その9
「なにがひねてはいるが、だよっ」
米を焚く蒸気があがる竈の横。台所の土間の上に竹かごをかぶせられたおけいが鎮座し、せわしなく左右を見回している。ぶつぶつと垂れ流す愚痴は幸いにも、始動し始めた店の雑音にかき消され誰ひとり気づく者はいない。
店の中には、朝餉の味噌汁の臭いが漂っている。
「さすが料理屋だわね、この複雑な出汁は一つの材料からとったもんじゃないわ。賄の味噌汁にこの凝りよう、ふん奢ってるわね」
鳥の嗅覚はそれほど優れてはいないが、このおけいは改造を施された際に嗅覚も増強されているらしい。
「今日は、卵を産まねえのかなあ」
使用人らしき若い男が近寄ってくると、竹かごをひょいと持ち上げ無遠慮におけいの尻を持ち上げた。
「なにすんだよっ、無礼者」
おけいは素早く振り向くと、その無作法な男の手の甲に嘴を突き立てる。
「ひえっ、しゃ、しゃべったっ」
男は痛いよりも、その言葉にびっくりしたらしく腰を抜かしてへたり込む。
「おい、何してんだ、五助」
「しゃ、しゃべったんですよこの鶏」
板前らしき男が寄ってきて、五助を叱り飛ばす。
「なに寝ぼけてんだ、だからおめえは何年たっても料理人見習いのまんまなんだよ。さっさとお膳の用意をしろ」
手を押さえて、ほうほうの体で走り去る五助。
板前はじろりと冷たい目でおけいを見て、首を傾げた。
「妙なお侍からの貰い物らしいが、ま、卵を産まねえんならさっさと絞めてしまったほうが良かろうなあ。今日は大店の予約があるとか言ってたし鶏飯にでもするか」
自分の姿はこの男に中で、鶏飯と化しているのだろうか。
おけいはわが身の危うさに気が付き、思わず身震いをする。
右京はあの女が胡散臭いと読んで自分をここに置いたのであろうが、何かわかる前に食べられてしまうかもしれない。だいだいあの男はいつも行き当たりばったりで何にも考えてない……。
おけいの中に右京に対する怒りがふつふつとこみあげてくる。
左内様の役に立つことなればこうして従ってはいるが、この計画が上手く行く保証は一つも無いのだ。だいたいこの状況でどうやってあの女を探れと言うのだ。
鶏が心の中で右京を糾弾している、その時。
「あいよ、今運んでいくからね」
高い声がして、台所にあの目つきの鋭い女が現れた。柳腰の若い女で、くっきりとした柳の枝を思わせるしなやかな眉毛と高い鼻が目立つ。ちょっと突き出された唇には紅花で作られた艶紅が塗られ、光に反射して玉虫色に輝いていた。
「けっこういい値段するのよね、あの紅……」
おけいの目が光る。鳥とはいえ雌である、同性の装いには敏感であるようだ。
「おていさん、お箸を落としちまった。持ってきてくれるかね」
奥の方からの声に返事をして、その女は愛想よく返事をして椀とお箸を抱えて小走りで消えていく。
「おてい、か……」
雌鶏は、何かを考えるように小首を傾げた。
一方、こちらは左内達。
店から帰ったあと、さらにもう一度忠太郎の足取りを捜索したが、ドリアンの種が見つからない。
「いったい、あの種はどこにあるのだろうか」
焼け跡に急ごしらえで作られた、掘立小屋の筵の上に座り込みながら、左内が溜息をつく。
「右京様、どうにかしてじゃがたらに通じる隧道をまた穿つことはできないのですか」
疲れ切った左内の様子を見ていられない様子で、忠助が尋ねた。傍らからは、忠太郎のいびきが聞こえている。
「無理」
残った炊き出しの握り飯を両手に持ってかぶりつきながら、右京は大きく首を振る。
「そんな即答しなくても……冷たいじゃないですか、右京様」
「いいんだ、止めておけ、忠助」
左内が忠助を遮る。
幼いころからの腐れ縁、右京の事は誰よりも良く知っている左内である。
この男、右京は通り一遍の算術天文学の知識はもちろん持っているが、常識はずれの発明を生み出すための体系的な理論を皆理解しているのではないのである。
「なんだろう、頭の奥の混沌からぶわり、と発明が噴き上がってくるんだ。問があると、中をすっとばして解答が浮かんでくるように」
まだ国元に居た頃、幼かった右京が左内に語ったところによれば、無性に心の中から作りたい発明が浮き上がってきて、無意識のうちにそれを組み立ててしまうらしい。
「だから、一旦作ってしまうと二度と作れないことも多いのだ」
空飛ぶ籠で空中遊覧させられて籠酔いした時に、朦朧としながら聞いた言葉を左内は頭の中で反芻する。
「う、右京……」
震え声で左内が傍らの幼馴染に尋ねる。
「まさか、時間を進ませる装置はもう作れないとか」
「ああ」
「なんだと――――っ」
右京の言葉に、目を吊り上げる左内。思わず胸倉をつかみ、相手の握り飯が吹き飛ばんばかりに揺らす。
「落ち着け、左内。同じものは作れないが、昨日からすでにより激しく時間が進む装置を発想している」
ふと、左内が見ると右京の白目が赤く充血し、瞳が金色に光っている。
「ク、クレージー右京が発動している……」
「さあ、作るぞーーーっ、おおい大工ども、昨日より一回り大きい小屋を建てるぞ、藩士どもは我が館から物資を運べ――っ」
いきなり跳ね上がるように立ち上がると、冬眠前のリスのように握り飯を両頬に詰め込んで走り去る右京。
良かった……。いや、良かった、のか?
左内は、心痛の余りきりきりと痛む横腹を押さえて溜息をついた。
この料亭『幸屋』は昼前にはもう店を開けるらしい。
各々の朝食が終わったと同時に、掃除と仕込みが始まり、店は一気ににぎやかになった。
板前たちは仲買いから買い付けた魚をさばき始め、女中たちは部屋の掃除でばたばたと走り回っている。
文字通り籠の鳥状態であるおけいはその情景を眺めているばかりだ。
「なんとか、ここから出ないと」
おけいはしばらく考えた末、にやりとほくそ笑んだ。
「切れていた酒を買ってきましたぜ」
五助が酒瓶を抱えて台所に入ってくる。
今だわ。
おけいはひときわ大きくなくと卵を一つ産み落とした。
「おっ、おおおっ」
先ほどの驚愕はどこへやら、気が付いた五助が目を大きく見開いてそっと近寄ってくる。無理も無い、屋台のそばが16文の時代に生卵はひとつ20文、結構な高級品である。
五助が見渡すと、どうも板前たちはこの天からの贈り物に気が付いていない様子である。
「この新鮮な卵で、卵ふわふわとか、うまそうだなあ」
卵ふわふわは、熱い出汁に泡立てた卵を入れて蓋をして蒸らした料理だ。
上手く作ると、口の中で消えていくかのような卵の繊細な舌触りがこの上なく官能的で、極めて美味。当時は特権階級のみが食した高級料理だった。
この男も料理人の端くれ。兄貴分の板前が作ったものを試食したことがあるのだろうか、五助が舌なめずりをする。そして、うっとりとした目でそおっ、と籠を上げた。
すかさずおけいは足で卵をけっとばす。ころころと勢いよく土間をころげていく卵。
五助が慌ててその卵を追う。その隙を逃さず、籠の縁と土間の隙間に頭を突っ込むようにして、籠を跳ねあげるとおけいは外に飛び出した。
卵を懐に入れた五助が、鶏がいないことに気が付いて叫び声を上げる。
しかし、すでに敏捷な白い雌鶏の姿は無かった。
鶏飴細工