1.
熱気と興奮が立ちこめた客席に向かって朗々とした張りのある声が花形の登場を告げる。
「お待たせいたしました! それでは我がサーカス団の至宝、エマ嬢による狂気の剣舞をお楽しみあれ! 」
不気味な道化の仮面を被った紳士が一礼して舞台から姿を消した。
彼こそが、このパンドラサーカス団の団長、ヨハン・テナード。
サーカス業界では名を知らぬ者はないと言われ、現役時代では国王の前で芸を披露したこともあるらしい。
エマに幼い頃から剣を持たせ、剣舞を仕込んだのもこの人物である。
テナードはいつも通り、緊張でガチガチになっているエマを振り返って神経質そうに胸の前で十字を切った。
あの子に女神の祝福があらんことを。
そう呟いて怪しげな金の首飾りに口づける。
まぁ、どうせ無駄なことだ。
だか、サーカスの一員として客を楽しませてくれるなら形だけでも祈っててやるさ。
せいぜい客に危害を加えないように踊ってみせろ。
思わぬアクシデントほど客を興奮させるものはない。
テナードの不気味な道化の仮面がクツクツと嗤った。
テナードの合図で客席を含むすべての照明が落とされた。
あたりは一瞬のうちに濃い闇にすっぽりと包まれる。
ザワザワ、ザワザワ……
動揺と期待、好奇心が交じり合った感情の波が張り詰めた空間を揺らす。
なかなか姿を見せない花形に痺れを切らしているのかもしれない。
できれば一生、お目にかかりたくないのだけど。
エマは心の中でバチ当たりにも聞こえる文句を呟きながら静かにざわめきが収まるのを待っていた。
静寂はいつも突然訪れる。
気まぐれな女神が、人間の世界に嵐をもたらす時のように。
さざなみが凪いだ瞬間を突いて、エマは虚空に向かって思いっ切り放った。
二対の大剣がエマの意のままに美しい放物線を描いき、天井の闇を切り裂いていく。
天井を見上げる観客から、わあぁっと歓声が上がった。
天井に仕掛けてあった薄布が裂かれ、本物の天井には偽物の星空が幻想的に広がっていたのだ。
と、ここまではあたかも順調に進んでいるように見えるのだが、さすがは不幸体質者。すでに不幸は始まっていたのだ。
なんとエマは、演目で使用するロープを今日に限って鳩舎の横に置いて来てしまったことを気づいていなかった。
忘れただけならまだ良かったのだが、エマのロープはこのあと、さらなる不幸を発動させることになる。
エマの剣舞も佳境に差し掛かった頃。
「ねぇ、これって誰の演目で使うやつ? 」
奇術担当の少年が鳩舎の下で拾った例のロープをブンブンと振り回しながら仲間達にたずね歩いていた。
「知らねえよ、っておいおい、そんなもん振り回してんじゃねーぞ坊主」
舞台袖で準備をしていた柄の悪そうな男が少年に忠告した。
ただでさえ、不幸女の演技中なんだ。これ以上面倒起こされてたまるか。
彼の背中からはそんなボヤキが聞こえてきそうだった。
「ええー、いいじゃん暇なんだもーん」
男の三白眼に睨まれても全く懲りない少年は自分がエマの不幸トルネードに巻き込まれていることに気がつかない。
ガッシャーーンッ!
「うわっ、やっべえ!」
少年が振り回していたロープの先端には重りがわりの短刀が結わえられており、運悪くそれが鳩舎の柵を破壊してしまったのだ。
言わんこっちゃねえ……
さっきの男がイライラ頭を掻き毟る。
団員達も、「またか」というように溜息を吐いた。
自由を勝ち取った白鳩の群れが我先にとエマをめがけて殺到する。
大量の鳩が不幸に乗っかって襲ってくるとは露知らず、エマはタイミング良く大剣を宙に放ったところだった。
「ええええーーっ! は、鳩!? 」
自分の手を離れてしまった剣が見えない。
きっと今頃、鳩の所為で私の剣はお客様に向かって軌道を変えたに違いないないわ。
エマの脳裏に最悪のシナリオが閃く。
背中に冷たい汗を感じ間も無く、エマの身体は動いていた。
鳩さん、ごめんなさいっ!
今は人命が最優先の非常事態。奇術師の少年にも心の中で謝って エマは自分の視界を遮る数羽の鳩を手刀で払い落とした。
「危ないっ! 」
開かれた視界には一人の客を目がけて落下する大剣。
エマは夢中で舞台を蹴った。
客席に飛び込んできた踊り子に観客がどよめく。
おおおっーー!
エマはすんでのところでなんとか観客の頸が飛ぶのを阻止することに成功した。
狂ったように真っ直ぐ客席を狙った大剣はエマの手の中で大人しくなった。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
あと数秒、遅かったらこの人は大怪我をするところだったのだ。エマはかばった拍子に押し倒してしまった人物に謝り倒す。最近では少々の不幸なアクシデントは何とか舞台の上で処理できるまでになっていたとはいえ、少し油断しすぎていたのかもしれない。
「お、お怪我はありませんでしょうか? 」
そう言って、エマはおそるおそる手を差し出した。
「うん、僕は平気だよ。お嬢さんこそ、大丈夫なのかい? 」
漆黒の衣を纏った人物は、エマの手を借りようともせずにヒョイッと立ち上がった。
フードを目深に被っているから表情まではわからないが、その様子を見ると怪我もなさそうだし、怒っているわけでもなさそうだ。
「はい、なんともありません。申し訳ありませんでした」
エマはもう一度深く頭を下げた。
「なんで? 」
「えっと、なんでといわれますと、私の如きの謝罪では不十分だったということでございますか? 」
「僕は、お嬢さんが謝る必要はないって言ってるんだ。ちゃんと守ってくれたじゃないか。ねぇ、紳士淑女のみなさんっ! 彼女の勇気と素晴らしい舞に盛大な拍手を!」
黒衣の青年は、思わぬ演技の中断に不満を口にし始めた観客に向かって呼びかる。
凛とした澄んだ声に、誰もが一瞬耳を奪われた。
そして、パラパラとしか聞こえなかった拍手はやがて嵐のような大歓声に姿を変えた。
「さぁ、もう行った方がいいと思うな。仲間が待ってるんじゃない? 」
「あっ」
青年にトンと背中を押され、エマは舞台の方へ押し出された。
眩しすぎる照明の中に戻ったときにはもう、客席にさっきの青年の姿は無かった。