復讐
時は来た。
薄暗い部屋の中、いくはは一人で正座している。
紅の唇を噛みしめ、燭台の炎に照らし出されたその瞳は、夜叉のような鋭い光をはなっていた。
――これで、田沼にも深く取り入ることができた。
田沼派と反田沼派の女中たちの間で騒乱を起こし、反田沼派を追い込む計略は上手く行った。月山の失踪は予想外であったが、田沼派の深山に拾われたのは望外の幸運と言わねばならぬ。
そっと、左手の人差し指をさする。
傷跡も無い、お麗の施術は完璧であった。
――あの娘に出会ったのは、仇を討てとの神の導きに他ならぬ。
いくははそっと目を閉じてあの時の事を思い出す。
ずっと探していた、生き別れの妹。まさか巡り合えるとは思ってもいなかった。
一年前、あの時の事は今も鮮やかにいくはの脳裏に蘇える。
あれは年末であったか。軽業の練習をしたいと言い張る相方にしぶしぶ付き合ったはいいが、酩酊した男が投げた小刀は予測を超えた軌道を取り、いくはの左腕を貫いた。
辺りは瞬く間に噴き出る血で朱に染まる。周りを取り囲む群集の悲鳴やざわめきの中、担ぎ込まれたのは、腕の立つ外道の医師がいるともっぱらの評判である診療所であった。
朦朧とするいくはの前に姿を現したのは、白衣を羽織った一人の華奢な医師。
なんとその医師は若い女であった。切れ長の瞳で傷口を一瞥すると手早く布で手の付根をぎりりと縛り、男でさえひるむその傷を洗浄して眉ひとつ動かさずに縫合していく。
腕まくりされたその腕の内側になんともなしに目をやったいくはは、息を飲んだ。
白い腕の内側には、小さな刺青が。
その独特の形は見間違えようとしても、見間違えられるはずはない。
我が、家紋。
思わず叫びをあげると、初めて娘がいくはの顔を覗き込んだ。
「痛みますか?」
そのうら若い女医師の顔は、亡くなった母に瓜二つ。
なんという偶然か。
お麗と名乗るその娘こそ、生き別れとなった妹に他ならなかった。
まるで神業のような施術のおかげで傷は跡形も無くなったある日。いくはは思い切ってお麗に打ち明けた。
自らの出自と、そしてお麗と血のつながった姉妹であることを。
そう言えば新しく入った賄の娘、確かおさなと言った。彼女はどことなくお麗と似ている。顔ではなく、むしろ立ち居振る舞い、化粧の仕方、ふとした仕草や笑い方が。
「おさな、は苛められていなければよいのだが」
そのうち、この城に騒乱が起こる。
悪くすれば再び戦国の世が訪れるかもしれぬ。
おさな達、この城の娘はどうなってしまうのだろう。
いくはは小さく溜息をついた。
だが、前途洋洋たる未来を不意にされたいくつもの魂が、いくはの血の中に脈々と受け継がれ、復讐を叫んでいる。
千載一遇のこの機会を逃すわけにはいかぬ。
もう、三途の川を渡り始めてしまったのだ。
いくはは透き通った大きな目に燭台の炎をうつして、大きく息を吸いこんだ。
「いくは様」
障子の向こうから、女中の声がする。
「なんですか」
「深山様が、お呼びでございます」
身支度をしたいくはは、女中にかしずかれて廊下を行く。
しかし。
彼女は片手に灯りを持った女中の視線が、自分から離れて庭を挟んだ向かいの廊下に向けられるのを目ざとく見つけた。
「何を見ているのですか」
いくはの視線の先には暗い廊下があるばかり。
「いえ、闇の中に見慣れぬ年を取った女中が居たような……。最近もっぱら狐狸の悪戯がささやかれていますゆえ」
女中は怖そうに肩をすくめる。
「闇は怖いと思って見るから怖いのです。気をしっかりお持ちなさい」
いくはは前方にまっすぐ視線を向けて廊下を歩み始めた。
「いいですか、家治公は奥様を大切にしておられます。決してでしゃばってはいけません。あのお方は賢い女がお好きなのです」
いくはの頭に、先ほど深山に事細かに話された注意事項が繰り返される。
「派手な装身具はお付けにならぬよう、そうですね、品のある色合いでおまとめなさい」
闇の中に浮かび上がった中年寄りの顔は、昼に見る高貴な女性の面から権力を狙う修羅の顔に変化している。
「お前も大人しい顔の下に何を企んでおるのか――」
礼を言って下がろうとしたいくはに、深山がぼそりとかけた一言。
「禍々しいほどの魅力のある出汁の秘密。明かす気にはならぬか」
「秘密など、ございません」
いくはは、何度となく繰り返した返事を、再び口にする。
「私も出自の低い、料亭の娘。いろいろ苦労を重ねてきた。お前とは通じ合うものもあろうかと思っているが――」
「申し上げることは、何も」
「そうか、もう良い」
いくはは、自分の背中に深山の視線が絡みつくようにして這うのを感じていた。
「確か、こちらを右だ」
お袖と右京は、やっと例の土蔵にたどり着いて、穴蔵から這い上がる。
「一体なんだったのだ。あの月山たちが砂糖漬けにされていた棺は」
「さあ、砂糖が防腐作用に使われていたのは間違いないとして。いろいろ考えられるな。何らかの生物の餌とか、頭の中を入れ替えて人格を変え人間兵器にするとか――」
「ん、お前……」
いきなり右京の言葉を遮ったお袖は、蝋燭をかざす。
白かった右京の顎に、胡麻塩のような点々が。
柔らかかった顔の輪郭が鋭くなり、頬骨が盛り上がっている。
特筆すべきは、首に飛び出した喉仏。
「お京、もしかして、お前……」
「話し声がするっ」
いきなり開けられた戸の外には、白鉢巻で手に薙刀を持った女中たちが控えていた。
中断に構えられたの薙刀は、二人の鳩尾を狙っている。
掲げられた燭台で、その刃がギラリと光った。
「お袖殿、そ、そして、お前はっ」
女中たちから悲鳴が上がる。
「男が、男が大奥の中にっ」
右京は、右手で娘達の頭越しに懐から取り出した塊を投げる。
投げたと同時に、左の袂から取り出した四角い箱の取っ手を真ん中までひねる。
薙刀の切っ先は、いきなり塊の方に引っ張られた。右京とお袖は薙刀の石突を避けながら囲いを突破する。
「お袖、鉄製の装飾品を捨てろ」
お袖は袂の懐剣と、頭の簪を引き抜くと後ろにかなぐり捨てた。
右京も、袂に入っていた簪を投げ捨てる。
お富にやったはずの簪がなぜ、あの場所に。
チクリと痛む胸、しかし、背に腹は代えられない。
右京は、箱の取っ手を最大限に回す。
嬌声とともに女中たちはひっくり返って、鉄の簪を付けた頭から廊下をずるずると引きずられていった。
しかし、中には鉄製の物を身に着けてない女たちもいる。
「お待ちっ」
夜明け前の暗闇の中、数人の女たちが素手で追いかけて来た。
「出会え、出合え」
高らかにならされる呼子の笛。
「まずい、行くぞ」
二人は灯りを投げ出して、曲がり角の多い廊下を走っていく。
右筆のお袖、賭け事は強いが、武芸はからっきしである。もちろん、右京は言うまでもない。すぐさま、腰をからげて爆走する追手が二人に追いついた。
右京の襟元に筋肉の付いた女の腕がぐいと、伸びる。
絶体絶命。
その時、天井から何か黒い影がどすんと廊下に降り立った。
刹那の速さで、右京を捕まえようとした女が崩れ落ちる。ほぼ同時に、追って来た女たちも無言で廊下に沈む。
女たちの前に立ちはだかったのは、恰幅の良い老女。
「恨めしや、恨めしや……」
黒い着物に身を包み、闇に沈んだ老女がぶつぶつと呟きながら近づいて来る。
おりしも宇治の間の近く。
「で、で、でたあああああっ、信子様の幽霊じゃあ」
徳川綱吉の側室の幽霊が出たとばかりに、腰を抜かす女達。
「こっちだ」
不意に、右京は手を掴まれて、宇治の間に引っ張り込まれる。
「と、殿……」
右京はぽかんと口を開ける。
殿がまた一段と女っぷりを上げているからだ。
襟元をこじ開けんとばかりに発達した胸、そして体全体から立ち上る色香。
「何をして居る、とりあえず、逃げるぞ」
「逃げるったってどこにですっ」
今は、幽霊騒ぎで女たちは追って来ないが、すぐこの宇治の間に突入してくるのは想像に難くない。
殿はニヤリと笑って、床の間の掛け軸を指さした。
「ふふふ、わしが伊達に各部屋の床の間で寝転んできたと思ったら大間違い」
「って、お君に尻を叩かれたいがために、やっていたんでしょう」
それには答えず、殿は掛け軸をめくるとその裏の壁を両腕で、ぐいっと押す。
隙間など全くないように見得た壁が半回転した。
壁の奥には地下に通じる穴蔵がぽっかりと空いている。
「ここの床の間の壁だけが、異常に冷たいのだ。とりあえず、ここに隠れるぞ」
「今、地下から出て来たばかりなのだが――」
しぶるお袖の背中を押し、どや顔の殿を先頭に三人は穴蔵に降りて行った。
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