prologue
仄暗い照明、濃密な獣の匂いと踊り子たちの化粧の香り。
興奮と静けさとピリリとした緊張感に支配されたサーカス団「パンドラ」の貧相なテントは今日もたくさんの観客でごった返していた。
観客は高貴なものからボロを身に纏った老人まで、皆が一様にこれから始まるショーへの期待に目を輝かせている。
そのころ、薄汚い舞台袖では出演の時を待つ一人の少女が時折、肩を震わせながらブツブツと呟いていた。
(大丈夫、きっと大丈夫よ。私の剣はお客様の頸を刎ねたりしないし、コニーやソーレンを刺したりしないわ……大丈夫、大丈夫)
なにやら不吉な自己暗示をかけまくっているこの少女の名はエマ・リーネン。
華奢というより痩せこけた身体、肩の上でばっさり切り落とされた褐色の髪、よく見れば綺麗な大きな灰色の瞳は極度の緊張からか、焦点がまるで定まっていない。
あろうことか、その細腰にはいかにも斬れ味の良さそうな剣を下げている。
二対の大剣は下手に振り回せば彼女のか細い頸など簡単に落とせそうな代物だ。
しかし、幼いころから剣と戯れていたエマにとってそんなことは心配する価値もない。
彼女にとって重要なのは、演目の途中で観客の頸を刎ね飛ばさず、仲間を刺し殺さず、テントを破壊せずに、つまりは誰も不幸に陥し入れることなく役目を果たすことだけだ。
実はこの少女、剣を持たせると天才なのだが、非常に残念な不幸体質の持ち主であり、彼女が剣を握れば半径二メートル以内には間違って観客を怪我させる程度の不幸は十分起こりうる可能性がある。運が悪ければあの世逝きだ。
エマが観客と仲間の頸を心配するのは当然と言えば当然である。
今まで一人の死者も出さずにここまでやってきたことのほうが奇跡なのだから。
本当は剣なんて人前では振り回したくないし、たくさんの人の目があると緊張で眩暈がする。
エマはサーカステントに押し込められた観客を見てうんざりしていた。
また、誰かを傷つけてしまうかもしれない……
孤児だった私を引き取ってくれたのがサーカスでなかったら不幸体質のわたしは絶対に人を傷つける道具には近づかなかったのに。
エマは腰に下げた大剣を憎らしげに睨み付けたかと思うと、今度は鈍く光る刃に優しく触れた。
でも仕方ないわ、私は「あなたたち」と一緒でないと何をしてもダメなんだもの。
「あなたたち」だけよ、私といて不幸にならないのは。
エマは諦めたようにそう呟くと二対の剣を胸の前でカチリと合わせた。
キーン、と高く澄んだ音がして二対の剣はエマに応える。
そうさ、君は僕らを手離すことなんてできはしない。
そうね、エマは目を閉じて心の中でしか聴こえないその声に応えた。
今日もあなたたちをがっかりさせないように踊ることにするわ。
例えどんな不幸の嵐が吹き荒れようと、私は舞台に立つ。それが私にできる唯一のことなんだから。
エマは震える脚を叱咤して舞台の中央に躍り出た。
さぁ、サーカスの幕が上がる。
やかましいファンファーレが、不幸少女・エマにいつも通りの一日が始まることを告げた。