毛抜き
「針を隠し持っているのは、誰もいないんだな」
右京が周りを見回す。
「後悔してからでは、遅いぞ」
右京の白目はいつの間にか充血し、ギラギラと赤く光っている。
周囲をねめつけながら肩で息をするその姿は、大奥女中というより大江山から下りてきた鬼(ただし鍛え方の足りない)の様だ。
皆、突然しゃしゃり出てきた新参のお京の豹変ぶりに息を飲んでいる。
「やめて、お京ちゃん。もういいの、きっとどこかにあるわ」
お富は右京の秘密を守ろうと必死だ。
「いいの、あんたに迷惑がかかっちゃ……」
白いぽっちゃりとした手が右京の背中から回され、まるですがりつくようにお富の顔が右京の背中に埋められた。
右京の顔に動揺が走る。
しかし、それも一瞬。赤い目は金色に輝きだし、ますます鬼の形相に酷似してきた。
「部屋頭」
「は、はいっ」
突然名前を呼ばれて、部屋頭が飛び上がった。
右京の形相に、呉服の間の取締役である初老の部屋頭もたじたじだ。
「鉄でできたものをすべて部屋の隅に片付けろ、おい、他の者は動くんじゃないぞ」
あわてて立ち上がろうとする娘達を一喝する右京。
「身に着けているものも、鉄はすべて外せ」
娘たちは慌てて、針を針山に刺し、鉄でできた簪などを外し始める。
「何様のつもりよ」
おていが右京を睨みつける。
「黙って言うことを聞け。すぐに解決してやる」
おていは右京の前に立っているため、はからずしも皆の注目を集める形になっていた。前からは右京、そして背後からは呉服の間の女中たちに見つめられ、おていは身動きがとれない。
しん、と静まり返った室内。部屋頭が装飾品や裁縫箱を回収していくぱたぱたという足音だけが響く。
「もう一度聞く。誰も隠してないんだな」
「こんなことして、針が出て来なかったらあんたどう責任とるのよ」
右京の目に負けないくらい赤い顔をして、おていが叫ぶ。
その声を無視して、右京は鉄製品を置いた場所と全く反対側の壁に黒くて丸い、碁石のようなものを貼り付ける。
「いいか、始めるぞ」
右京はふたたび、おていの前に戻ってくると、いつの間に取り出したのか、手に持った小さな木箱を操作し始めた。
それとともに、壁に貼り付けた黒いものが手も触れないのに何やら小刻みに震えだす。振動が壁から障子に伝わり、部屋中がガタガタとうなり始めた。
あまりに不思議な現象を目の当たりにして、部屋の娘たちの間にざわめきが広がる。
「これが最後だ、針を隠している奴はさっさと白状しろ、怪我をしてからじゃ遅いぞ」
右京が叫ぶが、皆、ぽかんとして黒い石を見つめるのみ。
ただひとり右京の目の前のおていだけは、唇を噛みしめて身体を震わせている。そして右手はなぜか左の袂を押えていた。
「もっと強くするぞ、覚悟しろ」
右京は箱の側面に付いている突起を勢い良くぐいっ、と手元に引いた。
その瞬間。
金切声とともに、朱色の袖が何かに吸い込まれるかのように一直線に飛んだ。
もちろん、袖を通している本人も袖とともに空を切る。
娘は勢いよく黒い石の貼り付けてある壁に激突した。
「おていさんっ」
取り巻きの娘たちが近寄ろうとするが、それを右京が一喝する。
「動くな」
右京は部屋頭に視線で合図を送る。
慌ててうなずくと、壁から崩れ落ちるおていに駆け寄る部屋頭。
激しく体を打ち付けたおていは、それでも立ち上がりふらふらと歩き出そうとするが、左袖の袂がまるで縫い付けられたようにぴったりと壁にくっついて離れようとしない。
「おてい、お待ち。袂がくっついているよ」
外からでは良くわからないため、おていの袂の内側をひっくり返してみた部屋頭が息を飲む。
「お、お前」
袂の内側に縫うようにして隠された針ががっちりと黒い石にくっついているではないか。
「この箱を操作すると、この黒い丸石は強力な磁石の力を持つんだ」
してやったりとばかりに、右京はにやりと笑う。
「やはりお前の嫌がらせだったんだな、おてい」
右京が箱の突起を元に戻すと、不思議なことに袖ははらりと壁から離れ、部屋頭の手にはお富が失くしたと思しき針が握られていた。
「歌舞伎で毛抜きが磁石で踊る場面があるけれど、まさか本当にこんなことが起こるなんて……」
部屋頭は目を丸くする。
寛保2年に初演された歌舞伎である雷神不動北山桜の中に髪の毛が逆立つという奇病に侵された姫を、粂寺弾正が助ける一幕がある。悪者が姫の鉄製の髪飾りを磁石で吊り上げて病に見せかけていたのだが、粂寺弾正は自分の毛抜きが宙に浮いて踊り出すのを見て、奇病の原因を看破するのである。
「歌舞伎では磁石を使うのは悪役だけれど、今回のお京ちゃんは荒事の主役ね」
部屋頭の言葉を聞いた娘たちも、すらりと背の高い右京をほれぼれと見上げる。部屋は針の一件が解決し、皆帰れるという安堵から元のざわめきを取り戻しつつあった。
その中で、おていは頬を真っ赤に染めて唇を噛みしめていた。
「おてい。お前なんでこんなことをしたの」
覗き込むような部屋頭の視線を避けるように俯いていたおていだったが、やがて意を決したように部屋頭に向かって顔を上げた。
「だって、憎らしかったからです。仕事もできず図体ばかり大きい厄介者の癖に、いつも大声を上げて楽しげにしているあのお富が」
名指しで糾弾されたお富が大きな図体を縮こまらせて、目を伏せる。
「それなのに、お京が来て少しはまともなものが作れるようになった途端、みんなお富、お富って。今までこの部屋を仕切って来たのは私なのに」
閉じられた細い目には不釣り合いな大粒の涙がぼとぼとと落ちて、畳で跳ね返る。
「言い訳にはならないよ、おてい。悪戯にしては度が過ぎる。皆に迷惑をかけた責任はとってもらうからね、さっさと荷物をおまとめ」
部屋頭の言葉に、おていの顔色が変わる。
「ここをやめなければいけないのですか?」
「人を陥れた罪は重いよ、おてい」
「そんな……」
部屋頭にすがるようにして懇願するも、部屋頭は額に皺を寄せて首を振る。
わなわなと唇を震わせて、視線をあらぬ方向にさまよわせながら、おていは言葉を続けた。
「一族郎党、皆あたしを誇りにしてるんです。手が器用で、仕立てをさせたら右に出る者はいないって、出世して大奥でお目見えになったって」
だから、だから、後生ですから……。
泣き崩れるおていを見て、困ったように溜息をつく部屋頭。
「おてい、お前の縫い方は完璧だけど、いつも仕上がった着物に何かが足らないと思っていたんだよ。多分それは心の余裕だったんだね」
え? 部屋頭の言葉に涙に濡れた顔を上げるおてい。
「仕立ての時の微妙なさじ加減、例えば注文主様とお話してその方の好みの着方にあわせて微妙に寸法を変えるとか、縫う強さを変えるとか。柄ひとつにしても、裾に置きたい御方や、前面に出したい御方、ご希望は様々だ。でも、お前さんはいくら言っても自分の判断を押し付けることが多くて、腕はいいのに作る着物の評判があまり良くなかった……」
皆まで言わさず、おていが部屋頭を遮る。
「お言葉ですが、私の作る着物は最高です。柄も、素人では判断できない一番着物が映える位置に持ってきています」
ここは譲れないところなのであろう、吊り上ったおていの目が強く光っている。
「だけどね、着るのはお前さんではないんだよ。もっと、着る人の気持ちになってごらんよ。」
おていは黙っているが、大きく上下する肩が隠し切れない憤りを露呈させていた。
「お前はいつも自分の思い通りに行かないと気が済まない様だね。それは今まで人との競争に勝って今の地位を得たお前の自信であり、裏返せば抑さえつけた不安の現れのような気もするよ。もう少し余裕を持てばどうだい」
部屋頭は淡々とおていを諭す。
「余裕……」
「そう。人を蹴落とすだけではなく、相手を認める心の余裕。どんなときにも相手の気持ちを思いやる優しさを持つ、その境地に達した時に初めてひと皮剥けるんだ。本当に良い着物を作れるのは、そういう人間なんだよ」
おていははっとして、振り返る。その視線の先には、先ほどのおていの言葉で恐縮しているお富の姿があった。
「羨ましかったのかもしれないわね」
ぽつりと言葉を漏らすおてい。
「あたしはいつも怯えていた、いつ、自分が負けてこの位置から引きずりおろされるかと。下手くそと苛められても、いつも優しくておおらか。幸せそうなお富のことを知らず知らずに妬んでいたのかもしれないわ……」
意を決したように、おていは部屋頭に頭を下げる。
「お世話になりました」
そしてお富のところに行くと、再び手をつき深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした、お富さん。謝っても、謝りきれませんが、今までの御無礼をどうぞお許しください」
おていはいつまでも頭を上げようとしない。
お富はそんなおていを肩を抱くようにして、顔を上げさせると困ったように笑った。
「悪いのはどじばかり踏んでいた私の方ですよ。針は私が失くしたんです。きっとお富さんが私の近くに来た時に袖に刺さってしまったんですよ」
内側に縫いこまれるようにして針が刺さるなんてことはありえないのだが、お富は必死で力説する。
「だから、今回の事は、私の落ち度ということに。辞めるなら私の方です。おていさんがしっかりとこの呉服の間を束ねなくて、誰が束ねるんですか」
「お富、そんな言い方をしたらあたしの立場が無いじゃないか」
顔をしかめながら、部屋頭が二人の方にやってくる。
あ、しまった。お富が口をおさえて、肩をすくめた。その滑稽なしぐさにどうなることかと張り詰めていた呉服の間の雰囲気が和らぐ。
「ね、部屋頭。今回の事は私の落ち度にしてください。辞めさせるんなら私の方を」
「いや、お前が罪をかぶることは無いんだよお富」
部屋頭は腕組みをして首を傾げた。
「まあ、二人が手打ちをするのであれば、今回は特別に無かったことにしようかね」
おていが辞めさせられれば、自分達もお咎めなしではいられないと表情を硬くしてたおていの取り巻き達がほっとしたような顔になる。
立ちそうだった波風が杞憂に終わりそうだと解った人々が次に注意を向けたのは、不思議な磁石を作った右京だった。
「お京ちゃん、あれは何をしたの?」
「磁石って言っていたけど、あんなに遠くて小さな針をくっつけるほど強い磁石は聞いたことが無いわ」
右京の周りをとり囲んできゃあきゃあと口々に質問する娘達。それは気に入りの役者に群がるごひいきの集団にも似ている。
絶対に秘密を漏らすなと左内からきつく言われている右京は、先ほどまでの強気は何処へやら、口をパクパクして立ち尽くしているのみ。
「あ、皆さんに、お願いがあります」
お富が叫んだ。
「お京ちゃんは不思議な力を持っているけど、呉服の間以外の皆には黙っていてほしいの。お京ちゃんも、化け物扱いされたくないようだし」
みんなきょとん、としてお富と右京を見比べる。
「お願いします。これ以上お京ちゃんには何も聞かないで」
最近は少なからず世話になっているお富の必死の形相に、娘たちは不承不承でうなづく。なんといっても、海の者とも山の者ともわからぬ無作法な右京を最初に餌付けしたのはお富である。右京についてはお富に優先権があるのは、皆異論がない。右京を取り囲んだ輪は、徐々に崩れていった。
「お富、もう辞めるなんて言わないでね」
部屋頭が、お富の肩に手をかける。
「はい」お富がうなずく。
うれしそうに右京の方に違づいていくお富の後姿を見ながら部屋頭は溜息をついた。
「お京も不思議だが、お富も妙な娘だよ、なんだろうねいつの間にか皆を惹きつけるあの力は。さすがお父様が田沼様とご昵懇なだけあるよ……」
現在「毛抜き」として歌舞伎十八番に組み入れられた粂寺弾正が活躍するこの歌舞伎は、寛保2年(1742年)に『雷神不動北山桜』(なるかみふどうきたやまざくら)の三幕目として上演されました。
作中にもありますが、鏡の前という姫が御嫁入を前に、髪が浮き上がるという奇病に侵されてしまいます。その秘密を粂寺弾正が解き明かすのですが、その中で自分の毛抜きが天井裏の曲者が持つ磁石のために宙に浮いて踊り出すというユーモラスなシーンがあります。推理劇の面白さだけではなく、主人公が腰元や若衆に言い寄ってふられたりしてとても面白い歌舞伎です。