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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
大奥暴走編
91/110

牛蒡

 夕刻、大奥御膳所ではいつもの儀式が繰り広げられていた。

「まずは御台所様の汁をお願いいたします」

 仲居頭がうやうやしく頭を下げて蓋を取る。

 もとの上司に軽く会釈を返すと、中臈のいくはは澄んだ瞳を鍋に向けた。豪奢な着物の袖をたすき掛けにしており、肘から下は白い腕がむき出しになっている。

 いくはは、おもむろに鍋の上に右手を高くかざしてひらひらと振った。

 そして静かにうなずくと、鍋の蓋が閉じられて火からおろされた。

 御台所の御親族の分までがすむと、お仲居頭が高らかに声を上げる。

「それでは皆の者、持ってまいれ」

 それを合図に廊下で待っていた女中が次々と御膳所に鍋を持ち込む。彼女たちは高級女中達の私的な小間使いである「たもん」と呼ばれる女や、各女中部屋の給仕当番であった。

 奥の御膳所は本来御台所とその親族のための食事を温めたり、作る場所であり、それ以外の物は持ち込むことを許されない。だが、先日の中年寄り深山(みやま)の鶴の一声以来、特例として汁だけは持ち込みを許されるようになったのである。

 それぞれに鍋を持ってじっと順番を待つ彼女達はみな不安げな面持ちでいくはの方を向いている。もしもいくはに手をかざされない汁を持って帰ろうものなら、その鍋係はつまはじきや折檻にあう。鍋を持って並ぶ女たちの緊張感に、その恐ろしさが滲み出ていた。

 だが、いくはが鍋の前に立って、手をかざすとその表情は一転して安堵に変わっていく。はた目には異様な光景。しかしすでにこれは日常の一部になっていた。

 彼女がひらひらと手をかざすだけで、その汁物はなぜか絶品の味に変化する。 その味は、いまや大奥の女中たちを虜にしていた。

 数人の女中が無事に鍋を抱えて退出した後、いくはの手がふと止まった。

「この方は?」。

高橋(たかはし)様のたもんにございます」

 傍らに控えるいくは付きの女中がささやく。

 鍋を持って来たものは、真っ青になって震えている。

「すみませんが、このままお持ち帰りください」

「な、なぜですか」

 問いには答えず、いくはは静かに目を伏せて首を振るだけである。

 列に並ぶ女中たちが、ざわめく。

「後生ですから、後生ですからお願いします」

 叫んで土下座をする女中。しかし、無情にも鍋の蓋は閉じられ、そのたもんに突き返された。

 列の中ではひそひそと会話が交わされている。

表使(おもてづかい)の高橋様は、反田沼派だからきっと田沼派の誰かがいくは様に何か吹き込んだのよ」

「特に仲の悪い――」

(かえで)様?」

 たもんは涙を浮かべた目で、きっ、と列に並ぶ人々を睨みつける。

 そして、何を思ったかいきなり鍋を置き、つかつかと手かざしを受けた鍋を下げた楓のたもんに詰め寄った。自分の主人の方が、楓よりも地位が高いことを知っているたもんの強気の行動である。

「お鍋をおよこしっ」

「いきなり、なっ――」

 高橋のたもんは楓のたもんの胸倉を掴かむ。同時に左手で相手の鍋の取っ手を取った。

 蓋がずれて、熱い汁が辺りに飛び散る。

「あんたの御主人が妙なことをいくは様に吹き込んだんだろう」

「冗談じゃないっ、何処にその証拠があるのさ」

 取っ組み合いを始めた二人を慌てて仲居たちが止める。あたりは汁が飛び散り、水浸しとなっている。しかし、列に並ぶ人々の心配は、自分の足が濡れる事でも、二人の喧嘩でもなく、ただ一つこの騒ぎでもいくは様が手をかざしてくれるかということだけであった。

「高橋様の御女中」

 いくはが声をかける。その途端、涙と飛び散った汁で顔をぐちゃぐちゃにした、たもんが凍りつく。

「それ以上騒ぐと、次はありませんよ」

 はっ、と我にかえり相手の着物から手を放すたもん。

 彼女はそのまま床に泣き崩れた。

 彼女が悪いわけではないのである。その雇い主がいくはの悪口を言ったとか、足を引っ張ろうとしているなどという噂を誰かがいくはの周りにご注進したに違いない。

 この儀式はまるで、いくはが私的な裁きを行っているようだ。

 少なくとも左内はそう感じている。

 だがいくはに反感を持つ陣営もこの汁の味だけは止められなくなっているようで、手かざしを受けなかった女中たちも、必ず次の日には並んでいるのである。

 それは毎日繰り返される、日常の光景。

 しかし、最近のこの緊張感は何か異常なものがあった。

 味に理性を奪われて、皆傀儡と化していっている。

 いくはの後姿をじっと見つめる左内。

 あの汁を飲んだ時に感じた、恐怖に近い感覚。

 美味しすぎる。

 喉の奥から広がる、痺れるような快感。まるで心を奪い取られるほどの――。

「おさなさん」

「は、はい」

 鍋に手をかざし終わったいくはが後ろを振り向いて、いきなり左内に微笑みかける。

「お城勤めもだいぶ慣れましたか?」

「おかげさまで、なんとか勤めております」

 ここに来てすぐの時、いくはは左内の危機を救ってくれた。

 あれから表立ったいじめは無くなり、左内も仕事場で息をつけるようになったのである。

「あなたは、どことなく私の妹に似ています」

 いくはは遠い目をしてつぶやいた。

「困ったことがあれば、私におっしゃいなさいな」

 ふと、視線をずらすと、おたこが真っ赤になっている。ここで左内に名前でも出されてご機嫌を損ね、御膳所の責任である御台所の汁に手がかざされなくなれば、袋叩きでは済まない事態にもなるであろう。

 事情を知っている部屋中がしん、と静まった。

 おたこの奴、焦っている。

 左内は心の中で苦笑した。

「いえ、特に困ったことはございません」

 彼の耳に、おたこが付く大きな安堵のため息が聞こえた。

「それはよかった」

 いくははお仲居衆に優雅に会釈をすると、裾を翻しお付の者を従え部屋を出ていく。

 いくはには返しきれないくらいの恩義がある。

 しかし、左内には最近の大奥の騒然とした雰囲気にはどうしてもいくはが絡んでいるとしか思えない。

 右京の「いくはが失踪に関係しているのではないか」という言葉が左内の頭に蘇えった。

「そうであれば、我々は――」

 心の中でつぶやくと、彼は一文字に唇を結んでいつか敵になるかもしれない恩人を見送った。



 その日の夜。

 夕餉の後始末がやっと終わって、御膳所には人影がまばらとなっている。

 左内が最後の仕事である春慶(しゅんけい)塗の三方(さんぼう)を片づけていると一人の女中がにやにや笑いながら近寄ってきた。

「おさなちゃん、明日の朝に使う梅干しの壺を出したいんだけど手伝ってくれる?」

「こんな夜にですか?」

「本当は昼間に出しておくはずだったんだけど、忘れてしまったのよ。私が火を照らすから、あなたは抱えて持って来てほしいの」

 白い凹凸の少ない顔、のっぺりした冷たい目。彼女はおいかと呼ばれている女中であった。

 親しげに話しかけてくるが、このおいか、噂ではおたこといい関係であるという。おたこの一件もあり嫌な予感がするが、先輩女中のいうことに口答えは許されない。

 おたこには思わず反撃してしまったが、ここで悶着を起こしてこれ以上目立つのも避けたかった。この細身の女中に対して、左内にはいざとなれば、強いのは自分の方だという確信もあった。

「はい、お供します」

 おいかにしたがって、奥の御膳所を出て南にむかう廊下を歩く。あたりはすでに暗く、先に立って歩くおいかの手には燭台が握られていた。

「最近、お化けが出ると言う噂を聞いたことがある?」

「小耳にはさんだ程度ですが」

「あれを聞いて、物置に行くのさえ怖くなってねえ。宇治の間あたりで人魂が見えたって言うじゃないか」

 怖いと思うからありもしないものが見えるのだ。大方、誰かが持つ燭台でも見間違えたのではないか、と左内は思っている。

「食材はこの物置の中なんだよ」

 おいかは袖からじゃらじゃらという音をさせて物置の閂を外した。

「何せ食べ物だからねえ、厳重にしないと」

 言いながら、おいかは戸を開ける。

 物置の中は結構広い。そこには梅干しの甕や、酒、調味料の類が所狭しと並べられていた。

「梅干しと、そうだ、きんぴらごぼうにするからごぼうも取ってくるように頭から言われていたんだ」

 燭台が照らし出したのは、床にはめ込まれた四角い戸板だった。

「先日、新ごぼうの献上があってね、始末しきれなくって沢山地下室に入れてあるんだよ」

「地下室?」

 この城に地下があるのは初耳だった。

「ああ、なんてことない小さな物置さ」

 おいかは左内に戸板を指さした。

「取りに行っておくれ、そうだねえ20本くらい」

 その小さな目にほんの一瞬狂気が光ったのに左内は気が付かなかった。

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