってきている。

 ブソンはどうだか知らないが、シアは俺たちに気付いているようだった。

 乱戦に持ち込むつもりだろう。


 アキとの距離、四十歩。

 三十歩。

 もう呼吸が聞こえるほどだ。


 と、最後の力を振り絞ったアキが速度を上げ、厩舎へ飛び込んだ。

 俺とルーヴェがようやくたどり着いたところで扉が蹴破られ、数頭の馬が飛び出す。


 空気を切り裂くような激しい嘶き。

 たてがみが大波のように揺らめく。

 地に穴が開くほど強烈な蹄の音。


「!」


 尻に爪を立てられているらしく、馬たちはめちゃくちゃな方角へ向かって駆ける。

 数頭がこちらへ向かってきたため、俺とルーヴェは回避を余儀なくされた。


「ワカ! あれ」


 アキが一頭の馬にまたがり、猛然とヨルへ向かって駆ける。

 俺は片膝をつき、鏃を馬に向けた。


「……!」


 ひゅぱん、と弦が鳴る。

 矢が一直線に飛び――――馬上で振り返ったアキの手に捕まる。


「?!」


 彼女はこちらに身をひねり、馬の脚に突き刺さる寸前だった矢をしっかりと掴んでいる。

 アキが笑うのが見えた。

 そして笑いながら――――馬から放り出された。


「――!」


 すぐそばに迫ったシアがアキの馬に刃を走らせたのだ。

 それはごく軽い動きに過ぎなかったが、速さが乗っていたたため馬の横っ腹がぱっくりと裂けている。

 噴き出した血はたてがみのように波打った。


 悲鳴を上げた馬は乗り手を振り落とし、野へ駆けていく。

 地に転がったアキは、しかし、凄まじい勢いで飛び起きた。

 頑丈な女だ。


「よ、ヨルさん! これ!」


 アキが筒状に丸めた地図を掲げ、ヨルに向かって駆ける。

 松明を手に夜の街を駆ける伝令吏のように。


「アキ! ……!」


 ヨルが鳥の鼻先をアキに向けた。

 追跡を逃れたブソンは大きく迂回し、俺の視界の隅でシアと合流している。


「……っ……っ!」


 俺は矢を番えたまま、アキの背を追っていた。

 砂煙が舞い、強い風が吹く。

 走るアキの髪がばたばたと暴れる。

 ヘビの皮で巻いた俺の髪も背をのたうつように暴れる。


「はっ……はっ……はっ……!」


「――、――、――」


 アキの息遣いが聞こえる。

 既に彼我の距離は数十歩。

 この距離なら――――


「っっ!!」


 ずしゃああ、と急停止しつつ、矢を放つ。

 一直線に飛んだ矢が振り向いたアキの手にばしんと掴まれる。


「芸がないよねワカツって……!」


 アキが威嚇と怒りと呆れをない交ぜにした表情を浮かべた。

 彼女は俺に背を向ける。


「……」


 俺は再び矢を番えた。

 左右非対称の矢羽がばちばちと頬を叩く。

 蝋を塗り、墨で濡らし、布を巻いた矢羽が不規則に揺れる。

 二本しかない。無駄射ちはできない。


(……)


 風が止む。

 走り出す。


 攻撃の気配を察したアキが俺に気付き、振り返る。



「うっ!?」



 俺は盛大に足を滑らせた。

 ひゅぱん、と放たれた矢はアキを大きく逸れた位置へ飛ぶ。


「ははっ!」


 蔑笑を浮かべたアキが俺に背を向け、地図を掲げる。

 蝋封がはらりと解け、旗のように紙が広がる。


「ヨルさんっ! これ――」


「!」


 ヨルが気づいた。

 だがもう遅い。

 俺は小さく呟いた。




「『蛇の矢』」




 中空でぐりんと曲がった矢がアキに迫る。


 主の居室で急ごしらえしたものだ。どれほど曲がるのかは分からなかった。

 だが曲がる方向だけ分かればそれでいい。

 俺の信じる弓道は正射必中を至高としない。


 鏃はアキの頭をかすめ、手にする地図を裂いた。

 びじじ、と。


「!」


 驚愕するアキがこちらを向く。

 その手をヨルが掴み、鳥に引っ張り上げる。

 半分に裂けた地図がひらりと舞い、地面に落ちた。


「~~~~!!」


 ヨルは逡巡しているようだった。

 地図を拾うか。それとも逃げるか。

 そこにあるのは俺たちへの侮りだ。


 顔面に怒りが浮かぶのが分かった。


 好き放題矢を止められたことへの怒り。

 市街地を荒らされたことへの怒り。

 極まった疲労が転化したやり場のない怒り。

 怒りが俺を焚きつける。

 腹の底から声を出す。


「アキ!! 俺の芸は楽しめたか?!」


 きりりり、と矢を引く。

 二本目。

 これが最後。

 鏃をヨルから大きく逸らし、ひゅぱっと再び蛇の矢を放つ。


「!」


 明後日の方向へ飛んだ矢にヨルが目を奪われる。

 素早く矢を番える。

 いつもよりゆるく、迅速に弦を引く。


「じゃあ代金を置いていけ……!」


 今度は直線の矢。

 蛇の矢に気を取られたヨルの反応は、僅かに遅れた。


 迂回する矢を囮に放った俺の矢はヨルの片目を掠める。

 眼球を削ったのか、ヨルは鳥から落ちかけるほど激しい反応を見せた。


「く、ぐっ?!」


 刹那、俺は異様な感覚に目を細める。

 鱗に覆われたヨルの手が僅かに赤みを帯びたように見えたのだ。

 だがそれは一瞬のことだった。見間違いなのだろう。


 きりりり、と矢を番える。

 アキの顔に驚きと怯えが過ぎった。


「ゲあァァァァああああ~~~~~~ッッッ!!!」


 獣じみた咆哮を上げたヨルは片目を手で押さえつつ、鳥の腹に蹴りを入れた。

 ケケーッと鳴いた鳥が首を巡らせ、砂煙を巻き上げる。


 来た時と同じ騒々しさを残し、アキとヨルが遠ざかっていく。






 馬に乗るシアが近づいた。

 かぽっ、かぽっという控えめな足音。


「……助かりました」


「お互い様だ」


「……。こんなことになるなら、最初から残っていれば良かったですね」


「だったらこっちにヨルが来て収拾がつかなくなってた。これで良かったんだよ」


 全身の傷が痛んだ。


 彼女はちらとブソンを見やった。

 どうやら盲目の剣士は馬には慣れていないらしく、装束を無理やり縦に引き裂いていた。

 それなりに肉のついた足に汗が浮いている。


「はー……はー……!」


 馬に乗るブソンはぐったりと太い首にもたれかかっていた。


「たった三人のうち一人を相手にした気分はどうですか、ブソン」


「う、馬に乗ってさえいなければ、はァ……私にも……えふっ!」


 激しくむせこむブソンは馬の首に両手を預ける。

 シアはアキ達が残した紙切れを拾い上げていた。


「地図ですか」


「すまん。半分持っていかれた」


「仕方ありません。遅かれ早かれ向こうの手に渡る情報です。……」


 シアは何かを考え込んでいるようだった。

 俺は呼吸を整え、遠い地に落ちた矢を見つめる。


 蛇の矢は奴らにも効く。

 それが知れただけでも収穫だ。

 毒があればヨルを仕留めることができたかも知れない。

 それだけが心残りだった。


「……ところで、ワカツ。あと一人は?」






 塀を横目に門をくぐり、短い階段を駆け上がった俺たちは急停止した。


 石畳に汗が散り、血が飛沫を上げる。

 甲高い金属音が終わらない耳鳴りのように響き続けている。


 晴天の下、褐色の肌を晒したシャク=シャカとユリがなおも激しく切り結んでいる。

 互いの命を奪わんと死力を振り絞っている。


 どちらの呼吸も乱れ、髪は汗に濡れ、頬は紅潮していた。


「――っ……! ――ッ!」

「……、……!」


 シャク=シャカもユリも限界が近づいているようだった。

 足運びは遅く、剣を振り下ろす速度も振り上げる勢いもいくらか鈍くなっている。

 それでようやく達人の域。

 先ほどまでの二人は超人だった。


 シャク=シャカが砂利を巻き上げ、灯篭を倒し、時折手を伸ばす。

 ユリが身を翻し、回転し、いなし、受け流す。


 攻城盾を構えた兵が固唾を飲んでそれを見守る。

 俺の姿に気付いた数人が密かに頷いた。俺も頷き返す。


「――っ、くっ!!」


 ユリの剣が弾かれ、シャク=シャカの手が伸びる。

 ぐいんと身を反らせたユリがそれをかわし、足払いを放つ。

 シャク=シャカが飛ぶ。

 全身から汗の粒が飛ぶ。


 ユリが目にも留まらぬ速度で剣を持つ手首を返す。


「!」


 切っ先がシャク=シャカの側頭部を掠める。

 金髪が散り、血の滝が彼の頬から首を濡らす。


 二人が距離を取る。

 どちらも肩で息をしている。

 どちらも膝が震えている。

 同じ程度に疲弊した二人だったが、傷の程度は大きく違う。


 より深く、多く傷ついているのはシャク=シャカだった。

 翻ってユリは衣服こそ乱れど、ひと太刀も浴びた様子が無い。


「ーッ……ーッ……」


 血と汗のぬめる肉体にはなおも血管が浮いていたが、彼を赤く濡らすのは返り血ではない。

 彼自身の血。


「……あの、もうやめませんか……?」


 俺たちをちらと見、おずおずとユリが切り出す。


「これ以上やっても同じ、だと思います」


 シャク=シャカはなおも息を切らし、ユリを睨んだ。

 射竦められそうな視線だったが、ユリは平然としている。




「あなた、私より弱いです」




「……!」


 その瞬間、シャク=シャカの全身から爆風じみた殺気が放たれた。

 ざりりと砂を踏んだ男が火の風となって駆ける。

 その速度に俺は目を疑った。

 先ほどより更に速い。そして踏み込みが――――強い。


 だがその一撃を、ユリは平然とかわして見せた。

 荒ぶる牛の突撃をいなすように、軽やかに。


「……ッ、ッ!!」


 シャク=シャカは勢い余って顔から石畳に突っ込んだ。

 頬の肉が剥け、手足の肌が削がれる。

 地の上を数回転するシャク=シャカの姿に兵たちが絶句する。


 俺は思わず矢を掴んだが、刀を杖に立つシャク=シャカの姿を見て思いとどまる。

 彼は一瞬でユリとの距離を詰め、もつれ合うように刃をぶつけ合う。


「シャ――」


 飛び出そうとしたルーヴェをシアとブソンが左右から羽交い絞めにした。


 そうだ。割って入ることはできない。

 不用意に剣士が舞い込めばユリに切り捨てられ、挙句盾にされかねない。

 俺の矢もダメだ。

 この戦闘速度ではどちらに当たるか分かったものではない。


 さりとてこのままでは――――


「シャク=シャカ!」


 俺の声が届いたのか、そうでないのか。

 もはやユリに追いすがるように刀を振るっていた男が後方へよろめき、直立不動の姿勢を取った。


 彼は両手で構えた刀をだらりと垂らした。

 ゆらりと揺れる切っ先。

 汗も乾くほど熱い肌に太陽の光が映る。


 ユリもまた剣を下ろしていた。

 ただしそれは闘争の構えではなかった。

 匂いを嗅ぎ終えた花を捨てる直前のような、どこか茫洋とした佇まい。


 二人の距離は約三歩。




 風が止む。




 空気が凍る。




 音が死ぬ。






 屋根を滑った瓦が一つ、かしゃんと割れた。






 二人は既に交差していた。

 シャク=シャカは刀を振り上げた姿勢。ユリは剣を振り抜いた姿勢。


 誰かが唾を呑む。


 シャク=シャカの刀が折れ、左右の上腕を繋ぐ赤い線が生まれる。

 閉じた瞼から涙が流れるように、真一文字の傷から血の帳が下りた。


「ッッッ!!!」


 唐最強の男が身を揺らがせる。

 ユリが振り返――――


「!」


 僅かに早く、俺の放った矢がユリに向かう。

 金髪を翻したユリが上半身を反らして矢をかわす。

 飛び過ぎた矢は兵の盾にがいんと弾かれる。


「……」


 困った子を見るような目。

 俺は叫ぶ。


「今だッッッ!!!」


 攻城盾を掲げた男たちが一斉にそれを手放す。

 かたたたん、と倒れる盾の裏側で、男たちは黒い網を握っていた。


「?」


 振り返ったユリ目がけ、四方八方から網が放擲される。

 石を括りつけた投網。


「! ……!」


 ユリはシャク=シャカを離れ、真横に駆けた。

 黒網と俺の矢は彼女を追ったが、まるで追いつけない。

 腕利きの数人が投げつけた網も、彼女の剣に引き裂かれている。


 とたたたたっと石畳の上を駆けたユリは一度大きく踏み込むと、一階の屋根まで跳躍した。

 瓦を踏んだユリは甲高い音を残し、そのまま邸の向こうへ消える。


「追うな!」


 駆け出そうとした兵に叫ぶ。


「市街地の奴らに任せろ。他が戻って来るかも知れない……!」


 了承を意味する軍靴の合奏。


 俺は黒網をかぶったシャク=シャカに駆け寄った。

 足元には小さな血だまりが生まれつつあったが、傷口に対して出血量が少ない。

 おそらくユリの切っ先が鎖骨に阻まれたのだろう。

 運の良い人だ。


「シャク=シャカ!」


 蜘蛛の巣に包まれた虫を助けるように網を引きはがす。

 最後の一枚を引きはがしてもなお、彼は棒立ちだった。


「へ、へへっ」


 シャク=シャカは乾いた笑いを発した。

 その膝はがくがくと震えていたが、その場に崩れる様子は無かった。


「敗けちまった……」


 彼はふらりとよろめいた。

 赤子が押しただけで倒れてしまいそうなほど覚束ない歩みだった。


 兵たちは何も言わなかった。

 フソン=ブソンもルーヴェも口を引き結んでいた。


 ただ、シアだけが一歩前に出た。

 黒いスリットドレスが翻り、彼女は慌てて片手を股に入れる。

 その姿勢のまま、呟く。


「いえ、あなたは十分に「シア」」


 俺は片手でシアの口を塞いだ。

 シャク=シャカは血まみれだったが、初めて会った時と同じように笑っていた。


「はー……ちっくしょ……」


 シャク=シャカは天を仰いだ。



「っへへ」



 なおも彼は笑った。

 笑いながら刀を両手で掴み、振り上げた。






「ちくしょぉおおおおおーーーーーーっっっっっ!!!!!」






 振り下ろされた刀が手を滑り、石畳にぶつかって跳ねた。

 顔面に血管が浮かぶほどの憤激を見せたシャク=シャカは、ようやくそこで膝をついた。


 彼は両手で顔を覆った。


 欲しくて手にしたわけではない。

 勝手に転がり込んできた。

 運が良かった。

 そう語っていた『最強』の二つ名のために、彼は絶叫した。


 両肘で雫となった血が、灰色の地面をぼたぼたと打ち続けていた。






 それからしばらくして、数万の軍勢が市街地を覆い尽くした。

 俺たちはおそらく、この戦いに勝利した。


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