擬態
「助かったぞ、礼を言う。ええと、お前はおよし、だったな」
お袖の方を振り向きもせず、殿はひたすら奥の方に向かう。
「まあ、借りを返しただけだ。礼を言いたければ、わしの尻に言え」
「なぜ、お前の尻に礼を言わねばならんのだ」
「おきみにどつかれるために各場所の床の間で寝転んでみたが、なぜか宇治の間の床の間に寝転んだ時、いつになくひんやりとしたのだ。あの床の間は他の場所の床の間と比べてかなり冷たい、すなわち近くに地下に繋がる風穴があるということを、わしの尻が感づいたのだ」
馬鹿馬鹿しい顛末に絶句するお袖。
「それはそうと殿、大変なのです。左内がどうやら敵の手に落ちたようで、この穴蔵の奥には砂糖漬けの御女中達が――」
ぱたっ。
後ろから、閉めたはずの穴蔵の音がして右京は振り返る。
と、右京の横を風を切って何かがすり抜けた。
慌てて前を向くと先頭の殿が持った光源に照らし出されたのは、3つの人影。
3つ……自分以外に。
「と、との……」
くるりと自分の方を向いた黒い影を見て、右京は顔を引きつらせた。
何事かと振り返った、殿とお袖も息を飲む。
彼らと右京の間に立つその人影は、縮こませていた身体を伸ばしたのか、見る見るうちに小山のように盛り上がった。
思わず出そうな悲鳴を押さえるためか、三人とも口に手を当てる。
ずんぐりとした黒い影。頭は大きなしいたけにべっこうの簪をぐざぐさと刺したようなちょんぼり髷を結っている。女中としての位は高くないようだ。
「お、じょ、ちゅう……、か」
美醜はともかく、女性なら任せておけとばかりお袖を押しのけて前に出る殿。
「おお、なめらかに盛り上がった肩の線をしておられる」
敵も味方もわからぬ相手にかける言葉として正しいかどうかは疑わしいが、とりあえず、女性は褒め倒せが殿の攻撃哲学である。
だが、さすがの殿も後姿だけでは賞賛の後が続かない。異性の長所を見つけ出すことにかけては、手練れ中の手練れの殿でさえ、褒めて喜ばれるのかどうかわからぬ肩の形ぐらいしか長所は見つけられないようだ。
「おぬし、我らを助けてくれたのだな。照れるな、こちらを向くがよい」
強引に肩を抱いて自分の方を向かせる殿。
手元の光に照らし出された、その顔は絵にかいたような古狸顔。
皺の中に埋もれそうな垂れた腫れぼったい目がにんまりと殿を見ている。
だが、濁ったその瞳の奥には不遜な光が揺らいでいた。
「お、お前っ」
殿の口が、開いたまま制止する。
「毎度、お世話になっております」
「露草堂っ!」右京と殿が叫んで、慌てて口をつぐむ。
「右京様の御薬を少し拝借いたしまして、お女中に変化して忍び込んでおったのです」
露草堂は、まるで生まれつきの女のように嫣然としなをつくる。
「いや、若いうちならいざ知らず、この年になってこのような姿に変化するなどとは思ってもおりませんでした、ほ、ほ、ほ」
すぼめた口に手をやって、すっかり年増女が板についている。
「ま、昔取ったきねづか。上得意様の危機を救えて僥倖、僥倖」
「し、しかし、一介の和菓子屋の親父がなぜ警護の厳しい大奥に忍び込めるのだ――」
まだ信じられないと言った面持ちの右京。
「右京、露草堂は忍びじゃ」
殿の一言に、にやりと肩頬をあげて笑みを浮かべる露草堂。
往年の殺気がちらりと垣間見える。
「菓子屋を副業とする忍びは露草堂だけではない。あの有名な風穴堂も実は探索御用隠密の仕事を請け負っておる。彼らは全国に砂糖の仕入れに関した連絡網を持っておってな、それを利用して必要な情報をたちどころに集めるのじゃ。また菓子屋は商品を売りに諸国を旅するし、御用達になれば大名家への出入りも可能じゃ」
殿はチラリと露草堂を見る。
「お、お前達、何者じゃ。男になったり女になったり、物の怪か」
我に返ったらしい、お袖が三人を詰問する。
「この大奥の騒動に、何らかの関与を……」
「逆だ」
殿は咳払いする。
「わしらは勧善懲悪の正義の味方よ」
「賭場を開帳する小悪党どもが正義の味方だと、信じられぬわ」
殿はそれには答えず、穴の奥に突き進み始めた。
「議論の暇はない、どうやら手のかかる我が部下が敵に捕まっているようだ」
「恐れながら、手がかかる――のは、どちら様かと?」
殿の背後で、こほん、と小さな咳ばらいが。
慇懃無礼に見せかけて人をずかずかと遠慮なく嫌味で突く、これだから、露草堂は嫌なのだ。
殿の眉間がぴくぴくと動く。
「まあ、あの器量だ。すぐには殺されまい。楽しまれている分、時間は稼げるはずだ」
ま、わしは趣味じゃないがな。と、肩をすくめて付け加える殿。
「それはそうですが、あの生真面目なお方。自害でもなさらねば良いのですが」
露草堂の顔が曇る。
「ふん、まだ化けて出てないからその心配はないだろう」
「そうですな、一番迷惑をかけたのはあなた様に他ならぬ故」
一触即発の緊張感を持った二人の会話。
胡麻塩ひげが浮き上がったお京がまともに見える。こいつらは一体何者なのだ。
薙刀を持った女中が立ちはだかった時、なぜこの者達とともに来てしまったのか。
お袖は首を傾げながらも、黙ってついていく。
自らが最後に頼む博才が、なぜかこちらに賭けろと譲らないからである。
「極上の絹のような――」
まるで身体全体の神経が首筋に集中したかのようだ。近くで発されているはずの声が、遠くに聞こえる。
一瞬のような、永劫のような、絶え間ない未知の感覚が左内を襲っている。
稲妻のような悪寒が全身に走り――、力の入らない手が小刻みに震える。
知らず知らずのうちに浅くなる呼吸。整えなくては、と焦るのが相手にわかるのか、深く息を吸いこもうとするその度に、相手の責めに阻止される。
息が……できない。
「首筋くらいでこうなるとは、案外、もろいものだな」
上気した顔を背けようとするが、片手で顎を掴まれ無防備な唇にまた液体が注ぎ込まれる。
「そのうち、身体が飴のように溶け、抵抗もできなくなる。己が何を言っているのかわからなくなる、その時が――」
その時――。
左内の頭に白い稲妻が走る。
「お前がわしにひれ伏す時だ」
睨みつけた、と思う。
思うが、意識がもうろうとしている左内には、本当に相手に抵抗の意を示せたのかどうか、確証が無い。
頭の芯が、おかしくなりそうだ。
もう、おかしくなっている、かもしれない。
殿をお守りするはずが、こんな体たらく。頭の中でひたすら繰り返される、自責の言葉がかろうじて、左内を正気につなぎとめていた。
「そろそろ、いいだろう」
されるがままになっている相手をみて、首領が手首の縛めを切る。
手が自由になった。無意識のうちに身体は相手から逃げようと身じろぎするが、逃げようとする身体は後ろから抱きとめられて、そのままうつ伏せで押さえつけられる。
だが、朦朧とした意識の中に一条の光が射した。
蜂の毒が切れかけている。
媚薬で身体は操られているが、左内は徐々に指先が動くようになっていることに気が付いた。
相手は、まだそれに気が付いていない。
「まるで、極上の蜜のような身体だな」
肌襦袢が背中から引きずり降ろされ、白い背中が露わになる。
しかし、首領はその背中を見た途端。
「お、お前」
絶句するその眼前には、白い背中に、浮き上がった赤い筋。
それは、お麗が縫い合わせた刀傷の痕に他ならない。
丸みを帯びた肩は徐々に筋肉質の肩になり、肩甲骨が浮き出る。
その変化は、左内も気が付いていた。
「その、傷痕はっ」
押さえていた身体から飛び下がり、刀を構える首領。
「いかにも」
ゆっくりと手を床にあて、痺れた身体を起こす。
もう、隠すのは無理だと解っている。
「美行藩、片杉左内だ」
暗闇の中、宿敵の出現に首領の目の色が変わった。
江戸時代の忍者は諸国の探索のために数々の職業を隠れ蓑にしたようですが、菓子屋を装ったものもいたようです。それだけではなく、結構本格的に菓子店を経営していた忍者もいたようで……やはり甘いものは相手の警戒心を解くのでしょうか。読んだ本の中には現在も続く大手の菓子屋も隠密として働いていたとか。露草堂は論外ですが、美形の菓子屋忍者がいたらネタとして美味しいなあと妄想する今日この頃。