2.
波乱に満ちたサーカスの夜が終わり、やっと一息ついた団員達は食事のため町へと繰り出して行った。
エマも例外ではないが、今日の不幸は未だ留まることを知らない悪性度の高い癌のようにねちっこくエマを痛ぶり続けていた。
馴染みの店に向かう途中、幼い子どもに貴重な食費をすられてしまったのだ。
この町には滞在してもうひと月が経つが、治安が悪い所為でこうしたことはしょっちゅうだった。
決してエマの注意力が足りないというわけではなく、この町の悪餓鬼には芸術的なかっぱらいのセンスがあるというだけのこと。
伊達に何度も餌食になっていないだけあってエマは三日に一度は夕食にありつけない憂鬱を受け入れ始めていた。
夕食を諦めたエマは今宵二つ目の目的を果たすため、数え切れないほどの赤提灯が煌々と照らす花街に足を踏み入れた。
すると、背後から自分に近づいてくる美味しい匂いに強欲な腹の虫が騒ぎ始める。
誘惑に耐えきれず振り返ると薄っぺらい東洋風の飾り衣装を纏った女が両手に饅頭を掲げてニヤニヤと笑っていた。
「まあーた、金パクられたのかい? ドジ っ子ちゃん」
煙草のせいで掠れた声で女がエマに話しかけた。
「その通りですが、生憎今日はお腹が空いてなかったからラッキーだわ。それにもうここのお坊ちゃん達に対抗する気もないしね」
「素直でない子は嫌いじゃないが、腹の虫くらい自分で養えないと生きてけないよ」
女はそう言って、片手に持っていた饅頭をひとつエマに放った。
「でもそうやって、甘やかしてくれるのはリーシェンだけだわ。ありがとう」
エマはありがたく饅頭を受け取る。誰からであろうと好意は好意。
それは不幸体質を束の間忘れていられる妙薬なのだ。
「減らず口を叩きなさんな。要らないなら返しとくれ」
エマの素直な言葉に当てられたのかリーシェンと呼ばれた女は怒ったように目を逸らした。
リーシェンはこの花街の娼婦で、エマが花街に迷いこんだとき助けてもらったのをきっかけに色々と面倒を見てもらうようになった、いわば姉のような存在だ。
年齢は聞いたことがないので知れないが、彼女には年齢というものをまるで感じさせない魔的な美しさがあった。
朱に染まった薄い唇でどれだけの男を惑わせてきたのやら。
「食べ物目当てじゃないなら、こんなところに何しに来たのさ、おばかさん。あんたみたいな格好してたら男と勘違いした女達に喰われちまうよ」
確かに、エマの髪は男と言っても差し支えないほど短いし服装も黒いだぼだぼのズボンと男物のシャツを着ているため勘違い余地は十分にある。
問題は服装だけとは言い難いが、エマは気にしていなかった。
女と間違われるよりは多少安全かも知れないと思ったのだ。
「女の格好して夜道を歩くよかましだわ。でも、これはちょっとあんまりよね」
店のガラスに映った自分を見ているとまるでリーシェンと同じ女とは思えない。
「でも、あたいはそのまんまのあんたが割と好きだよ」
「私もよ、でもリーシェンにはかなわないわ」
不幸がかさみ過ぎると、たまには良いことが顔を出すらしい。エマは久しぶりに温かい気持ちになった。
「さぁ、話しを逸らして悪かったね。何か用があったんだろ」
リーシェンはそんな余韻に浸るような感傷的な女ではない。
夜は長いようで短い。
リーシェンはこれでいて仕事中なのだ。
あまり長居はできない。
「そうそう、今日舞台を観に着てくれたお客様のことなんだけど……」
エマは今日の出来事をリーシェンに語り始めた。