5.
誰もがエマの身体をナイフが突き抜ける瞬間を想像したに違いない。
しかし、一瞬の空白のうちに何が起こったかは誰にもわからなかった。
「ぐぅああああああーーっ! 」
悲痛な咆哮が天高くこだました。
今、地面に這いつくばって痛みにのたうちまわっていたのはエマではなくナイフを振り回していた二人の屈強そうな男だった。
彼らを率いていた男は今目の前で起こったことが理解できずにただ、呆けたように口をだらしなく開けたままひっくり返っている。
「ひ、ひひ人殺しぃぃっ! こ、このクソ餓鬼が殺りやがったーーっ。誰でもいい、憲兵だっ!あいつらを呼んで来いぃ」
すぐに我に返った男は、どす黒い鮮血にまみれ茫然と立ち尽くすエマをみて魔女狩りだと言わんばかりにわめき散らした。
「何だ、何だ?」
「……おい、誰がやられたって?」
「うるせぇぞ、何の騒ぎだまったく」
男の声を聞いて怖いもの見たさに野次馬たちがぞろぞろと集まってきた。
エマがやっと我に返った時にはたくさんの人だかりができており、エマは事態の深刻さに気がついた。
わたし、一体何をしたの……
血がこんなに、ああ、わたしまた人を傷つけたのね。
最低だわ、あのひとたちに本物の殺意なんてこれっぽちもなかったのに……
不意に強烈なめまいを感じてエマは血で汚れた地面にペタリと座りこんでしまった。
すると背後から野太い声がして肩に温かい大きな手が置かれた。
「しっかりするんだ、お嬢ちゃん」
「え、あ、あの」
「落ち着けっ!馬鹿野郎ども。今から腐れ憲兵の駐屯地に行こうとした奴はあとでぶちのめしてやるから覚悟しとけぇ!いいな、動くなよ! 」
エマの肩に手を置いた男が立ち上がり、野次馬に向かって吠えた。
その声に皆一様に慄きて、辺りは氷ついたように静かになった。
「ダグラー、このクズっ!おめぇもだ。聞こえなかったのか? 」
ダグラーと呼ばれたあのリーダー格の男はヒッとうめいて地面にうずくまった。
「す、すいませんっ兄貴!こんな餓鬼ひとりに手まどっちまいやして」
ブチッと何かが切れるような音をエマはこの時確かに聞いた気がした。
「おい、ダグラーよぉ。もう一度言ってみるかその言葉。そん時がてめぇの死ぬ時だ。ふざけんのもいい加減にしとけってんだよ! この阿呆! 」
まったく見当違いな発言でボスらしき大男を怒らせたダグラーはそれでも食い下がった。
「でも、あんまりじゃねぇですか! この悪魔みたいな餓鬼をどうにかしてくださいよぉ」
「どうにかするのはてめぇの脳みそだろうがよぉ! まったく畜生にも劣る」
大男はそう言って容赦なくダグラーの顔をぶん殴った。
遥か後方に吹っ飛んだダグラーを見やることもせずに大男は負傷した二人をまとめて抱え上げた。
「まったく、俺の店の前で醜態さらした挙句、こんな切り傷程度で豚みてぇにヒーヒー言ってんじゃねぇぞ。ほら、そこでボーっと突っ立ってるボンクラども!この店に用がねぇならさっさと帰れ。見せもんじゃねぇんだ」
いきなり、怒鳴りつけられた野次馬たちはブツブツ文句を言いながらも彼に睨まれたくはないのかおとなしく退散していった。
「す、すごい……」
エマは思いがけずそう呟いていた。
「とんだ迷惑をかけちまったなぁ、お嬢ちゃん」
怪我人を回収して終わったのかさっきの大男が座りこんだままのエマのもとへ戻って来て手を差し伸べた。
「立てるか? 」
「あ、はい。あの! わたし、今から自首してきます。すいませんでしたっ」
立ち上がるなり憲兵の駐屯地に向かおうとしすエマを大男はたやすく捕まえた。
「何言ってんだ? 悪いのはあのクズ共だ。なんでお嬢ちゃんがそんなとこにいかなくちゃならねぇ? あんなやつらのところになんぞ行かせたら俺が女神さまに殺されちまう。お嬢ちゃんはなーんにも悪くねぇ、だから今日のところは勘弁してやってくれねぇか」
エマはさっきとは打って変わって優しげな大男の表情にあっけにとられた。
「ありがとうございます、でもお仲間には謝っておいていただけますか? あれはダグラーさんの言うとおりやりすぎです」
「なぁに、必要ねぇさ。あいつらはすぐに問題ばかり起こすもんだから世話ぁ焼いてたんだ。これでいい薬になっただろう、お礼をいうのはこっちの方だ、ありがとな」
「あ、そんな。いえ……」
「俺はカルロス・バーランドだ。何か困ったことがあればうちの店に来な。必ずお嬢ちゃんの力になろう」
「エマ・リーネンです」
「エマ、『普遍・全てを抱く者』か。強く美しい良い名前だな」
「わたしの名前にそんな意味があったなんて知りませんでした。すごくうれしい」
「ああ、大事にするといい。っと、おまえさんの迎えが来てる。もう行った方がいい」
「え、迎え? 」
ここに来ることは誰にも言っていないのに……
その前にエマだってここに来ることなんて予想もしていなかったのだからきっと人違いだろう。
「エマっっ! 」
けれど、耳に届いたのは聞きなれた子供の声だった。
ずいぶんと焦っている様子だ。
「アーニャ? 何でここに? 」
震える手でエマのシャツを握りしめていたのはあの奇術師の少年だった。
「はぁ? 何でって聞きたいのはこっちだよっ! でもとにかく大変なんだ。エマ、早く帰って来てよ。お願いっ!」
「ねぇ、いったい何があったの?」
「いいからっ! 急いでっっ」
アーニャはエマの手を取ると複雑に入り組んだ路地を迷うことなく駆け出した。
ヒュンヒュンと耳元で風が唸る。
「アーニャっ! 黙ってちゃわからないの、何があったのか教えてっ」
この子、きっとパニックになってるんだ。エマは尋常ではないアーニャの表情にハッとした。
握りしめた手が冷たい汗で滑る。
エマは強引にアーニャを引きとめた。
「あ、ああ……」
「大丈夫、大丈夫よ」
とっさに抱きしめた小さな身体がガタガタと震えている。
エマは彼が落ち着くまで優しくその背中をさすっていた。
しばらくしてアーニャはエマの胸に顔をうずめたまま、泣き出した。
「っう、サ、サーカスが、、パンドラが燃えちゃった……みんなが、死んじゃうっ、く。エマ、助けてよぉ」
パンドラが、燃えた……?!
足元がガラガラと音を立てて崩壊していくような恐怖がエマの思考をフリーズさせる。
今この瞬間、新たな不幸が炎と化してエマの運命に襲いかかろうとしていた。