開帳
遅番の勤めが終わって居室に帰った左内は、障子を開けるなり息を飲んで立ちすくんだ。
「な、なんだ、これは?」
部屋中に積み上げられているのは、箱、箱、箱。
その奥からずるっずるっという妙な音が聞こえてくる。
「これは、どうしたのだ」
慌てて箱をどけると、右京が目の前に掲げた木箱に口をつけて、中の寒天をそのまま吸いこんでいる最中であった。
行燈に照らされた右京は目だけ左内に向けてにやりと笑みを浮かべる。下手な妖怪よりも不気味なその姿に、左内の腕一面に寒いぼが広がった。
寒天の中に涼しげに散らされた羊羹でできた赤や緑の金魚は、寒天の流れに押し流されてみるみるうちに右京の口に吸いこまれていく。
「ああ、酸鼻な」
食べ物だとわかっていても、美しくしつらえられた金魚たちが愛でられることなく胃袋に収まっていくかと思うと、金魚たちのはかない運命に左内は心の中で手を合わせずにはいられない。
「右京、なんとか言え、こんなに大量の菓子……それも、これは」
蓋からはみ出してぎっしりと詰まったその中身は、左内にも見覚えのある菓子であった。
「ご明察。露草堂の菓子だよ」
「なんでこれが、大奥で手に入るんだ?」
「お富だよ、お富が覚樹院様に掛け合ってくれて、なんと露草堂が御用商人の中に加えてもらえたんだ。これは口効きのお礼としてあの主人が届けてくれたものだ」
それにしても多すぎるような気がするが――。だが冬籠りの支度をするリスのように饅頭で頬を膨らませている右京には、もうこれ以上何を聞いても無駄であろう。
「右京、寝る前に口はゆすいで寝るんだぞ」
部屋中に立ち込める甘ったるい香りに閉口しながら左内は布団にもぐりこむ。
部屋の奥では、殿が先程から軽い寝息を立てていた。
「さ、さ、片肌を脱いで……」
殿は夢の中でいいことがあるのか、寝言の後でひゃっひゃっひゃっと人間離れした奇声を上げた。
「ここは妖怪部屋かっ」
左内は頭まで布団を引っ張り上げる。静かな闇に一息ついた彼は、やっと自分の思考に集中することができた。
ふと、左内の脳裏に昼間御膳所で妙な話をしていたおえびとおきすの姿がよみがえる。
「ねえ、表使の高崎様の御女中が数日前から行方不明って知ってた?」
「月山様に続いて、また行方不明の者が出たの?」
「ええ、まだ内密にされているけど皆、宇治の間の化け物に食われたって言っているわ」
「宇治の間って、あそこは綱吉様が殺された後開かずの間になったってもっぱらの噂になってる場所でしょう」
「しいいいいっ」おえびはきょろきょろと周りを見回す。
しかし残念ながら、甲高い声の彼女達の内緒話は筒抜けである。
「最近、夜な夜な人声が聞こえるって噂よ」
「まさか、あそこは鍵が掛けられて、成田山の護符が貼られているはずなのに」
そこで、見るに見かねた仲居頭が彼女達を怒鳴って話は終わりになった。
宇治の間。
襖に狩野派が描いた茶摘みの風景が描かれているためそう呼ばれているその部屋は、いずれの頃からか明確な理由も明かされずに開かずの間になっている。表向きにはあまりに見事な絵のため人の出入りを禁じたとされているが、徳川綱吉が晩年側室の染子が産んだ子を後継ぎにしようとして正室に刺殺された場所、という血なまぐさい噂が付きまとっていた。
確かに、御札としめ縄がはられたその開かずの間のたたずまいはあまりに怪しく、かび臭さも加わってなんだか人を寄せ付けない威圧感がある。
夜通し大奥の巡回をするお火の番たちもそこは迂回して遠くから窺うだけで、ごくわずかな気丈な者達が真ん前まで行くばかりである。
しかし、最近その前で妖異を見たという話が相次いでいた。
「本物の化け物ならまあいいのだが。これは、一度見に行かねばならぬ」
普段化け物に近い連中と暮らしている左内は、妖異の類には恐怖を感じない。それよりも、本当に失踪と関係があるのか、宇治の間で一体何が起こっているのかが気になっている。
「お茶をつめつめ摘まねばならぬ――」
不意に茶摘みの民謡が左内の耳に飛び込んで来た。
殿の寝言である。
「はてさて、茜襷の娘の夢でも見ておられるのであろうか」
おなじ「茶」つながりでも、自分とはずいぶん違う夢なのだろうなあと左内はそっと溜息をついた。
数日後。
人々が寝静まった深夜。
行燈の淡い光の中で、殿と右京が何やらごそごそと支度をしている。
「おい、左内にちゃんと眠り薬は盛ったか?」
「ええ、いつものようにこっそり奴の飲む水の中に溶かしておきました」
「御苦労」
殿は、大きくうなずく。
「これで今夜も美女たちの乱れた姿が見られる――」
「御金様の乱舞する姿が見られる――」
相好を崩した二人は顔を見合わせて声を揃えた。
「たまりませんなあああ」
二人の背後の襖には、美しい茶摘みの絵が広がっている。
「しかし、殿。さすがの悪知恵。宇治の間で賭場を開帳するなどよほどの度胸が無いと思いつきません」
「いや右京、お前があの閂を開けて、さも封印がされているようにこの部屋の表に絵を投影してくれなければ、この場所を使えなかった。お前のおかげだ」
「しかし、賭場がこんなに儲かるとは思いませんでした。まさに、濡れ手に粟」
その時。
外から「ちょう」と言うか細い声が。
殿は満面に笑みを浮かべて「はん」と返す。
そっと障子が開いて、ぞろぞろと女中が入ってきた。
「およし殿、今日はお友達も幾人かお連れしたの」
「おお、願ったりかなったりです。ささ、皆さんお座りください」
何度か経験があるのか、女中たちは慣れた様子で殿の前に敷かれた細長い白布の周りに着席する。
「どうしましょう、賭け事など何一つわからないのだけれど」
初心者と思しき数人の娘たちは、坐ったはよいもののどこか不安げだ。
「大丈夫、今から私が懇切丁寧に説明いたします」
殿は袖口から一つ一つ紙にくるんだ飴玉を取り出した。
「今からお京がてら銭、いや、場所代を集めに参ります。参加費は一人200文(約3300円)、それと引き換えに、この紙でくるんだ飴玉を10個差し上げます」
「まあ、美味しそう。いただいていいのかしら」
「いやいやいや、ちょっとお待ちを。ここは大奥、見つかると処罰は免れません。だから駒の代わりにこの飴玉を使います。これなら見つかっても肝試しの上で茶会を開いていたということで処罰もいくぶん軽うございましょう。勝負の後で皆様にお配りした飴玉1個が10文(約165円)の換算でお返しいたします」
「皆様から、胃の腑が熱くなるほど興奮すると伺っております。毎日の憂さが晴らせるならと思って参上しました、もとより、処罰は覚悟の上」
まなじりを決した娘が、唇を引き締める。
大奥にはいろいろな娘達が居るが、実はこのような生真面目な性格の娘が一番多い。家族からの期待を一身に受け、晴れて女性としては最高峰の職場に勤めるのである。張り詰めた気持ちで一心に勤めるうちに、中には心を崩してしまうものもいた。
「おっとっと、お嬢さん、気楽に、気楽に。ここは無礼講、今日もぱーっと参りますよ」
殿の言葉に女性達が歓声を上げる。
「しーっ、声が外に漏れにくい細工をしてありますが、大声を上げると聞こえてしまいます。お気をつけて」
あわてて、殿が皆を制した。
「守っていただくのはただ一つ、ここで見たこと聞いたことは、必ず口外無用と願います」
殿は壺とサイコロを取り出した。
「何も難しいことはございません。今から皆さんに賭けていただくのはこのサイコロの目の和が偶数か、奇数かだけなのです。偶数を丁、奇数を半。間違えば飴は没収、そして当たった方には張った飴の割合によって没収した飴を配分します」
「計算はできるの?」
「人間そろばんのお京が正確に皆様の取り分を算出しますのでご安心を。では――」
殿の目がにたりと垂れる。
「それでは参ります、どちらさんもよござんすね、よござんすね。入ります」
およそ武芸とは関係ない遊びに関しては、とことん極めている殿。
慣れた手つきでサイコロを左指に摘み、右手には口を場に向けた壺を持ち、数度体の前で往復させる。
そして、やっ、とばかりにサイコロを投げ入れると壺を伏せた。
「丁半張っていただきますが、わからなくなってはいけませんので、丁と思われれば片肌脱いで右乳を、そして半と思われれば左乳を出してください」
新参者であろう、悲鳴に近い声があがる。
「胸を顕わにするのですか。ほ、他の方法はございませんの?」
「乳まで出ていれば早々になおすこともできず、イカサマも起こりませぬ」
殿はすまして答える。
「賭場は神聖な場所、間違いがあってはなりませぬ上」
「もし、上役の方々が踏み込まれでもして、このような淫らな姿を見られでもしたら」
「皆で肩もみをしたといえばよろしいのです」
ざわめきは起こったが、何しろ博打の面白さを仲間から嫌と言うほど聞いている娘達である。
頬を染めて、恥らいながらも肩から腕を引き抜いて左右どちらかの胸を顕わにし始めた。
「さあ、皆様女性同士、恥ずかしがらずにさ、ぽろりと、さ、さ……」
殿、満面の笑みを浮かべて絶好調である。
「それでは賭ける飴玉を場にお出しください」
ほとんどの娘たちは、飴玉をひとつだけ場に出した。
「丁方ないか、丁方ないか」
半方が多いと見た右京が呼び水をする。
幾人かの娘達が、迷った末に胸を変えた。
「丁半、胸そろいましたか?」
はい。殿の掛け声に、あられもない姿のお女中たちがうなずく。
「勝負」
五一の丁。勝っても負けても娘達は大きな歓声を上げた。
それほど大きな額ではないので、気楽なのであろう。
右京が掻き棒で、負けた飴玉をかき集め、勝った娘達に配分した。
夜も更けて、勝負が進むうちに徐々に場が熱くなる。娘達は誰も帰ろうとはせず、中には追加の飴玉を購入するものも出始めた。
「殿、そろそろ時間です」
右京が耳打ちする。
皆、明日の勤務があるものばかり。寝不足の者が増えてはこの賭場がばれてしまうと考えた殿は、あらかじめ開帳を一刻(約2時間)のみ、遅くても寅の刻を超えない(だいたい午前3時)ように設定していた。
寅の刻を超えると左内に盛った薬の効果が切れてしまう可能性があり、それは二人にとって厳守するべき時間であった。
「それでは、そろそろ――」
殿が娘達に声をかけようとした時。
「ちょう」
部屋の外から、りんとした女性の声が聞こえて来た。
合言葉を知っているとなると、参加者かもしれないが。こんなに遅くにとは妙な。
殿と右京は顔を見合わせる。
「答えが無いなら、入りますよ」
すっと襖が開いて、燭台を持った女性が中に入ってきた。
「お袖様」
顔を見た娘たちが悲鳴を上げる。
右筆という雲の上に近い上役の出現に、賭場は騒然となった。
「静かになさい」
お袖はニヤリと笑う。
「何か面白そうな場が立っていると聞いて来ました」
お袖は白い布の上に転がっているサイコロを一目見て、急に態度を変えると
「ふん、出目はシゾロの丁かい」
と鼻を鳴らした。
この女。賭博を知っている。殿は強敵の予感に顔をゆがめた。
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